【今の事務所に移った時のこと】
◎12月になりました。季節の移り変わりは例年のことですが、コロナに明け暮れる今年、カレンダー自体は変わらず進行していくのが、ちょっと不思議なような気もします。
さて、前回、前の百人町の事務所のことを書きました。今回は、そこから今の神楽坂の事務所に移る時の経緯をお話したいと思います。
前回書いたように、「メゾン吉田」の2階と3階を借りることになり、小さなアパートとはいえ、合わせると15、6万程度の家賃になったのではなかったかと思います。 それで、これだけ払うのなら、もっとちゃんとした事務所らしいところを借りられるのでは、という話になって、物件を探し始めました。
最初に候補地になったのは水道橋駅(まだ国鉄だったかな?)近辺で、それは当時児童文学学校の会場にしていた労音会館が近かったから、という理由だったと思います。やや恐る恐る不動産屋を回り始めましたが、家賃はまあまあ払えそうな金額で(多分20万円程度までを想定していたと思いますが)、 ある程度の広さをもった物件でも大丈夫そうでした。ところが、想定していなかったのは保証金の高さでした。アパートなどの場合はせいぜい家賃2ヵ月分程度ですが、都心に近い事務所となると数百万円が相場でした。協会にとってはちょっと無理な金額です。
ややあきらめかけたのですが、水道橋の隣の飯田橋の不動産屋に行った時だったと思います。飯田橋駅界隈はやはり高い保証金でしたが、一駅離れた地下鉄の神楽坂駅の近くだと、保証金が百数十万円という物件が結構あるのです。今はどうか分かりませんが、 国鉄の駅の近くと地下鉄の駅の近くでは何倍もの違いがありました。神楽坂は、出版クラブがある所ということで、なじみがありました。それに神楽坂を通る地下鉄東西線は、その名の通り、西の中央線方面からも、東の千葉方面から来るにも便利です。そんなことで、神楽坂近辺を探してみようと思ったわけです。
◎何件の事務所を見たでしょうか。どれもピンとこなかったので、別の不動産屋に行ってみると、駅からとても近い所の物件がありました。近いというより駅の隣という感じです。さぞかし家賃が高いかと思うとそうでもなく、保証金もさほどではありません。早速見に行き、ほぼ即決だったと思います。それなりに古いビルで、だから安いのでしょうが、お店を開くわけでもなし、駅に近いというのは、高齢の会員や役員が少なくない児文協にとっては何よりだと思いました。
ただ、その事務所はまだ空いてはいなくて、少し先に空く予定ということで、その時点ではある宗教関係の団体の事務所でした。確か福島かどこかに本部がある仏教系の団体ということで、責任者の大きなデスクの上には仏像めいたものがあったように覚えています。少なくとも、今の児文協のやや本の物置的な状況に比べて、とても綺麗だったことはまちがいありません(笑)。
ともかく、そんな経緯で、現在の神楽坂の事務所に移ったわけで、これも前回書きましたが、それが 1981年ですから、もう40年目ということになりました。
【協会の住所のこと】
◎協会事務局の住所は「新宿区神楽坂6-38 中島ビル502」ですが、東京の都区内の住所はほとんど 「〇丁目〇番〇号」、例えば「港区赤坂2―6―15」というふうに、数字が三つ並んでいます。「6丁目 38番地」というふうに数字が二つなのは、一昔、二昔前の住居表示です。これはもう随分前になると思いますが、東京も含め(京都は例外ですが)ほとんどの都市の市街地の住居表示が「〇丁目〇番〇号」 というパターンに変えられた時に、新宿区内でも牛込局管内の住民が、それに対して強力に反対運動を起こしたようです。このあたりはいわゆる文人が多く住んでいて、「地名というのは歴史そのものなのだから、利便だけで変えてはいけない」という主張だったようです。珍しいことだと思いますが、この運動が実を結び、牛込管内だけはかなり旧住所が残されました。
例えば(二年ほど前に移転しましたが) 協会の総会を行っていた出版クラブは事務所から歩いて6、7分のところですが、住所は「新宿区袋町6番地」でした。また、(今はしばらくリモートになってしまいましたが)理事会などの会場でよく使う 「新宿区箪笥センター」の住所は「新宿区箪笥町15番地」で、他にも肴町(さかなまち)とか横寺町(旺文社があります)といった、昔風の住所が正式な住居表示として今も使われているのです。会報で理事会の会場として「箪笥センター」というのを見て、箪笥を作っている会社の組合の建物かと思っていらした方もいるかもしれませんが、そうしたわけでありました。
◎最後に思い出話をもう一つ。神楽坂の事務所に移って最初の理事会の時です。当時は藤田圭雄会長、 関英雄理事長でしたが、それまで知りませんでしたが、藤田会長は牛込のお生まれで事務所から10分ほどの愛日小学校が母校、関理事長は少年時代に神楽坂に住んでいたことがあり、関東大震災(なにしろ話が古いですが)当時、ここで被災したのです。このことは、関さんの自伝的作品で協会賞を受賞した 『小さい心の旅』にも描かれています。というわけで、理事会が始まる前、二人がとても懐かしそうにそういった話をされているのを聞いて、「ああ、神楽坂にして良かったな」と思ったことでした。当時からすでに古いビルでしたから、いずれ建て替えという問題は起きるでしょうが、できれば便利のいいここにずっといたいものだと思っています。