藤田のぼるの理事長ブログ

18、協会の事務所のこと~児文協昔話・1~(20,11,25)

【協会の前の事務所のこと】

◎コロナの行方はますます心配ですが、今回はこのブログで急いでお知らせすることはないので、協会にまつわる「昔話」をしたいと思います。もともと、このブログ、むしろそういうことを話題にしようとして始めたところもありますが、思いの外その都度お知らせすることが出来し、今回ようやく? こういうネタで書くことになりました。

◎さて、その一回目は、協会の事務所のことです。協会の事務局が今の神楽坂に移ったのは1981年で すから、今年で40年目ということになります。おそらく大半の会員の方が、入会時から「新宿区神楽坂6-38 中島ビル502」という住所だったろうと思います。協会はまもなく創立75年ですから、その半分以上が今の事務所ということになります。しかし、それまでをたどると、なんというか、「転々と して」という感じの歴史でした。

  創立時の、つまり協会の最初の事務所は、初代の事務局長だった「関英雄宅」となっています。小さ い会ではよくあるパターンですね。その後1947年から、出版社の新世界社や教育文化社に間借りする形で事務所が置かれます。そして、49年から自前の事務所を持っていた新日本文学会に間借りする形が 60年まで続きます。つまり、創立から15年ほどは“借り暮し”だったわけです。そして、60年からはようやく一応自前の事務所ということになったようですが、代々木、四谷、池袋、市谷という風に移り、 73年に新宿区百人町に事務所が移って、ここは今の神楽坂に移るまでの8年間、比較的長い期間事務局の所在地でした。

◎百人町というのは、最寄りはJR大久保駅で、今は韓国系のお店が並ぶ国際的な雰囲気ですが、当時は今とはかなり違っていました。僕は入会が74年、事務局に勤め始めたのが79年ですから、ここが 僕にとって最初の地でもあるわけです。大久保駅は総武線ですが、すぐ近くが山手線の新大久保駅で、この界隈は昔のいわゆる赤線地帯(僕もさすがにその時代は知りませんが)、その後はラブホテルが乱立?する町になったわけです。ですから、大久保駅から事務所に行くには、居並ぶラブホテルを横目に見ながら歩いていく形になりました。そういう地区ですから、キリスト教系の(だと思いますが)矯風会のビルがあったりもしました。

 ところが4、5分歩いて道を一本渡ると、ガラッと雰囲気が変わり、団地や国立博物館の分館などが並びます。ここは昔の国有地の後でした。そうした中にポツンとという感じで、「メゾン吉田」という3階建てのアパートがあり、その2階が協会の事務所でした。

◎ですから、長く在籍しておられる会員の方は、あるいは「メゾン吉田2F」という住所をご記憶の方もい らっしゃるかも知れません。名前を聞けばなにやら高級な雰囲気ですが、一階に一所帯ずつの小さな木造アパートでした。間取りは2Kというか、入ったところがキッチンになっていて、風呂場もありました。 真ん中が洋間、奥が和室(確か6畳)でした。ですから、部会などは和室で座りながらだったと思いま す 。

 そんな中で、何年目かに3階が空いて、大家さんから「お宅で借りてくれないか」という話が持ち上がりました。当時は、協会の財政もやや余裕があり、とにかく手狭でもあったので、その3階も借りることにし、洋間と和室を開け放してじゅうたんを敷き、周りは本棚を置いて会議スペースにしました。 理事会なども、ここで開けることになったわけです。

◎そういう時期が2年くらい続いたのでしょうか。その程度のアパートとはいえ、2フロアー借りるとなれば、結構な家賃です。「これだけ出すんだったら、もっといい場所で、事務所らしい所を借りられるんじゃない?」という話になって、事務所探しが始まり、今の神楽坂に辿り着いたわけです。これについては僕が自分でやったことなので、まちがいなくお話できますが、これは次回とします。

 その百人町の思い出を一つ。3階が空いた話はしましたが、その前だったか後だったか、1階も空いたのですが、それは平和的に? 空いたのではなく、朝来てみたら、なにやら下がごそごそしていて、近所の人たちもウロウロしています。やがて、不動産屋らしい人もやってきました。(大家さんは赤坂にお住まいで、すぐは来れないのです。)聞くともなしに聞いていると、「夜逃げ」という言葉が耳に入り ました。1階に住んでいたのはご夫婦とまだ小さい子どもだったように記憶しています。どんな事情があったのか、「夜逃げ」という言葉は知っていましたが、本当にそんなことがあるんだという、人生の 一断面(?)も感じさせてくれた「メゾン吉田」でした。

2020/11/25

17、うれしいお知らせ二つ(2020,11,18)

【まずは、持続化給付金】

◎今回は、(5の日に更新のはずが)3日遅れとなりましたが、二ついいお知らせができます。一つは、10月5日付のブログに書いた持続化給付金のことです。このほど事務局に決定通知が届き、それより早く協会の口座に振り込まれていました。満額の200万円でした。但し、会計事務所から申請してもらったので、その手数料5%が引かれて、協会に入るのは190万円になります。

  今期は創作教室、児童文学学校が開講できず、講座収入がほぼ見込めないなどコロナ禍による減収で、かなりの赤字も覚悟しなければならなかったところでした。これですべて補填されるかどうかはまだわかりませんが、少なくとも大きな赤字にはならないだろうと思います。誠にホッとしました。

 来年3月の協会創立75周年に向けて、協会創立時からの基本資料を集めた「記念資料集」の編纂にかかっていて、全体の4分の3まできたところで(財政の見通しがはっきりしないので)ストップしていましたが、これで再開できます。この資料集については、また改めてお伝えしたいと思います。

【来年度の公開研究会のこと】

◎もう一つは、来年度の公開研究会のことです。今年度の公開研究会は地方セミナーとして、来年3月に福岡県大牟田市で開催の予定ですが、来期は久しぶりの東京開催になります。本来、公開研究会は東京と地方の交互開催が原則ですが、2017年度に北海道で開催した翌年の18年度は「赤い鳥」創刊100年の年で、協会も含めた実行委員会主催の記念事業がいくつかあり、公開研をこれに振り替える形になりました。そして次の19年度は新潟県糸魚川出身の小川英子さんや糸魚川在住の横沢彰さんが中心になって、2016年の糸魚川大火への復興支援という意味も込めて、糸魚川でのセミナーとなりました。

  ですから、本来ならこの20年度が東京開催だったはずなのですが、前理事長の内田麟太郎さんの出身地である福岡県大牟田市で内田作品さんにちなんだ「ともだちや絵本美術館」がオープンするということがあり、これに合わせて大牟田でセミナーをという話になり(その関係で、秋ではなく3月開催になりました)、結果的に4年間東京での公開研究会が開催されなかったわけです。

◎折しも来年は協会創立75周年でもあり、本来なら21年度の公開研究会についてはもっと早くに企画を検討すべきだったのですが、上記のように今年の公開研がこれからということも含めて、コロナに対する対処に追われたところもあり、かなりぎりぎりになっての立案になりました。

 というのは、公開研究会は毎回子ども夢基金からの助成を得て開催しているので、前年のうちにその申請をしなければなりません。以前は12月締め切りだったのですが、今はそれが11月24日だということを10月後半になってから聞き、いささかあわてました。11月理事会での討議(久しぶりのリアル理事会でしたが)をもとに常任理事間で内容を詰め、ようやく企画が固まりました。

◎テーマはまだ(仮)ですが、「子どもたちの未来へ~いのちをつなぐ・願いをつなぐ~」としました。会創立75年はもとより、この間のコロナ禍の中での子どもたち、そして2011年の東日本大震災から10年ということなど様々な思いを込めたテーマ設定です。

 講演会とシンポジウムで構成しますが、講演はフォトジャーナリストの安田菜津紀さんにお引き受けいただきました。安田さんは日曜午前の関口宏の「サンデーモーニング」のコメンテーターとしてもお馴染みですが、『故郷の味は海を越えて―「難民」として日本で生きる―』『それでも海へ―陸前高田に生きる―』などの児童書も出されています。一昨年刊行されたノンフィクション『しあわせの牛乳』(以上、いずれもポプラ社)をお読みになった方もいらっしゃると思いますが、あの本は著者は安田さんのご夫君でやはりフォトジャーナリストの佐藤慧さん、写真は安田さんが担当しておられます。安田さんは1987年生まれですから、これまでの公開研講師の中でもっとも若い講師をお迎えすることになります。

 第二部のシンポジウムについては、骨子は決まっていますが、ここまで書いたような経緯でパネラーは一部交渉中という段階です。少し先になりますが、来年の年頭にお送りする「Zb通信」号外では、詳しい内容をお送りできると思います。

2020/11/18

16、新美南吉記念館に行ってきました(20,11,5)

【南吉記念館に】

◎昨日(11月4日)、愛知県半田市の新美南吉記念館に行ってきました。例年のことではありますが、今回は午前・午後と二つの 用件があり、前日名古屋に泊まり(GO TOでホテルがとれたので、さすがに安いですね)、朝から半田 に(電車で30分余りです)向かいました。

 二つの用件というのは、午前中は同館の「事業推進委員会」、 午後からは新美南吉童話賞の選考委員会でした。童話賞の選考の方は毎年この時期ですが、事業推進委員会の会議は例年だと夏に行われるのですが、コロナの関係で延期になり、僕ともう一人二つの委員を兼ねている人がいるので、今回同じ日に設定されたわけです。

◎童話賞の選考結果は、もう少し先に同館のホームページで発表されると思いますが、この賞の特徴は、一般の部の他に、中学生、小学校高学年、小学校低学年の部が設けられていること、そして「自由創作」とは別に「オマージュ部門」があることです。このオマージュ部門は、もちろん新美南吉作品のオマー ジュということで、2013年の新美南吉生誕100年を記念して、新たに設けられました。こうした部門があるのは、僕の知る限り、この賞だけではないでしょうか。こちらは大人も子どもも関係なく一つの部門ですが、今回は、大人たちの作品をおさえて小学校5年生の作品がこの部門の大賞に選ばれました。

 この賞は、特に応募資格は限定されていませんので、自由創作部門も含めて、遠慮なく(?)応募してください。僕としては会員の皆さんにはぜひオマージュ部門(それもできれば「ごんぎつね」「手袋 を買いに」以外の作品で)に挑戦してほしいと思います。

【新美南吉と児文協】

◎ところで、新美南吉と児童文学者協会は、実は切っても切れぬというか、言わば親戚のような関係にあります。神楽坂の協会の事務所にいらしたことのある方は、事務所のドアのプレートの「社団法人 日 本児童文学者協会」という文字の下に、やや小さく「新美南吉著作権管理委員会」と書かれてあるのをご覧になったはずです。つまり、児文協の事務所は、新美南吉の著作権を管理する委員会の事務所でもあったわけです。「あった」と過去形にしたのは、南吉の著作権期限はすでに切れており、現在はこの 委員会は「新美南吉の会」という名称に変わっています。

◎協会事務局が、なぜ新美南吉という個人の作家の著作権管理をしていたかというと、南吉が1943 年に29歳の若さで、ほとんど無名のうちに亡くなったことが原因です。著作権継承者という言葉をご存知かと思いますが、作家が亡くなった場合、その著作権は遺族、多くの場合配偶者か子どもが引き継ぎます。著作権の保護期間は、2年前に法律が改正されて死後70年間に延ばされましたが、それまでは50年間でした。

 ところが、南吉は結婚もせず、子どももいなかったので、その著作権を継承するのは逆に父親という ことになりました。しかし、南吉の父親は文学とは無縁の人で、南吉も生前1、2冊本を出したとはい え、ほぼ無名の新人作家でした。しかし、まだ本にならないたくさんの作品が残っていたわけです。こ の辺は、宮沢賢治のケースに似ています。賢治の場合は、彼の原稿やノートを保管してその後関係者が 賢治の作品を世に出す手助けをしたのは、弟の宮沢清六さんでした。南吉の場合は、その才能を惜しん だ詩人の巽聖歌が、南吉の遺志を受けて、父親に代わって原稿の保管と著作権管理に当たることになっ たのです。巽聖歌は、協会の会長も務めた与田凖一と並んで、北原白秋の弟子の代表格で、白秋が熱心に関わった雑誌『赤い鳥』にも深く関わりました。この『赤い鳥』に童謡や童話を多数投稿し、才能を見いだされたのが南吉だったのです。ですから、巽聖歌は南吉の兄弟子といった存在でした。 実際に、戦後になって巽聖歌は、自分の童謡の仕事以上に、といってもいいほど、熱心に新美南吉の 作品を世に出すために努力しました。今わたしたちが「ごんぎつね」を始めとする南吉作品を読めるのは、巽聖歌のおかげといっても過言ではありません。

◎ところが、その巽聖歌も1973年に亡くなりました。南吉が亡くなってから40年後です。ということは、南吉の著作権保護期間はまだ10年ほど残っていたわけです。もちろん南吉の父親はとっくに亡く なっていますから、そのままだと宙に浮いてしまいます。そこで関係者が集まって「新美南吉著作権管理委員会」をつくり、そこで集団的に管理に当たることになったわけです。関係者というのは、まずは 南吉のほぼ唯一の親族に当たる南吉の弟さん(母親は別ですが)の息子さん、つまり南吉の甥にあたる方、そして上記の巽聖歌の夫人、この方は画家で野村千春さんというのですが、単に巽聖歌夫人だった というだけでなく、生前の南吉を夫と共に何かと面倒を見た方でもありました。次に地元半田市の関係者。この中には南吉の旧制中学時代の友人もいれば、地元で長く南吉の研究を続けていた大石源三さん といった方もいらっしゃいました。そしてもう一つのグループは、若い頃南吉と同様に雑誌『赤い鳥』 などに投稿して、それを文学的出発とした、言わば南吉の文学的同窓生ともいうような方たち、清水たみ子さん、小林純一さん、関英雄さんといった方たちでした。そういうさまざまな方たちが集まって、 新美南吉の著作権を管理することになったわけです。但し、窓口はどこか一本にしなければなりません。そこで、上記の最後のグループの方たちは、当時の児童文学者協会の、言わば要職を占めている方たちでもあったので、管理委員会の事務所は児文協に間借りするように形にしたわけです。(逆に言うと、もし新美南吉が存命だったら、多分児文協の会長になったと思います。)そして、実際の仕事は、協会の事務局員が当たっていました。

◎僕が協会事務局に入ったのは1979年ですから、南吉の著作権管理に当たったのは保護期間が切れる までの4、5年のことですが、まあなんというか、亡くなって50年近く経つというのに、現役作家顔負けに“稼いで”いました。そして、僕ら事務局員は、協会の給料とは別に、新美南吉著作権管理委員会から月々に“お手当”をいただいていましたから、なんというか、南吉は僕にとって遠い親戚のおじさんみたいな感じなのです。

 その後、新美南吉記念館ができ、その設立にも児文協や管理委員会はそれなりに関わっており、そんなご縁もあって、僕は記念館の事業推進委員(外部の有識者による諮問機関で、こうした組織がきちんとしているところも、同館の運営の堅実さを物語っていると思います)を、開館以来務めさせてもらってきました。記念館と協会との関りについてはまだ書くべきことがありますが、またの機会に譲りたいと思い ます。

 冒頭に書いたように、名古屋から名鉄でほんの30分余りで半田には着きますし、半田は他にも見るべきところもありますので、ぜひ一度半田と記念館を訪ねていただければと思います。

2020/11/05

15、理事会声明のこと、学習交流会のこと(2020,10,26)

【理事会声明のこと】

◎今回のブログは「5の日」から一日遅れになりましたが、報告が二つです。一つは、前のブログに書きましたが、10月15日付で発表した日本学術会議の任命拒否問題についての理事会声明のことです。理事会は13日でしたが、欠席の理事も含め、文章の確定ということもあって、発表は15日付になりました。この日、各新聞社にファックスで声明文を送ると共に(大体こういう場合は、今もファックスですね)、関係団体や出版社などにも声明文を送りました。児文協はこの問題では直接の当事者ではないし、かなりいろんな団体から声明が出ているので、今回の声明がマスコミに取り上げられることはないだろうと思っていました。

 翌日の16日ですが、僕は午前中児文協の事務局で少し仕事をして、午後からは別のところで用事があったのですが、その帰り、池袋駅で(僕は東武東上線で帰ります)乗り換えました。売店で夕刊紙の見出しが目に入り、「日刊ゲンダイ」が学術会議のことを取り上げていたので、買い求めました。帰りは大体本を読みますが、その本が読み終わりそうで、読むものがなくなりそう、という理由もありました。

 電車に乗ってから第一面を読み始めて、びっくり。いきなり「日本児童文学者協会」という文字が目に飛び込んできたからです。本文を冒頭から引用します。

 

  抗議声明は既に350件を超えた。/日本学術会議が推薦した6人の新会員候補が任命拒否された問題について、きのうは日本児童文学者協会が撤回を求める声明を発表。協会は、戦前・戦中の童話作家らが国家の要請で戦意を高揚させるような作品を発表したことへの反省から設立された。そうした経緯があるからこそ「単に学問分野のことではなくて、表現の自由、日本の民主主義の行方に関わる由々しき問題だ」とつよく批判している。(引用終わり)

 

◎記事の冒頭にあるように、350件もの声明の大半は、おそらく学術系の団体だと思います。これは直接の当時者ですから、当然のことです。わたしたちと関わる分野でも、児童文学学会・英語圏児童文学学会・絵本学会の三団体が連名で13日付で抗議声明を発表しています。これも僕が知る限りでは異例というか多分初めてのことで、各学会のHPに声明文が掲載されています。

 そうした中で、学術団体ではない、そして子どもに関わる児文協のような団体が、この問題について声をあげていることが「ゲンダイ」の編集者の目を惹いたのではないでしょうか。紹介のされ方、引用のされ方もわたしたちの意をとてもくみ取ってくれていて、うれしく感じました。すぐに次良丸さんと宮田さんにメールで伝えたのでした。

【学習交流会のこと】

◎さて、報告としてはやや遅くなりましたが、10月17日の土曜日午後、リモートでの学習交流会が行われました。今年は総会前日に開けなかったので、今回の開催となったものです。 今回は絵本の文章ということをテーマに、前理事長の内田麟太郎さんのお話を、村上しいこさんが聞き役となって、いろいろとうかがいました。

 この詳しい報告は、12月の会報を待っていただくことになりますが、内田さんから「一方的な講演という形でなく、誰か聞き役を立てて」という要望だったので、内田さんとも親しい村上さんにお願いしたわけですが、これは大成功でした。二人の漫才みたいにならないかなと心配(?)もしたのですが、村上さんは皆さんから事前に寄せられた質問も交えながら、実に要所をおさえた聞き役を演じてくださいました。

 一時間弱ほどでしたが、最後の方で(これはどなたかからの質問だったようですが)「いまどんな作品が求められているのでしょうか」という問いに対して、内田さんは「そんなのはありません、わかりません。内田の作品が受けているといって、そういう作品を書こう、というのはだめ。求められているのはあなたしか書けない作品です」といったお答えで、村上さんも大きくうなづいていました。実にさすがに名答だと思いました。

◎講演(というか対談)も良かったわけですが、その後休憩をはさんで、協会文学賞のお祝いタイムというのがありました。今年は春の総会前日に、やはりコロナで贈呈式ができなかったわけで、今回こうした時間を設けました。たまたま協会賞受賞の佐藤まどかさんがイタリア在住ということで(受賞作もイタリアが舞台ですが)、イタリアからの映像で佐藤さんがご挨拶され、これはリモートならではの威力でした。また、新人賞のたなんしんさんは画家としても活躍されていて、ご挨拶の際の映像ではバックにたなかさんの絵が何枚も置かれていて、これもリモートならではの演出でした。

 その後、組織部のいずみさんから、来年3月の大牟田セミナーのアピール、そして事業部の開(かい)さんから部で企画しているリモートでの講座のことなどについて報告がありました。実はなぜか開さんの画像が出なくなってしまい、声だけのアピールになったのですが、これはこれで味が(?)ありました。

 100名以上のお申し込みがありましたが、ご都合がつかなかったり、うまく参加できなかったり(パソコンのちょっとした操作ミスなどで、どうしてもそういうことがありますね)という方も若干いらしたようで、僕がチェックした画面上の数字では97人の参加でした。まだまだリモートにハードルが高くて申し込まなかったという方もいらっしゃるかも知れませんが、とても児文協らしいイベントになったと思います。

◎最後に、ちょっと(かなり?)恥ずかしい話を一つ。リモートの場合、自分の画像はもちろん自分のパソコンで見えるわけですが、その場合の見え方が鏡像のパターンになっています。ですから、例えば絵本を映した場合、左右逆、いわゆる鏡文字で映るわけです。僕は公開研究会の開会あいさつの時に、最初に書いた「日刊ゲンダイ」の紙面を皆さんに見せたいと思い、しかしこのままでは鏡文字の形になってしまうなと、いつもパソコンの操作や修理でお世話になっている方に電話して、修正の仕方を聞きました。それで修正の方法は分かったのですが、わかったことがもう一つ。自分には鏡文字に見えていても、他の人たちにはちゃんと(左右逆ではない)映像が届いているのだ、ということ。

 もしかして、僕と同じ勘違いをしている人もいるかもしれず、恥ずかしながらの“告白”でした。

2020/10/26

14、学術会議のこと&筒美京平さんにちなんで(2020,10,15)

【学術会議・任命拒否問題で】

◎前回のこのブログで、菅首相が学術会議のメンバーへの推薦者の内6名を任命しなかったことについて触れました。その時点では、これはとんでもないことだけど、学術団体ではない児文協が声明を出すなどはちょっと違うかなという気がしていたのですが(それで、ブログには書いておこう、という気持ちもありました)、その後菅さんや加藤官房長官の発言を聞いていて、こんなことを許せば学術分野だけでなく、文化、教育あらゆるところに規制や忖度がはびこることになるなと思い始めました。

 だって、「総合的、俯瞰的」ってなんですか? 例えば(僕は学術会議の構成はよく知りませんが、おそらく自然科学分野とか人文系などの配分はある程度決まっているのでしょう)自然科学のこの分野のメンバーをもっと多くしたい、といった、それこそ総合的・俯瞰的な見地からの改善は時代の変化につれてあり得ると思います。しかし、それは開かれた議論で行うべきことで、そうした議論を踏まえた後で会議のメンバーについて検討するという順序でしょう。今回のような闇討ちのようなことをやった後でできる言い訳ではありません。多分「総合的、俯瞰的」は官僚が考えた文言だと思いますが、僕ならもうちょっと突っ込まれないような言葉を考えるのにな(笑)、などとも思いました。

◎ということで、一昨日の理事会で、この問題について協会として理事会声明を出すことに決め、本日付で発表しました。機関誌では11月、会報は12月の号の掲載になりますが、協会のホームページでご覧ください。

 声明は簡潔にしましたが、僕がこの間の報道で驚いたことの一つは、学術会議への年間予算がたった10億円ということです。これも、半分近くは事務局の人件費を含めた費用ということで、もちろんお金をたくさん出していればなんでもできるというわけではありませんが、こんな額でよく口出しできるなと、あきれてしまいました。だって、アメリカから100機以上買おうとしているF35戦闘機は、一機で100億円以上しますよ。誤解を恐れずに言えば、「口を出すなら、ちゃんと金を出せ」と言いたい気がします。

◎そして、もう一つ。今朝の毎日新聞(25面)を見てびっくり! これは学術会議のこととはまた別のことですが、明後日17日に、中曽根元総理大臣の内閣と自民党の合同葬があるわけですが、これに関して文科省が全国の国立大学などに対して、「弔旗の掲揚や黙とうをして弔意を表明するよう求める」通知を出し、県教委などには加藤官房長官名で文書を送付し、市区町村教委への周知を求めた、とのこと。少し前にこの葬儀への政府予算からの支出のことが問題になっていましたが、まあ元総理大臣でもあり、多少の支出はアリかという気はしていましたが、これはなんなのでしょうか。「弔意を示せ?」― 日本はいつから全体主的義国家になってしまったのでしょうか。こんなことを許していたらとんでもないことになる……ということが次々に起こっています。

【筒美京平さんの逝去を聞いて】

◎さて、話題はガラッと変わります。今まで書いたこととはまったく別な話です。ヒットメーカーとして知られた作曲家の筒美京平さんが亡くなられました。僕は名前くらいはなんとなく知っていましたが、筒美さんが作曲された曲名を聞いて、改めてJポップの流れを築いたといっても過言ではない人だったんだな、と認識しました。

 それで、筒美さんの代表作の中で初めてミリオンセラーとなったのが、いしだあゆみの歌った「ブルー・ライト・ヨコハマ」だったことも知りました。僕が協会の70周年記念のパーティーの時にやった「児文協クイズ」でも紹介したのですが、この曲の作詞を担当したのは橋本淳さんで、橋本さんは協会の元会長で詩人の与田凖一さんのご子息です。橋本さんは他にも「亜麻色の髪の乙女」とか、特にグルーブサウンズ時代の代表的な作詞家として知られています。そんな関係で、与田さんの葬儀の時は芸能人からのお花がとても多く(小泉今日子とかもありました)、びっくりしたのを覚えています。

 ということで、ちょっと“口直し”の話題でした。

2020/10/15

13、持続化給付金のこと(2020,10,5)

【コロナは今も】

◎トランプ大統領の感染には、さすがにびっくりしましたが、正直のところ“自業自得”という印象は免れませんね。ろくにマスクもつけず、集会も結構“密”でしたし。改めて、(当たり前ですが)ウィ ルスは相手を選ばないということを実感しました。

 一方、わが日本は、菅首相になってからも、特に新しい方策が打ち出されることもなく、GO TO キャンペーンに東京が加わり、さてどうなるのでしょうか。それはともかく、日本学術会議の会員推薦者 6人をパージしたというニュースには、いささか驚きました。その真意はともかく、6人を除外することの実質的な利益?と、それによる世論の反発を秤にかけたら、ちょっとあり得ない選択のように思う のですが、国民はそこまでなめられているということでしょうか。あるいは、そこまで権力を誇示したいのか。「衣の下の鎧」どころか、安部さん以上に、鎧丸見えの姿勢にはうすら寒いものを覚えます。

【持続化給付金のこと】

◎さて、コロナの影響で、売り上げが落ちている法人や個人を対象とした「持続化給付金」です。実は協会も当然コロナで、財政に大きな影響を受けています。一番はっきりしているのは講座関係で、創作教室も児童文学学校も開講できなかったので、その分収入が減っているわけです。ただ、持続化給付金は「ひと月の売り上げが前年同月比の50%以上減少している」という場合が対象ですが、協会の場合、 他に印税や機関誌代の収入がそれなりにあるわけで、「50%以下」というのはなかなか微妙です。おまけに、これが一番問題なのですが、皆さんからの会費が「売り上げ」に入るのかどうかということが、 持続化給付金の窓口に問い合わせてもはっきりしないのです。普通に考えて、会費を「売り上げ」とは言わないものの、収入であることは確かですから、飲食店のようにそのままの意味の「売り上げ」が落 ちている、というのとは事情が違うことも確かです。

 ということで、顧問計理士さんとも相談しつつ、ともかく申請してみようということになり、会費のことなどがどのように考慮されるかどうか。つまり、結果待ちということになります。しかし、申請す るに当たって、会費が売り上げに算定されるのかしないのか、それが不明というのも随分変な話で、ダメならダメでしかたがないのですが、基本的な前提ははっきりしてほしいと思います。

◎一方、実は僕も個人として持続化給付金を申請していたのですが、一昨日「給付する」旨の決定通知が届きました。会員の皆さんの中で、申請を考えつつもためらっていらっしゃる方もいると思うので、 以下簡単に計算方法などお伝えします。(但し、僕の知っている範囲のことですから、正確でない部分があるかもしれないことをお断りしておきます。)

 まず前提として、対象になるのは、印税や原稿料などの事業収入があって、それを確定申告している人ということになると思います。(その前提からして必ずしも100%ではなく、昨年の分をこれから追加申請して、その上で持続化給付金を申請するというパターンもなくはないようなのですが、そこまで面倒な、あるいは例外的なケースについては、かなり専門的になってしまうので、以下あくまで大ざっ ぱな考え方です。)確定申告も、青色と白でもB表の場合は問題なく、対象となると思います。白色申告のA表(サラリーマンで副収入があるような場合で、この場合は印税などは「営業」ではなくて、「雑」という区分の収入になります) の場合も、対象にならないことはないようですが、これも僕は詳しいことはわかりません。

◎さて、印税、原稿料などの収入があって、青色もしくは白のB表で確定申告している場合ですが、計算としてはまったく難しくありません。例えば昨年のその分の収入が200万円だとして、これを12で 割ります。つまり、月平均を出すわけです。200万だと16万6666円(計算しやすいように、仮に16万とします)になりますね。次に今年の各月の収入を見て、この16万の50%以下、つまり8万円に満たない月を探してください。例えば5万円の月があったとすれば、それでOK、申請できます。16万円から5万円を引くと11万円ですね。これに今度は12を掛けます。すると申請額として132万円という結果になります。但し、個人の場合は上限が100万円ですから、実際の申請額は100万円になります。

 僕は支出(事務費とか交通費とか)のほうは確定申告の時のために記帳していますが、収入については帳簿をつけるほどでもないし、必要な時には銀行の通帳を見ればわかることですから、月ごとの収入はつけていませんでしたし、当初はかなりやっかいだろうと思っていました。自分の収入が減ったのがコロナのせいかどうかは微妙ですが、選考委員をしているコンクールが中止になったりということはあ るので、ちょっと調べてみたわけです。そしてネットでどこかの税理士さんが計算方法について説明しているのを見て、「こんなに簡単なの?」と驚いてしまいました。 ネットでの申請で、計算自体は上記のようにとても簡単です。添付書類の中にその月の収入を確認するための「帳簿」というのがありますが、お小遣い帖のような用紙に、手書きでその月の収入を書いたものでOKでした。また「納税証明書」というのがあり(確定申告書の際に税務署のハンコの押してある控えがあれば不要)、最初に添付したのが市役所でもらった納税証明だったのですが、申請してから二週間ほどして「これではだめ」という通知があり、税務署に行って「納税証明書 その2」というのをもらって添付し直したところ、問題なく受理、給付決定となりました。

 こんなふうに書いてしまうと、それなりに面倒そうになってしまいますが、ネットで僕が見たような動画もあると思うので、ためらっている方はそれなども参考にして、できそうな方はチャレンジしてみ てください。

2020/10/05

12、この頃のこと・いくつか(2020,9,25)

【小樽に行ってきました】

◎急に涼しくなりましたが、今回は、ここ二週間ほどのことについて、いくつか。

 まず、もう10日以上が過ぎましたが、9月12、13日の土日、小樽に行ってきました。小樽の絵本・児童文学研究センター主催の児童文学ファンタジー大賞の選考会議のためです。コロナになってから、初めての遠出でした。

 羽田空港は、これまで見たことがない人の少なさで、ゲートに入るところでもちろん検温。照明もやや暗めにしているのか(雰囲気のせいで、そう感じただけかもしれません)、なんだか真夜中の空港にいるような気分でした。機内も当然人数をしぼっているのかと思いきや、新千歳行きの便は満席で、つまりは便数を少なくして、お客を集中させているようでした。その事情はわかりますが、だったら、荷物検査の時に距離を取れとかいうのはなんなんだ、という気もしましたが。

◎僕はファンタジー大賞の選考委員を十数年やっていて、いつもはホテルのそれなりに大きい部屋で公開でやります。ギャラリーは例年センターの関係者がほとんどですが、やはり「うかつなことは言えな い」というプレッシャーがあり、最初の何年かは結構緊張しました。今は妙な緊張はないものの、発言する時に、もちろん基本的には他の選考委員に向かって話すわけですが、聞いている方たちにもわかってもらえるような話し方は意識します。それが、今回はコロナということで、ギャラリーはなし、例年同センターの11月のセミナーの際に行われる授賞式もなしということになりました。

 そして、討議の結果、今年度はずっと出ていない大賞はもとより、佳作も奨励賞もなしということになり、かなりに寂しい結果となりました。会員の方の中でも応募された方がいらっしゃると思いますが、(選考結果はすでに発表されていますが)選考評が来月半ばあたりに出ると思うので、ご覧になってください。僕は1作、なかなかの才能だなと感じた作品がありましたが。

【9月理事会では……】

◎小樽から帰った翌日の14日が、9月理事会でした。今回もリモートで行いました。主な議題は、10 月のWeb学習交流会のことで、5月のWeb総会はまずまず無難に終わりましたが、今度は規模も200 人、そして基本的に「講演会」ですから、Webへの参加のしてもらい方や、画面構成など、総会の時とは違う難しさがいろいろあります。総会の時は僕は正直「50人が参加してくれればいい」と思っていましたが、80人ほどの申し込みがありました。多分総会に参加された方の大半は今回も参加されるでしょうし、5月に比べればリモートもかなり普及しましたから、多くの方たちに参加していただけるのではないかと期待しています。

◎一方で、Web上でのやりとりはほとんどやったことがなくて、参加を迷っていらっしゃるという方も 少なからずいらっしゃると思います。そういう方たちにお伝えしたいのは、パソコンでネットとつながっているか、あるいはスマホをお持ちであれば、難しいことはまったくありません、ということです。(カメラのついてないパソコンでも、見たり、聞いたりする分には問題ありません。カメラは通常パソコン画面の上の枠の真ん中辺に、ポチっと穴が開いたようになっています。) 参加申し込みをいただければ、当日の少し前にメールが届きます。それが言わば「招待状」で、参加のためのチケットと思ってください。メールを開けて、そこに記されたhttpsをクリックし、次の画面で 「ミーティングに参加する」をクリックすれば、それでOKです。自分が会議の主催者になって参加者 に招待状を送る側になるためには、例えばZoomと契約したりということが必要ですが、参加する側であれば、そうした事前の手続きは一切必要ありません。

 当日の2日前になるかと思いますが(参加申込者には日時をお伝えするので、ご確認ください)、初めての方のために、そうしたWeb参加の練習日を設定しますので、心配という方はまずそこで“練習” してみてください。

【編集委員会で……】

◎そして16日には、これもリモートの『日本児童文学』編集委員会がありました。僕は編集委員ではないのですが、来年の3・4月号が協会創立75周年記念号なので、その企画について参加させてもらうため、8月と9月の編集委員会に出席しました。もう一つ、75周年の企画として、これは来年の1・ 2月号から、6回にわたって「プレイバック『日本児童文学』」というページを作ります。これは創刊以来の『日本児童文学』の中で、「昔はこんなことをやっていたのか」「こんな議論もあったのか」とい うような記事を選んで掲載しようというもので、来年は評論の連載はなくなります。

 “昔”の こととなると僕の出番なわけで、75年分から6つを選ぶのはさすがに無理なので、1970年代までの『日本児童文学』からおもしろい(と思われる)ものを十何点か選び、そこから編集委員に6点を選んでも らっているところです。ご期待?ください。

◎話が理事会に戻りますが、5月以降、つまり僕が理事長になってから、理事会はすべてリモートで、 まだ一度も実際に集まっていません。もちろん無理はできませんが、上記の選考委員会も(“無観客”ではありましたが) リアルでやりましたし、昨日代々木のオリンピックセンターで「絵本専門士委員会」という十数人規模の会議があったのですが(今年度から、僕が委員として出ているので)、これもリアルで行いました。(オ リンピックセンターの入り口には、空港にあるような検温の設備があり、なかなかものものしかったの ですが。)4、5人であればともかく、二十数人の会議をリモートでやるのはいろいろ限界があり、できれば10月理事会は初めて実際に集まって開こうと、準備しているところです。

「シルバーウィーク」はテレビで見るとかなりの人出で、その影響が心配ではありますが……。

2020/09/25

11、『日本児童文学』9・10月号がおもしろい(2020,9,15)

【その前に】

◎前回、自民党総裁選のことを書きましたが、昨日“予定通り”菅さんが選出されましたね。会見では、開口一番「秋田の農家に生まれ……」と、その出自(?)を語っていましたが、『週刊文春』(9月17日号)なども指摘していたように、当時地元の進学校に入学し、家を飛び出して(働いた後とはいえ)大学に入学するというのは、それなりに恵まれた方ともいえ、まして「集団就職で」というのは正確でないというより、ウソに近いですね。

 とはいえ、そういう僕も、このブログの最初に、「児文協に出会ったのは、秋田の書店で『日本児童文学』に出会ったのがきっかけ……」と、いかに恵まれない(?)環境で児童文学を始めたかをアピールしているようなところもあり、まあ一国の総理と児文協の理事長を並べるつもりもありませんが、“自戒”です。

 あと、この間見聞きした中で一番おもしろかったのは、何日か前の毎日新聞の投書で、長く続いた安倍政権を「悪夢のような7年8ヵ月」と、安倍さんお得意のフレーズを使って評していたことで、まさしくその通り! 座布団10枚でした。

【さて、『日本児童文学』です】

◎わが『日本児童文学』ですが、前回の7・8月号の「ジェンダーと児童文学」特集もおもしろかったですが、今度の9・10月号の特集「学校と家庭のはざまで」はおもしろかったというか、いろいろに啓発されました。 機関誌の特集内容というのは結構早く、(場合にもよりますが)半年前くらいに決めるので、おそらくこの特集を企画したのは2月か3月ころ、いずれにしても、コロナと社会、コロナと子どもとの関係については、そんなに考察が進んでいなかった時期だろうと思います。もちろん今回の特集は、コロナ禍という問題だけではなく、子どもの貧困、子どもの居場所といった問題を意識して、あるいはそれらの問題の関連性を意識しながら特集内容が検討されたと思うのですが、感心(という言い方は偉そうかもしれませんが)したのは、執筆者の選択でした。思い切って(多分)総論・各論的なところは4人とも児童文学の人ではない、子どもの問題に関わる専門家たちに登場してもらって、今の子どもたちの“居場所”をめぐる問題を、さまざまな角度から論じてもらっています。本当に勉強になりました。(書かれている中身もそうだし、こんなふうに子どもたちと関わっている人たちがいるのだ、という意味でも。)

【増山 均さんのこと】

◎ところで、やや余談めきますが、今回冒頭に登場している増山 均さんは、子どもの文化、ややわかりやすく言えば生活文化の専門家ということになると思いますが、僕は彼のことは学生時代から知っています。というのは、彼は東京教育大で僕は秋田大で学年は一つ二つ彼のほうが上ですが、共にセツルメントというサークルに入っていたのです。セツルメントというのは、元々は地域の中で、医療、生活改善、教育・保育などに取り組むある種の社会運動ですが、僕らの学生セツルメントは、まあ地域での子ども会活動といった内容でした。加古里子さんが(彼は確か東大の工学部ですが)セツラーだった(セツルメント活動をする人を、そう呼びます)というのはよく知られていますし、その時の経験が彼の創作活動の原点にもなっていると思います。

◎セツルメントは上記のように社会運動的な性格を持っていることもあり、僕もまあその一人ですが、そこをきっかけに当時のいわゆる学生運動に参加していく人間が多いという傾向のサークルでもありました。そして、全国学生セツルメント連合(全セツ連)というのがあって、僕はその大会などで、よく東京に出かけていました。その全セツ連の書記長だったのが、増山さんなのです。その後、彼がまだ日本福祉大の教員だったころだと思いますが、何かの席でお会いして、懐かしくあいさつしたことを思い出します。

◎それから、増山さんといえば、彼は今年度から日本子どもを守る会の会長になったのですが、同会発行の『子どものしあわせ』(6月号あたりだったか)に会長就任のあいさつが載っていて、そこで彼は同会としては初めての戦後生まれの会長だと書いていました。子どもを守る会のことは児文協の会員でももはや知らない人のほうが多いかもしれませんが、同会の結成には児文協が深くかかわっていますし、今も団体として加盟しています。僕も会報の理事長就任挨拶に同じことを書いたので、上記の学生時代のことを思い出しつつ、少しく感慨を覚えたことでした。

【エッセイもおもしろかった】

◎そうそう、ここで一言断っておくと、よく外部の方が僕に「この前の『日本児童文学』はおもしろかったねえ」というような言葉をかけてくださる場面があり、それは当然僕が何らかの形で編集に関わっているだろうというような前提でのあいさつのようでもあるのですが、僕は編集委員でもなく、事務局長時代は編集会議を横で聞いていて、たまに口出したりすることもありましたが、今はそういう関りもまったくありません。まあ、理事会の一員として特集タイトルぐらいは事前に聞いていますが、中身は雑誌が発行されるまでわからないので、その点はほかの会員の方たちや一般の読者と変わりないわけです。

◎それで、今回ここまで書いたようにとても興味深く読んだわけですが、上記の4人の寄稿の後に、岡田淳さんを始めとする7人の、「子どもたちの居場所」をめぐるエッセイが並んでいて、これもなかなか見事な人選だと思いました。中身はまあ読んでいただくとして、3番目の中島信子さんは、この雑誌には何十年ぶりの登場でしょうか。というか、中島さんは、かつて(僕などより前の)児文協の事務局員で、その後作家となり、協会の理事を務め、事業部長や財政部長などを歴任されました。いろいろに行き違いがあって退会されたのが、もう二十年くらい前でしょうか。ですから、古い会員の方であれば、「中島さん」といえば誰でも知っているような存在でした。

 作家としても、その後ほぼ“お休み”状態だったのですが、昨年汐文社から子どもの貧困を題材とした『八月のひかり』を久しぶりに出されて、話題になりました。確か帯には「伝説の作家」とか書かれていてちょっとおかしかったのですが、ともかくその中島さんにも本当に久しぶりに登場していただいて、うれしいことでした。編集委員の皆さんのご努力に、敬意を表します。

2020/09/15

10、自民党総裁選に思う(2020,9,6)

【安倍さんのこと】

 ◎このブログ、一応5のつく日に更新しているのですが、パソコンを修理に出すことになり、自宅から更新できず、今協会事務局に来て作業しているので、一日遅れになりました。台風10号の被害が思いやられます。

 さて、新聞の社説みたいなタイトルになりましたが、安倍首相の突然の辞任表明には驚きましたね。一方で「やっぱり」という感じもあり、病気については「お大事に」というしかありませんが、あれだけ辞めてもおかしくないことだらけだったのに辞めないとなると、そのストレスは人間の限界を超えていたようなところもあったでしょう。だから、「病気で辞める」という辞任の仕方は、安倍さんにとって“名誉”を守れる最後の手段だったような気もします。しかも、総理大臣としての最長記録を作ったとたんに辞めたわけですから(2000本安打を打ったところで引退したプロ野球選手を思い出してしまいましたが)。逆に言えば、あれだけのことをさせておいて、世論の力で辞めさせることができなかった、というのは、残念というしかありません。

◎安倍さんのこれまでのいろいろにもその都度新鮮に(?)驚かされましたが、さらに呆れるのは、総裁選の成り行きです。上記のように、客観的に見れば安倍政権の行き詰まりの末の辞任だったわけですから、従来の自民党の総裁選であれば、嘘でも(?)なんらかの改革とか刷新といった言葉が飛び交っていたと思います。それが、「安倍政権の継承」を打ち出した、ある意味安倍さん以上に安倍政治の担い手だった人が圧倒的大本命というのですから。 つまりは、「国民のために、今何が求められているか」といった命題に、格好だけでも応える気もなく、あるいは余裕もなく、とにかく今の権力体制をどう維持するかということのみでモノゴトが動いているという、民主主義として誠に危機的な状況を、わたしたちは目の当たりにしているのだと思います。

【菅さんのこと】

◎さて、その大本命の菅さんは秋田出身で、僕より一つ年上、つまり同郷にして同世代になります。菅さんが総理になれば、秋田出身者としては初めてのことになります。ここからは飲み屋で一杯やっているおじさんのたわごと程度に聞いていただければよいのですが、僕が協会の事務局長になってそんなに経ってない頃なので、1990年前後あたりでしょうか、ふと気がついたのですが、児童文学の団体のトップに、妙に秋田関係者が多かったのです。

 そう思い始めたのは、多分児文芸の理事長に高橋宏幸さんが就任されたのがきっかけだったでしょうか。 高橋さんは児文協の会員でもありましたが、元々は小峰書店の編集長で、絵も文も書かれ、教科書にも掲載された『チロヌップのきつね』が代表作でしたが、秋田大学の全国にただ一つという鉱山学部(今は改組・改称されましたが)の前身の鉱山専門学校卒業という、異色の経歴の方でもありました。僕は同郷ということで、いろいろ声をかけてもらいましたが、ふと気が付くと当時の児童文学学会の会長の滑川道夫さん(僕からは滑川先生という感じですが)も日本子どもの本研究会会長の増村王子(きみこ)さんも秋田出身で、お二人は秋田大学教育各部(の前身の、師範学校および女子師範)の大先輩でもありました。(このお二人も児文協の会員でもあり、滑川さんは児文協理事長も務められました。)

◎実は、残念ながらというか、お隣の岩手県には宮沢賢治、山形県には浜田広介という大看板がいるのに比べて秋田出身ではこれといった作家が見当たりません。もう一つの隣県の青森県にも協会の第二代会長の秋田雨雀がいますし、児童文学ではありませんが、太宰治、寺山修司といった大所がいます(秋田は、児童文学だけでなく、大人の文学でも、これといった名前があがらないのです)。そんな中で、上記のように、児童文学の関連団体の長に意外に秋田出身者が多いことに気が付き、児文協事務局長に成り立てだった僕は、つまりは秋田出身者はこういう調整役という役どころには向いているのだろうという、およそ根拠のない感想を抱いたことがあったわけです。そういうふうに思うことで、自分を励ましたのかもしれません。

 菅さんはこれまでまさに「調整役」としての手腕は認められてきたわけで、さてその人がトップになった場合、どうなのか。正直、そんな興味もないことはないのですが、しかしここまで書いたように、秋田出身というだけで何か共通点があるという妄想を抱いたりする僕にとっても、同郷・同世代の菅さんに何かしらの親しみを覚えるかといわれれば、それは自分でも驚くほどゼロです。それほど、今回の自民党総裁戦の構図は、醜いというか、権力闘争丸出しという感じしかしません。

 菅さんは、会見でも「秋田の農家に生まれ……」というふうに、自分の出自をむしろやや誇らしげに(つまりエリート政治家の安倍さんなどとは対極にあることを強調したいのでしょうが)語っていましたが、これからは「秋田」という言葉を彼の口から聞くたびに、やや苦々しく思うことになるのでしょうか。

2020/09/06

9、野球(ロッテ)の話(2020,8,25)

【今年のプロ野球は……】

◎関心のない方には誠に恐縮な話題ながら、日本のプロ野球の話です。今年はコロナのせいで開幕が2ヵ月近く遅れ、しばらく無観客でしたが、今は観客を5千人にしぼって試合をしています。球場は一番収容人数が多い東京ドームで4万6千人、少ない千葉のロッテのマリンスタジアムで3万人ほどです。 そこに5千人ですから、かなりディスタンスは取れるというものの、コロナは大丈夫かと懸念されますが、今のところ野球場で感染といった問題は起きていないようです。

◎ということで、例年よりも少ない試合数でペナントレースが進められているわけですが、セリーグは早くもやや巨人の独走状態、パリーグは混戦模様になっています。そしてこの前の21日の金曜日ですが、ロッテがソフトバンクに勝って単独首位に立ったのですが、これが(8月の段階で首位になったことが)なんと「50年ぶり」ということでニュースになりました。うれしいというよりも、恥ずかしいですね、ファ ンとしては。前の7月5日付のブログにちらっと書きましたが、はい、僕はロッテマリーンズのファンですが、50年どころではありません。ファン歴60年というすごさ(?)で、なかなかいないと思います。

【なぜ、ロッテファンに?】

◎上記ニュースの「50年前」というのは、そもそもまだ「ロッテ」ではなく「東京オリオンズ」で、多分金田監督の時代だと思います。僕はその十年前ですから、ファンになったのは小学生の時です。当時、秋田の田舎の子どもは90%が巨人ファン(テレビは巨人戦しかやらないし)、残りが親の影響などで、 阪神ファン、南海ホークスファン等々というくらいで、「大毎オリオンズ」ファンの小学生など、秋田県全部でも10人はいなかったのではないでしょうか。実は自分でもなぜファンになったのかはっきり覚えてないのですが、オリオンズは「10年毎に優勝する」というジンクスがあって、1950年、60年、 70年と優勝しています。その1960年は僕が10歳なわけで、当時『少年サンデー』『少年マガジン』が創刊されて間もない頃でした。そこに優勝の特集記事が載り、惹きつけられたのではないかと思います。それ以外、考えられません。ともかく、そんなわけで、ロッテ一筋60年なわけです。

【児童文学界とロッテ】

◎今の千葉に移る前の、“伝説”の川崎球場のことなど(なにしろ人が入らなくて有名でした)、書きたいエピソードはいろいろあるのですが、ここは自重(?)して、「児童文学界とロッテ」ということで お話したいと思います。児童文学の世界で僕以外にロッテファンとして知っているのは(当然、数は少ないですが)6人ほどいます。

 まずは皿海達哉さん。皿海さんは広島県生まれですから元々は広島ファ ン。それが東京で過ごした学生時代、同人誌仲間の日比茂樹さんの影響でロッテファンになりました。ちょうど50年前の金田監督の時代だと思います。当時のことを皿海さんに語らせたら、3時間くらいの独演会になります。

  そして、児文協元会長の砂田弘さん。砂田さんは山口県出身で元々は福岡の西鉄ライオンズファンでしたが、千葉のロッテ球場から近い所にお宅があった関係で、ロッテファンになりました。その砂田さんを、一度だけ球場でお見かけしたことがあります。お嬢さん(当時小学校高学年か中学生くらいか)と一緒でした。砂田さんという人は、気難しいというかシャイというか、めったに笑顔など見せない人でしたが、その時のお顔は僕が見たことのない柔らかな表情でした。

  ここからはイニシャルになりますが、中部児童文学会のNさん。協会事務局にいらした折に、ふと気がつくとロッテのクリアーファイル(だったと思います)をテーブルの上に置かれたのです。僕がロッテファンと聞きつけて、「私もです」というサインを出してくれたわけです。もうお一人、会員のMさん。やはり球場で帰り際バスを待っていた時にばったりお会いしました。

◎そして、最後の一人は三田村信行さんです。僕は三田村さんとは面識がなく、はじめてちゃんとお会いしたのは、上記砂田弘さんの評論集の出版パーティーの折でした。二次会の時にすかさず隣に座った僕は、三田村さんに「好きな球団はありますか?」と尋ねたのです。三田村さんの作品のなかに野球の話もあるので、そう聞いたわけですが、ある予感としては“こういう作風の人は、まさか巨人ファンではないだろう”という、思い込み的予感もありました。すると三田村さんが「ありますが、恥ずかしくて言えません」とおっしゃるので、「では、僕から言います。ロッテです」というと、「私もです」とお っしゃったのですが、あとから「えっ、ロッテって、恥ずかしくて言えない球団?」と一人で笑えまし た。

 なお、ついでに(?)お知らせすると、協会事務局は、次良丸さんが(名古屋出身なので)中日ファン、宮田さんはお父さんの影響で巨人ファンです。随分昔のことになりますが、次良丸さんが事務局に勤めて間もない頃、東京ドームにロッテ対日本ハムの試合を一緒に見に行きました。日ハムが北海道に行く前で、東京ドームがフランチャイズの時代です。僕が「ロッテファン、結構いるでしょ」と自慢(?)したら、「これで全員じゃないですか?」と切り返されて、これも笑えました。

  さて、これを読んで、「私もです」とおっしゃる方は、恥ずかしくありませんので(笑)、どうぞご一報く ださい。(そういえば、会員のどなたかからそのように聞いたような覚えも。抜かして、ごめんなさい。)

2020/08/25