48、僕の先生遍歴(2021,10,16)
【一日遅れとなりました】
◎ブログ更新日(5の日)の昨日でしたが、午前中は高田馬場のフラワーデザイン学院に、そこから神楽坂(地下鉄東西線で二駅です)の協会事務局に行って、2時から理事会(リモート)、そして夕刻から再びフラワー学院に戻って、理事長の池田さんと久しぶりに一杯やりました。前にも書いたかと思いますが、フラワーデザイン学院は協会の講座や会合等でも使っていたので、覚えがある方もいらっしゃるかと思います。児童文学学会の例会なども、以前はここが会場でした。
フラワーの学校がなぜ児童文学かというと、ここの理事長の池田さんが同じ高田馬場で最初に開校したのが児童文化専門学院という専門学校でした。彼は僕と同年代で、この時まだ三十歳そこそこだったと思います。児童文学科の学科長が安藤美紀夫さんで、安藤さんから言われて、開校2年目から僕はそこの講師として週一回出向くようになりました。協会事務局に入って3年目くらいのことで、僕も三十代前半でした。その後協会事務局員になった奈良規子(結婚して赤木規子)はここの卒業生ですし、現事務局員の宮田さんも、ここの夜間講座の出身です。
ただ、その児童文化専門学院は認可がとれず、その後池田さんはフラワーデザインの専門学校を設立して、認可を得ました。そんな関係で、僕はフラワーデザインの学校になってからも、理事としてお手伝いしてきました。ですから、池田さんとは四十年来の付き合いです。フラワーデザイン学院は、残念ながら二年前に閉校となりましたが、同年代の池田さんが若くして学校を設立し、理想主義的といえるようなカリキュラムで学生を育て、送り出すのを、ずっと見てきました。そんな“昔話”をしながらの、昨日のお酒だったわけです。
【で、僕の先生遍歴ですが】
◎僕は、29歳の時、小学校教員をやめて協会の事務局員になったわけですが、第一には児童文学に専念したかったということは確かですが、もう一方で、小学校教員という仕事に行き詰っていたというのも、正直ありました。我が家は学校の先生の家系で、兄弟6人のうち僕も含めて4人が先生でした。ですから、一番馴染み深い仕事でしたし、学生時代セツルメントという子どもたちとつきあうサークルにいたこともあり、言わば自信満々で小学校の教員になったわけです。しかし、やっぱり現実はそんな甘いものではなく、僕は自分が「人を育てる」仕事には向いてないのではという思いを抱くようになりました。やや大げさに言えば、教師としての挫折感を味わったわけです。正直、教員を辞めることになって、ホッとした思いもありました。もう先生という仕事とは縁が切れたと思いました。
ところが、上記のように、それから3年後に専門学校の講師という声がかかって、やや迷いましたが、やってみることにしました。結果としては、とても楽しいものでした。まあ、小学校の授業に比べれば、児童文学の作品を読んだり、それについて話をしたりということで、楽だし、学生の読み方から新鮮な刺激を受けることも少なくありません。ああ、やっぱり僕は教えることが好きなんだな、と思いました。
◎その後、淑徳短期大学の国文科で10年ほど、その後、2、3年のブランクがありましたが、聖学院大学、東洋大学、学習院女子大学で、講師を務めました。学習院以外は、いずれも講義科目の児童文学だけでなく、創作の実技的な指導もしてきました。最後は三つの大学に行っていたので体力的にはしんどい面もありましたが、精神的にそんなにきつくなかったのは、やはり教えることが嫌いではなかったから、だと思います。特に創作の授業では、こちらの助言で作品が見違えるようになったりすると、やりがいも感じました。
淑徳短大の講師をしていたのは、三十代から四十代前半にかけてですが、その時期は団塊ジュニアの学生が入学してきていて、学生数が膨らんだこともあり、一年だけですが、非常勤ながらゼミも担当し、その学生たちとは今も交流があります。数年前ですが、その一人が(もう四十代になっていますが)小学校の司書の仕事を始めますという手紙をくれて、その採用試験の時に一つの作品を子どもたちに勧めるブックトークをするというのがあったらしいのですが、「先生の『みんなの家出』にしました」と書いてあって、先生冥利だなと思いました。
大学の講師はほとんどの大学が70歳定年で、僕は一昨年度で終了でした。さすがに学生との世代間ギャップを感じることが多く、まあ退き時だなという思いもあったので、ちょうど良かった感じです。でも、そんな長かった「先生」としての原点が小学校教員時代であるとともに、児童文化専門学院での講師としての体験だと思っているので、そんなことを思い出しながらの(話題の中に昔の学生のことなども入ってきますから)昨日の“一杯”でした。