藤田のぼるの理事長ブログ

48、僕の先生遍歴(2021,10,16)

【一日遅れとなりました】

◎ブログ更新日(5の日)の昨日でしたが、午前中は高田馬場のフラワーデザイン学院に、そこから神楽坂(地下鉄東西線で二駅です)の協会事務局に行って、2時から理事会(リモート)、そして夕刻から再びフラワー学院に戻って、理事長の池田さんと久しぶりに一杯やりました。前にも書いたかと思いますが、フラワーデザイン学院は協会の講座や会合等でも使っていたので、覚えがある方もいらっしゃるかと思います。児童文学学会の例会なども、以前はここが会場でした。

 フラワーの学校がなぜ児童文学かというと、ここの理事長の池田さんが同じ高田馬場で最初に開校したのが児童文化専門学院という専門学校でした。彼は僕と同年代で、この時まだ三十歳そこそこだったと思います。児童文学科の学科長が安藤美紀夫さんで、安藤さんから言われて、開校2年目から僕はそこの講師として週一回出向くようになりました。協会事務局に入って3年目くらいのことで、僕も三十代前半でした。その後協会事務局員になった奈良規子(結婚して赤木規子)はここの卒業生ですし、現事務局員の宮田さんも、ここの夜間講座の出身です。

 ただ、その児童文化専門学院は認可がとれず、その後池田さんはフラワーデザインの専門学校を設立して、認可を得ました。そんな関係で、僕はフラワーデザインの学校になってからも、理事としてお手伝いしてきました。ですから、池田さんとは四十年来の付き合いです。フラワーデザイン学院は、残念ながら二年前に閉校となりましたが、同年代の池田さんが若くして学校を設立し、理想主義的といえるようなカリキュラムで学生を育て、送り出すのを、ずっと見てきました。そんな“昔話”をしながらの、昨日のお酒だったわけです。

【で、僕の先生遍歴ですが】

◎僕は、29歳の時、小学校教員をやめて協会の事務局員になったわけですが、第一には児童文学に専念したかったということは確かですが、もう一方で、小学校教員という仕事に行き詰っていたというのも、正直ありました。我が家は学校の先生の家系で、兄弟6人のうち僕も含めて4人が先生でした。ですから、一番馴染み深い仕事でしたし、学生時代セツルメントという子どもたちとつきあうサークルにいたこともあり、言わば自信満々で小学校の教員になったわけです。しかし、やっぱり現実はそんな甘いものではなく、僕は自分が「人を育てる」仕事には向いてないのではという思いを抱くようになりました。やや大げさに言えば、教師としての挫折感を味わったわけです。正直、教員を辞めることになって、ホッとした思いもありました。もう先生という仕事とは縁が切れたと思いました。

 ところが、上記のように、それから3年後に専門学校の講師という声がかかって、やや迷いましたが、やってみることにしました。結果としては、とても楽しいものでした。まあ、小学校の授業に比べれば、児童文学の作品を読んだり、それについて話をしたりということで、楽だし、学生の読み方から新鮮な刺激を受けることも少なくありません。ああ、やっぱり僕は教えることが好きなんだな、と思いました。

◎その後、淑徳短期大学の国文科で10年ほど、その後、2、3年のブランクがありましたが、聖学院大学、東洋大学、学習院女子大学で、講師を務めました。学習院以外は、いずれも講義科目の児童文学だけでなく、創作の実技的な指導もしてきました。最後は三つの大学に行っていたので体力的にはしんどい面もありましたが、精神的にそんなにきつくなかったのは、やはり教えることが嫌いではなかったから、だと思います。特に創作の授業では、こちらの助言で作品が見違えるようになったりすると、やりがいも感じました。

 淑徳短大の講師をしていたのは、三十代から四十代前半にかけてですが、その時期は団塊ジュニアの学生が入学してきていて、学生数が膨らんだこともあり、一年だけですが、非常勤ながらゼミも担当し、その学生たちとは今も交流があります。数年前ですが、その一人が(もう四十代になっていますが)小学校の司書の仕事を始めますという手紙をくれて、その採用試験の時に一つの作品を子どもたちに勧めるブックトークをするというのがあったらしいのですが、「先生の『みんなの家出』にしました」と書いてあって、先生冥利だなと思いました。

 大学の講師はほとんどの大学が70歳定年で、僕は一昨年度で終了でした。さすがに学生との世代間ギャップを感じることが多く、まあ退き時だなという思いもあったので、ちょうど良かった感じです。でも、そんな長かった「先生」としての原点が小学校教員時代であるとともに、児童文化専門学院での講師としての体験だと思っているので、そんなことを思い出しながらの(話題の中に昔の学生のことなども入ってきますから)昨日の“一杯”でした。

2021/10/16

47、地元商店街のこと(ドラマ撮影の話)(2021,10,5)

【まずは、31日の公開研です】

◎31日の公開研究会ですが、会員の皆さんには9月の会報と一緒にご案内を送りましたが、その時点では(リアル参加とリモートを組み合わせた)ハイブリッド開催にするか、あるいはコロナの状況によっては無理をせず全面リモートにするか、5分5分くらいかなと思っていました。その後思いの外感染者の数が減少し、9月末の会議でハイブリッド開催にすることを決めました。このことは、すでに協会のホームページの「お知らせ」欄でお伝えしています。参加について様子見の方も少なくなかったと思いますが、リアル、リモートいずれでも、ぜひご参加ください。

 実は、上記の9月末の会議では、感染対策として、参加者全員にその場で抗原検査を実施しようという話になっていました。ただ、この点も含めて理事や各部の部員の皆さんにお伝えしたところ、抗原検査について、「その場で」といっても、飛沫などのリスクがあるが対処できるか、また万一陽性が出た場合(その方は公共交通機関も使えないわけで)どう対応するのか、といった指摘があり、正直そこまで想定していなかったので、急きょ参加者の抗原検査というのはとりやめました。感染対策ということで、なんでも並べればいいものではなく、いろいろな場合をきちんと想定して準備することの大切さを改めて学ばされた思いでした。

【それで、地元商店街の話です】

◎話はガラッと変わって、ついこの前、ちょうど上記の会議のあったあたりですが、地元の商店街の駐車場に車を止めようとしたら、なぜか全部空いていて、「撮影のため駐車はご遠慮ください」という貼り紙がしてあります。商店街は僕の家から歩いて2、3分という近さで普段は車を使う必要はないのですが、その日は宅急便を出すため荷物を積んでいたので、車を止めようとしたのでした。

 僕が住んでいるのは、埼玉県の結構奥ですが、4、50年前に小高い山を造成して作った、いわゆる住宅団地です。僕はそこに住んで二十数年になりますが、引っ越したときはほとんどの店が営業していましたが、ご多分に漏れず、今はシャッターを下ろしている店も少なくありません。といっても、全部で二十軒もないかという小さな商店街です。その中に本屋さん(兼文房具屋さん)もあり、僕は急がない時はそこに本を注文したりもしています。今は少なくなった昔ながらの町の本屋さんというたたずまいなわけです。

◎その本屋さんが、一年前くらい前か、テレビのドラマの撮影で使われたのです。今検索したら、今年の1月ですね。上白石萌音主演の「オー!マイ・ボス」で、彼女の実家が本屋という設定だったようです。撮影は多分何度かあったと思いますが、僕も一度スタッフがカメラを回しているのを(ロケハンだったかもしれませんが)見かけました。

 それで、今回もまたなにかのドラマでその本屋が使われたのかと思ったら、2、3日前に配られた自治会の会報にそのことが載っていて、今度撮影の舞台になったのは商店街の中にある小さなスーパーで、今度はNHKのドラマだったようです。この商店街は、言わば時代から取り残されたようなところで、逆に言えば一昔前のいかにも商店街という感じだし、都心から高速を使えば一時間半くらいなので、距離としても局の負担にならないのかもしれません。住宅団地というのは一斉に入居しますから、今は高齢化が問題になり、空家も少なくないのですが、そのうち撮影のメッカになって脚光を浴びるかもしれないなどと、ちょっと思ったりした今日この頃でした(笑)。

2021/10/05

46、アニメ映画「岬のマヨイガ」を見ました(2021,9,25)

【シルバーウィークに】

◎先週末から今週にかけての「シルバーウィーク」。今はもっぱら人出が多くなってコロナの感染に悪影響が出ないかという話ばかりですが、ともかく連休でした。僕は春の「ゴールデンウィーク」に準じてシルバーウィークというのだとばかり思っていましたが(それもあるでしょうが)、この中に「敬老の日」が含まれるゆえの「シルバーウィーク」でもあるのですね。自分がシルバーになったせいか、今回初めて気がつきました。

 さて、勤めている身ではない者としては連休といっても特に普段と変わりませんが、この間、映画を一本見たのと、野球観戦をしてきました。野球の方は23日、例によっての千葉(幕張)の球場で、ロッテ対ソフトバンク戦。わがロッテは半世紀ぶり!のパ・リーグ優勝が現実的になってきていますが、この日はまったく打てず、完敗でした。

【そして、「岬のマヨイガ」です】

◎映画の方ですが、考えてみると、映画館に足を運んだのは随分久しぶりな気がします。新聞で柏葉幸子さんの「岬のマヨイガ」がアニメ映画になったことを知り、見たいなと思いつつ、行けないでいました。改めて調べてみたら、上映館はかなり少なくなっていましたが、かろうじて池袋で一館、夜の7時からというのがありました。野球の前の22日でしたが、上映は23日で終わりということで、この機を逃すと見られないなと思い、この日は協会の事務所に出かけた日でもあったので、その帰りに寄りました。

 「岬のマヨイガ」は、東日本大震災を題材にしたファンタジーで、2015年に出版され、翌年の協会賞の最終候補になり、僕は最後まで推しましたが、惜しくも受賞には至りませんでした。(野間児童文芸賞を受賞しています。)震災で行き場を失った女性と子ども、そしておばあさんが、家族となる話で、「マヨイガ」というのは、民話に出てくる山の中の幻のお屋敷(家なのに、あちこちに出没する)で、「迷い家」と書くのでしょうか。震災で失われたもの、露わになったもの、そして東北の言い伝えの中にある様々な励ましや怖れ……、といったものが、重層的に描かれた、僕は大変すぐれた、そして面白い作品だと評価していました。それがアニメ映画になったということで、ぜひ見たいと思ったわけです。

◎映画では、原作の女性(母親的な年代という設定)が17歳の少女(声は芦田愛菜でした)に変えられていました。これは多分、映画の観客層を意識してのことかと思いました。それと、原作では震災そのものも冒頭で描かれていますが、映画の方はそれなりに時間が経過した後の避難所から始まり、震災そのものは必ずしも表面には出ていませんでした。そうしたアレンジはあるものの、僕は原作のモチーフというか、エッセンスはとても良く受けとめられ、表現されていると感じました。

 これは何度か書いたことですが、原作の「岬のマヨイガ」には、元になっている短編があり、それは柏葉さんの短編集『ブレーメンバス』の表題作です。この短編集はすべて内外の昔話がモチーフとなっており、この作品はグリム童話の「ブレーメンの音楽隊」が下敷きになっています。人間から見放された動物たちが自分たちで新たな“家族”を構成する話が、現代の女性たちの物語に変換されているわけです。

 映画はもはや上映館を見つけることが難しいかもしれませんが、「ブレーメンバス」と「岬のマヨイガ」を読み比べて、こんなふうに短編が長編になることがあるということを読み取ってもらうのも、いい読書体験になると思います。

2021/09/25

45、児童文学ファンタジー大賞の選考が終わりました(2021,9,15)

【小樽に行ってきました】

◎土日月と、北海道・小樽に行ってきました。絵本・児童文学研究センターが主催する「児童文学ファンタジー大賞」の選考委員会のためです(私用で一日延ばしましたが)。久しぶりの、というか、去年やはりこの選考で小樽に行って以来の遠出だったかと思います。去年の9月25日付でも、この選考のことをちょっと書きましたが、今年はちょっと特別の年でした。

 そのことは後で書きますが、例年と違うところは、お酒が飲めなかったこと。選考の会議は日曜日で、前夜、今年から選考に加わった茂木健一郎さんやアーサー・ビナードさんも交えておいしい食事をいただいたのですが、飲み物はノンアルコールビール。翌日も知人とお寿司をいただきましたが(なにしろ小樽といえば寿司、「寿司屋通り」というのがあるほどです)、これもノンアルコールビールでした。その場でも話が出たように、確かに以前に比べると結構飲める感じになりましたが、やはり所詮はノンアルコールビール。ただ、元々はこの日までが緊急事態宣言で、もう一日先なら飲めたのに……、と残念がるところでしたが、結局宣言延長になりましたから、あきらめがついた?感もありました。

【ファンタジー大賞は、来年で終わりです】

◎この賞については、『日本児童文学』にも募集広告が載り、ご存知の方が多いと思いますし、応募したことがあるという方も少なからずいらっしゃると思います。今年で27回目を迎えたこの賞は「大賞」が出ないので有名?で、第一回の梨木香歩さん、第三回の伊藤遊さんのお二人だけ、あとは佳作や奨励賞(そこからも結構本になってはいますが)だけなのです。僕は途中から選考に加わり、そんなに敷居を高くしなくてもなんとか大賞をと思ってきましたが、結局今回まで大賞という作品は出ませんでした。

 今回は最終候補作が四点。この中で原あやめさんの「なまこ壁の蔵」が佳作に選ばれました。この作品は大正時代の木曾が舞台で、ヒロインの桜子はまずまず恵まれた家に生れたものの、父親が早く亡くなっており、女学校には進めず、親戚筋の家に行儀見習いに出されます。そうした中で様々な出会いがあり、最後は「ものを書く」ことに目覚める姿を描いた作品で、タイトルの「なまこ壁の蔵」は、この家にいくつかある蔵の中で一つだけ特別な蔵があり、ここが現実とファンタジー世界との重なる場となり、桜子はここで幽閉されている半蔵という男と出会います。木曾で半蔵でピンとくるべきだったかもしれませんが、実はこの作品は島崎藤村の『夜明け前』のオマージュでもあったのです。僕はこの作品が一押しでしたが、この“仕掛け”が他の選考委員にどう受け取られるかなと危惧もしていましたが、思いのほかすんなりと、この作品が佳作に決まりました。

 作者の原さんは、元児文協の会員で、中部児童文学会(協会の中部支部でもあります)の中心的な書き手として長く活動されてきた方で、そうした意味でも原さんの佳作受賞はうれしいことでした。

◎それで、先に書いたように、この賞は諸般の事情で、来年までということになりました。このことはすでに昨年“予告”があり、そのこともあって、最後の二回にということで、茂木健一郎さんとアーサー・ビナードさんに選考に加わってもらうことになったわけです。この賞を目標にしてきたという方も、僕の周りにもいらっしゃるので残念ですが、来年がラストチャンスになるので、ぜひ多くの方にチャレンジしてほしいと思います。

「来年」と書きましたが、募集は今年の11月から来年の3月までです。作品応募の場合、どうしてもぎりぎりにでかす、というパターンになりがちですが、特にこの賞については、なるべく早めにでかして、じっくりと時間をかけて書き直していく、というのが、「傾向と対策」になるでしょうか。最後に「大賞」が出ることを、切に願っています。

2021/09/15

44、なんだかバタバタ(2021,9,5)

【先週は……】

◎よく言われることですが、今日は日曜日で、「今週」というと「今日までの一週間」なのか「今日からの一週間」なのか。英語の「ウィークエンド」(週末)は前者で、これは聖書で神様が6日間で世界を創造し、最後の一日は休んだ、というところからきてますよね?(違ってたら、ごめんなさい。)それに対して、日本の一週間は「日月火水木金土」という感じで、カレンダーも日曜日から始まっていますから、 日曜日は一週間の始まり、というイメージです。ここでも日本風?に、今日から新しい週がという前提で書きます。だから、表題の「先週」は、昨日までの一週間のことです。

◎何を言いたいかというと、なんだかとてもあわただしい一週間だったなという話で、かつて忙しいことをいかにもアピールしたい人がいて、例えば喫茶店に人を呼び出すと、必ずと言っていいほど先客がいて、 その話が終わるのを少し待たなければならないというパターンでした。(誰とは言いませんが、協会の理事だった人で、随分昔のことです。)それで、当時僕ら事務局員は、そういうふるまいを「忙し自慢」と言っていました。今日の僕のブログも、ややその気があるかもしれません。

◎で、「先週」は、8月から9月に切り替わる週だったわけですが、4回リモート会議があって、2回協会事務局に出かけましたから、まあかなり忙しかったわけです。まず、29日の日曜日は事務所に出て9月理事会の資料などを作り、月曜日だけは家にいましたが、前回書いた資料集の校正刷りの見直しなどをしました。(この段階に至っても結構修正があり、ちょっと不安に。)火曜日は10月の公開研究会の実行委員と常任理事の合同会議(リモート)で、公開研をリアル+リモートのハイブリッドでやるか、全面リモートにするかを話し合いました。これについては、多分次回に書きますが、今週お届けする会報に同封の文書をお読みください。要するに結論を保留し、9月末に最終判断をするということです。そして9月に入った水曜日は、協会の顧問弁護士の鷹取先生と、リモートでのご相談。何の相談かということについては、書けるのはもう少し先になりますが、悪い?相談ではありません。

 木曜日は、協会編の詩のアンソロジーの編集委員会(リモート)。僕はこの編集委員会には途中から加わっているのですが、これについても別の機会に書きます。そして金曜日は事務局に出て、資料集の仕事。4時に印刷所の方が見え、最後に入稿した会員名簿と役員名簿の校正刷りがあがってきました。そして、昨日の土曜日は、これは協会の用事ではなく、僕が参加している評論研究会の月例会(リモート)でした。

◎この間、菅さんが自民党総裁選に立候補しないという話が出て、さすがにびっくりしましたね。思想信条は別として、前に書いたように同郷で同年代、そして(一国の総理と比べるのもなんですが)長くナンバー2を務めた人がナンバー1になる、というあたりが、自分とかぶるところがあって、大変だったろうね、という感じもちょっとあります。

 それにしても、「コロナ対策に専念したいので、立候補しない」というのは、まあ負け惜しみであることはみんなわかってるとはいえ、最後ぐらい、もう少しみんなの心に響くように言ったらどうだろう、 と思ってしまいました。「総裁選に立候補して引き続き務めたいと考えていたが、この間の状況は誠に厳しく、いま私が総裁選に立候補することで政治空白や混乱が起こることは本意ではなく、ここは引き下がる決意をした」くらいのことを言えば、最後は立派だったと言ってもらえるだろうに……、そういうことを進言できる秘書とかはいないのか、と思ってしまいました。菅さんという人は、多分なんでも 自分でやろうという傾向があるのかもしれません。このあたりも、自戒です。

2021/09/05

43、記念資料集が、いよいよ(2021,8,25)

【明日、最後の入稿です】

◎協会創立75周年記念資料集のことは、これまで何度か触れたと思いますし、これからも書くと思いま すが、ようやく明日最後の分の入稿、というところまできました。こう書くと、「えっ、まだそんな段階?」とも言われそうですが(『日本児童文学』3・4月号には、 今にも刊行されそうな雰囲気で書いたので)、僕としては、ようやくここまで来たという感じです。

 明日入稿するのは、巻末の「付録」というと語弊がありますが、全体は縦組みなのですが、巻末だけ横組みで、「歴代会員名簿」と「歴代役員名簿」を載せます。

【それについて、お願いです】

◎この名簿を作るにあたっての“苦心談”などは、また機会を改めますが、今回は「歴代会員名簿」についてのお願いのみを書きます。

 実はこの資料集を作る時、「協会にとって一番大事な“資料”はなん だろう」と考え、それは誰が会員だったのか、誰によって会が支えられてきたのか、その名前のリストではないかと思いました。しかし、かつて50年史を作った際に「歴代会員名簿」を作った時の大変さは身に染みていたので、今回時間的にも体制としてもそこまでやるのは無理だろうと諦めていました。

 当初、少なくともこの5月の総会時には(その際、75周年のパーティーも開くつもりでしたから)刊行しなくては、と思っていましたが、幸か不幸か総会はリモートとなり、パーティーも開けないということで、ゴールを秋の公開研究会に設定し直したわけです。それで、「どうせ延びたから」と、心残りだった 「歴代会員名簿」を載せよう、と思ったわけです。1996年6月までの分は上記の50年史にありますから、それを再録し、今回それ以降現在に至るまでの入会者リストを作りました。

◎それで、お願いというのは、リストは会報の入会者紹介と入会申込書を照合して作りましたが、なにしろ25年分で、間違いがあるかもしれず、正直100%の自信がありません。そこで、今度の9月会報をお送りする際に、そのリストの原稿を同封して(A3両面1枚に収まりました)、会員の皆さん自身に(ご自分のお名前を)確認してもらおうと考えました。この資料集の性格上、「重版の時に改める」というわけにはいかないと思い、言わば苦肉の策ですが、何卒ご協力のほどお願いいたします。

◎さて、その10月31日の公開研究会が、果たして願い通りリアルで開催できるかどうか、かなり不透明な感じになってきましたが、僕としてはぎりぎりまで可能性を探りたいと思っています。そのご案内も9月会報の文書にチラシと共に同封しますので、よくお読みいただき、リアル開催、リモート開催両方に対応していただけるようご準備いただければ一番うれしいです。(もちろんリアル開催の場合でもリモートには対応しますので、地方の方などは最初からリモート参加でOKです。)

2021/08/25

42、76年目、そして75年目(2021,8,15)

 【76年目の終戦記念日です】

◎コロナやら、オリンピックやら、大雨被害で、なんだか8月15日がかすんでしまった感がありますが、76年目の終戦記念日です。よく言われることですが、終戦の日がほぼお盆と重なったことで、日本人にとってより強く「死者を想う」日になったことは確かですが、その「死者」はほぼ日本人のみで、 日本が戦争を起こしたために亡くなった二千万人とも言われるアジアや南方の人たちになかなか思いが至らない(これは、もちろん季節のせいだけではないでしょうが)という側面もあるように思います。

 ここでちょっと微妙な話になりますが、韓国の「反日」のことです。ネットニュースなどを見ていると、もう半分くらいがそれ関係じゃないかと思うくらい、特にオリンピック以降、目立つ感じがします。 正直、韓国のオリンピック選手団のふるまいなどを見ていると、ルール違反という感じは否めません。 もちろん、こうした問題の根底には、日本が朝鮮を植民地にして、創氏改名など民族の尊厳を否定する統治を行ったことへの無反省という問題が厳然とあるわけですが、「反日」によって利するのは誰かという視点も必要な気がします。

 いささか乱暴な括りかもしれませんが、「反日」で利するのは、韓国と日本の政治家。そして、それによって不利益を被るのは両国民、といって、まちがいないのではないでしょうか。亡くなった田畑精一さんなどが中心になって、韓国と日本の画家たちが共同して立ち上げた 「日・中・韓平和絵本」のプロジェクトがありましたが、児童文学の世界でもなにかできないか、考えてみたいと思いました。

◎ちょっと話がそれますが、お盆の日の13日、子どもと平和の委員会主催のリモート学習会がありま した。10月に予定されている公開研究会で講演をお願いしている安田菜津紀さん(今日も、TBSのサ ンデーモーニングで入管問題などについてコメントされていましたが)の本を読みあおう、という企画でした。この中身については、子どもと平和の委員会のブログを見ていただければと思いますが、僕は最後に挨拶をする予定だったのですが、途中からネットの接続が不安定になり、最後ほとんどつながらなくなって、挨拶ができなくなりました。名スピーチ(?)を準備していたのですが、残念! 参加者の皆さんには、大変失礼しました。

【75周年記念資料集のこと】

◎僕は、先月から久しぶりに神楽坂までの定期を買って、ほぼ一日置きくらいに事務所に通っています。7月12日に二回目のワクチンが済んだので、ということもあり、遅くなっている協会創立75周年の記念資料集の編集作業を、早く進行させるためです。これについては、ここまで何度か書いたと思いますが、四部構成の最後の第四部を、この10日にようやく入稿しました。第四部の内容は当初の構想とは違ってきたのですが、協会の各分野の活動、例えば講座の歴史が分かるように、1971年の第一期児童文学学校の資料を載せるとか、そういう内容になっています。その最後に「協会財政の変遷」という項があり、75年の中から各時代の決算書を4つ載せました。その中で、僕も初めて見たのですが、創立の年の1946年の、そして1947年度の決算表というのが出てきたのです。これを見つけてくれたのは、資料集編纂をずっと手伝ってくれている会員の佐々木江利子さんですが、まさかそんなものがあるとは思っていませんでした。そして、その創立当時の決算書が、意外に(?)きちんとしたものであることにも驚きました。こういう驚きの資料が実はまだあるのかもしれませんが、ちょっときりがないので、ともかくゴールをめざして進めています。秋の10月31日の公開研の時には、この資料集をなんとかお目にかけたいと念じています。

2021/08/15

41、那須正幹さんのこと・2(2021,8,5)

 【コロナとオリンピック】

◎連日の感染者の新記録をよそに、オリンピックは進行しています。僕はスポーツ観戦は野球に限らず大好きなので、オリンピックの中継はそれなりに見ています。基本的には「日本選手中心の」「感動物語おしつけ」という枠組みは変わらず、僕の中にもそれに反応してしまう部分があることも確かです。それに代わる枠組みで放送するというのは多分無理だと思うので、例えば別の「感動物語」、今回初めて参加した国の選手とか、あるいは選手ではなくてスタッフの誰かとかに焦点を当てた〈物語〉を提示することで、今のパターンを多少とも相対化するくらいは試みてもいいと思うのですが、ないですね。

 それと、選手のインタビューで、「こうした状況でオリンピックを開催していただいたことに感謝」というコメントは何人も聞きましたが、もう一つ突っ込んで、「コロナの状況を考えて、複雑な思いがありました」くらいのことは誰か言ってくれないかと思うのですが、僕が見た限りではないですね、それすらも。

 オリンピックと言えば、僕は今回の東京オリンピック招致の時に、「えー、また東京!?」と思い、せめて日本でもう一度オリンピックを招致するのなら、広島オリンピックにしたら意義があるのでは、と思い、何かの折に那須さんに話したことがあったように覚えています。

【那須さんが提起したこと】

◎さて、前回、那須さんが協会の会長時代のことで、書かなければならないことが一つあると書きました。そのことを書きたいと思います。このブログに書いてきた中でも、なんというか、ややヘビーな内容になります。

 那須さんは山口県にお住まいでしたから、理事会も毎回出席ということではなく、また出席されても自分からなにかを提案したり、発言したり、ということはそんなにありませんでした。言わばご自分の “役どころ”をよくわきまえていらしたと思います。その後の飲み会を楽しみにしていらして、前回書いたような僕との関係もあって、最後二次会もしくは三次会で二人で飲んだことも何度かあったように思います。

 その那須さんが、ある時に大きな提案というか、問題提起をされたことがありました。今これを書くために会報のファイルを確認したところ、2009年12月発行の『Zb通信』№64でそのことについて報告されています。ですから、それ以降入会された方にとっては初耳のことになるかと思います。

 那須さんの「提案」はこの年の7月運営委員会(今の理事会)になされたもので、それは児文協と児童文芸家協会との統合について検討してほしいとするものでした。その少し前に関西で集会があって、那須さんは会長として出席されたわけですが、その際に若手の会員から「どうして児文協と児文芸という二つの組織があるのか?」「合同できないのか?」という質問があったようなのです。その時は「いろいろ歴史的経緯もあり、難しい」というふうに答えたけれど、今二つの協会も組織を維持していくのに困難な状況もあり、思い切って合同ということも検討してみてもいいのではという、ある意味“爆弾発言”的な提案でした。これについては、上記のように、会報に詳しく経緯が述べられており、それを読みたいという方がいらっしゃれば、協会にメールをくださればコピーをお送りします。

 その那須さんの提案について、当時の運営委員会は、当然何度か討論を重ねました。おおまかにいえば「賛成」「反対」「慎重」論が拮抗して結論が出ず、そういう状況では会員や相手方の児文芸に統合を提案するのは無理、という結末になりました。また、その討論の途中で、相手方の児文芸に対しても、こちらがそういう討論をしています、ということをお伝えしておくのが礼儀だろうということで、お伝えしたわけですが、その児文芸からは、今は法人改革への対応で精一杯で両協会の統合といったことを検討するのは無理、といった事実上のお断りもあって、この話は言わば立ち消えになりました。「法人改革への対応」というのは、その時に社団法人や財団法人に関する法律が改正され、従来の社団法人は公益社団法人か一般社団法人に組織変更する必要に迫られていたからです。逆に言うと、二つの社団が統合するためには、格好のタイミングでもあったのです。

 さて、その際に僕がどんな意見だったかと言えば、僕は「賛成」派でした。僕はかなり前から児童文学の作家団体が一つになってもいいのでは、という考えは持っていて、ただそれは児文協と児文芸の合同というよりも、ある意味ご破算にして一つの作家団体を作る、という感じのイメージでした。これについては、また機会があれば書きたいと思いますし、今現在は、二つの協会の統合ということに関しては、いくつかの理由で非現実的な感じも持っています。

 しかし、児文協、児文芸の合同というのは、それまでまったく誰も言わなかったわけではありませんし、タブーとまでは言いませんが、正面から論じられることはありませんでした。それが那須さんの提案で、協会として正式に検討したわけで、その意味は大きかったと思います。そして、今後児童文学の作家団体がどうなっていけばいいのか、ということを考えていく上で、那須提案がひとつの歴史を作ったといえるように思います。

◎その時のエピソードを一つ。これが議題となった最初の運営委員会だったと思いますが、メンバーの中でも古参の一人の上笙一郎さんが、「とんでもない提案だ」という面持ちで、開口一番「やはり田舎(と言ったか地方と言ったか)にお住まいで、協会のことはあまりお分かりになってないようだ」というふうなことを言い、僕はなんということを言うのだ、その(地方に住んでいる)那須さんにぼくらはなんとかお願いして会長になってもらったんじゃないか、と心のなかで叫び?ましたが、那須さんの表情は変わりませんでした。ただ、その日だったか、次の会だったか、二次会か三次会で二人になった時に、「上の野郎(と言ったか奴と言ったか)……」と、言葉はきつかったけれど顔は笑っていて、僕はやはりこの人は人物が大きいなと思わされたことを、覚えています。

 明日は8月6日、76年目の広島の夏に、那須さんの追悼の文章を書くことになるとは、思いもよりませんでした。亡くなった翌日の新聞は一通り買ってチェックしましたが、本当にどの新聞の写真も笑っていて、それは確かに那須さんの笑顔でした。

2021/08/05

40、那須正幹さんのこと(2021,7,25)

【那須正幹さん、ご逝去】

◎このブログも40回を数えることになりましたが、まさかこんなことを書く羽目になるとは。新聞などでご存知と思いますが、元会長の那須正幹さんが22日、亡くなられました。79歳でした。

 二日前の20日に、お嬢さんからご連絡があり、「危篤」とうかがいました。16日に救急車で運ばれたが、その時にはすでに意識がなく、回復は見込めないとのお話でした。肺だけれど、コロナではないということでもありました。

 僕はたまたま二日前(ですから18日)に、やや久しぶりに那須さんにメールをしたところでした。 例のサイン本、那須さんは早々にサインをして、協会に3冊送ってくださっていたので、それをどこの小学校に送ったかの報告でした。ついでに、というのも変ですが、10月の公開研究会はなんとかリアルでやりたいし、できれば75周年パーティーも開きたいので、予定しておいてほしいというメールでした。

 というのも、60周年記念の時だったか、その時は創立会員の中川正文さんがご存命で、挨拶されたのですが、「わしゃあ、100周年まで生きて、挨拶するのを目標にするよ」と言って、みんなを笑わせてくれたことがあったからです。

 那須さん、まだ75周年だよ。

◎那須さんが会長に就任されたのは2007年。新聞によって「元会長」と「元理事長」がありましたが、 那須さんの任期の最後のところで、協会が旧社団法人から一般社団法人になり、代表者が「会長」から「理事長」になりました。ですから、那須さんは最後の会長ということになります。

 5年間会長(そして理事長)を務められたのですが、それを「?」と思った方がいらしたかどうか、協会の役員任期は2年ですから、本来は偶数年であるはずなのです。それが「5年」となったのは、木暮正夫さんが会長在任時に亡くなられ、一年間その後を引き継いだからです。

 このあたり、詳しく書くと長くなりますが、木暮さんが亡くなられたのは協会にとって大ピンチでした。はっきりいえば、その後を引き継ぐ会長の候補が見当たらなかったのです。そこで、言わば白羽の矢が立ったのが那須さんでしたが、那須さんは山口県にお住まいです。それまで首都圏以外に在住で会長というケースはありませんでしたし、ですから那須さんは理事の経験もなかったわけです。第一、那須さんが引き受けてくれるかどうか……。

 この時那須さんを説得してくれたのは、那須さんがもっとも信頼を寄せていた砂田弘さんで、砂田さんという人は普段は口数が少なく、なんというか、人任せみたいな雰囲気もあるのですが、いざという時は本当に頼りになる方でした。

【僕にとっての那須正幹さん】

◎その時点で僕は事務局長だったわけですが、那須さんとは実は個人的なつながりもありました。かなり古い話になるのですが、僕の学生時代ですから、もう半世紀近い前のことです。僕は秋田大学教育学部の学生で、二年目の四年生をやっていた時、学内で児童文学のサークルを作り、同人誌を二度出しました。それを『日本児童文学』の同人誌評に送ったわけです。

 その第2号の時、同人誌評を担当していたのが那須さんでした。1972年ですから、那須さんは『首なし地ぞうの宝』でデビューしたばかりの若手、「ズッコケ三人組」はまだ影も形もありません。その那須さんが、同人誌評で僕の作品をほめてくれたのです。秋田から東京への出稼ぎを題材にした「雪咲く村へ」という作品で、今手元にその雑誌が見当たりませんが、自分でいうのもなんですが、“激賞”という感じでした。「(マンガ週刊誌くらいの厚さでまいったが)最後の最後ですばらしい作品に出会った」というフレーズは、今も忘れることができません。

 その翌年、僕は東京に出てきて小学校教員となり、さらに翌1974年に古田足日さんに会って、大学の卒論の一部を元にした山中恒の『赤毛のポチ』論で、評論家デビューしました。それからは自分でも信じられないくらい『日本児童文学』に書かせてもらい、「若手評論家」という看板をもらう形になりまし た。

 その頃というか、数年経ったあたりだったと思います。多分、総会の時だったと思うのですが、那須さんが僕に近寄ってきて、「お前は、あの、藤田のぼるか?」と聞くのです。「あの」というのは、数年前に秋田大学の同人誌で「雪咲く村へ」を書いた藤田か、という意味でした。『日本児童文学』で僕の名前を見るようになり、見覚えのある名前だなと思っていらしたようです。「そうです」と答えると、「あれだけの作品を書いたんだから、バカな(と言ったかどうか、那須さん得意の表現ではあったと思いま す)評論なんか書いてないで、創作を書きなさい」と言ってくれました。

 そう言われて、うれしかったのは確かですが、僕はすっかり「若手評論家」になってしまっていて、 なんか今さら「創作も書いていました」とは言いにくいような感じで、また自己分析として、評論家としてはともかく、作家としては一流にはなれないだろうといった気持ちもあって(まあ、単に臆病だったのだと思いますが)、創作を再開することはありませんでした。

 それから十年近くも経ってからでしょうか。当時、岩崎書店の津久井さん(今、協会の理事ですが) が、「藤田さん、創作書いてたんだって?」と聞いてくれました。いっこうに創作を書かない僕に業を煮やして、那須さんが津久井さんに話をしてくれたようでした。そして、それが発端となって、書いてから13年経って、僕の初めての創作単行本として出版されたのが『雪咲く村へ』です。解説は、もちろん那須さんに書いてもらいました。そんな、僕にとっては「恩人」ともいえる那須さんなのでした。

 僕は「ズッコケ」はもちろんですが、他に那須さんの作品では『屋根裏の遠い旅』と『首なし地ぞうの宝』の文庫の解説を書いていて、特に前者は僕にとっては特別な作品です。機会がありましたら、偕成社文庫の解説を読んでみてください。

【最後に会ったのは】

◎会長を降りられてからは、やはりお会いする機会が少なくなりましたが、上記の砂田弘さんが2008年に亡くなられ(今思えば、那須さんを会長にしてくれた翌年でした)、その後しばらく那須さんのご希望もあって、毎年3月に砂田さんの追悼会をしていました。砂田さんはカラオケが大好きだったので、 二次会は必ずカラオケ、那須さんももちろん歌われました。

 その追悼会もなくなりましたが、二年前、 那須さんの喜寿のお祝いを東京・神楽坂で催し、那須さんと親しい俳優の原田大二郎さんや元NHKアナウンサーの村上信夫さんなどにもご出席いただきました。今思えばそれがお会いした最後になりました。那須さんの会長時代のことで、もう一つ書きたいこと、書かなければならないことがありますが、それは次回に譲ります。

 ここ数日、マスコミ対応やご家族とのご連絡等に追われましたが、昨日でやや一段落でした。今日、防府市でご親族の密葬が執り行われているはずです。それから、奥様の那須美佐子さんからの「関係者、読者のみなさんへ」というメッセージが寄せられていて、協会のホームページにアップしていますので、ぜひご覧になってください。

 那須さん、ありがとうございました。残念ですが、どうぞ安らかにお休みください。

2021/07/25

39、短く、いろいろ(2021,7,15)

【まず、編纂図書&サイン本プレゼントのこと】

◎まずは、前回書いた、本のプレゼントのこと。編纂図書はもう届き始めているようで、いくつかの学校から「ありがとう」のメールが寄せられています。サイン本については、提供のお申し出をいただいた皆さんの所に、「どこそこの小(中)学校」に送ってくださいというお知らせを出したのが先週の土曜日なの で、一番早いところで今週中というところでしょうか。

 事務局に、「自分の本が届くことは(学校側は) わかっているのか」という問い合わせが何人かの方からあったようですが、どなたからということまではお知らせしていません。ただ、編纂図書の当選校には「3冊」、それ以外の学校には「6冊」届きますということはお知らせしてありますし、お送りした名簿には担当者のお名前もあるので、受け取った方がとまどう、ということはないはずです。(学校ごとに3冊・6冊の配分をするのはパズルのようで、ちょっと大変でした。)

【2回目のワクチンを受けました】

◎今週の月曜日、12日ですが、2回目のワクチン接種を受けました。1回目の時に書いたように、東京・ 大手町の大規模接種です。今回も、前回同様、ごくスムースでした。ちょっと心配は、副反応。2回目はきついという話もあったわけで。その前に事務所に行った時に(6日だったか)、会報部の方たちが発送準備に来てくださっていて、部長の中野幸隆さんに「2回めはどうでしたか?」とうかがったら、「いや、ほとんどなんともなかったですよ」というお答え。ただ、「うちのやつは、ちょっと大変でした」(台 詞は正確ではありませんが)とのこと。ここでちょっと横道に逸れますが、中野さんの「うちのやつ」、 つまりお連れ合いは、詩人の間中ケイ子さんのことです。児文協には、過去にも今も何組かご夫婦の会員がいらっしゃいますが、中野さん(理事)と間中さん(監事)のように、お二人とも同時に役員というパターンは、過去にも例がないのではないでしょうか。

◎ともかく、これだけは人によって違うので、その時になってみないとわからないわけですが、僕は翌日、お昼頃からちょっと熱っぽい感じがして、夕方近くに計ったら37,0度でした。絵にかいたような〝 微熱〟。翌日が問題の二日目なので、夕食後に薬を飲んだら(ロキソニン系の)、ちょっと重かった感じの腕もほとんど症状がなくなって、翌日は特に何ともありませんでした。

 先週にいつもの理髪店に行ってその話をしたら(ご夫婦でやっていて、僕と同年配)、やはり奥さんの方がきつかったようです。ネットなどで調べても、女性の方が副反応が出やすいという傾向はあるようなので、これからの方はご留意ください。

【来年の公開研は】

◎この間、他にもいくつかありましたが、13日には(リモートで)来年の公開研究会、宇都宮セミナーの実行委員会がありました。目下、この10月の東京での75周年の公開研究会をどう成功させるかとい うことが最大の課題なわけですが、一方で来年の準備も始まっています。というのは、子ども夢基金の助成を受けるためには、今年の11月に来年の分を申請しなければならず、秋口には内容を詰める必要があるわけです。来年は地方開催の番で、うつのみや支部が中心になって企画を進めています。首都圏から遠からず、近からず、どうぞご期待ください。

◎そうだ、この間、ちょっととんでもない(?)ことがあって、11日の日曜日、ロッテ戦のチケットが取れていたので、埼玉から千葉・幕張の球場に出かけました。5時からという、あまりないパターンの開始時間で、球場に着いたのは4時10分頃だったでしょうか。残念ながらビールは飲めず(コロナ対策で)、弁当などを買い、さあ試合前のセレモニーというあたりに雨が降り始めたので、通路に避難。ところが、まもなく(まさに)一天俄かにかき曇り、すごい雨、そして雷。僕はこんなに目の前で稲光を見たことがあるだろうかというような雷雨で、通路にいても下がらないと雨が吹き込んできます。ただ、そういう雨なので、少し待てば上がるかと思いきや、ちょうど5時ころになって「中止」のアナウ ンス。僕の長いロッテファン体験の中でも、初めてのことでした。往復6時間近く、まったくのムダ、 さすがに疲れました。(次の日がワクチンだったので、早く帰れたということでもありましたが。)そんな、こんな、10日間でした。

2021/07/15