藤田のぼるの理事長ブログ

28、3,11&大牟田セミナー、そして創立75周年

【10年目の3,11でした】

◎皆さんは、10年目の3月11日を、どのように受けとめられたでしょうか。僕の故郷・秋田は東北の中では比較的被害が少なかったわけですが、仙台に兄と姉がいて、連絡がつくまではかなり気をもみました。そして、福島の原発が東北電力ではなく、東京電力の発電所であるという事実に、東北出身の人間として改めて思い至りました。

 とはいえ、10年経った今、僕の中で何かが変わったのか、あの災害を児童文学に関わる者としてどう受けとめようとしてきたのかと問われれば、確たる答えは返ってきませ ん。3,11の「思想化」といえば大仰かもしれませんが、ほとんどこの問題を深めることができないまま、10年が経ってしまったというのが率直な感想です。

◎では、3,11の「思想化」とはなんだと問われれば、充分な答は持ち合わせませんが、阪神・淡路の大震災の後に、これを題材にした児童文学作品がそれなりに出てきて、そうした作品(もちろん一括りにはできませんが)を読んでいくうちに、ある問題点というか、疑問が生じていきました。

 それは、どうして児童文学では、「震災に負けずに健気にがんばった」あるいは「震災で建物は壊れたが、人の絆は壊れなかったぞ」というような話ばかりが書かれるのだろうという思いです。「子どもを励ます」ことによって自らをも励ます、というのは児童文学を書くものの本能? みたいな面はあるのかもしれませんが、これで本当に励ますことになるのか、と考えざるを得ませんでした。そのことを評論に書きたいと思って作品のリストアップなどもしていたのですが、それが果たせないまま東日本大震災を経験することになりました。

◎東日本大震災の作品化は、阪神・淡路に比べても、むしろ遅い感じでしたが、そのことはうなずけることでした。あれだけの圧倒的な不条理を児童文学として作品にするということは、並大抵のことではありません。大人の文学であれば不条理を不条理として書くということも可能かもしれませんが、それをどう子どもに向けたことばにするのか。さすがにあれだけの災害、そして原発事故を前にしては、安易な「健気にがんばった」物語の出る幕がないことは、むしろ当然だったでしょう。

 そうした中で、濱野京子さんの『石を抱くエイリアン』(2014)、これは『日本児童文学』の連載作品でしたが、「希望」をキーワードに、中学生にとっての3,11を描いた、僕の知る限りでは、初めての本格的な児童文学作品だったと思います。そして、柏葉幸子さんの『岬のマヨイガ』(2015)のテーマは、やはり「家族」ということになるでしょうか。岩手在住で自らも震災を体験した作家のこの作品は、明らかに以前に書いた短編「ブレーメンバス」(同タイトルの短編集所収)を下敷きにしており、僕はそのことにとても興味を覚えました。つまり、濱野さんにせよ、柏葉さんにせよ、(当たり前ですが)3,11を通過して別の人になるわけではないので、それまでのモチーフがあのできごとを通してどのように試されたのか、ということのような気がします。

 その点では、川上弘美が前に書いた「神様」という作品を、震災の直後に書き直し「神様 2011」を発表したということを思い出します。評論の立場で言えば、もちろん3,11後の作品を論じることも重要ですが、それ以前の作品を「3,11後」の視点から見つめ直すことで、もっと何かが見えてくるかもしれません。

 ともかく、『石を抱くエイリアン』と『岬のマヨイガ』(できれば、短篇集『ブレーメンバス』も合わせて)をまだお読みでない方は、この機会にぜひ読んでみてくだ さい。

【大牟田セミナー、そして創立75周年が……】

◎この週末、13、14日と、福岡県大牟田市で協会主催の児童文学セミナーが開催されました。内田前理事長の出身地で、ここに内田さんの絵本作品を中心とした美術館が建てられることをお祝いする意味も込めてセミナーを企画したわけですが、2月の段階で、福岡県にも緊急事態宣言が出されていましたから、予定通り開催するかどうか大分悩みました。

 それでも開催に踏み切ったのは(懇親会や子ども参加 のワークショップなどはとりやめましたが)「ぜひ実現させたい」という地元からの熱い思いに応えたいと思ったからで、実際この状況では大幅な定員割れは必至だろうと思っていたのですが、あべ弘士さんの講演をメインにした全体会は、150人の定員に迫る申し込みでした。当日の電話では、あべさんのお話や、その後の内田さん、大牟田市動物園の園長さんをまじえてのトークショーもとても好評だったようで(絵本美術館は動物園の敷地の中にできるのです)、本当に良かったです。

 このセミナーについては、大分先になりますが、7月の会報で報告されます。僕が担当するはずだった実作指導の分科会は中止(作品を提出された方には、文書で感想を送る形にしました)となって、行けなかったのですが、美術館がオープンしたら(コロナの関係などで、当初の予定より遅れています) 一度うかがってみたいと思っています。

◎そして、まもなく協会は創立75周年を迎えます。創立総会が開かれたのは、1946年3月17日ですから、あと二日ですね。3,11から10年、コロナ禍の中での75周年というのは、語弊があるかも知れませんが、なんとなく児文協らしい感じもします。

 お手元に『日本児童文学』の3・4月号(記念号)が届いたと思います。自分も書いたのでやや手前味噌になりますが、とてもいい記念号になったと思います。25年後の「100周年」を見据えて、というのがいいですね。

 僕はまあ確率はかなり低いですが、100周年は96歳になるわけで、よく冗談で、「100周年の集いに車椅子で出席して、(その時は誰も昔のことなど知りませんから)あることないこと、嘘ばっかりしゃべる」などと広言? しています。そんな“夢”を見ながら、当面は“嘘のない”記念資料集の編集に力を注ぎます。 

2021/03/15

27、今日は、誕生日です(21,3,5)

【誕生日を迎えて】

◎緊急事態宣言は再延長となりましたが、果たして二週間で済むのかどうか。行政側からは「国民へのお願い」ばかりで、宣言期間中になにをやるのかというビジョンが相変わらず見えてきませんね。

 さて、誠に私的なことですが、今日3月5日は僕の誕生日で、71歳になりました。70歳から71歳ですから、特に感慨もありませんが、まあいつのまにかこんな年になったのだなという感じでしょうか。

 このブログの第2回だったと思いますが、僕が「5の日」に更新することにしたのは「5時55分生まれ」 で、5がラッキーナンバーだからと書きました。その通りなのですが、加えて日も5日、まあ、さすがに5月ではありませんが、生まれた年も昭和25年、西暦では1950年と、それぞれちゃんと(?)5 が付いているわけです。

 ということで、今回は、ごく私的な話題にさせていただこうと思います。

◎僕が協会事務局に勤務したのは、1979年4月、29歳の時です。大学を出てそれまでの6年間、都内の私立小学校の教員をしていました。私立小学校の教員というと、なんとなくエリートっぽい感じがするかも知れませんが、そんなことでは全然なく、むしろ落ちこぼれてそういうことになったというのが“真相”です。

【ということで、やや身の上話になりますが】

◎というのは、僕は秋田大学教育学部の国語科を卒業したわけですが、当時は国立の教員養成の学部を卒業した人のほとんどが教員になったし、またなれた時代でした。東京学芸大とか、大都市の場合は(選択肢が他にもありますから)若干率が下がるかも知れませんが、秋田の場合だと教育学部の卒業生の90数パーセントが教員になっているはずです。但し、この当時から、秋田ではすでに過疎化、少子化の兆しがあり、学校の統合が進んだこともあって、地元秋田で教員になるのは狭き門でした。しかし、大都市圏の、特に小学校であれば、まずまちがいなく、就職できました。東京都や神奈川県などの教育委員会が、先生を確保するために、秋田とか山形とかに出張って就職試験をしていたのです。

 僕も大学4年の時に、東京都の採用試験を受けて、当然受かりました。僕は三男坊ですし、やはり児童文学を勉強したいという気持ちが強かったので、秋田に残る気はさらさらなく、東京を希望したわけです。そして、足立区の某小学校に配属先も決まり、そこの校長先生からは(ここはちょっと問題がありますが)「男の先生に来てもらえて良かった」と、とても喜んでもらえました。

 ところが、3月、卒業を控えて、単位が足りずに卒業できないという事態になりました。当時は学生運動が盛んな時期で、僕も4年間ほとんどそちらに熱中し、授業にはろくに出ていなかったからです。 それでも、音楽科とか体育科とか、実技が重視される学科と違って、国語科の場合は、追加レポートとかでなんとかなるとタカをくくっていたわけです。

 単位を落とされた先生の所を、「就職も決まったの で、なんとかお願いします」と頭を下げてまわったのですが、僕の“誤算”は、どの先生も「ぼくの一存では判断できない」ということで、僕の担当教官のところに、「いま、藤田君という学生が来てるんだけど」と、電話することでした。その後、担当教官(「大鏡」が専門の橘先生という方でした)にお願いしに行くわけですが、仏の顔もなんとやらで、三度目、四度目になると、どんどん不機嫌な顔になっていきます。嫌味も言われます。

 僕はこう見えて(?)結構気が短いところがあり、何度目かに「いいです、先生、もう一年いますから」と言ってしまったのです。その時の橘先生の返答もなかなかで、「藤田君、何年いたって同じだよ」 というものでした。

◎ともかく、そんな経緯で一年留年することになり、その一年間はさすがにまじめに授業に出ました。 そして、前の年は、ろくに就職試験の勉強もしていなかったのですが、今度はちゃんと準備して、もう一度東京都の採用試験を受けたわけです。自信満々でした。ところが、なんということか、落ちてしまったのです。受けるときに何人かに、「去年のドタキャンは大丈夫かな」と相談はしたのですが、誰もが 東京の場合は人数が多いし、関係ないだろうということで、安心していました。誠に甘かったとしか思えません。前年のドタキャンがなければ、落ちるはずはないのです。

 あわてました。僕の人生でもっともあわてた時かもしれません。大学の教務に行くと、「東京の私立初等学校協会というところから求人が来てるよ」という話でした。それで、多分、その足で、というくら いの感じで東京に向かいました。今も市ヶ谷駅の前にある私学会館。そこに協会の事務所があり、面接を受けて、中野区の私立小学校を紹介されました。そのままその学校に行き、校長と面接して、その場で採用が決まりました。

【もし、留年していなければ】

◎後で考えて、もし僕があの時ねばって、橘先生に頭を下げ続けていれば、あるいは4年で卒業できたかも知れません。しかし、そのまま公立の小学校に就職した場合、僕のことだから、組合活動とかに熱中して抜けられなくなり、児童文学の道に進むことは多分できなかったように思います。

 また、留年した年ですが、何人かの一年生たちが、僕が児童文学をやっていることを聞きつけて、「秋田大学児童文学研究会」というのを作りました。そして二度同人誌を出したのですが、その二回目に僕が書いたのが「雪咲く村へ」という、出稼ぎを題材にした作品で、これが『日本児童文学』の同人誌評 で、当時若手作家だった那須正幹さんに、随分ほめてもらいました。それから、多少の経緯があり、十数年後になりますが、この作品が僕の初めての創作単行本として出版されることになります。つまり、 留年がなければ、この作品は生まれていなかったわけです。

 そんなふうに、人間の一生は、なにが幸いになるのか、本当にわからないという気がします。ほぼ50 年近い前のことですが、僕の大きな転機になったできごとを、「71歳記念」に書かせてもらいました。

2021/03/05

26、リモートのことなどあれこれ(21,2,25)

【今日は、】

◎午前中、川越市の画廊に行ってきました。知り合いの画家さんの個展を見るためです。僕の『みんなの家出』という本の絵を描いていただいた早川純子さんという絵描きさんで、その作品が思いがけなくもサンケイ児童出版文化賞(フジテレビ賞)をいただいたのも、多分に絵のインパクトがあったと思います。普通のリアリズムの作品なのですが、人間が動物(鶴と亀)の姿で描かれていて、これは編集者 のアイデアなのですが、おとなしい作品がこれで別の世界を演出するような結果になったと思っていま す。

◎その早川さんが、昨年『なまはげ』という絵本を出されたということで、それをモチーフに、個展のタイトルは「鬼我島」というものでした。なにしろなまはげは我が郷土・秋田の風習ですし、川越は近い場所でもあり、これはぜひ見に行かなければと思ったわけです。21日に、「オニライン(オンライ ンではありません)イベント 『なまはげ』絵本ができるまで」というのがあり、絵本の文章を担当された池田まき子さんが秋田から、早川さんが川越から、編集担当者が東京からと、三ヵ所をつないでのリモートのイベントでした。絵本ができあがるプロセスが、三人からそれぞれに語られ、まあ、今さらでもないですが、やはりリモートの威力を改めて実感した次 第でした。

【一昨日は、】

◎23日、天皇誕生日の祝日でしたが、協会の事務所に出かけました。この日は午後から事業部会があり、 次良丸さんも事務所に出ていました。部長の赤羽じゅんこさんを始め、何人かの部員の方が事務所に集まり、他の何人かはリモート参加という形でした。このところは、部会もほとんどリモートですから、珍しいなと思ったのですが、そういう形にしたのには理由があり、4月から始める児童文学学校のリハーサルというか、リモートのテストを兼ねての部会なのでした。

◎来期の文学学校は、リアルとリモートを組み合わせる形で行うことになっており、講師の画像の映し方、パソコンとの距離の取り方、リモート参加の方たちからの発言をどう組み合わせていくのか、というあたりは、なかなか難しいところがあります。それで、まずは協会の事務所を教室に見立てて、そのテストをしたわけです。僕はそうした具体的な部の活動には直接関わっていませんから、事業部の方たちの大変さや事務局の苦労を、これもまた改めて感じたことでした。ただ、これがうまくいけば、今後遠隔地からのリモート参加ということも可能になるわけで、これからにつながる苦労でもあると思います。

【リモートといえば……】

◎これはまったく私的な話ですが、僕の田舎の家は、家を継いだ長兄が亡くなり、その息子、つまり僕の甥が後を継いでいます。甥といっても僕の一回り下で、僕にとっては半分弟のような存在なのですが、 その娘がこの4月から東京の短大に進学するということで、問題は部屋探しなわけです。普通の状況でも秋田からわざわざ部屋探しに出てくるというのは大変ですが、コロナ禍の今ではそれは無理なことで す。それで、去年結婚した娘の連れ合いが、不動産関係と関わりのある仕事をしていることもあり、条件に見合う所を探して紹介するという話になりました。甥は県内ですが単身赴任なので、甥、奥さん、 進学する本人、僕の娘、その連れ合い、そして千葉にいる姪(つまり引っ越す本人から言えば叔母)、そして僕でラインを組み、物件の情報を共有しつつ、検討します。こちらから情報を流すだけでなく、秋田の方からもネットで探した物件について照会してきます。そして、あたりをつけた物件について、娘の連れ合いが出かけていってリモートで部屋の内外を見せてくれる、という展開になるわけです。いやいや、昭和生まれとしては、部屋もこんなふうにして探す時代になったのだ、と感心しきりでした。

 それにしても、4月から授業がきちんと行われるかどうか、感染者もやや下げ止まりの感じもあり、気がかりなところです。

2021/02/25

25、確定申告のこと(21,2,15)

【今年の確定申告】

◎今年も確定申告の時期になりました。例年は2月16日から3月15日までですが、昨年はコロナの関係で申請期間が一か月延長され、今年も同様に4月15日までとなりました。会員の皆さんの中で何割くらいの方が確定申告をされているでしょうか。意外に少ないのではという気もするので、確定申告についてのイロハを、今回書いてみたいと思います。国税庁のホームページなどを見ればかなり詳しく説明されていますが、逆に煩雑過ぎて分かりにくかったりもするので、わたしたちに関わるような点をメインに書いてみます。但し、僕の理解が正確でなかったり、ケースによって通用しなかったりする場合もあるかもしれないことをお断りしておきます。

◎確定申告をしなければならない人は、二ヵ所以上から給与をもらっている人、給与以外に所得がある人、そして自営の人(もちろん文筆業も入ります)などで、僕の場合は昨年度までは三つの大学の非常勤講師をしていましたから、その三つの条件のどれにも入りました。いつから確定申告を始めたのかは定かではありませんが、協会事務局に勤め始めた30代の頃は多少の原稿料などはありましたが、最初のうちは確定申告はしていなかったと思います。皆さんの中でも、印税や原稿料などの収入があるけれど確定申告は面倒そうなのでしていないという方が、少なからずいらっしゃると思います。それが法律違反で「脱税」になってしまうのかといえば、法律的な建前はよくわかりませんが、実際にはそんなことはなく、「税務署に見つかると延滞金を取られるぞ」というようなことはまずないと思います。なぜなら、税金を払ってないわけでなく、ほとんどの場合、印税や原稿料は支払われる際に10%(基本的に10%ですが、東日本大震災以降、それに加えて「復興特別所得税」というのが若干引かれています)天引きされているからです。それを出版社などが税務署に、本人に代わって(?)払っているわけです。 逆にいえば、わたしたちは知らないうちに自分の収入を10%引かれてしまっている、ということになり ます。

◎ところで、皆さんに出版社などから届く「支払調書」ですが、あれは地元の税務署にも送られます (但し、年額5万円以下は送られません)。ですから、税務署にはあなたが受け取った印税や原稿料は把握されているわけです。では、どれくらいの収入があったら確定申告をした方が無事かというと、これはまったく僕の個人的見解ですが、100万円あたりがひとつのラインのように思います。というのは、100万円以下の場合は、後で述べる必要経費と基礎控除を差し引けば所得金額としてはゼロに近い数字になると思うからです。ですから、概ね100万円以下の場合は、「あなたは収入が あるのに確定申告をしていませんよ」というようなご注意が税務署の方からくることは、まずないように思います。 ただ、逆に言うと、例えば手取り金額が80万円なら上記のように8万8千円引かれているわけですから、確定申告をすればその一部、場合によっては全部が戻ってくる可能性があります。ですから、多少面倒でもやってみようという方は、チャレンジする意味は充分あると思います。

【確定申告の基本的な計算方法】

◎ここで一つ言葉を整理しておくと、まずは「収入」と「所得」です。上記の場合で言えば、収入は80万円ではなく88万8千円です。「年収」というような場合、手取り金額で考えている場合もあるかも知れませんが、正確には税金や保険料など、引かれた分も含めて「収入」になります。では、所得が80万円かというとそうではなくて、収入から必要経費を引いた分が所得となります。サラリーマンの場合は、計算式があって収入から自動的に所得が割り出せるのですが、自営の場合はそうはいきません。仮に売り上げの収入が1000万あったとしても、仕入れに500万かかったりしているわけで、このあたりが計算になるわけです。特に、お店などと違って文筆業の場合は、何が必要経費なのかが漠然としていて、それによって所得が大きく変わってきます。そして、税金というのは、「収入」にかかるのではなくて「所得」に対してかかるので(だから所得税なわけで)、わたしたちが確定申告をする場合、収入からどれだけ必要経費分を引けるかの“勝負”になってきます。

◎僕の場合で言えば、必要経費として、交通費、通信費、交際費、資料費、事務費、会費などを必要経費として計上しています。評論の場合は、例えば3万円の原稿料を得るために資料費が5万円かかるというようなことは充分あり得ます。交通費や通信費などは、どこまでが印税や原稿料を得るために使ったものかは確定が難しいですが、このあたりは広く解釈していいと思います。私たちの場合は、言わばあらゆることが仕事のヒントにもなるわけで。 ともかく、例えばそうした費用が30万円かかったとして、これを上記の場合で言えば88万8千円から引きます。そうすると58万8千円になるわけで、これに対する税額は(ここは金額によりますが、この金額なら5%)29,400円になります。ところが、すでに88,000円(天引きで)払っているわけで、その差額の58,600円が戻ってくることになります。実際には扶養家族がいるかとかで控除額(必要経費とは別に、収入から引かれる金額)が違ってきたりしますが、以上が基本的な確定申告の仕組みです。

 どうでしょうか。最初は結構やっかいかもしれませんが、今はネットで簡単なソフトがあったりするようで、一度やってしまえば二回目からは簡単だと思います。お金の計算が嫌いでない方は(?)チャレンジしてみてください。ただ最初にも書きましたが、僕の経験も限られていますから、正確でない部分があるかもしれないことを、もう一度お断りしておきます。それと、帳簿記載が求められる「青色申告」の場合は、人件費なども必要経費として計上できると思いますが、そうした“本格的”な確定申告は、ここでは想定していないことも、合わせてお断りしておきます。

◎最後に、前に一度書きましたが、確定申告というと、思い出すことを一つ。以前に協会で税理士さんをお招きして、確定申告についての説明会を開催したことがありました。僕が事務局に勤めだしてそんなに時間が経ってない頃ですから、随分前のことです。その時に安房直子さんがいらして、多分安房さんが協会事務局にいらしたのはその時だけだと思うのですが、安房さんの作品世界と確定申告というのはいかにもそぐわない感じで、でも確かにメルヘン・ファンタジーの作家でも、確定申告対策はリアリズムで? 必要なわけですから、それがとても印象に残っています。

2021/02/15

24、各部・委員会合同ミーティングが行われました(21,2,5)

【合同ミーティングをやりました】

◎なんか、コロナに気を取られているうちに、節分、立春と、いわゆる「暦の上では春」となりました が、それよりも緊急事態宣言の延長という方に目も耳も向きます。延長自体に反対する人は少ないでしょうが、多くの人が言うように、「延長して(その間)どうするのか」という方策が相変わらずほとんど見えてきません。PCR検査の拡充とか、医療関係に対する大胆な補助とか、素人が考えても必要な措置が取られないのは、今の政権の無策とか能力不足とかいうのではなく(それもあるでしょうが)、結局オ リンピックやりたさで、それも決してアスリートのためとかでもなく、そこにまつわるさまざまな利権のため、としか思えません。そして、ワクチン接種でそれなりに落ち着き、例え無観客でもオリンピッ クが開催されれば、どうせ国民は今のような政権批判など忘れるだろう、とタカをくくられているのだ と思います。正直、またそんなふうになってしまうのかもしれないという気持ちが僕の中にもあり、自分の「民度」の低さとも闘わなければならないのかもしれません。

◎さて、先週の土曜日、1月30日ですが、各部・委員会合同ミーティングが、リモートで開催されました。

 協会には会報部、事業部など10の部と、「子どもと読書」「子どもと平和」の二つの委員会があります。部と委員会はどう違うのかはそれなりに厄介で、今はパスしますが、ともかく全部で12の部・ 委員会があるわけです。そして少ないところで5名、多いところだと10名ほどの部員(委員)がいます。平均すると7、8人くらいでしょうから、全部で100人くらいでしょうか。但し、一人で二つの部・ 委員会を掛け持ちしている人もいるので、多分実質80人前後かと思います。

 この各部・委員会のスタッフが二年に一回、一堂に会するのが「各部・委員会合同ミーティング」です。これが開かれるようになったのはそんなに前のことではなく、協会創立60周年の2006年度からで、なぜそれまでなかったかというと、以前は部や委員会のスタッフになるような人は大体協会の全体像が分かっていたし、部員同士も知っている場合が多かったのだと思います。しかし、60周年というより50周年あたりからは新しい会員も多く、部員・委員になって自分の部・委員会の仕事はわかるにしても、他の部・委員会が何をしているのかよくわからない、というような状況がありました。そうした中で、合同ミーティングをやろう、ということになったわけです。他の部・委員会のことを知れば、自分の部・ 委員会がやっていることの協会全体の中での位置づけも見えてくるわけですから。

 最初の5年間は毎年やっていたのですが、2010年度からは役員改選(部や委員会のメンバーが交替する)の年度だけにして、奇数年度の1月には新入会員の集いをやるという現在のパターンになりました。

【で、今回は……】

◎で、今回は合同ミーティングとしては、もちろん初めてリモート開催になったわけですが、前半は僕が75周年記念資料集のことを話し、榎本秋さんがリモートの会議や講座に関する技術的なことも含めた入門編のような話をしてくださり、後半は各部・委員会に分かれてミーティング、そして最後はいくつかの部からのアピールというプログラムでした。

◎僕の話は上記のように75周年周年記念資料集をめぐってということでしたが、今回の合同ミーティングでこの話をすることは、ちょうど創立75周年を前にした時期でもあり、ほぼ2年前から決まっていたことでした。ただ、合同ミーティングの時点では資料集は完成しているだろうという前提であったわけですが、コロナ禍の影響で編集作業が遅れ、まだできていない資料集について話すという形になりました。

 持ち時間が30分で、前の日に“リハーサル”をやったらどうしても30分を越えてしまうので、本番の時は逆に慌てたような話になってしまいました。最後の方で「迷い続けた75年」などとも言いましたが、古い文書を見ていると、児文協が決して昔から一枚岩でもなければ、かつてはみんな運動意識に燃えていたけれど今は失われている式の捉え方が大まちがいであることも見えてきます。逆に僕は「迷い続けた75年」、つまり協会が様々に試行錯誤を繰り返してきた組織だからこそ、4分の3世紀続いてきたのだと言いたかったのですが、あまりうまく話せませんでした。

◎榎本さんの話は、僕のようにOA関係に疎い人間にもよく分かる話で、リモートの利点と共に短所についてもなるほどという感じでした。榎本さんは専門学校などの講座でも、そうした両面を意識しながら、リモートをさまざまに工夫しながら活用されていて、すごいなと思う一方、これを協会に導入するのはなかなか大変とも思わされました。

 また、今回は、初めて“グループ分け”というか、60人ほどの参加者が、12の部・委員会に別れてミーティングをする時間を設定したわけですが、一部の部では画像がうまく出なかったり、ということもありました。それでもともかく児文協でこうした形でイベントができるのは、今回も会議をリードしてくれた次良丸さん、西山さん、榎本さんがいるからで、感謝です。

2021/02/05

23、リモート新年会のこと(21,1,25)

【すみません、一回とんじゃいました】

◎これを書こうとして初めて気がついたのですが、「5の日」に更新するはずのこのブログ、前回の1 月15日、更新していませんでしたね。原稿は一日遅れでしたが16日にでかしたものの、その日は土曜日で協会事務局に出ていたのですが、バタバタしているうちにアップするのを忘れてしまったようです。 新年にお送りした『Zb通信』号外でこのブログの宣伝をしておきながら、誠に失礼しました。

 そこで書いた中味は、奥山恵編集長の新編集委員会の最初の担当号である『日本児童文学』1・2月 号のことと、13日の理事・監事のリモート新年会のことでした。同じことを書くのはどうかと思うし、 大分日も経ってしまったのですが、リモート新年会は僕も初めての“リモート飲み会”だったので、その時の様子をやはり紹介させていただこうと思います。

【ということで、リモート新年会のこと】

◎これを言い出したのは僕なのですが、そもそもコロナになる前、理事会終了後は“有志”で飲みに行くケースが多いのです。僕は家が遠いこともあり(順調に行って1時間40分、下手をすると2時間近くかかります)、必ずしも毎回ではありませんが、大体お付き合いしていました。かつては、理事会で決まったことがその後の飲み会でひっくりかえる、などという話もありましたが、今はさすがにそれはありません。ただ、「あの場では黙っていたけど、本当は……」といった話が出ることもあり、やはり大切なコミュニケーションの場ですし、そういうことは抜きにしても、やはり会議では見えないいろんな“顔”が見えるおもしろい場でもあります。

 ところが、今の理事会は昨年5月の総会で選出されましたが(総会自体がリモートでしたが)、6月の第一回からずっとリモートで、10月(今から見れば、コロナもやや下火でしたが)にいつもより広い会場を借りて一度だけリアルの会議をしたものの、その時が一回だけでしたし、もちろんその後の飲み会などはありませんでした。

◎リモート会議は遠方の人もわざわざ出てこなくていいというメリット(現理事では、後藤みわこさんと藤真知子さんが愛知県在住です)はありますし、議事運営もまあまあ支障はありませんが、論議がどうしても表面的になりがちです。また、今の理事会は三人の新理事がいて、監事も一人が新任ですが、この方たちとじっくり“知り合う”というふうな時間がまったく持ててきませんでした。ということで、この1月は月末に「各部・委員会合同ミーティング」というのがありますが、これもリモートですし、理事会はないので、「新年会」という形でリモート飲み会というのをやってみたいなと考えたわけです。

 まあ、酒飲みにありがちな発想だと思いますが、そういう僕は結構酒飲みで、そんなに強くはありませんが、一年365日飲まない日はありません。だから、というか、世の中でリモート飲み会が流行っているということを聞きつつも、パソコンに向かって酒を飲むというのはどうもピンとこず、今まで考えたことはありませんでした。でも、まあ、理事会のメンバーならなんとかなるかなと思い、提案してみ、やってみようかとなりました。それで、前理事会の“打ち上げ”もちゃんとできていなかったので、内田前理事長も“ゲスト”で参加してもらいました。

【そして、リモート飲み会は……】

◎1月13日、夜の7時半から9時過ぎまでという設定で、僕は缶ビールの大と中を1本ずつ、そして氷を取って来たりという面倒を避けるために、缶のハイボールを2本用意しました。20人ほどの人数なので、ただだらだら画面を見ながら飲むという訳にもいかないだろうと、言い出しっぺとしていくつか進行のためのプログラムを考えていました。そして、少し早めに、Zoomを開けて画面に入ったのですが、なんということか、なかなかつながらず、「接続が不安定です」という表示が出てきたのです。かなりあわてました。

 万一の時のために、次良丸さんにはケータイですぐ連絡できるようにしていたので、その旨を告げ、とりあえず参加した方たちに、年末から正月にかけてどんなふうに過ごしたか、順番に話してもらうようにお願いしました。その間も僕のパソコンは繋がったり、切れたりという状態で、これは無理かなと思いつつ、最初から接続をやり直してなんとかちゃんと繋がった時には8時半近くになっていました。

◎ちょうど皆さんの「近況報告」も一回りしたところだったので、最初に考えていたプログラムを、そこから始めました。用意していたのは、参加者の名前を書いた紙と5枚のカードで、まず名前を引いて、当たった人にカードの「上から何枚目か」を指定してもらいます。そのカードには、「あなたはどんな子どもでしたか?」「人生で一番思い出したくないことは何ですか?」といった質問が書かれていて、当たった人はそのカードの質問に答える、という趣向です。

 いろんな話が出てまあまあ盛り上がった(?)気がしますが、新理事の東野司さんと新監事の山口理さんが「人生で一番思い出したくないこと」のカードを引いて、東野さんは「大学受験の時、寝過ごして受験できなかった」という痛恨の思い出を話され、また山口さんは「一番思い出したくないことはとても口にできないので、二番目の……」と切り出して、大雪で(ごめんなさい、何時間だったか忘れましたが、かなりの長時間でした)車で立ち往生したことという話をされ、やはりみんないろいろあるなあと(そして、心のなかで自分だったら何かなアと思いつつ)、感じ入ったことでした。

◎かくて、リモート新年会は、僕はネットの接続でハラハラドキドキでしたが、まずはやってよかったなと思っています。この30日に各部・委員会合同ミーテイングがあり、僕は協会の創立75周年記念資料集のことを30分ほど話すことになっているのですが、また「接続不安定」になると困るので、その時は協会事務局に赴いて、そこから話をするつもりです。

 ということで、まあ、リモート飲み会も悪くありませんが、やはり早くリアルで飲み会ができるようになってほしいものですが、果たしていつになるのでしょうか。

2021/01/25

22、今年の正月は……(2021,1,5)

【今年最初のブログです】

◎「明けましておめでとう」という言葉は使いにくいような本年の年明けですが、ともかくも新しい年に希望を託したいですね。今日は、年賀状のチェックがてら、事務所に来ています。次良丸さんは1・2月号の発送準備のため、今日から仕事。機関誌の編集という仕事があるので、協会事務局もなかなかテレワークにはしにくいところがあります。

 さて、今年の最初のブログですが、「Zb通信」の僕の挨拶を見て初めてこれをご覧になっている方もいらっしゃるかも知れません。「理事長ブログ」といっても、協会のこともあれば、個人的な話題もあれば……という、なんでもありの内容です。10日に一回というきわめて呑気なブログですが、一応5の日に更新と決めています。前に書きましたが、僕は朝の5時55分生まれで(それで名前が「(朝日が)昇(のぼる)」)、5がラッキーナンバーと思ってるので、この日にした次第です。

【去年までの年末年始のこと】

◎二度目の緊急事態宣言も必至かという緊迫した状況ですが、僕としては実は十数年ぶりにゆっくりした正月でした。僕は2019年度までは三つの大学の非常勤講師をしていて、その内二つは、春学期が「児童文学」、秋学期が「文芸創作」という課目でした。うち一つは20人ほどの人数でそれなりにていねいにできたのですが、もうひとつの東洋大学の方は同じ課目で2コマあって、合わせて300人 (200人と100人)前後という、とんでもない人数でした。春学期の「児童文学」の方は、レポート採点はそれなりに大変だとしても、まあ講義ですから、人数が多くても特に困りません。ところが、秋学期の「文芸創作」の方は、せっかくの創作の授業なのだから、提出された作品にはせめてコメントをつ けて返したい、などと殊勝なことを考えたばかりに、大変なことになりました。 12月の最後の授業で提出された300編ほどの作品を年末年始に読んで、いちいちコメントを書くわ けです。まあ、肩は凝るわ、腰は痛くなるわ、地獄(?)でした。それを十数年続けました。ですから、箱根駅伝も常にそのコメントを書きながら見る、という具合で、今年はお茶やコーヒーを飲みながら(そんなわけで東洋大学を応援しながら)見ていて、なんだか落ち着かない感じでもありました。

◎一番頭にくるのは、年明けの最後の授業で作品を返すわけですが、何人か取りに来ない学生がいることで、「こっちはこんなに苦労しているのに!」と言いたいところです。途中からは、「連絡なしで受け取らない時は減点するぞ」と脅していました(笑)。ただ、授業は準備も含めてかなり大変ではありましたが、それをあまり苦痛と感じたことはありません。僕はもともと小学校の教員で(20代の6年間務めました)、それを辞めて児文協の事務局に就職したわけですが、その一、二年後に専門学校、それから短大や大学の授業をずっと受け持ってきて、大学講師の定年の70歳まで続けたわけで、自分はやはり教えることが好きだったんだろうと思います。なにしろ、おじ(い)さんの話を100人以上が一応まじめな顔をして聞いてくれるなどということは、普通では絶対ありえないことですから(笑)。とはいえ、やはりここ何年かはあまりの世代間ギャップを感じることも多く、ちょうどいい退き時だったなと思えます。

【さて、今年は】

◎いま一番心配なのは、3月の大牟田セミナーです。果たして無事に開催できるかどうか。遅くも2月の初めには判断しなくてはいけませんが、状況によってはもっと早く結論を出す場合もあるかもしれません。「できれば参加してみたい」とお考えの方は、協会のホームページを時々チェックしてください。すでに北海道からの参加申し込みも届いていますが、特に中国地区や九州の方は割合ぎりぎりでも日程調整が可能だと思うので、開催と決まりましたら、(体調と相談しつつ)ご参加いただければ幸いです。 そして、5月の総会も、果たしてどうか。総会はなんとか開けたとしても、文学賞贈呈式のパーティーはどうか……。去年も結構ぎりぎりまで悩んで急きょリモート総会になったわけですが、今年は万が一だめならリモートでという想定が今からありますから、その分安心感(?)はありますが。

 ともかくも、75周年というのは、会の存在をアピールしていく大きなチャンスでもあるので、その点はいろいろ方法を考えながら進めていきたいと念じています。改めて、本年もよろしくお願いいたします。

2021/01/05

21、児文協2020年重大ニュース(2020,12,25)

【今年最後のブログです】

◎クリスマス、どうお過ごしでしょうか。我が郷里・秋田は、今年は記録的な大雪のニュース。新潟の関越自動車道の立ち往生は、大変でしたね。

 去年出た最上一平さんの絵本『おおゆき』は、雪に閉じ込められて動けなくなった車に乗った人たちに、その地域の人たちが手を差し伸べるお話でしたが、これは一般道だからできたわけで、自動車道の場合は本当に大変だったろうと思います。僕の住む埼玉県坂戸市は関越道の沿線で、僕は自動車の運転免許(43歳で取りました)の時も高速教習は関越道だったし、他人事に思えませんでした。(たまたま今日の午後、冬タイヤの交換に行ってきます。)

◎さて、今日は今年最後のブログでもあり、ベタですが「児文協十大ニュース」をいってみたいと思い ましたが、十もないかなと、「重大ニュース」にしました。では……

①コロナ禍で、総会始め、リモートに

~もう「コロナ」と言ってしまえば、今年のニュースは全部その関係になってしまいますが、今はやや慣れましたが、総会を準備している時点ではまだリモート対応を始めたばかりで、本当にできるかどうか、またどれくらいの方が参加してくださるかもわからず、不安でした。でも、むしろ例年より多いくらいの方にご参加いただき、議事もスムースに進行しました。その後、理事会、そして学習交流会と、リモートがそれなりに定着し、逆に遠方の方からは「リモートで良かった」との声も届いています。これもこうした機器に強い次良丸事務局長あってのことで、僕ではどうしようもありませんでした。

②児童文学学校、創作教室が中止

~コロナで一番痛手だったのは、児童文学学校や創作教室が開けなかったことです。創作教室の方は協会の事務所が会場ということもあり、今までの定員だとどうしても「密」になってしまうので、2コースに分け、リモートも併用するなど、事業部では新しい対応を考えています。

③内田麟太郎理事長の退任

~2期4年間、理事長を務められた内田麟太郎さんが、5月の総会で退任されました。短い挨拶が誠にユニークで(笑)、名理事長でした。絵本作家として活躍されている内田さんが理事長を務められているということが、協会にとってはさまざまにプラスだったと思います。本当にご苦労様でした。そして、3月の大牟田セミナーがなんとか開けることを祈ります。

④持続化給付金、家賃補助を得る

~上記のように、講座がなくなったこともあり、そのままでは今年度は赤字必死でしたが、持続化給付金200万、家賃補助80万を得ることができ、ホッとしました。経理の宮田さん、ご苦労様でした

⑤新理事3人が加わる

~今期は役員交代の年度でしたが、新たにしめのゆきさん、指田和さん、東野司さんの三人が理事に加わりました。役員の世代交替は協会にとって大きな課題で、今後もどんどん新しい人たちに加わってほしいと思います。

⑥編集長、交替

~協会の役員人事の中で、やはりひとつ焦点になるのは、機関誌編集長です。なんといっても激務です。高橋秀雄編集長は2期4年務めてくださり、この間、いろいろとユニークな特集が組まれました。奥山恵新編集長は、評論家であると共に、子どもの本専門店の店主として、子どもの本を広い立場から見ておられます。来年の1・2月号からが新編集委員会の担当になります。

⑦藤田のぼる、理事長に

~一応、ここに入れました(笑)。7番目にしたのは特に遠慮(?)したわけでもなく、長く事務局長、そして副理事長も務めてきた僕が理事長になったのはニュース性ではかなり低いと自覚してのことですが、自分としてはそうしたキャリアを生かせるよう、努めたいと願っています。

⑧75周年に向けた取り組み

~来年3月に、協会は創立75周年を迎えます。老舗のお店ではないので古さを誇るのは変ですが、やはり創立時の、そしてその後会を支えてきた先輩たちに思いを馳せます。75周年の取り組みについては、年明けにお送りする会報号外でお知らせします。

⑨アルバイターの公募

~5年前になるかな、僕が事務局を退職した際に、それまでの三人体制が二人になったのに伴い、講座関係の実務を、会員の間中ケイ子さんが非常勤の事務職として担当してくださいました。その間中さんが今年度の前半頃までということになり、代わりの方を協会のホームページで募集しました。三人の方から応募があり、この10月から飯島美穂子さんがアルバイターとして、とりあえず週に一度仕事をしてもらっています。講座の開講が元に戻れば来てもらう日を増やすことになるかと思います。

⑩学術会議の問題で理事会声明

~これはまだ記憶に新しいことですが、10月の理事会声明。緊急の理事会声明というのは、かなり久しぶりだったと思います。6人の任命拒否についてまったく答えられないまま国会も終わってしまいましたが、コロナの問題でも、国の政治のあり方がわたしたちの生活に直結することを、改めてまざまざと感じさせてくれた2020年だったように思います。

 以上、なんとか「十大」になりましたね。来年がいろいろな意味で出口の見える年になることを願って、本年最後のブログとします。会員の皆さん、良いお年を!

2020/12/25

20、ベートーベン生誕250年のこと

【今年はベートーベン生誕250年です】

◎コロナ過でも季節は例年通り進み、今年もあと半月です。政府の無策ぶりにはあきれるしかありませんが、今回はぐっと話題を変えてベートーベンです。協会とはまったく関係ない、私的な話になります。

 まあ、NHKぐらいですが、今年はベートーベン生誕250年ということで、いくつかの特集が組まれていますね。本来なら記念コンサートも目白押しだったのでしょうが、コロナでだめになってしまったというのは、なんとなくベートーベンっぽいような感じもします。

◎さて、僕は母や兄・姉たちの影響もあり(三人いる姉の真ん中は、教育学部の音楽科卒)、中学生の時ブラスバンド部員だったこともあり(打楽器担当、途中からタクトも振ったりしていました)、子どものころから一応クラシックファンです。当時はもちろんレコードの時代ですが、我が家には小さな電気蓄音機(なんと古風な響きでしょう)しかなく、中学生の頃、日曜日になると四つほど離れた駅の(ということは、それなりに近い)上の姉の嫁ぎ先まで(遠い親戚でもあったので)押しかけていって、そこにはステレオがあったので、一日中それで音楽を聞いて、夕食をご馳走になって帰ってくる、という時間を過ごしたりしていました。

◎好きな作曲家はドボルザークとベートーベン。「ドボルザーク」という名前を覚えたのは、小学校低学年くらいの時だったと思います。ラジオで「ノボルザーク」と聞こえたのです(笑)。上記のように中学生の時はブラスバンドで放課後には毎日音楽室に向かうわけですが、そこには音楽年表があり、ベートーベンのライオン髪とドボルザークの髯顔が、ちょうど左右で釣り合っている感じでした。まあ、クラシックファンとはいっても名曲コンサートレベルで、ドボルザークはやはり「新世界」、ベートーベンは「英雄」「運命」「田園」といったところが好きでした。

◎高校生の時です。僕は秋田でも農村地帯の田舎でしたし、それまで生のオーケストラを聞く機会はありませんでしたが、高校は秋田市内の高校に入って、家からは遠いので短大に通う(三番目の)姉とのアパート暮らしでした。つまり、秋田市内に住んでいたわけです。秋田市だと年に1、2回はオーケストラがやってきます。ですから、高校三年間で6、7回はオケを聞く機会がありました。そのうちの何回目かは覚えていませんが、初めて聞く曲に釘付け(?)になったのが、ベートーベンの交響曲第7番でした。以来、この曲が今に至るまで僕のベスト1です。

【ベートーベン・好きな曲ベスト10の投票】

◎つい、この前、先週の11日です。金曜日の夜の教育テレビで「らららクラシック」という番組があります。普段は30分ですが、この日は1時間で、視聴者が「好きなベートーベンの曲」を投票し、ベスト10を発表するという内容でした。僕は投票まではしませんでしたが、わが7番が何位になるかと固唾をのんで(笑)見ていました。こういう場合、下から発表していくわけですが、「英雄」は第9位だったか早々に出てきました。そして「運命」が第5位、「田園」が6位と、シンフォニーの番号と同じ順位です。3位、4位は「悲愴」「月光」とピアノソナタが入りました。そして、あとは1位と2位。残るは7番と9番です。「もしかして……」という期待をよそに、やっぱりという感じで第一位は第9でした。「そりゃ、まあ、そうだろうなあ……」と、納得ではありました。

◎ただ、例えば生誕200年の時だったら、7番が第2位ということは、あり得なかったと思います。ベスト10に入ったかどうかさえわかりません。番組の司会の高橋克典さんも言ってましたが、7番がぐっとポピュラーになったのは、「のだめカンタービレ」がテレビで放送され、その主題曲のように7番が使われてからですね。調べたら、この放送が2006年ですから、この曲が一気にメジャーになったのは、ここ14、5年のことということになります。元からの7番ファンとしては、うれしいような、自分だけのものを取られたような、やや複雑な気分でもありますが……。

◎最後に、のだめの主役だった上野樹里さんの話題を一つ。彼女は実は岡田淳さんのファンということで、何年か前に、日本図書教材協会主催のフォーラムで、僕がコーディネーターで、岡田さんときたやまようこさんをお呼びして講演と鼎談をやったのですが、その時上野樹里さんが来ていたらしいです(僕は気がつきませんでしたが)。そういえば、岡田淳さんの作品には、クラシックの曲がとても上手に使われています。例えば、文庫では僕が解説を書いている『雨やどりはすべり台の下で』の第一話「スカイハイツオーケストラ」で使われているのは、チャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形」の中の「花のワルツ」で、実に絶妙な選曲だと思います。そういえば、今年の協会賞、佐藤まどかさんの『アドリブ』も音楽ネタでした。

◎今年も年末の第9のコンサートはあるようですが(オーケストラの一番の稼ぎ時でしょうし)、さすがにちょっと聞きに行くのは怖いですね。合唱隊は例年だとそれこそ“密”もいいところですが、間隔を開けて、まさかフェイスガードとかをつけるのでしょうか。コンサートや演劇に気兼ねなく行ける日が早く来ることを望みます。

2020/12/15

19、協会の今の事務所のこと~児文協昔話2~(2020,12,5)

【今の事務所に移った時のこと】

◎12月になりました。季節の移り変わりは例年のことですが、コロナに明け暮れる今年、カレンダー自体は変わらず進行していくのが、ちょっと不思議なような気もします。

 さて、前回、前の百人町の事務所のことを書きました。今回は、そこから今の神楽坂の事務所に移る時の経緯をお話したいと思います。

 前回書いたように、「メゾン吉田」の2階と3階を借りることになり、小さなアパートとはいえ、合わせると15、6万程度の家賃になったのではなかったかと思います。 それで、これだけ払うのなら、もっとちゃんとした事務所らしいところを借りられるのでは、という話になって、物件を探し始めました。

 最初に候補地になったのは水道橋駅(まだ国鉄だったかな?)近辺で、それは当時児童文学学校の会場にしていた労音会館が近かったから、という理由だったと思います。やや恐る恐る不動産屋を回り始めましたが、家賃はまあまあ払えそうな金額で(多分20万円程度までを想定していたと思いますが)、 ある程度の広さをもった物件でも大丈夫そうでした。ところが、想定していなかったのは保証金の高さでした。アパートなどの場合はせいぜい家賃2ヵ月分程度ですが、都心に近い事務所となると数百万円が相場でした。協会にとってはちょっと無理な金額です。

 ややあきらめかけたのですが、水道橋の隣の飯田橋の不動産屋に行った時だったと思います。飯田橋駅界隈はやはり高い保証金でしたが、一駅離れた地下鉄の神楽坂駅の近くだと、保証金が百数十万円という物件が結構あるのです。今はどうか分かりませんが、 国鉄の駅の近くと地下鉄の駅の近くでは何倍もの違いがありました。神楽坂は、出版クラブがある所ということで、なじみがありました。それに神楽坂を通る地下鉄東西線は、その名の通り、西の中央線方面からも、東の千葉方面から来るにも便利です。そんなことで、神楽坂近辺を探してみようと思ったわけです。

◎何件の事務所を見たでしょうか。どれもピンとこなかったので、別の不動産屋に行ってみると、駅からとても近い所の物件がありました。近いというより駅の隣という感じです。さぞかし家賃が高いかと思うとそうでもなく、保証金もさほどではありません。早速見に行き、ほぼ即決だったと思います。それなりに古いビルで、だから安いのでしょうが、お店を開くわけでもなし、駅に近いというのは、高齢の会員や役員が少なくない児文協にとっては何よりだと思いました。

 ただ、その事務所はまだ空いてはいなくて、少し先に空く予定ということで、その時点ではある宗教関係の団体の事務所でした。確か福島かどこかに本部がある仏教系の団体ということで、責任者の大きなデスクの上には仏像めいたものがあったように覚えています。少なくとも、今の児文協のやや本の物置的な状況に比べて、とても綺麗だったことはまちがいありません(笑)。

 ともかく、そんな経緯で、現在の神楽坂の事務所に移ったわけで、これも前回書きましたが、それが 1981年ですから、もう40年目ということになりました。

【協会の住所のこと】

◎協会事務局の住所は「新宿区神楽坂6-38 中島ビル502」ですが、東京の都区内の住所はほとんど 「〇丁目〇番〇号」、例えば「港区赤坂2―6―15」というふうに、数字が三つ並んでいます。「6丁目 38番地」というふうに数字が二つなのは、一昔、二昔前の住居表示です。これはもう随分前になると思いますが、東京も含め(京都は例外ですが)ほとんどの都市の市街地の住居表示が「〇丁目〇番〇号」 というパターンに変えられた時に、新宿区内でも牛込局管内の住民が、それに対して強力に反対運動を起こしたようです。このあたりはいわゆる文人が多く住んでいて、「地名というのは歴史そのものなのだから、利便だけで変えてはいけない」という主張だったようです。珍しいことだと思いますが、この運動が実を結び、牛込管内だけはかなり旧住所が残されました。

 例えば(二年ほど前に移転しましたが) 協会の総会を行っていた出版クラブは事務所から歩いて6、7分のところですが、住所は「新宿区袋町6番地」でした。また、(今はしばらくリモートになってしまいましたが)理事会などの会場でよく使う 「新宿区箪笥センター」の住所は「新宿区箪笥町15番地」で、他にも肴町(さかなまち)とか横寺町(旺文社があります)といった、昔風の住所が正式な住居表示として今も使われているのです。会報で理事会の会場として「箪笥センター」というのを見て、箪笥を作っている会社の組合の建物かと思っていらした方もいるかもしれませんが、そうしたわけでありました。

◎最後に思い出話をもう一つ。神楽坂の事務所に移って最初の理事会の時です。当時は藤田圭雄会長、 関英雄理事長でしたが、それまで知りませんでしたが、藤田会長は牛込のお生まれで事務所から10分ほどの愛日小学校が母校、関理事長は少年時代に神楽坂に住んでいたことがあり、関東大震災(なにしろ話が古いですが)当時、ここで被災したのです。このことは、関さんの自伝的作品で協会賞を受賞した 『小さい心の旅』にも描かれています。というわけで、理事会が始まる前、二人がとても懐かしそうにそういった話をされているのを聞いて、「ああ、神楽坂にして良かったな」と思ったことでした。当時からすでに古いビルでしたから、いずれ建て替えという問題は起きるでしょうが、できれば便利のいいここにずっといたいものだと思っています。

2020/12/05