藤田のぼるの理事長ブログ

皆様、良いお年を!

久しぶりにというにもおろかなほど、久しぶりのブログです。今出しつつある年賀状の最後に、「今年は、事務局長ブログで折々に発信していきたい」などと書いたので、年を越す前に一言と、思った次第です。

【ドボルザークの髭】

今年は僕にとっては65歳という節目の年で、協会事務局に出る日が少なくなった分、特に大学の講義がない時期は、少し時間がとれるようになりました。そこで、夏から一念発起して、大宿題の「現代児童文学史」にとりかかり、自分なりに目標を定めようと、個人誌を発行して、連載の形で書いていくことにしました。それで、11月に個人誌『ドボルザークの髭』1号を発刊しました。この誌名は、僕の最初の評論集『児童文学に今を問う』の序文からとったもので、僕の評論活動の大きなテーマ、モチーフとして、やはり「時代と児童文学」ということがあり、学生時代に児童文学を読み始めた時から意識していたことでした。その時に思い出したのが、中学生時代に(部活のブラスバンドで毎日通った)音楽室で見た音楽年表のことで、音楽史上の時代区分が帯のように表されているわけですが、例えば古典派とロマン派の境目は斜めの線になっています。ところが、自分たちの教室にある歴史年表の例えば鎌倉と室町の境目はまっすぐな線なわけです。その時、中学生の僕は「そうか、文化・芸術の流れというのは、そういうことなのか」と思ったわけです。そして大学生になって児童文学を読み始め、時代と児童文学ということを意識した時に、そのことを思い出したわけです。音楽年表でインパクトがある顔といえば、なんといってもベートーベンとドボルザークで、それで左右がつりあっている感じです。ドボルザークは僕が初めて知った作曲家でもあり(子どもの頃、ラジオで「ノボルジャック」と聞いてしまいました)、それで「ドボルザークの髭」です。(うーむ、大分はしょってしまって、意味不明かな。)

話は違いますが、去年(いや、まだ今年ですね)の1月から、法政大学の通信課程のスクーリング(一日2コマずつ一週間)を担当したのですが、最後に質問を書いてもらったら、たくさんあってとても時間内に答えられませんでした。そしたら一人の学生が、「先生、ブログをやってらっしゃるようだから、そこで答えてくださったら」というのです。協会ブログをそういうふうに使うのもためらわれたのでやめときましたが、初めて会った学生(といっても、通信課程は年代は様々ですが)が、担当の教員のことを知る手立てとしてブログを見るという(別に協会のホームページからでなくても、僕の名前を検索すると出てきますね)、考えてみれば当たり前のことに、ちょっと「へえ」と思ってしまいました。それが一年前のことでした。なのに、今年はブログをほとんど更新できず、“反省”しての年末となりました。

【新入会員の集い】

反省といえば、1月23日(土)に新入会員の集いがあり、そこで僕は協会の歴史などについて話すことになっていたのですが、これが上記のスクーリングと重なっていた(前回は午前の2コマだったのが、今回午後の2コマになっていた)ことを失念していて、出られないことが判明! という、ちょっとショックなことでした。丘理事長に代わってもらうことにしたので、新入会員の皆さんにはかえって良かったかもしれませんが、本当にごめんなさい、の世界でした。(ちなみに、その後の懇親会には出ます。今からでも申し込めます。)

そんなわけ? で、いよいよ来年は創立70周年の年です。「日本児童文学」の3・4月号が記念号になりますが、僕は編集委員会から、50周年記念号に書いた「年表」の続きを書くように要請され、結構時間がかかりました。これは、普通の年表とは少し違って、エピソードなどを入れて、楽しく(?)読めるようにした年表で、50周年の時は当然最初の方は自分がいない時代のことですから、逆に書きやすかったのですが、今度はがっつり自分が関わってきた20年間のことなので、距離感がつかめない感じで、時間がかかりました。3月なので、記念号発行までまだかなり時間がありますが、一応「乞・ご期待」と申し上げておきます。

それでは皆さんにとって来年が実り多い年になりますように!、

 

2015/12/28

8月8日、「ランドセルをしょったじぞうさん」を見てきました

【残暑お見舞い】

「暑い」としか言いようのない日々ですが、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。このブログ、季節を一つまたいでしまいました。7月の終わりまで出講している大学の授業があり、レポート採点も終わって、ようやく一段落というところです。

【古世古和子さん主宰の追悼集会に】

そんな8月8日(土)、協会の名誉会員である古世古和子さん主宰の(そして事実上の主催でもある)法要と講演会の集いに参加するため、八王子まで行ってきました。古世古さんの作品に『ランドセルをしょったじぞうさん』という作品があり、これは戦時中の疎開児童がアメリカの戦闘機の機銃爆撃で亡くなったことを題材にしています。当時は、八王子周辺は、「疎開する」方ではなくて、「疎開される」方の土地だったのですね。品川の小学生たちがお寺や児童施設などに分かれて生活していたわけですが、そのうちの一人が機銃掃射で亡くなったということを、戦後八王子で教員となった古世古さんは知るわけですが、その子の名前も学年も、亡くなった日も正確にはわからない。それを長い時間をかけて調査し、作品化していったご苦労(モノカキにとっては、それはある種の“喜び”でもあったと思います)は、『ランドセルをしょったじぞうさん』の続編『かかしの家』の長い後書きで紹介されています。その過程の中で、亡くなった子の母親が、疎開先の一つだった相即寺の地蔵堂の中の一体の地蔵に我が子の面影を見て、遺品のランドセルを背負わせていた、そしてそれを住職が大切に守ってきた、という事実も発掘するわけです。戦争の物語というのは、それ自体もドラマですが、その取材過程もまたさまざまなドラマがあることが多く、この作品の場合も、本当に古世古さんの執念が悲劇の実相を露わにさせていった典型例だと思います。

そして、10年前、戦後60年の際に、古世古さんは、元の疎開児童や地域の人たちに呼びかけて、地蔵堂のある相即寺で法要を行い、記念の集会が持たれました。その際に、協会に後援依頼があり、その後も8月8日に集いが続けられていたようです。今年戦後70年の節目ということもあり、古世古さんの講演も聞きたいと思い、参加しました。寺に着いたら、最上一平さんがスタッフとして靴を入れる袋を配っていてびっくり、一色悦子さん、八王子在住の会員菊地澄子さんにも、久しぶりにお会いしました。

古世古さんは85歳になられたいうことですが、休憩をはさんで2時間近く、迫力のあるお話ぶりで、感銘を受けました。折から、八王子はこの日が夏祭りで、古世古さんのお話にもあった八王子の歴史を垣間見る感じでもありました。

【今年は、僕は】

今週、13日に秋田に帰省します。本来だとまっすぐ実家に行って両親や兄の墓参りをしなければならないのですが、秋田市に直行(実家に帰る場合は、秋田新幹線の途中の角館という駅で降ります)、翌14日の午前中に秋田市の郊外土崎という港町で開かれる「土崎空襲」70年目の祈念集会に参加の予定です。8月6日や9日の原爆が、「あと一週間、十日早く戦争が終わっていれば……」とよくいわれますが、終戦前夜の14日から15日未明にかけて空襲を受けたところがいくつかあります。埼玉県の熊谷もその一つですが、秋田の土崎港もそうなのです。当時秋田には油田があり、それが狙われました。戦争で家族を失った人たちの悲しみに違いはないとはいえ、この夜に死んだ人たちの無念さはいかばかりだったかと思います。ここ何年かそのことが気になっていたのですが、今年思い切って「最後の空襲」の現場に立ち会ってみようと思いました。

「戦争を知らない子どもたち」というのは、実は元々僕ら団塊の世代を指していたわけですが、終戦から5年目に生まれた僕が今65歳になり、「もっと戦争を知らない子どもたち」に何が語れるか、深く考えたい夏です。(この項終わり)

 

2015/08/09

総会の月になりました

【5月は総会の月?】

5月になりました。ここのところ、5月の最終土曜日が総会というのが定着しましたが、その前はもう一つ前くらい、“下旬”の土曜日でした。一週遅くしたのは、文学賞贈呈式を以前の土曜日(総会の後)から前日・金曜日に移したことで、児童文芸家協会の贈呈式と重なるケースが出てきたためですが、事務局としては、一週間延びた分準備に余裕があるので、ウェルカムです。(特に、活動方針審議や役員改選のある年は、連休の後がバタバタで大変でした。)

ところで、協会の総会は昔から5月に決まっていたかというと、そうでもありません。僕は1974年に入会しましたが、確か最初の頃は4月だったのです。それが、一度“春闘”のストライキで交通機関がストップし、延期になってしまったことがあり、以来5月にした、というのが体験だったか聞いた話だったか……。そうです。その頃は、日本でも、ちゃんと待遇改善のためのストライキというものがあったのですね。

それで、年表を確認してみると、僕が入会した74年は4月27日に総会が開かれています。そして、次の75年は5月10日、76年が再び4月で24日、77年が5月14日、78年が5月20日で、その後は概ね5月の後半という時期に定まっています。でも、74年までずっと4月だったのかというと、そうでもなくて、73年は5月19日、72年は4月22日とバラバラ、68年などは6月1日にやっていますから、この頃のパターンはよくわかりません。その時のさまざまな状況で決めていたのでしょうか。ともかく77年からは総会は38年間、例外なく5月に開かれています。

【綱領の問題について】

さて、今回、総会通知に、綱領再検討に関する特別報告というのを同封しました。新しい会員の方たちにとってはかなりに唐突な印象だったかと思いますが、なにしろ綱領に関する提起がなされるのは1970年代以来ということですから、大半の会員の方たちにとって、「なぜ、今?」という疑問が当然おありかと思います。

かなりに長い文章になったので大変と思いますが、めったにないことなので、特別報告をよくお読みいただくとありがたいです。中に書かれているように、当時の関英雄理事長が、綱領の第一条の改定を提起したのは1978年、ちょうど上記の、総会の5月開催が定着した頃のことです。そして、以下いささか私的なことになりますが、この問題について論議が伯仲していた79年に、僕は協会の事務局員になりました。実は、それと前後して、僕も会報にこの問題について投稿したのです。細かい点は覚えていませんが、基本的には関提案を支持する立場で、それ以上に、関提案への反対意見が、なにか「民主主義をとるべきでない」の一点張りで、関氏の問題提起の最大のモチーフである協会の将来像ということに答えてないことへのいら立ちみたいなものがありました。

そしたら、会報編集の責任者だった塚原亮一総務部長(当時は会報部というのはありませんでした)に、「これから事務局員になる君が、なんだかみんなをしかりつけているような文章で、これは掲載しない方がいいと思う」と言われ、僕もそれもそうだなと思って、“ボツ”になりました。だから、というわけでもありませんが、綱領の問題はずっと心のどこかにひっかかっていました。今回創立70周年ということで、次の80周年になってしまったら、当時のことを知る人はほとんどいなくなってしまうことも予想され(僕自身にしてもですが)、なんとかここで、少なくとも当時の論議の紹介だけでもしなければと、理事会に持ち出した次第でした。

理事の皆さんの熱心な論議で、こういっては語弊があるかもしれませんが、僕が思っていた以上に問題が深まり、僕自身としては、事務局員になった時からの宿題が、事務局員をやめたこの年に少し果たせた気がしています。会員の皆さんに、これを機に「綱領」について考えていただく中で、協会の70年の歩みの意味を受け止めていただければうれしいです。

 

2015/05/01

4月“新体制”になりました

【事務局、二人体制に】

4月も、今日でちょうど半月ですが、会報や事務局ページでお伝えしているように、この4月から、事務局長の僕は、役職としてはそのままですが、事務局の「職員」としては完全にリタイアしましたので、事務局は次良丸・宮田の二人の体制になりました。一人減るとは言っても、10人が9人になるのとは違います。一人が休めば事務所にいるのは一人になってしまうわけで、もともとこういう団体の事務局員というのは、「わたしはその担当ではありません」というのは通用せず、なんでもやらないといけないようなところがありますが、二人にかかる負担はかなりなものになります。僕も出しゃばらない程度でフォローしていければと思っています。

【僕の一週間】

ロシア民謡で「一週間」というのがありますが、僕は(これは数年前からですが)週に3日、大学の非常勤講師として出講しています。火曜日と金曜日(午前の1コマ)が聖学院大学(3月に姜尚中学長の突然の辞任で話題になりましたが)、水曜日が東洋大学です。東洋大学は夜間部があり、1部の学生対象の5限と2部(夜間部)対象の6限の2コマあります。昨年度までは授業のない月曜日と木曜日に協会事務局に出て、火曜日と金曜日は授業を終えてから事務局にということだったので、結構ハードでしたが、今年度からは事務局に出るのは月曜日一日と、(70周年関連の仕事があり)金曜日の午後ということで、火曜日の午後、水曜日の午前、木曜日がまる一日空く感じになりました。これを有効活用せねばと、恥ずかしながら(でもないか)、受験生のように一週間の計画表を作り、机の横にはりつけました。

かねてから、例えば那須さんとか、いわゆる専業の人が、よく自分で時間を管理して仕事ができるなあ、と感心していましたが、まあ僕はこの程度の空白具合がちょうどいいような気がします。このブログの更新ももう少し“時々”になれるかと思います。では、今日はこれから、東洋大学の今期2度目の授業。「学校・教室」が舞台の作品について話すことになりますが、つい最近見た映画「ソロモンの偽証」(良かった!)の話などもしようと思います。

 

2015/04/15

合同ミーティングのことなど

【恥ずかしながら……】

今年初めての更新です。年明けから一番時間がとられていたのは、出講している東洋大学の創作の授業の作品へのコメント書き。もう一つの聖学院大学の創作の授業のほうは、ゼミ的な規模なのでいいのですが、東洋大学のほうは、2コマ合わせて二百数十人の受講者がいます。2010年度からですから今回で5年目ですが、人数が多いとはいえ創作の授業なので、レポートとは違い、やはりコメントをつけて返さなくては、と思ったのはいいのですが、以来年末年始はほぼそれで忙殺されます。今年は休講があった関係で、最後の授業が2月にずれこみ、その分時間があったのですが(最終授業で作品を返却するので)、大変な時期が延びただけみたいな感じでした。加えて、今年から1月の終わりから2月にかけての6日間、法政大学の通信学部のスクーリングで児童文学の講義をしました。多分、小学校の教員をしていた20代の頃からぶりに(今の学生、こういう言い方しますね)一週間続けて朝の6時台に起きました。通信学部なので、学生の年代はまちまちですが、予想以上の熱心さと、レポートの優秀さには驚きました。そんなわけで、ここまではなかなかまじめに先生をしていました。

【1月24日の合同ミーティングで……】

協会の1月は、例年理事会はなく、隔年で「各部・委員会合同ミーティング」と「新入会員の集い」が開かれます。新年会を兼ねて、ということになりますが、今年は合同ミーティングでした。これは、協会の活動の各分野を担当する10の部と2つの委員会のスタッフが一堂に会するもので、7、8年前から始めています。協会は来年創立70周年ですが、会員は当然かなり入れ替わっているわけで、各部・委員会のスタッフといっても、新しい会員も少なくありません。そこで、この合同ミーティングでは、毎回協会のいろいろな分野の歴史を誰かに話してもらって、認識を深めるという“勉強”をしています。

今回は、「会報に見る協会の歩み」ということで、事務局長の僕が話をしました。会報というのは、機関誌の『日本児童文学』とは別に、会員のみに送っている会内報のことで、今は「Zb通信」というのが、年4回発行されています。僕が直接知っているのは、1970年代からですが、その頃はタイプ印刷「児童文学の旗」というのが会報で、その後冊子の形の「児童文学手帖」になり、97年に機関誌が隔年・自主発行となった際に、今の「Zb通信」になりました。もちろん、それ以前にも会報的なものは発行されていたわけで、今回合同ミーティングで話をするために古い資料をひっくり返して、いろいろな発見もありました。

さて、僕がその話の準備をしている時、24日当日の10日ほど前でしょうか。理事の中では最古参の上笙一郎さんから電話があり、古い資料を探していたら、昔の会報が出てきたから、良ければ送るよ、とのことでした。もちろんお願いして、上さんから送ってもらった60年代前半の会報も、合同ミーティング当日の資料として、コピーして配りました。

合同ミーティングで僕は50分ほど話をしたのですが、その後上さんが手を挙げて、古いことは自分が一番知っているけれど、会報についてこんなふうにまとめて考えたことはなかった、とてもいい話だった、と、ほめてくれました。ミーティングの後、懇親会の会場に移る時にも、僕に、今日の話はとても貴重だったから、ぜひ文章にしておいた方がいい、と勧めてくれました。

そして、それから5日後の29日です。前述のように、僕はこの時、午前中市ヶ谷の法政大学で講義していましたが、事務局からメールが届き、「上さんが亡くなった」という知らせでした。びっくり、というか、嘘だろう、という感じでした。午後に急いで事務局に戻り、上さんのお宅に電話し、奥さんの山崎朋子さん(「サンダカン八番娼館」などの作家)から亡くなった様子をうかがいました。夜中に仕事を終え、お風呂場で倒れられて、ということのようでした。

2月5日に行われた葬儀は、当初はご親族のみでということでしたが、上さんの近くで仕事をしていた十何人かが参列することができ、僕もうかがいました。無宗教で、奥さんの山崎朋子さんの上さんへの熱い思い出のお話が時間の半分ほどをしめました。いいお話でした。

ということで、今年の合同ミーティングは、上笙一郎さんとのお別れとセットになってしまいました。これをお読みの方で、上さんのことをご存じの方はもはや少ないかもしれません。児童文学に限らず、児童出版美術、童謡、児童史など、実に研究分野の間口の広い人でしたが、彼が比較的若い頃に書いた論文のタイトル(ちょっとうろ覚えです)を一つあげて、彼への追悼にしたいと思います。「児童文学者の体躯矮小なることへの一考察」。享年81歳でした。

 

2015/02/11

おわび的年末ご挨拶

【お久しぶりで、すみません】

10月の初めから、3カ月近く更新がなく、政治家や芸能人なら「重病説」が流れるところですが、そんなこともなく?、10、11、そして12月と、かなりに東奔西走しておりました。いくつかの文学賞、コンクール、それから読書感想文コンクールの選考委員をしているのですが、それらは夏休みの後が締め切りになっていることが多く、予選の時期も含めると、選考委員会や表彰式というのは、ほぼ秋に集中します。東京で開かれるのが多いわけですが、北海道・小樽の絵本・児童文学研究センター主催のファンタジー大賞、愛知県・半田市の新美南吉童話賞、そして信州児童文学会の「とうげの旗」文学賞など、東京以外の会場もいくつかあります。加えて、今年は郷里・秋田での国民文化祭や講演なども重なって、週末はどこかに出かけることが多いパターンでした。

【今年も、いよいよ……】

というような次第で、一年の最後を言い訳で締めくくるのは僕らしい?ですが、もう一つなかなかブログの更新に心と手が向かなかったのは、前提として、「個人的な話題は書かない」というしばりがあったせいのような気もします。というわけで、個人的といっても、まあ児童文学に関わることならいいか、という構えで、年明けからはいこうかなと思っています。

【初ぎっくり腰をしました】

と書きながら、いきなり超私的な話題ですが、12月23日、初ぎっくり腰をやりました。幸い、身動きできないというほどの重さではありませんが、初めてのハリ治療というのを経験しました。

二日間ほどこもっていたので、年賀状ができてしまったというおまけつきでしたが、年を考えなさい、ということでしょうか。なんといっても「健康(原稿ではない)が一番」ということを、改めて実感しました。皆様も(と続けるのも妙ですが)、お体に気をつけて、どうぞ良い新年を迎えください。本当は、この秋の大きな出来事だった、「フォーラム・子どもたちの未来のために」の活動のことなども書きたかったところですが、年明けに譲ります。

                                           2014,12,29

2014/12/29

台風お見舞い申し上げます

【台風お見舞い】

心配された台風18号、学校などが休みになった関係か、朝の電車はとても空いていました。東北、北海道はこれからが心配かもしれませんが、東京はお昼頃から好天となりました。

台風といえば「秋」というのが僕らの季節感ですが、この頃は結構「夏」という感じもありますね。協会創立50年の時だったと思いますから、もう20年近く前ですが、初めて沖縄でセミナーをやった時のこと、時期は5月でした。この時「台風1号」がやってきて足止めを食い、木暮正夫さんと二人でもう1泊したことがありました。沖縄の方たちも、「1号」がやってくるなんて初めてということで、思えばその頃から季節感がおかしくなりつつあったのかもしれません。総会が一週間後でちょっとあせったのですが、おまけの1泊の泡盛もなかなかおいしかった覚えがあります。

【東京オリンピックの話】

話はガラッと変わりますが、1964年10月の東京オリンピックからちょうど50年(しかも6年後に2度目のオリンピック)ということで、このところオリンピックの話題をテレビなどでよく見聞きします。以下、私的な思い出になりますが、1964年といえば僕は中学3年生でした。その時代をバックにして、やや自伝的な作品『錨を上げて―ぼくらのブラスバンド物語』という作品を書いているのですが、僕は「日本で一番下手」かもしれない秋田の中学のブラスバンドで、棒を振っていました。そのせいもあるでしょうが、東京オリンピックで一番印象的なのは、開会式。ここで古関裕而作曲の「オリンピックマーチ」が流れたことです。田舎の少年は「行進曲」などというのは、すでにできているもので、外国人が作るもの(スーザとか)という思い込みがあったのですが、これが日本人の手で今作られた曲なのだということに、ひどく感動しました。6年後はどうなのでしょうか。「情報」の渦の中にいる子どもたちが、オリンピックのなにを心に受け止めるのか、興味深いところです。

【次の「日本児童文学」はスポーツの特集です】

オリンピックとは無関係でしょうが、次の『日本児童文学』11・12月号は、スポーツと児童文学の特集。今回は「マイナーなスポーツに光を当てて」ということで?、スポーツとはあまり縁のない(野球のロッテの大ファンということはありますが)僕と、僕以上に縁のなさそうな細谷建治(でも、子どもたちがミニバスをやってたかな)の二人が評論を書いています。スポーツといえば、やはりマンガ。僕らの世代で懐かしいのは、ちばあきおの「キャプテン」で、ネットカフェに行ってもなく、探したら豊島区の某図書館に全巻そろってたので、ウン十年ぶりに読み、懐かしかったです。評論はともかくとして、募集したスポーツが題材の短編なども掲載されるので、乞・ご期待です。

このブログ、なにやらようやく一か月に1回の更新で、面目なし。多少私的なネタも交えさせていただきつつ、もうちょっと更新できるように努め?ます。

2014/10/06

児文協の秋?

【今年は合評研から】

9月になりました。今朝は、テニスの試合を見るために早起きされた方も、少なからずいらっしゃると思います。

さて、協会の年間を通しての主なイベントは、春の総会(贈呈式などを含め)、秋の公開研究会ということになるでしょうか。今年の公開研究会は東京開催の年度で、これまで2回は中野サンプラザが会場でしたが、今回は総会と同じ出版クラブで、テーマに相応しい(?)1が三つ並んだ日の開催となりました。ただ、今年は9月の初めに合評研究会が組まれ、ここから協会の秋が始まる形になりました。そして、これもお届けしたように、今年は、10月16日に、「フォーラム・子どもたちの未来のために」を開催することになったわけで、例年にも増して忙しい秋になりそうです。

【いささか個人的な話になりますが……】

僕は例年この時期に、北海道小樽の絵本・児童文学研究センターが主催する児童文学ファンタジー大賞の選考委員会があり、今回の合評研は失礼させていただきました。10月下旬には、郷里の秋田で国民文化祭があり、児童文学関連のイベントを少し手伝うことになるので、今年の秋は移動距離の長い2、3ヵ月になりそうです。国民文化祭というのは、あまりご存じないかもしれませんが、国民体育大会(国体)を追いかける形で全国の都道府県持ち回りで開催される「文化の祭典」で、国体でいろいろな種目があるように、演劇とか音楽とか舞踊とか、さまざまなジャンルの催しが県内各地で開かれます。これらのジャンルの中で、文学というのは多分一番イベントにしにくいジャンルで、短歌・俳句の募集というのはほぼ毎回あるようですが、文学、とくに児童文学関連の催しは、開催県によってあったり、なかったり、という感じです。以前、山形で開催されたときは、山形童話の会(協会の山形支部)が中心となって作品募集を行ったりしていました。

今回の秋田では、僕の郷里に近い(隣の町です)角館(今は合併して仙北市になっていますが)に新潮社記念文学館というのがあって(新潮社の創業者がここの出身なのです)、秋田の文学に関わる展示などを行います。その中の児童文学の部分を少しお手伝いしましたが、隣県の岩手(宮沢賢治)、山形(浜田廣介)のようなビッグネームがないのが、いささかつらいところです。この仙北市出身の直木賞作家西木正明さんが、同じ直木賞作家の森絵都さんを招いての対談なども組まれています。

その同じ日、秋田市で読書関連のイベントがあって、僕はそちらにちょっと“登場”します。今回は、講演に絵本作家のいわむらかずおさんを、シンポジウムに宮川健郎さんをお願いしました。いわむらさんは父方が秋田で、戦時中秋田に疎開されていましたし、宮川さんのお母様の宮川ひろさんは、若い先生として子どもたちを連れて秋田に疎開していたという、(ちょっと無理矢理感もありますが)縁もあり、今回お誘いしたようなことでした。

【この機会に、秋田に……】

ということで、(なにやら秋田の観光大使めいてきましたが)秋にどこかに出かけようということがありましたら、秋田らしく民謡などのイベントもありますので、10月あたりにお出かけいただければと思います。その時にですが、上記の角館と県の北部をつなぐ「秋田内陸縦貫鉄道」というのがあります。この鉄道は、景色は本当に(特に秋は)絶景なのですが、なにしろ過疎地域でもあり、何度か廃止の危機がありました。この存続のために中心になって活動してきたのが、協会員の大穂耕一郎さんです。彼は東京生まれですが、東北の鉄道に惹かれて(?)秋田大学に入学、卒業後東京・八王子で小学校教員をしながら、内陸鉄道の存続運動にかかわってきましたが、3年前、ついに教員を辞し、形としては臨時職員ということでしょうか、内陸鉄道の応援・宣伝部長(?)として東奔西走しておられます。そんな方も、協会にはいらっしゃいます。(この項終わり)

 

2014/09/09

夏休み、そしてヒロシマ 

【今日から夏休みです】

今日から僕は“夏休み”です。協会の事務局は、3人で交替で一週間程度ずつ休みを取るというパターンで、僕は今日12日から日曜日まで。ちょうどというか、なんというか、月刊『子どもの本棚』の古田足日追悼特集の総論というのが8月14日締切りで、今年の夏休みはこれで全部使いそうだなと、最初から思っていました。少し前から全集を読み返したりという準備はしていたので、早速今日から書き始めましたが、序論めいたことを書いただけで既定の長さの半分近くになってしまい、長さとの戦いになりそうです。

【皿海さんとの電話】

昨日の夕方、「さあ、明日から夏休みだ」という感じで仕事を片付けていた時、会員の皿海達哉さん(広島県福山市在住)から事務局に電話がかかってきました。用件はすぐ終わり、皿海さんが広島の子どもの本九条の会のことでとても忙しいという話になりました。今年の6日の広島市長のスピーチと9日の長崎市長のスピーチには格段の違いがありましたが、何年か前から例の田母神氏やその一派が広島で集会をしているらしいのです。さすがに8月6日にはできず、6月8日(!)にしているらしいのですが、なんとそこに広島市長が出席して「来賓あいさつ」をしているというのです。これに断固抗議すべきという意見と、そういうことには力を振り向けずという意見があり(このあたり、僕の聞き方は正確でないかも知れません)、「藤田さんは、どう思う?」と問われました。また、皿海さんのかつての教え子が、田母神氏らの主張に同調していてショックだったという話も聞きました。

僕はその時、最近読んだ一冊の本を思い出していました。C・ダグラス・ラミスという人の書いた『戦争するってどんなこと?』という本で、図書館でたまたま見つけたのですが、平凡社の「中学生の質問箱」というシリーズの一冊です。著者は、かつて海兵隊員として沖縄に駐留した経験を持つアメリカ人で、その後日本で大学教員などを務め、今は沖縄に住んで発言している人です。第1章の「日本は戦争できないの?」から第6章の「軍事力で国は守れないの?」まで6つの質問に答える形で書かれていますが、まさに今問題となっている交戦権や(集団的)自衛権のことなど、大変明快に書かれています。少し長くなりますが、例えば第2章の「戦争ってどんなことするの?」の冒頭の質問「戦争に行ったら兵士はどんなことするの?」という質問に対して、著者は次のように答えています。

【戦争に行ったら兵士はどんなことするの?】

〈兵士の仕事は敵を殺すことです。

日本では戦争というと、国のために死ぬとか、命をかけるとかのイメージが浮かんでくるかもしれません。(略)けれども、死ぬのは兵士の仕事ではありません。ぼくは3年間海兵隊で任務についていて、予備役の期間も入れれば10年間になりますが、その間死ぬ訓練をしたことはいちどもありません。(略)

ほかの組織とちがって軍の特徴は人を殺すことです。ですから兵士の仕事は殺すことで、もちろん、反対に相手に殺されるかもしれません。〉

なんというシンプルな、そしてリアルな回答でしょう。僕は、皿海さんの教え子の一人がそうであるように、少なくない若い世代が、田母神氏らの主張に惹かれるのは、「本当に今のままで日本を守れるのだろうか」という心配が強いからだと思います。そしていわゆる平和勢力の側が、これに対して「とにかく戦争はいけないのだ」と、それはそうなのですが、あまりリアルでない答しか持ち合わせない(という側面がある)ことが、そうした若い世代を平和勢力の方に引き寄せられない一因だと思っています。そして、それは戦争児童文学の課題でもあると思っています。そんな折に、この本に触れ、とても意を強くしました。

夏休みの間に、このことを、皿海さんに書き送ろうと思います。それから、特に沖縄に関心をお持ちの会員の皆さんには、この本ぜひ読んでほしいと思います。(この項終わり)

2014/08/12

古田さんのこと・ラスト

【8月になりました……】

沖縄、九州方面の会員の方たちには、台風お見舞い申し上げます。我が郷里秋田も、すごい雨のようです。

さて、「古田さんのこと・3」を書いてから、大分間が空いてしまいました。当初から4回で、というつもりだったので、しめくくりに何を書こうかなと、いろいろ考えているうちに、8月になってしまいました。

【古田さんの絶筆】

今、9月にお送りする会報の編集が始まるところで、今回は半分以上が古田さんの追悼ページになります。その最初のところで紹介する予定なのが、古田さんの“絶筆”となったエッセイです。これは童心社のPR紙『母のひろば』600号に寄せたもので、5月15日発行ですから、まちがいなく古田さんが最後に書かれた公式の文章だと思います。タイトルは「児童文学、三つの名言」で、「安倍政権は二〇〇六年十一月、教育基本法を改悪した」という文で始まります。安倍首相の推し進めている愛国心教育、それに対して、児童文学は何ができるのか。これは古田さんの児童文学者としての出発に関わる最大のテーマだったと思います。それを語るために、古田さんは、自身の言葉ではなく、童心社創業者の村松金治さん(秋田師範出身で、僕にとっては大先輩になります)の二つの言葉と、小出正吾さん(60年代に協会の会長を務められた児童文学者)の言葉を引用しています。言葉自体は、今度の会報でお読みになってください。

僕が古田さんらしいなあ、と思ったのは、村松さんの言葉は童心社創業55周年の『母のひろば』から、小出さんの言葉は同じく『母のひろば』500号からの引用であることでした。つまり、古田さんは、『母のひろば』600号の巻頭言を依頼され、さあ何を書こうと考えたときに、『母のひろば』のバックナンバーをひっくりかえして、今の状況の中で紹介すべき村松さんと小出さんの言葉を見つけたということです。この、なんというか、律義さというか、手を抜かないところ……。仕事に関しては、古田さんは、本当に妥協しない人でした。

【古田さんの最後の手紙】

僕が古田さんから最後にもらった手紙は、昨年の10月2日付。その半月ほど前に、古田さんの盟友だった鳥越信さんの追悼会が大阪であり、僕がそれに出席したことへの「ご苦労様」という趣旨のものでした。実は、その追悼会の日が、奇しくも古田さん、鳥越さんと、学生時代からの「悪友」だったともいうべき、元童心社編集長の神戸光男さんの葬儀の日になってしまったのです。その一、二カ月ほど前だったか、僕は神戸さんの入院のことをたまたま知り、古田さんにお知らせしたのでした。古田さんはすぐ神戸さんに手紙を書き、死を覚悟されていたらしい神戸さんから、返信があったようです。そこに書かれていたという、神戸さんの俳句が、僕への手紙で引用というか、紹介されていました。「補陀落(ふだらく)の舟俟つ浜や 乱れ萩」という句でした。そして、手紙の最後は、「体調不良 鳥越、神戸と世を去ってがっくりした(こ)ともあるか、〈新しい戦争児童文学〉の会への出席も もうあと、1、2度ですね。」と結ばれていました。古田さんの寂しさと共に、“覚悟”のようなものを、ひしひしと感じました。

その〈新しい戦争児童文学(おはなしのピースウォーク)〉の長編シリーズが、協会創立70周年記念出版として5冊出版されることが、ついこの前決まりました。そして、安倍政権による秘密保護法、解釈改憲という一連の動きに対して、今児童文学の側から関係団体が結束して反対ののろしをあげようという動きが急速に進んでいます。(これについては、近くまたお知らせします。)児童文学は、もちろん悪しき社会状況に反撃するためにあるというものではありませんが、古田さんが一貫して子どもの側に立った児童文学のあり方を模索してきたことに少しでも応えられるよう、気合いを入れなければと思います。

なお、会報では先に書いたように、9月の号で追悼特集を組みますが、機関誌『日本児童文学』では、来年の1・2月号を追悼号とすべく、準備を始めていることもお伝えしておきます。

 

 

 

2014/08/01