藤田のぼるの理事長ブログ

58、ついに資料集が!(2022,1,25)

【ようやく、やっと、】

・ここ5年程、そしてこの1、2年はほぼかかりきりだった、協会創立75周年記念資料集が、先程印刷所から届きました。このブログ、いつもはなるべく午前中にアップするために、前の日に大体書いて、それをチェックしてアップするというパターンが多いのですが、今日ばかりは宅急便が届くのを待って、できあがった資料集を実際に手にしてから、これを書いています。開いてみて、「あっ、第一部とか第二部の扉のページは色付きにすれば良かったな」などと、早速反省したりもしていますが、自分自身の本ができあがってきた時と同じくらい、ひょっとするとそれ以上に、感慨があります。苦労の押し売りくらい嫌いなことはありませんが、今回ばかりは、これを形にするために「かなり苦労しました」と素直に言いたい気分でもあります。

 当初200冊という発行部数の設定でしたが、おかげさまで会員からの予約が70冊を越える勢いだったので、250冊に増やしました。とはいえ、少部数の印刷物ですが、僕としては、今なるべく多くの方に読んでいただくと共に、将来これをいろいろに役立ててくれる人が現れることを、そしてそういう場面が必ずやってくることを、確信したいと思います。

【ちょっと、裏話を~「粛清」と「粛正」】

・今回、校正は編集委員の長谷川潮さんや、最後は理事で編集者の津久井さんにもお願いしましたが、改めて校正の大変さやプロの仕事のすごさを感じさせられました。まあ、印刷物に校正ミスはつきもので、ある程度の長さのもので、校正ミスが一つもないという本はまずめったにないと思いますが、後で「これを見過ごしていたら、大変だった」とぞっとしたところが一つ。

 それは第三部の「声明」の二つめに出てくる「「児童文学者の戦争責任」に関する粛正委員会による覚え書」のところです。協会の設立総会にはいくつかの議案が提出されたわけですが、その第一が「児童文学界の戦争責任明確化及び戦責出版七社への不執筆動議」でした。つまり、戦争遂行に積極的に関与したと思われる児童文学者や出版社を名指しで弾劾しようとしたわけです。そのために8名からなる「粛正委員」が選出されました。そして、この委員会でそのための文書が8月15日付で作られたのです。しかし、この文書は発表されませんでした。なぜなら、批判する側の児童文学者にしても、多かれ少なかれ戦意高揚の作品を書いたものが大半で、果たして戦争責任を追及する資格があるのかという問題があったわけです。そのため、結局この文書は公表されませんでした。

 このことは、会設立時の事務局責任者だった関英雄氏の回想などで知っていましたが、その文書はもちろん見たことはありませんでした。ところが、今回、資料集の編集作業の中で、この「幻の文書」が見つかったのです。ということで、これは今回の資料集の、いわば目玉の一つでもあり、全収録資料の中で、唯一今回初めて外部発表されるものです。

 それで、ガリ版の文書をパソコンに入力し、印刷所に渡したわけですが、その際「粛正委員会」を「粛清委員会」としてしまったのです。この文書の解題でも、同様に「粛清委員会」としていました。それらに気がついたのは、何度目の校正の時だったでしょうか。ぞっとしたというか、反面笑えてしまいましたが、万一そのまま「粛清」だったら、児文協がスターリンになってしまうところでした。ちなみに、パソコンで「しゅくせい」を変換すると「粛清」のほうが先に出てきます。全然違う同音異語だとまあ気がつくのですが、これはかなり似た言葉でもあり、何度も見過ごしてしまったわけです。

 というわけで、資料集を読む機会がありましたら、発見された「幻の文書」、「粛清」ではなく「粛正委員会」で、児童文学者の戦争責任がどのように語られたかを、ぜひご注目ください。  もう一つ、裏話というか、語っておきたいことがあるのですが、それは次回にします。

2022/01/25

57、初読書、初仕事(2022,1,15)

【初読書は、】

・良くいうフレーズですが、今年ももう半月、うかうかしていると、すぐに2月、3月になりそうです。半月も経ったので「初ナントカ」も今さらですが、今年の“初読み”は、前回書いたように、元旦のポストに入っていた信州児童文学会の高橋忠治さんの追悼号でしたが、本としては、森忠明さんの『末弱記者』が、今年初めて読んだ本でした。暮れに森さんから送っていただいたのが、そのままになっていたのを、読んだわけです。Tuuleeという出版社から出ていて、森さんとしては久しぶりの児童文学の単行本ではないでしょうか。7編の短編と3編の詩が収録されていて、7編の内5編は90年代に『飛ぶ教室』などに発表した作品、最新作が表題作でもある「末弱記者」です。僕は“末弱”という言葉を知りませんでしたし、そもそもこういう言葉があるのかどうか、放たれた矢が最後まで勢いの衰えないことを「末強」というのだそうで(これは広辞苑に載っていましたが、これも初めて聞きました)、その反対言葉として使われています。

 森さんは僕と同年代ですが、ほとんどの作品で、東京・立川で過ごした自身の少年時代を題材にしています。この作品もそうでした。中学校に入学して新聞委員になった主人公が、尊敬する先輩から「中学生になって」という文章を書くように言われ、つい心にもないことを書いてしまった自分を恥じて、“末弱”記者と自嘲しているわけです。「自伝的な作品」という言い方はありますが、森さんの作品は児童文学で“私小説”は可能なのかという究極の試みともいえ、今度の作品でもそうした森さんの変わらぬモチーフが見てとれ、いやいや作家としてはとても“末強”ではありませんか、と言いたい感じでした。

・森さんの本は短篇集でしたが、今年の長編初読みは、山下明生さんの『ガラスの魚』(理論社)でした。 (やました・あきおと読まれた方が少なからずいらっしゃると思いますが、「はるお」です。)山下さんと言えば、『海のしろうま』などで知られる「海の童話作家」の第一人者で、もはや大ベテランと言っていいでしょう。帯に「『海のコウモリ』『カモメの家』に続く 山下明生が描く自伝的少年小説」とあったのに、まず目を惹かれました。幼年から中学年向けが多い山下さんの作品の中で、この二作はかなりの長編の小説的な作品で、『海のコウモリ』はアニメにもなっています。三部作ということになるのでしょうが、『カモメの家』が出たのはかなり前です。調べてみたら1991年だったので、実に30年ぶりに完結ということになったわけです。

 とにかくおもしろかった。かつて『海のコウモリ』を読んだ時、それまでの山下作品とは違う小説的なテイストにややとまどった覚えがありますが、今回は中学一年生の主人公が、学校の前の川でいきなり死体を発見するという出だしから、一気に引き込まれました。「ベテラン健在」などと言ったら失礼になるでしょうが、これこそ“末強”でしょうか。

【初仕事は、】

・さて、初仕事の方ですが、頭脳労働(?)の方では、締め切りをとっくにとっくに過ぎていた、「戦後日本の児童文学の歴史を、400字15枚で書く」という、ある事典のための原稿を書いたことでしょうか。どうすればその短さに収められるかと気になりつつ、昨年は協会の資料集のことに頭を取られて、なかなか手を付けられないでいましたが、資料集が終わったので、ようやく着手。しかし、最初の原稿は1960年代までで10枚になってしまい、「少し長くできないか」と編集担当に打診してみたのですが、「無理」とのこと。そこからは、意外に一気に進みました。こんなことなら、もっと早く手を付けていれば迷惑をかけないで済んだな、と思ったのですが、これは皆さんも経験があるでしょうが、一見何もしてないような助走期間があればこそ、できたのだと思います。まあ、言い訳半分ですが(笑)。

・そして、肉体労働の方です。こちらもずっと気になりつつ、でしたが、『日本児童文学』のバックナンバーなどを置いてある倉庫の整理。倉庫とはいっても実際は1Kのアパートで、僕の家から車で7、8分のところ。1997年に機関誌が協会の自主発行になった際に、バックナンバーを保管する倉庫が必要になりました。ただ置いておけばいいわけではなく、注文があった場合には対応しなければなりません。発売をお願いしている小峰書店が新しいものには対応してくださいますが、古いバックナンバーなどは協会自身が対応しなければなりません。もちろん倉庫を置いて専属のスタッフを置くなどという余裕はないので、僕の家の近くのアパートを一室借りて(埼玉の結構奥なので、2万円台で借りられるのです)、そこに並べていくわけですが、この体制になってからもう二十五年近くになりますから、なかなか整理が追いつきません。古いバックナンバーは多少の保存分を残して、泣く泣く(?)処分してスペースを作り、新しいものを並べるという作業が何年に一度か必要なわけで、ようやく取りかかったところです。ただ、いつまでも僕の家の近くにというわけにはいかないので、この後どうするのか、頭の痛いところです。

 とはいえ、ともかく、気にかかっていた二つのことができて、まずは悪くない初仕事になったような気がしています。

2022/01/15

56、「三年日記」の三年目です(2022,1,5)

 【新しい年を迎えて】

・2022年、会員の皆さんはいかがお迎えだったでしょうか。僕は、一昨年までの年末年始は、非常勤講師として担当していた東洋大学の創作の授業の提出作品をすべて読んで(2コマで300編以上!)コメントを書くという(年明けに返却するために)、すさまじい年末年始だったのですが(1年前のこの日のブログにそのことを書きましたが)、去年からは解放され、大晦日も元日も、息子や娘婿とおいしいお酒をたくさんいただきました。その時ふと気がついたのですが、お酒(ビールと焼酎でしたが)を飲むペースが、40代の彼らより、僕が一番早いのです。僕はお酒は弱くはないと思いますが、そんなに強いというほどでもなく、要するに「ゆっくり味わう」という飲み方ができないのですね。70歳を越えているわけですから、(今さらですが)もっと“大人”な飲み方を心がけなくては、と思ったりしました。

・今年の“初読み”は、年賀状と一緒に元旦のポストに入っていた(前日の遅めに届いていたのかもしれませんが)信州児童文学会(協会の信州支部)から送られてきた『とうげの旗』の別冊、高橋忠治さんの追悼号でした。高橋さんは詩人として、また信州児童文学会の中心的存在として活躍された方で、協会の60周年の学習交流会の時に、あまんきみこさん、西内ミナミさんと並んでお話をされたので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。その時の聞き役は僕でした。そんなご縁もあり、僕も追悼文を書かせていただいたのでした。高橋さんには毎年の年賀状に書かれた自作詩をまとめた『だいじなものは』という詩集(「年賀状詩集」と銘打たれています)もあります。高橋さんからの年賀状をいただくことはもうないわけですが、懐かしい想いで追悼集を手にしました。

【さて、「三年日記」のことです】

・新年と共に改まるものといえば、まずはカレンダーでしょうか。僕はスケジュールに関しては、数年前から紙の手帳は使わなくなり、スマホのカレンダーに予定を書き込んで使っています。そんなにハードなスケジュールでもなし、これで充分なわけですが、なくすと困るし(それについては前科が何度かあるので)、小さな卓上カレンダーに予定を書き込んで、机の目の前で見えるようにしています。あと、横を向けばすぐ見えるように、2ヵ月分が見える形のカレンダーに仕事の締め切りを書いて、貼っています。

・そして、僕は一昨年から「三年日記」というのをつけています。年が改まったところで、また最初のページに戻ったわけです。三年日記の三年目です。

 僕は人生の中で(?)日記をつけたという経験はほぼなくて、例外は高校生の時の三年間でした。毎日というわけではなく、胸の中でもやもやしたことがあった時に書きつける、まあ青春ノートといった感じだったでしょうか。以来、日記を書こうと考えたこともありません。「面倒くさい」としか思えませんでした。それが一昨年つけ始めたのは、銀の鈴社さんから(そこのアンソロジーの編集委員などの仕事をしている関係もあり)同社発行の「三年日記」をいただいた、というのが、直接のきっかけです。但し、1月からではなく、4月28日から書き始めています。

・今思い出すと、僕はその年の3月までは、三つの大学の非常勤講師を務め、協会の事務局に行く日もありましたから、ウィークデーはほぼ出かけていました。それが定年で講師を辞めたことで、まあかなりフリーになったわけです。曜日のしばりがなくなると、下手をすると2、3日、なんだかわからないうちに過ぎてしまう、という感じになります。「これはいかん」と思い、年末にいただいた「三年日記」を書き始めてみよう、と思い立ったような気がします。ちなみに、三年日記というのは、A5判の1ページが二日分になっていて、上下三段に分かれているので三年使えるわけです。ですから、一日分のスペースはごく小さいので、日記というより日誌という感じでしょうか。

 その書き始めの2020年4月28日ですが、(ちょっと恥ずかしながら)「ボウコウ炎らしい症状発症。夜に尿に血が混じる」と書かれています。そうなのでした。初めてのことでいささか不安でした。そして、次の4月29日は(更に恥ずかしながら)「カミさんを車で送り、その帰り駐車場で向かい側の車にぶつけてしまう。不動産屋のHさん(ここは実際は名前が入ってます)に電話」とあり、翌30日は不動産屋からぶつけた相手を聞いて電話で謝ったり、保険会社に連絡を取ったり、午後から病院に行ったり(やっぱりボウコウ炎でした)と、かなりに忙しい日。そして、次の5月1日が初孫誕生(娘が結構前から実家に帰ってきて、近くの病院でした)と、なかなかに波乱万丈の日々でした。

・書き始めがそんな具合だったせいかどうか、多分長くは続かないだろうという僕の予想は外れ、三年目に突入したという次第です。この日記のいいのは、上記のように一日分のスペースが小さくて負担にならないし、一年前、二年前と比べられる、というところが、おもしろい。来年は(今から?)ちゃんと買い求めて、二冊目の「三年日記」も続けようと思っています。

 さて、今年一年どんな文字が並ぶことか。日々いい報告が書けるよう、まずはがんばりたいと、新年の“決心”です。(初詣のおみくじの〈学問〉の項に「決心が足りない勉学せよ」とありました。)

2022/01/05

55、初めてのインタビュー(2021,12,27)

【更新が遅れました】

◎25日に更新するはずが2日遅れとなりました。新年発行の「Zb通信」号外の年頭のあいさつで、25日付と〈予告〉してあるので(あいさつ文を書いたのは23日だったので)、このブログを初めてご覧になっている方もいらっしゃるかも知れませんが、のっけから日付が違っていて恐縮です。25日は所属する児童文学評論研究会の例会(リモートでしたが)で、久しぶりにレポーターをやり、前日その準備に一日使い、25、26日と、娘一家が去年の5月に生まれた孫を連れて遊びに来てたりしたので、今日になりました。

 初めての方のために、改めてお伝えすると、このブログの更新を10日に1回としているのは、それくらいのペースの方が長続きするだろう、と思ってのことですが、それを「5の日」としているのは、これが僕のラッキーナンバーだからで、昭和25(1950)年3月5日、午前5時55分生まれ、名前の「昇」は、生まれた時間が「朝日が昇る頃」から来ています。そんなわけで、5の日です。特に今回は、このブログが「55回」でしたから、記念すべき会?になります。

◎回数と言えば、上記の評論研究会ですが、今回が第558回でした。毎月最終土曜日にやっているのですが、これを12で割れば46,5。つまり47年間続いている会なのです。僕は71歳ですから、47を引くと24。つまり、僕が24歳の時に始まった会です。この成り立ちには、今日のテーマである「初めてのインタビュー」の古田足日さんが関わっていますが、この時のメンバーで今も残っているのは僕の他に細谷建治さんと宮川健郎さんで、宮川さんがまだこの時19歳の学生でした。評論研についてはまた書く機会があるかと思います。ちなみに、今回のテキストは『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか~』(鈴木冬悠人・著、新潮選書)という本(児童文学ではありません)で、太平洋戦争の後期に使われたアメリカ軍の爆撃機B29のパイロットや関係者へのインタビューのテープが〈発見〉されたということで、それを題材にした本でした。

【そして、初めてのインタビューです】

◎さて、ようやく今日のテーマですが、そのB29関連のインタビューのことではありません。これがもちろん今年最後のブログなので、何か書き残したことはなかったか、今年初めて体験したようなことはなかったか、と考えて、結構最近なのですが、初めて本格的なインタビューを受け、それが画像として記録されるという体験をしたことをお伝えしたいと思いました。

 それは11月28日のことで、場所は東京・小平市の白梅学園大学の図書館でした。なぜそこで? 何のインタビュー? というところで、上記の古田足日さんが関わってきます。古田さんは、協会の元会長で、一般には『宿題ひきうけ株式会社』『おしいれのぼうけん』などで親しまれていますが、戦後日本の児童文学界を代表する評論家でした。 その古田さんは2014年に亡くなられたわけですが、これは古田さんに限りませんが、文学者(あるいは研究者)が亡くなった後で困ることの一つは、残された資料をどうするか、ということです。資料とか蔵書というのは、本人がいればこそかけがえのない財産ですが、亡くなった後は、はっきりいえばかなりジャマなものでもあります。僕も時々ご遺族から「資料や本をどこかで引き取ってくれないだろうか」というご相談を受けるのですが、よほど珍しいものでない限り、まず引き取り手はありません。

◎古田さんの場合は、作家でもあり、評論家でもあり、戦後児童文学の第一線で長く活躍してこられ、また社会的な活動も様々にされていたので、古田さんの所にしかそろってないような資料が結構ありました。これについては、幸い神奈川近代文学館に引き取ってもらえることになり、まずは良かったのですが、問題は蔵書でした。なにしろ古田さんの蔵書は3万冊以上あったのです。

 しかし、これも幸い、子ども学部のある白梅学園が受け入れ、それだけでなく、これを資料として古田足日の業績を検証し、顕彰する「古田足日研究プロジェクト」を立ち上げてくださいました。これには、学外から、宮川健郎さん、佐藤宗子さん、西山利佳さんも協力しています。資料の行き先としては、これ以上は望めないような所が実現したわけです。そして、そのプロジェクトの事業として、古田さんに縁りのある10人ほどにインタビューをして、それを画像として資料に残すという仕事を今年から始めました。古田夫人の文恵さんを始め、『おしいれのぼうけん』などに編集者として深く関わった童心社の酒井京子さんや、古田さんが主宰していた「古田塾」のメンバーなどが、その対象になっていて、僕もその一人としてインタビューを受けることになったわけです。

◎僕と古田さんとの関りは、もちろん事務局員として長く古田さんと仕事をしてきたという面もありますが、そもそも学生時代に古田さんの評論集を読んで強く影響を受け、創作と評論の両方を書きたいと思ったわけで、その出会いがなければ、評論家にはなっていなかったろうと思います。秋田から東京に出てきて2年目に、ある講座で古田さんの講義を聞き、その後お茶を飲んだ席で「評論を書いてます」という話をしたら、後でハガキが来て「書いたものを見せてほしい」というのです。なにしろ大学を出て2年目で、まともなものといったら卒論くらいしかありません。そして、その(ものすごく長い)卒論の最後の部分は古田足日論でした。でも送ったのは山中恒の『赤毛のポチ』という作品について論じた部分でした。そしたら、そのままという訳にはいかないが、少し書きなおせば『日本児童文学』に載せられる、というので(本当ですか、みたいな話でしたが)、本当に載ったのが(1974年10月号)、僕の『日本児童文学』デビュー、24歳の時でした。同じ号に、細谷建治や当時の若手の評論家が何人か使われており、それが上記の評論研究会の始まり(ちょうど同じ頃に、協会主催の評論教室があり、それを受講していた宮川さんたちも合流し)という次第でした。

 ということで、そんなことや、事務局員から見た理事の古田さんについてなど話していたら、あっという間に1時間が経ってしまって、すぐ目の前にカメラがあるわけですが、緊張する暇もない感じでした。そんなわけで、自分がしゃべったことが、大学の図書館にアーカイブとして残るという経験はもちろん初めてでしたし、それが自分の児童文学の言わば原点ともいえる古田足日のことであったというのは、ぼくにとってもとても幸せな体験でした。

 ということで、次回は来年の1月5日(予定!)になります。皆様、どうぞ良いお年を。

2021/12/27

54、再びリモートのこと、そしてハワイとアロハシャツ(2021,12,15)

【評議員会が開かれました】

・先般(7日)、12月理事会と合わせて評議員会が開かれました。「評議員(会)」というのは、理事(会)と違ってあまり馴染みがないと思いますが、理事会の諮問機関という位置づけの役職です。実際には元理事(監事)、支部関係を含む地方の、なんというか有力会員、つまり首都圏にいれば理事をお願いしたいけれど遠方で無理なので……というような方たち、そして首都圏ではあるけれど他の団体の中心的な役割をされていて、やはり児文協の役員は無理……というような方たちで構成されています。理事会だけで結論を出しにくいような場合、そういう方たちの意見をうかがって参考にさせてもらう、というような位置づけで、だから「諮問機関」なわけです。ただ、そういう相談事がそう度々あるわけではないので、通常は2年に1回、大体任期2年目の12月に、理事会と合わせて開催しています。12月にしたのは、その後忘年会をという含みもあったわけですが、今回はもちろんそれは抜きでした。

・上記のように、評議員は地方の方が多いし、今は必ずしもそうではありませんが、相対的にご高齢の方が多い、ということもあって、これまでは実際に出席されるのは数人、という程度でした。ところが、今回はリモート開催だったので、北海道支部の三浦さん、鹿児島支部の齊藤きみ子さん、沖縄支部の池宮城さん、そして広島の中澤晶子さん、大阪の令丈ヒロ子さんといった遠方の方たちを含め、13人が出席されました。僕が知る限り、この参加人数は驚異的新記録で、なんといってもリモートの威力でした。前回、リモートは恐いという話をしましたが、怖いけどすごい、というのを改めて実感しました。

【そして、ハワイの話】

・12月8日は太平洋戦争の開戦記念日で、NHKを中心に結構特集番組が多かったですね。僕は2年前の12月初め、ハワイにいました。娘の結婚式のためです。今思えば普通に外国に行けるぎりぎりのタイミングでした。僕の渡航歴(?)はきわめて乏しく、大分前にアジア児童文学大会で一度韓国に行っただけです。お金がない、ということもありますが、特に行きたいとも思わない、同じお金を使うなら、国内旅行でゆっくりしたほうがいい派、というところでしょうか。だから、ハワイに行くなどということはまったく想定していませんでしたが、娘の結婚式とあっては話は別です。そして、いざ行くとなれば、やはり楽しみでもありました。といっても、海で遊びたいとか、ショッピングを楽しみたいといった希望はありませんでした。ただ、ハワイに行ったなら、一ヵ所行きたいところがありました。真珠湾、パールハーバーです。

・僕の父親は海軍の職業軍人で、終戦時海軍大尉でした。といっても、真珠湾攻撃には参加していません。ただ、山本五十六の部下(のはしくれ)だったので、立案関係の雑務くらいは関わっているかもしれません。父は海軍兵学校に入りましたが、旧制中学から(エリートとして)入学したわけではなく、選抜学生といったか、要するに兵からのたたきあげで(すさまじい倍率をクリアーして)兵学校に入学したのでした。ですから、その時点ではすでに結婚していて、兄たちも生まれていたのだったと思います。

 海軍兵学校には「卒業航海」というのがあり、どういうコースだったか定かではありませんが、真珠湾にも立ち寄ったのです。もちろん開戦前のことです。戦後は公職追放で大分苦労して、僕が物心ついた頃はただの田舎おやじでしたが、家にはその時のお土産があったり、父からハワイに上陸した時の話 (一応英会話をしたのが印象的だったようです)を聞かされたりもしました。ですから、父の思い出として、真珠湾に行ってみたかったわけです。

 結婚式の前の日に行ってみようと、ホテルの日本人スタッフに、行き方などを聞いてみました。そしたら、行くのはバスで行けるが、この時期は、行ったとしても記念館にはとても入れないよ、というのです。つまり、12月8日が間近なその時期になると、アメリカ人の観光客で、真珠湾はいっぱいになるというのです。ちょっとびっくりしました。例えば、8月6日の広島で、ホテルがなかなか取れない、というようなことでしょうか。つまり、“Remenver Pearl-Harbor”というのが生きているのですね。びっくりもし、ちょっとショックでもありました。

 大した買い物もしませんでしたが、それなりの値段のアロハシャツを一枚買いました(それで、結婚式に出ました)。アロハシャツにはちょっと思い入れがあって、僕が事務局にいたころの藤田圭雄会長(同じ姓ですが“他人”です)は、夏のゼミナールやサマースクールの時必ずアロハシャツを着て現れました。その時は気がつきませんでしたが、今考えると、それはハワイで買われたものだったと思います。というのは、かつて川端康成がハワイ大学に招かれて集中講義をした時、藤田圭雄さんは夫妻で同行されているのです。藤田さんは元中央公論社の編集部長などを務められ、川端康成とは大変親しい間柄でした。アロハシャツはその時のお土産だったのだと思います。僕の父と同じ年ですが、背がすらっと高く、なかなか似合っていました。

 ということで、僕も真似をして、今は夏の泊りの集会がないので、合評研の時とかに、アロハシャツを着て出かけることを秘かに(?)狙っているのですが、今年はリモートだったので、残念!

2021/12/15

53、リモートは怖い~子ども創作コンクール授賞式で~(2021,12,5)

【子ども創作コンクールのこと】

◎協会が児童文芸家協会、公文教育研究所(およびくもん出版)と共同で毎年募集している「おはなしエンジェル・子ども創作コンクール」という公募コンクールがあります。例年『日本児童文学』の1・2月号に入選作品が掲載されるので、ご存知の方も多いと思います。始められたのが2000年ですから、もう21年目になります。ただ、昨年はコロナ禍で実施できなかったので、今回が20回目となります。

 2000年というのは、「子ども読書年」ということで、90年代に子どもの読書離れということが盛んに言われ、この年を契機に、学校図書館の整備などの施策が取り組まれるようになりました。 この時に、作家団体にふさわしい企画をということで、公文教育研究会の全面的なバックアップを受けて、児文協・児文芸の両団体で、子どもたちに創作を通じて物語のおもしろさを体験してもらえる、創作作品のコンクールを始めることにしたわけです。感想文コンクールとか作文コンクールはいろいろありますが、やはり「創作」となるとハードルが高くなる面があり、応募数もとても多いという数ではありませんが、毎年いい作品が寄せられて、20回を迎えることができました。

 僕は立ち上げから何年かは選考にも立ち会って、応募原稿を読んでいましたが、その後はしばらく“お休み”をいただいてきました。ただ、両協会の理事長が交代で授賞式で講評を述べることになっており、今回僕の番だったので、久しぶりに応募作品(といっても、入選作品だけですが)を読ませてもらいました。幼児および小学校低学年、中・高学年、中学校と三段階に分かれていますが、どの入選作品も、なんというか、物語の〈ツボ〉を心得ている感じで、ちょっと感心してしまいました。十数年前の応募作をちゃんと覚えているわけではありませんが、今回久しぶりに読んで、入賞作品が全体として粒ぞろいで、選考委員がその中から「最優秀」「優秀」作品などを選り分けるのが大変だったろうなという感想でした。

【そして、授賞式でのハプニング】

◎ということで、この前の土曜日(11月27日)午後、リモートでの授賞式を行いました。前回のブログを書いた、その後のことです。上記のように、このコンクール自体2年ぶりで、リモートの授賞式はもちろん初めてです。くもん出版の担当者がすべてお膳立てをしてくださって、僕らはそれに乗っかればいいという形でした。当日、開会の一時間前の午後一時にリハーサルがあり、これは問題なく終わりました。そして二時の開会に向けて僕はお茶を飲んだりして、1時45分ころだったでしょうか、改めて画面に入ろうとしたわけです。

 ところが、リモートのパソコンの画面が真っ暗で、何も映りません。最初は僕の方ではなくて、ホストのくもん側のトラブルかと思いました。今までもう何十回もリモートの会議などをやって、こんなパターンはありませんでしたから(電波状態が不安定でつながりにくくなる、ということは何度かありましたが)。しかし一向に回復しません。一度電源を切って入り直そうと思ったのですが、シャットダウンの表示も含めて、画面が真っ暗で、それもできません。電源を抜いてみたのですが、僕のリモート用のパソコンはコンパクトなサイズで、結構バッテリーが効くので、電源を切ることもできないのです。

◎さすがに、あわてました。僕の出番は、始めの方にあり、選考委員の紹介が終わったら、僕の15分の講評になります。「選考委員の一人」ということなら、その人の顔を見られなかった、で済むわけですが、僕が選考委員を代表する形で講評をする役目だったので、誰ももちろん準備はしていません。つまり、授賞式の一番肝心なところがなくなってしまうわけです。

 僕の仕事部屋は、庭の離れ(というほどのものでもありませんが)になっていて、WiFiの無線のルーターなどはリビングにあります。それを確認しようとリビングに行ってみると、娘がパソコンに向かっていて、インターネットを使っています! つまり、僕が仕事部屋に戻った後、たまたま早く帰ってきた娘が自分のパソコンを起動させ、インターネットの回線が乗っ取られていたわけです。 「なんてこった!」と思いましたが、とにかく原因はわかりました。急いで娘の回線は切らせ、仕事部屋に戻りましたが、パソコンの真っ暗は相変わらずです。ただし、今度は声だけは聞こえて、選考委員の紹介も終わり、僕が呼び出されています。しかし、出ることができません。

 娘がそんな僕の様子を見て、自分のスマホでズームの画面を呼び出そうとしてくれました。そのためには、授賞式のズームのIDが必要ということで、もう一つのパソコンで送ってもらっていたメールを呼び出してIDを確認し、などという作業を、あたふたと始めました。その時、加藤純子さんから電話があり(このコンクールは子どもと読書の委員会の担当で、その責任者が加藤さん)、「藤田さん、画面に出てこないけど、どうしたんですか?」というわけです。現状を説明し、なんとかスマホから入って、時間内に戻るように努力します、とは言ったものの、正直戻れるかどうか、確信はありませんでした。

 そしたら、娘のスマホに授賞式の画像が映り、入賞した子どもたちの一言コメントが始まっていました。本来、僕はその前に話すはずだったわけですが、順番は逆になりましたが、なんとか準備していた「講評」を、スマホ越しに話すことができました。

◎ということで、今回の教訓。これは皆さんの身にも起こり得ることです(笑)。もしリモートの途中で、パタッと画面が切れてしまったら、家族の誰かに回線を乗っ取られた可能性があり、それを疑え、ということ(独自の回線を持っていれば別ですが)。そして、今回感じたのは、つくづくリモートは何があるかわからない、ということ。〈犯人〉も娘でしたが、僕だとスマホにIDを打ち込んでという技はできないので、助けてくれたのも娘ということになります。

 ちなみに、1月に「新入会員の集い」がリモートであり、ここで協会の歴史や活動について45分ほどしゃべることになっていますが、今回のような思いはしたくないので、今度は事務局に行って、そこから話そうと思っている次第です。

2021/12/05

52、わらび座のこと(2021,11,27)

【今回も”遅刻”になりました】

◎「5の日」に更新のブログが二日遅れになりました。ただ今回は、「つい、うっかり」ではなく、前回に書いたような事情で、この時期かなり時間がなく、二日遅れとなりました。この間、18日夜(正確には日付が代わって19日でしたが)、BS1で那須さんの追悼番組があり、ご家族のこととか、僕などが知らなかった那須さんの一面も見られて、改めて那須さんを喪ったことの無念さを感じてしまいました。那須さんについては、また書く機会があると思います。

 今日は、この後、「子ども創作コンクール」のリモートでの授賞式があり、15分の「講評」を話さなければならないので、いささか緊張しています。

【さて、わらび座の日のことです】

◎「わらび座」をご存じでしょうか。「知る人ぞ知る」という当たり前のことですが、この言い方がぴったりの所で、実は宝塚や劇団四季に匹敵する観客数を誇る劇団なのです。今はそういう言い方はしていないかもしれませんが、かつては「民族歌舞団」ということで、日本の民謡や伝統芸能を元にした踊りや劇、ミュージカルを専門にして、全国で公演を重ねているユニークな劇団です。そして、その本拠地が、今は(平成の大合併で)仙北市となっていますが、元は秋田県仙北郡田沢湖町の神代(じんだい)という所で、僕の出身地の仙北郡中仙町とは、ほど近いといっていい所にあります。

 11月に入ったころでしょうか。ネットのニュースで見てびっくりしたのですが、そのわらび座が民事再生法の手続きに入った、つまり倒産したというのです。これも「知る人ぞ知る」でしょうが、わらび座は現在はただの劇団ではなくて、地元田沢湖町に大きな専用劇場があり、ホテルがあり、地ビールも作っているという、なんというか、エンターテインメント産業の一大拠点になっていました。例えば、僕が数年前に『みんなの家出』でサンケイ児童出版文化賞をいただいた時に、秋田の兄弟や従兄弟たちが集まってお祝いの会を開いてくれたのですが、その会場はわらび座でした。ですから、地元では、劇団という以上の存在なわけです。

◎ところが、ホテルの方の問題もあるでしょうが、わらび座の公演は文字通り全国を駆け巡るわけですが、これがコロナでほとんどできなくなった、そしてわらび座には全国の中学校などから、民俗芸能の体験学習を兼ねた修学旅行生がたくさん来ていたのですが、これもできなくなった。ということで、びっくりはしましたが、倒産という事態も、充分考えられることです。

【僕とわらび座】

◎ただ、僕がこのニュースに反応したのは、僕の故郷のできごと、というだけではない理由があります。ひょっとすると、僕がわらび座にいたかもしれないという可能性もゼロではなかったからです。

 話は学生時代に遡ります。僕は秋田大学教育学部の学生で、四年生の時でした。本来なら卒業を控えている時期ですが、いろいろあって、留年が決定的になった頃でした。ちょうどその時、わらび座から声がかかったのです。演技者ではなく、「保父」として来てくれないかという話でした。

 わらび座は劇団内でのカップルも多く、その子どもたちは、劇団内の保育施設に預けられます。ただ、上記のように、団員は全国を公演でまわりますから、普通の保育園のように夕刻に親が迎えに来るということではなく、一、二カ月も親に会うことなく、その施設で暮すという、文字通りの集団保育となります。「わらびっ子」などとも言われていました。そこには(当時の言い方で言えば)保母さんが何人かいるわけですが、劇団も歴史を重ねる中で、わらびっ子の一番上(男の子でした)が高校生になるという時期を迎え、男の保育者が求められる状況になったわけです。

 最初は県教組などを通じて、県内の先生にあたったようですが、さすがに先生を辞めてわらび座に行くという人はいなかったようで、次に教育学部の学生ということで、人を介して、打診されたのでした。 僕がわらび座に魅力を感じていたのは、先に書いた”ご近所”という縁もありますが、かつて斎藤隆介さんがわらび座に在籍していたことがあるという事実でした。文芸もしくは演出部門だったと思います。僕はなにしろ隆介さんの「八郎」を読んで児童文学にはまったわけですから、その斎藤隆介とのつながりという意味でも、ご縁を感じるところがありました。

 ただ、やはり東京に出て児童文学を勉強したいという思いが強く、またここで中退という形で大学をやめてしまうと教員免許が取れない、という現実的な事情もあり、その話はお断りしました。それでも、もし、あの時わらび座に入っていたら……と、思ったりすることはなくはありませんでした。

◎そんな次第で、今回のニュースは、ショックでした。座は株式会社から一般社団法人に組織替えをして、東京のIT関連の会社の支援なども受けながら存続するようなので、まずはホッとしていますが、大変だろうなと思います。いずれ一般からの支援ということも出てくると思うので、できるだけ応援したいなとも思っています。

2021/11/27

51、コンクールの季節(2021,11,15)

【二つの感想文コンクール】

◎僕は先週の金、土と、続けて感想文コンクールの選考会でした。12日(金)は雑誌『ちゃぐりん』の感想文、13日(土)は総合初等教育研究所という財団主催の感想文です。『ちゃぐりん』という雑誌は、JA系の家の光協会の発行で、農業関係の記事はもちろんですが、お話やマンガ、料理のレシピや運勢占いなど、なんでもありの月刊誌です。学研の「科学と学習」もなくなった今、こういう雑誌は『ちゃぐりん』だけではないでしょうか。毎月「ショートストーリー」が掲載されるので、そこに書いたことがあるという会員の方もいらっしゃると思います。実は7月号には那須正幹さんの作品が載り、もしかしたら、那須さんの最後の書下ろしだったかもしれません。感想文は、7・8・9月号が対象で、その中のどの記事について書いてもいいので、通常の単行本を対象にした感想文コンクールとは違ったおもしろさがあります。

 もう一つの財団主催の感想文コンクールは、その意味では“普通”の感想文コンクールですが、僕はこの審査員になる前は正直読書感想文というものにやや拒否感を持っていた部分がありますが、もちろん最終候補になるような感想文は、本が好きな子が書いたものなわけですが、そうか、こんなふうに本と出会ってくれたんだということが実にしっかりと伝わってきて、心強くさせられます。上記の『ちゃぐりん』のほうは、JAを通しての応募なので、昨年も今年も例年通り実施されましたが、財団の方は小学校を通じての応募なので、昨年は中止、今年はなんとかできたものの、応募数はかなり減ったということでした。学校側の体制、先生方も、コロナ禍の中で、なかなかそこまで手が回らないという実態が、応募数にリアルに現れた感じでした。

【この季節は】

◎実は、この11月は、僕にとってはコンクールの季節で、かなりハードな月です。少し前ですが、11月3日には、新美南吉童話賞の選考委員会が半田でありました。この後、27日の「子ども創作コンクール」(児文協ほか主催)のリモート表彰式のために入選作品を読まなければならず、その二日後の29日は日能研の文学コンクール(中高生が対象)、そして12月1日は、やはり別の財団が主催する作文コンクールの選考会があります。

 なぜこの時期に集中するかというと、こうしたコンクールは大体夏休みをはさんで応募期間にすることが多く、9月の始めから中頃に締め切りが設定されます。そこから予備選項が始まって、候補が絞られるのが10月あたり、そうして11月あたりに最終選考ということになるわけです。今はむしろ童話のコンクールが少なくなりましたが、かつてはもう一つ二つあったり、児文協の長編新人賞の選考をやっていた時は、なにしろ長編をそれなりに読まなければいけないので、ちょっと泣きながら(笑)読んでいました。

◎ただ、児文協主催のものは別として、当然それなりの選考料ということがあるわけで、正直なところ、僕にとっては一番“稼ぐ”月でもあります。それと子どもの作文や感想文は、子どもたち自身の受け止め方にふれるという意味で貴重な場でもあり、また童話コンクールなども、一般の人の「児童文学観」が見えてくるところもあって、決して嫌々やっているわけではありませんが、できればもうちょっと時期をずらしてくれないかな、というところが本音でしょうか。

2021/11/15

50、公開研究会が無事に開催されました(2021,11,8)

【久しぶりのお集まりでした】

◎記念すべき?第50回ブログが、本来の5日から3日遅れになりましたが、これも僕らしいでしょうか。そのため1週間以上が経ちましたが、10月31日、一ツ橋の教育会館で(リモートと並行で)東京では5年ぶりとなる公開研究会が開催されました。1か月前に、リアルとリモート両方のハイブリッド開催ということを最終的に決定したわけですが、この段階では本当に集まれるかどうか、一抹の、いや三抹ぐらいの不安がありました。しかし、コロナは想定以上に収束、予定通りの開催ができました。参加申し込みでは、リアルが約70名、リモートが130名余り。当日実際に会場に来ていただけたのは50数名でした。

 会場はつめれば300人定員でしたから、ややがらんとするかなと思ったのですが、3人掛けのテーブルに1人ずつ、後ろの方は空けて、大きなカメラを始めリモート配信のための機材がかなり入ったので、むしろちょうといい感じで、ちょっとテレビ中継をしているような感じでした。

◎なにしろ、こんなふうに集まったのは、一昨年以来でしょうか。そんなにものすごい人数ではないけれど、とてもたくさんの人が集まった感じを受けたのは、そのせいもあるかもしれません。目の前に人がいて、進行につれていろいろと人が動き、机を動かしたり、飲み物を運んだり、照明を明るくしたり、暗くしたり、そんな一つひとつのことがとても新鮮で、やはり実際に集まることの感触のようなものが実感できた一日でした。

【講演とシンポジウムは】

◎講演の安田菜津紀さんは、この日の午前中もTBSのサンデーモーニングにリアルで出演されていましたから、そこから回られてきたのだと思います。さすがに放送で鍛えられているだけあって、発声や話しぶりがとても明晰で、感心させられました。冒頭で、幼い頃に、お母さんが絵本の読み聞かせがとても好きで、「1カ月に300冊」というノルマ?だったことが語られ、みんなをびっくりさせましたが、これが単なる話のマクラではなくて、ある時お父さんが珍しく早く帰ってきたので、「読んで」と絵本を持って行ったのですが、お母さんの流暢な読み(なにしろ月に300冊ですから)とは大違いに、とてもたどたどしい読みで、思わず「日本人じゃないみたい」と言ってしまったのですが、少し大きくなってお父さんが韓国籍であることを知ります。安田さんの一つの原点が語られたわけでした。お話の中心は、シリア難民のことと東日本大震災で被災した大船渡の人たちのことで、大船渡は安田さんのお連れ合いの出身地で、そのお母さんを震災で亡くしていたのでした。こんなふうにまとめてしまうと元も子もないかもしれませんが、〈公〉への怒りと悲しみ、〈私〉の哀しみがダブって迫ってくる、さすがの80分でした。

◎後半のシンポジウムは、なにしろ全体で3時間という枠なので、パネラーお一人の発言時間が合わせて15分位しかありません。ただ、それぞれにご自分の創作活動の中心的なモチーフを語っていただいて、それが本当に一人ひとり違っていて、とてもおもしろかったです。特にリモート参加の皆さんからは終了後に画面上でたくさんアンケートのご回答をいただきましたが、ひとつのテーマを深めるという点では物足りなさもあったようですが、コーディネーターのひこ・田中さんも含め5人の書き手の語りようがとても個性的で、僕はとてもおもしろく、楽しく聞くことができました。そして、それがいま書いている人たちへの“励まし”にもなったのでは、と思っています。

【残った宿題も】

◎かくて、公開研究会は無事に終了したわけですが、「無事に」というのは、一番心配だったのが、リモートの参加者に画像や音声がきちんと届くかどうかということでした。当初はこれを自分たちで、と考えていたのですが、昨年と今年の総会のように、全面リモートならなんとかなるのですが、リアルで会場で進行しつつ、配信もするというのは、技術的にかなりハードルが高いことが準備の途中で分かってきました。特に今回は参加費をいただいての開催ですから、うまく配信できなかったでは済まされません。ということで、そのための業者に頼むことにしました。20万円近くかかりましたが、当日3人が見えて、午前中から準備、その動きや機材の数々をみて、納得でした。

 ただ、それだけに、これから総会・学習交流会、公開研究会などをどんな形で開催していくのかは、宿題として残った感じです。

◎もう一つ。今回は冒頭に書いたように200人近い参加があったわけですが、僕の目論見としては、会員のリモート参加(全国から参加できるわけですから)がもう少し伸びてほしかったという気持ちもあります。内容の問題や、参加のしかたの問題など、さらに検討して、次回はもっとたくさんの方に参加していただけるようになったらいいなと、今から思っている次第です。

2021/11/08

49、イヌ派か、ネコ派か?(2021,10,25)

【気がもめる一週間に……】

◎衆議院選挙が告示され、投票日まで一週間となりました。投票日が公開研究会の日と重なりましたが、ご参加の皆さんは(特にリアル参加の方は)期日前投票を済ませた上でご参加いただければと思います。もちろん、僕もそのつもりです。

 それにしても、自民党総裁が変わったと思ったら、とにかく急げという感じの解散、総選挙。新政権があまり突っ込まれないうちに、野党の共闘体制が整わないうちにという思惑だけがミエミエで、充分な選択肢を示したうえで国民の審判を仰ぐ、といった姿勢がカケラも見えません。特に第二次安倍政権以来、国民は「政治なんて、そんなもの」という場面をあまりにも見せられてきていて、今さらそんなことに驚いたり怒ったり、ということができなくなっているように思えます。これこそ危機ですね。 選挙の行く末に加えて、僕はロッテの51年ぶりの「優勝」も気にかかり(何度か書きましたが、僕は60年来のファンです)、大いに気がもめる一週間になります。もちろん、公開研究会の成功を願いつつ、ですが。

 その公開研究会ですが、リアル参加が60人、リモート参加が110人を越え、まずまずではあるのですが、特にリモート参加はもっと増えてもいいはずなので、お申し込みがまだの方はもちろん、すでに申し込まれた方も、今からでも関心のある方にお勧めいただければと思います。

【イヌ派か、ネコ派か?】

◎突然ですが、ペットのなかでイヌとネコのどっちが好き?というのが、よく話題になりますね。なぜ今回こんなことを書こうかと思ったかというと、我が家にはネコが一匹住んで(?)いますが、月に一回、イヌもやってきます。というのは、昨年の5月に生まれた初孫が、というか、都内に住んでいる娘の一家が、月に一度泊り掛けで遊びにやってきます。この週末もそうでした。その際に、人間3人に加えて、飼っている犬も連れてきます。(猫も飼っているのですが、一晩なので置いてきます。)つまり、月に一回、犬と猫がいる状況になるわけです。猫はもちろん?歓迎しません。体の大きさはどっこいどっこいですが、猫の方はもともと自分の縄張りですから、威嚇して近寄りがたい雰囲気を漂わせています。

◎僕は子どものころ、犬も猫も飼ったことはありません。秋田の田舎でしたが、犬とか猫とかを飼っている家というのは、あまりなかったように思います。そんな余裕がなかった、ということでしょうか。一度だけ中学生の時に、兄の嫁さんの実家で飼っている犬を、お母さんが入院して留守になるというので、預かったことがあります。二カ月くらいだったでしょうか。初めて犬の散歩をしたりしましたが、やはりそもそもなじみがないせいか、今に至るも犬も猫もそれほど好きという感じはありません。

 昨年孫を出産した下の娘が小学生の時、僕がファンタジー大賞の選考で小樽に行っていた時に、カミさんからメールが届き、「犬を飼ってもいい?」というメールでした。おいおい、と思いました。スーパーマーケットの掲示板に、虐待されたり、引き取り手のない犬を預かっている所の張り紙があって、それを見た娘とカミさんがそのうちの一匹を引き取りたい、という話でした。もともとカミさんの方は、実家で犬も猫も飼っていたことがあり、こういうチャンスを狙っていた?節があります。

 こんな時、「だめだ」と返信するほど、僕の神経は太くありません。結局一匹のトイプードルを飼うことになりました。すでに六歳で、前の飼い主に虐待されたのか、最初はオドオドというか、こっちがなにか長い棒のようなものを持つととたんに逃げ出すような感じでした。そして、六年間ほど暮らし、死にました。犬の葬式というのも、初めて体験しました。

 それから、そんなに間が経ってない頃、娘が今度は友だちからもらったといって、猫を連れてきました。二年ほど前のことで、それが今いる猫です。散歩に連れて行かなくても済むのはいいですが、カーテンとか畳とか、ふすまとかはズタズタです。

◎僕がそういう経験を通して、犬や猫を好きになったかというと、まあ慣れたことは確かですが、「好き」とまではいかない気がします。ただ、猫を見ていて思うのは、それまで写真などで見ていた猫独特の(確かに優雅ともいえる)ポーズを、本当にするのだなあ、という当たり前の発見。犬の時はそんなに思いませんでしたが、やはりこれは本来野生のものなんだなあ、という感じを強く受ける時が少なくありません。

 そんなわけで、僕はイヌ派でもネコ派でもありませんが、どっちとも同居した体験を通して、両方の気持ちは少し理解できるようになったかもしれません。というわけで(?)ということは全然ありませんが、『日本児童文学』の今度の11・12月号の特集は「ファンタジーの猫」。創刊以来75年、猫とついた特集はこれが初めてでしょう。ちなみに、犬は2017年3・4月号で、「犬と暮らせば」という特集を一度やっていますから、これでアイコ(?)になったわけです。この時は僕も編集委員でしたが、編集委員の中に、名うての?イヌ派の今西乃子さんがいました。そして、今の編集委員会には、生粋の?ネコ派の間中ケイ子さんがいます。ネコ派の方はもちろん、イヌ派の方も、僕のように中立?の人も、初めての“猫特集”をぜひ楽しみにしてください。

2021/10/25