藤田のぼるの理事長ブログ

2022年11月

87、行ってきました(2022,11,25)

【予定通り】

・前回のブログに書いたように、20日に宮城教育大学で開かれた児童文学学会の研究大会(19、20日の二日間ですが、僕は二日目から)に参加するために、仙台に。お昼前に着いて、午後からのシンポジウム「現代児童文学をいかに歴史化するか~資料の保存・活用を考える~」で、パネラーの一人として発言。時間の関係で、かなりに端折りましたが、記念資料集のPRは多少できたかと。

・実は、これについては、次回あたりに改めて書きますが、那須正幹さんの人と文学を振り返る『遊びは勉強 友だちは先生~「ズッコケ三人組」の作家・那須正幹大研究』が、ようやくできて、出かける前日の19日に見本が届き、仙台まで持っていって、一緒に編集を担当した宮川健郎さんに(彼は19日から仙台なので、まだ見本を手にしておらず)見せて共に喜ぶ、という一幕もありました。(あと津久井惠さん、そしてポプラ社編集部の編という形です。)

・午後は、「東アジアの小校学国語教科書における児童文学を考える」というラウンドテーブルに出席しましたが、そこで韓国、中国、台湾の小学校国語教科書を見せてもらったのですが、かなりびっくりしたのは、韓国の教科書で、日本風にいえばほとんど副読本のようなスタイルの「作品集」で、低学年の場合は、結構新しい絵本の合本のような感じです。そして、改定の度に、作品がほぼ入れ替わるのだそうです。ですから、「おおきなかぶ」「ごんぎつね」のような定番教材といったものは、ほとんどないわけです。むしろ、中国の教科書が、なんというか、作り方の思想において日本とほぼ同じだな、ということも印象的でした。

・そんなことで、学会が終わり、僕は仙台駅に戻りました。話があちこちですが、なにしろ今回は4泊5日だったので、いつもの手提げのボストンバックではさすがに間に合わず、娘から借りたそれなりの大きさのスーツケースを引きずっての旅行となりました。そのため、スーツケースは仙台駅のロッカーに預けたので、それを回収し、地下鉄に乗って、姉の家に向かいました。三人いる姉のうち、すぐ上の姉で、兄弟の集まりなどで会ってはいますが、家に泊まったのは久しぶりで、東日本大震災の時のことなど、改めて聞いたり、でした。

【北海道へ】

・翌日、仙台駅から北海道新幹線に乗り、函館に。2時間半ほどで、さすがに速い。市電に乗り、予約していた五稜郭近くのホテルに行きましたが、もちろん旅行支援の4割引きで予約したわけですが、クーポン券3千円分を受け取ろうとしたら、うかつにもワクチンの接種証明を持ってこなかったことに気づきました。あわてて家に電話して、接種証明の写真をラインで送ってもらい、事なきを得ました。皆さんも、旅行支援でお出かけになる際は、お忘れなく。その日は近くの居酒屋で一杯やりましたが、4千円ちょっとのお勘定がクーポンのおかげで千円ちょっとになりました。

・そして、翌日、函館を発って、小樽に。まずは札幌まで、在来線の特急で4時間近くかかります。つまり、仙台から函館よりも、ずっと時間がかかるわけです。経路的にやや遠回りという問題もありますが、北海道の広さを実感です。そして札幌で乗り換えて小樽まで30分余り。翌日が、絵本・児童文学研究センターのセミナーだったわけですが、この日の夜は前日の懇親会で、三年ぶりにあった方たちも多くいました。そして、翌日がセミナーで、同センターの工藤理事長、茂木健一郎さん、斎藤惇夫さん、養老孟司さんという面々の自在な講演、シンポジウムでした。そして、その日の夜は講師やスタッフの夕食会が終わった後、部屋でサッカー観戦という次第でした。

【函館の思い出話】

・なんだか、ただ日程をなぞっているだけで、全然おもしろくありませんね。一つひとつ詳しく書いているとえらく長くなってしまうので、お許しをいただきますが、今回函館に行けたのが、僕としては一番の収穫だったでしょうか。今回が二回目で、函館の観光スポットは五稜郭と幕末に建てられたギリシャ正教の教会などの建造物群だと思いますが、前回、十数年前ですが、その時は教会群の方に行ったので、今回は五稜郭が目当てでした。五稜郭タワーというのがあり、まずはそこに上って全貌を見るわけですが、確かに西洋的というか、日本の城郭とはまったく違う様相です。歩いてみても、よく幕末の時代にこんなものが作れたなと感心する思いでした。ただ、2年前に再建が終わったという奉行所の建物が新しすぎることもあってか、全体に綺麗すぎるというか、整い過ぎている印象もあって、それなりに歴史好きの僕としては、もうちょっと“廃墟感”がほしいなという感じでもありました。

・それで、余談めきますが、十数年前の教会群の見物の際に、とても印象的なことがあって、今回はあまり見かけませんでしたが、その時は修学旅行の学生をたくさん見かけました。その中で、高校生ではない、もちろん中学生ではない女子の一団があって、なんというか、異様に(?)容貌が整った女の子たちなのです。譬えは悪いかもしれませんが、あの北朝鮮の女子応援団を思わせるようなグループでした。制服を着ているので、どこかミッション系の短大とかだろうか、それにしても、こんなに身長もそろっていて、全員が人目を惹く顔をしていて、そんな学校があるのだろうか、と思ってしまいました。

 今なら、おじ(い)さんの特権として、「どこの学校?」と聞いたかも知れませんが、その時は聞けませんでした。そしたら、イーゼルを立てて、教会の絵を描いていたおじさまがいて、立ちどまった彼女たちに聞いてくれたのです、「どこの学校?」。その答は、「(誇らしげに)宝塚音楽学校です」。深く深く納得でした。

 そんなことも?思い出させてくれた四泊五日でした。羽田に着き、空港内の蕎麦屋でお昼を食べましたが、一番搾りも一本注文して、一人慰労会(?)で締めくくった次第でした。

2022/11/25

86、旅に出てきます(2022,11,15)

【一日遅れになりました】

・14、15日と、打ち合わせや会議があり、協会事務局に出ていたので、一日遅れになりました。その前、13日の日曜日、5回目のワクチンを打ち、今回初めてファイザー社だったのですが、副反応はまったく、といっていいほどなく(その日の夜にロキソニンは飲みましたが)、無事でした。  

 協会では、一週間前の土日、宇都宮セミナーがあり、僕は新美南吉童話賞の選考と重なり、参加できなかったのですが、きむらゆういちさんの講演会、翌日の分科会も含め、とても中味の濃い、いい集まりになったようです。スタッフの皆さん、ご苦労様でした。

【20日から、“旅”に出ます】

・さて、今度の日曜日に僕は仙台に向かいます。児童文学学会の研究大会のためで、本来なら一日目の19日から行くのですが、今回は“その後”があり、自分の出番のある二日目の20日に向かいます。 出番というのは、二日目の午後に行われるシンポジウム「現代児童文学をいかに歴史化するか~資料の保存・活用の方策を考える~」のパネラーとして、話をします。資料の保存といったテーマのシンポジウムというのは、多分初めてではないかと思いますが、僕がパネラーに指名されたのは、協会の資料集の編纂に当たったからで、併せて、個人誌を発行しながら「現代児童文学史」を書いている、ということもあると思います。

・なので、その二つの話をしようと思っていたのですが、ここ一、二年、僕は妙に「資料」との出会い、というか、考えさせられる事態に直面していて、ひとつはこのブログにも書いた、黒姫童話館で「八郎」原稿を始めとする斎藤隆介資料を目にしたこと、そして今年度になって、著作権遺贈を受けて那須正幹さんの資料の整理を始めていること、さらにこの著作権管理ということと関連して、以前に協会が窓口となっていた新美南吉関連の資料についても、まとめなければならなくなったことなど、物事は重なる時には重なるものだなと、感じています。発言の持ち時間が20分なので、全部しゃべるのはどう考えても無理があるのですが、こういう機会に簡単にでも触れておく意味はあると思うので、なんとか項目だけでも、話したいと思っています。

【そこから北海道に】

・僕は例年のことですが、11月下旬に、児童文学ファンタジー大賞の授賞式で、小樽に行っています。主催している絵本・児童文学研究センターのセミナーの中で、授賞式も行われるのですが、今回は結局受賞者なしに終わりました。ただ、今年でこの賞も終わりということもあり、セミナーに呼んでもらいました。これが23日です。

 ということで、仙台から帰って、すぐまた北海道に向かうというのもムダな感じがし、この機会に、仙台から新幹線で北海道に行こうと考えました。北海道新幹線に乗るのは初めてです。20日は、仙台の姉の所に泊まり、翌日新幹線で函館に向かい、一泊。そして22日に小樽に行き、二泊します。合わせて四泊五日になるわけで、こんなに家を空けるのは、何十年か前にアジア児童文学大会に参加するため韓国に行った時以来のような気がします。晩秋というより、初冬の東北・北海道を満喫してこようと思います。次回は、その報告になるでしょうか。

2022/11/16

85、長谷川潮さんのこと(2022,11,5)

【長谷川潮さんが亡くなられました】

・児童文学評論家・研究者で、『日本児童文学』の編集長なども務められた、長谷川潮さんが亡くなられました。85歳でした。9月29日に亡くなられたのですが、10月半ばにご家族からお知らせがあり、ご葬儀に参列することは叶いませんでしたが、来週の月曜日に、きどのりこさん、河野孝之さんと、ご自宅に弔問にうかがうことになっています。

・長谷川さんは1936年10月生まれですから、終戦時は8歳、疎開世代で、実際に学童疎開を体験されました。その時の病気がもとで、脊椎カリエスを発症され、障害をお持ちでした。だから、というのは短絡に過ぎるかもしれませんが、長谷川さんの評論・研究の二大テーマともいうべき対象は、戦争児童文学、そして児童文学に描かれた障害という問題だったと思います。後者については、その集大成ともいえる『児童文学のなかの障害者』(ぶどう社)で、2008年の日本児童文学者協会賞を(評論書の協会賞は珍しいですが)受賞されています。

【「ぞうもかわいそう」のこと】

・戦争児童文学に関しては、かなりの量の論考がありますが、中でも特筆されるのは、絵本『かわいそうな ぞう』を批判した評論「ぞうも かわいそう」で、日本の児童文学の歴史の中で、単独の評論でこれだけの影響力を発揮したものはなかったといっても過言ではないと思います。

・この評論は、もともとは『季刊児童文学批評』の創刊号(1981年8月)に発表されたもので、僕もこの雑誌(今はありません)の同人の一人でした。サブタイトルが「猛獣虐殺神話批判」となっていて、戦時中に上野動物園の象が殺された顛末を描いた、あの有名な絵本『かわいそうなぞう』が批判の対象になっています。およそ児童文学に関わろうという人ならば、これだけは(?)ぜひ一度読んでほしい、それだけの意味のある評論だと思います。 上記の雑誌は手に入りにくいでしょうが、長谷川さんの著書『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』(梨の木舎、2000年)の冒頭に収録されています。埼玉県図書館横断検索で調べたら、県内の14館に所蔵されていました。というか、この名著が14館しかないというのはいささか悲しい(ついでに僕の『児童文学への3つの質問』を検索したら29館でした。やれやれ……)。

・さて、その「ぞうも かわいそう」の内容を紹介するとなると、かなり長くなってしまうのですが、あえて簡単にいえば、絵本『かわいそうな ぞう』には、見過ごすことのできないウソがある、ということです。まずは時間経過の問題。絵本では、「戦争が段々激しくなって、東京の町には、毎日毎晩、爆弾が雨のように振り落とされてきました(原文はひらがな分かち書き)」ので、もしも爆弾が動物園に落ちたら大変なことになるというので、猛獣や象が殺処分にされた、ということになっています。しかし、この殺処分は1943年の夏のことで、その頃は(前年に奇襲的な航空母艦からの爆撃が一度だけありましたが)東京の空に爆弾など全然落とされていなかったのです。B29による東京初空襲は、殺処分から1年以上後の1944年11月24日で、「連日連夜」という感じになったのは1945年になってからのことでした。

・ではなぜこの時期に動物の殺処分が行われたかということで、長谷川さんは、いくつかの資料を手がかりにそれを見事に推理していきます。ここはダイジェストは難しいのですが、例えば、絵本の最後の方にこんな場面があります。死んだ象を目の前にした動物園の人たちが、上空を飛ぶ敵の飛行機を見上げながら(上記のように、それはあり得ない光景ですが)、こぶしをふりあげて「戦争をやめろ」と叫ぶのですが、冗談じゃありません。この当時、そんなことを声に出したら、どうなりますか? 長谷川さんは「敗北以外のなにものもないことを知りつつ、あそこまで戦争を続行し、死ななくてもいい人々を多数殺した連中が、猛獣による危害を本当に心配するほど人道的などということはありえなかった」と書いています。この告発の重さには、当時僕も目を開かされ、その後B29の東京初空襲を題材にした絵本『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社、その後てらいんく)を書いたのも、これに少なからず影響を受けたように思います。

【少し、個人的な思い出を】

・長谷川さんでやはり思い出されるのは、長谷川さんのご結婚のことです。僕が最初にお会いした当時はまだ独身でした。僕が協会事務局に勤めるようになって、事務所が今の神楽坂の前の百人町の頃ですから、1980年あたりのことだったと思います。

 ある時、事務所に女子学生が訪ねてきました。当時は、大学で児童文学を勉強している学生などが、事務所を訪ねてきたりすることが時折あり、そういう学生をアルバイターにしたりすることもありました。その学生は平井えり子さんと名乗り、なかなか“ナマイキ”な口をききました(このパターンもよくあることでした)。僕も30歳そこそこの頃ですから、そういう場合はかなりていねいに?論破して、相手をしました。それがきっかけで、平井さんは僕らがやっている評論研究会や協会主催の研究会に顔を出すようになったのです。

 当時の研究部長は上笙一郎さんだったと思いますが、研究会といってもかなり準備が杜撰?だったりで、これは後から聞いたのですが、参加者が長谷川さんと平井さんだけ、ということもあったようです。そうです、その平井さんが長谷川夫人となったわけです。

 三人のお嬢さんに恵まれ、お孫さんもいることは長谷川さんからうかがっていましたが、長谷川さんより大分若かった平井さんは、残念ながら早逝されました。今度ご自宅に伺う際に、そのお嬢さんにお会いできるのも楽しみにしています。 長谷川さん、長いこと、お疲れさまでした。また平井さんと侃々諤々、戦争児童文学(いや、ジェンダー論かな)をめぐる論議など、再開してください。

2022/11/05