藤田のぼるの理事長ブログ

2022年09月

81、懸賞に当たった話(2022,9,25)

【「日刊ゲンダイ」のクロスワード】

・4、5日前のことです。郵便物の中に、「日刊ゲンダイ」からの封書がありました。「もしかして……」と思いました。新聞社などからの郵便物の場合、モノカキとしては、まずは原稿依頼を疑う?のが本来かと思いますが、「ゲンダイ」に関しては別の思い当たりがあったのです。クロスワードの応募です。 首都圏以外の方は、あまり馴染みがないかもしれませんが、タブロイド判の夕刊紙(普通の新聞と違って家で取っている人というのはごく少なく、駅の売店などで買います)は二紙あり、ひとつが「夕刊フジ」、もうひとつが「日刊ゲンダイ」です。「フジ」の方は産経新聞系で右寄りの論調が目立ちます。これに対して「ゲンダイ」の方は講談社の「週刊現代」系で、政権に対してかなり批判的なスタンスを取っています。以前、協会が学術会議の問題で理事会声明を出したとき、翌日だったか大きく報道してくれたのも「ゲンダイ」でした。

・僕は、事務所の行き返りなど、読む本がないような時、この「日刊ゲンダイ」をたまに買う時があります。上記の声明のニュースを見たのも、たまたまその掲載紙を買ったのでわかったのでした。結構ページはありますが、読むところは限られているので、時間が余ると、クロスワードパズルをやってみる時もあります。それなりに時間はかかりますが、まあ必ず全部解けます。

 大分前になりますが、せっかく解いたのだから、正解を応募してみようという気になりました。発表を見ると、大体応募は2~3千人位で、当りは何人だったか、数人という程度だったと思いますが、5千円のクオカードが商品です。これを何度か出したことがあって、はっきり覚えていませんが、半月ほど前にも出したと思うのです。

・開けてみると、やはり「当たり」のお知らせ、そして5千円のクオカードがまちがいなく入っていました。ものすごい、というほどではないにせよ、結構低い確率ですから、ちょっとびっくりしました。(応募の何日後かに、当選者として僕の名前が載ったはずですが、それは見ていません。)今まで出した回数もせいぜい5、6回というところでしょう。

【当たった、といえば】

・いわゆる“くじ運”という言い方がありますが、僕はまあそんなにいいわけでもないけれど、悪いわけでもない、という感じでしょうか。子どもの頃、マンガ雑誌か学年誌か、賞品からすると後者だったかも知れませんが、結構ちゃんとした水筒が当たったことがあり(3等くらいだったでしょうか)、なぜか赤い水筒だったので姉にあげた覚えがあります。

・宝くじは一度も買ったことがなかったのですが、もう二十年近く前になるでしょうか、芝居をやっている娘が、テレビの宝くじのコマーシャルに出るということがありました。西田敏行の後ろで踊っていた何人かの内の一人です。それで、この機会に買ってみようと、年末ジャンボだったか、通し番号のを一袋買いました。そしたら、なんと、いきなり1万円が当たったのです(1万円は4ケタの番号かな?)。 これにはびっくりしました。もしかして、自分はとてもくじ運がいいのでは、と思ってしまいました。

 以来、宝くじは買うようにしていますが、今まで初回を含め、1万円が3回当たっています。1回3千円かかりますから、これはまったく元は取っていないのですが、人に話すと、それは結構いい確率(長く買っても、一度も当たらないという人も少なからず)だとも言われます。まあ、〇億円を夢見て(その時は児文協に1千万くらいは寄付できるか!?)、とりあえずはハロウィンジャンボですね。

 今回は、なんだか暇そうな(笑)ネタになりました。そうそう、一昨日毎日新聞を見ていたら、池袋の芸術劇場で、10月に「世界のお巡りさん」コンサートというのがあって、すべてご招待、懸賞です。というので、スマホで検索したら、そのまま応募できました。これは以前に書いたかもしれませんが、某新聞の読者プレゼントで、初台の国立劇場のコンサートが当たったことがあり、それがウクライナのキエフ国立フィルでした。3年ほど前のことです。あのオケの人たちは、今どうしているのでしょうか。

2022/09/25

80、小樽、半田そして黒姫に(2022,9,15)

【小樽に】

・このブログは、基本10日毎の更新ですが、この間は僕としては珍しくかなりの“走行距離”を稼いだ日々でした。その手始めは、10、11日と小樽に行ってきたことで、児童文学ファンタジー大賞の選考委員会のためでした。

 すでにご存じの方も多いと思いますが、この賞は今回の第28回で終了となります。よく知られているように、大賞はわずかに2回、第1回の梨木香歩さん「裏庭」と第3回の伊藤遊さん「鬼の橋」のみです。委員になる前は「ぜひ大賞を」と思っていましたが、佳作すらなかなか出ないという状況で、最後の今回も最終候補作は3点ありましたが、佳作の次の奨励賞もなしという残念な結果になりました。 最終候補作は3作で、僕はそのうち1作はおもしろく読み、せめて奨励賞と思いましたが、賛同を得られませんでした。受賞作なし、というのも、この賞らしい終わり方といえるかもしれません。

・賞を今回で閉じることは2年ほど前から決まっていたこともあり、前回から新たに茂木健一郎さんとアーサー・ビナードさんが選考に加わりました。特に茂木さんのような他ジャンルの人の読み方、評価の仕方はなかなか新鮮で(かつ説得力もあり)、その点はおもしろかったです。「ファンタジー児童文学」を掲げた公募賞がなくなることはやはり残念ですが、東京ではなく、小樽に拠点を置く民間団体が、こうした大きな賞を実施してきたことは特筆されることだと思います。ちなみに、通算の応募数は5443作品ということでした。

【半田、そして黒姫へ】

・日曜日の夕刻に帰宅し、翌月曜日は協会の理事会でした。前回まではずっとリモートでしたが、コロナがいつ明けるか見通しにくい状況のなかで、集まれる人は集まり、リモートの人はリモートで、ということで、今回から“ハイブリッド”方式で理事会を開くことが決まっていました。理事長の僕としては、当初は事務所に出向いてリアル出席のつもりでしたが、前日に北海道から帰り、次の日の火曜日は半田市の新美南吉記念館に行かなければならず、体力的なことを考えて、今回はリモート参加のつもりでした。

 ところが、月曜日の午前中パソコンを開けると、ネットにつながりません。たまに、ルーター周りの配線がゆるんで繋がらなくなることがあるのですが、それも確認しましたが、相変わらず繋がりません。それが11時過ぎだったでしょうか。僕の家から神楽坂の協会事務局までは1時間半以上は優にかかります。ぐずぐずしている暇はないので、急きょ事務所に向かうことにしました。理事会は2時からでしたが、事務所についたのが1時45分くらいだったでしょうか。なんとかセーフでした。

・そして、火曜日、愛知県半田市の新美南吉記念館に向かいました。前も書いたように思いますが、僕は南吉記念館には年に3回出かける用事があり、夏の「事業推進委員会」、秋の「新美南吉童話賞選考委員会」、そして冬に同賞の表彰式です。今回はその事業推進委員会だったわけで、これは要するに館の運営に関して、外部の「有識者」にいろいろ意見を求めるための機構なのですが、去年から宮川健郎さんに加わってもらっています。半田市は、名古屋から名鉄線の特急で30分余りの距離です。その名鉄線の出発ホームで宮川さんと一緒になりました。そして、電車の中では那須さんの話になりました。ちょうど名古屋に向かう新幹線のなかで、那須さんの奥さんからラインが届き、広島ホームテレビで作成した那須さんの追悼番組をYouTubeにしたのを、送ってもらいました。それを宮川さんに見せながら、いろいろ話をしていたわけです。

 ふと気がつくと、止まった駅は知多武豊。本来降りなければならない知多半田駅を過ぎていました。あわてて降りて、記念館に電話し、戻りの電車を待って、大分遅刻して、記念館につきました。上記のように僕は通算すれば数十回記念館に行ってるはずですが、初めての乗り越しでした。

・会議は無事終わり、名古屋に戻りました。前は名古屋に泊まったりもしましたが、近年はその日のうちに帰るパターンが多くなりました。ただ今回はいつもとは違う旅程を組んでいて、名古屋から中央線経由で、長野に向かいました。というのは、長野県の黒姫童話館に行く用事があるのに、なかなかその機会が取れなかったので、「名古屋に行くついでに」黒姫に向かうことにしたわけです。

 名古屋から長野までは、松本を通って特急でちょうど3時間です。新幹線なら3時間あれば東京から大阪に行けますが(今ならもっと行けるかな)、在来線はやはり時間がかかります。それでも、5時40分に名古屋を発って、缶ビールなど飲みながらゆっくり長野に向かうのも(いささか疲れましたが)いい“旅”でした。

【黒姫童話館で】

・黒姫童話館に行こうとした一番の理由は、斎藤隆介関係の資料を見せてもらうためでした。以下、詳しく書き始めると相当長くなるのではしょりますが、黒姫童話館には、斎藤隆介夫人から童話館に寄贈された、原稿などの資料が保存されています。その中に、斎藤隆介の童話の言わば原点である「八郎」の原稿が含まれているのです。1950年に書かれた原稿ですから、僕の年と同じ、72年前の原稿です。このことは以前書きましたが、僕は「八郎」の原稿が童話館にあることは知っていましたが、これが1950年に書かれたオリジナルの原稿であることを知ったのは、結構近年のことです。僕の思い込みで、隆介さんがそんな古い原稿を保管しているはずがなく、後で原稿用紙に書き直したものだろうと思いこんでいたのです。それで、これが72年前の原稿だと知り、これは絶対見に行かなくては、と思っていました。

 今回、それが叶ったわけですが、この4月から館長になられた山崎玲子さんに黒姫駅まで迎えに来ていただき、「八郎」の原稿や、その他の資料をゆっくり、じっくり、見させてもらいました。本当に行って良かったです。行かなけれは絶対わからないことが、いくつかわかりました。出し惜しみするわけではありませんが(笑)、これについては、場を改めて、“発表”しようと思っています。

 僕は研究者ではなく、あくまで評論家だと思っていますから、今まで作家の(モノとしての)原稿に対する関心はほとんどありませんでした。ただ今回は、繰り返しますが、実物を見なければわからない発見がいくつかあり、そういう作業を遠ざけていた自分を反省する思いもありました。

 ということで、昨日の夜に帰ってきたわけで、最初に書いたように、僕としては珍しい強行軍でしたが、充分モトはとれた二日間でした。(なお、ネット接続は配線の問題とパソコンの方の接続がたまたまオフになってしまっていた二重の理由で、今朝ほど復旧しました。)

※那須さんのYouTubeは、広島ホームテレビ作成の「反戦への思い ズッコケ三人組と作者・那須正幹」です。結構長いです。https://youtu.be/JfOrFqNBPJQ 

2022/09/15

79、内田さんの本、高校生の時のこと(2022,9,5)

【内田麟太郎さんから】

・少し前に届けていただいた本は、『絵本のことば 詩のことば』というエッセイ集でした。全体が三章に分かれていて、第一章が「炭鉱の町から 故郷と家族」、第二章が本のタイトルと同じ「絵本のことば 詩のことば」、そして第三章が「出会った人々」という構成になっています。そこからもわかるように、絵本作家であり(ご本人は「絵詞作家」と自称されていますが)詩人である内田さんの文学論であると共に、なかば自叙伝風な内容、おもしろさの、誠に“読ませる”本でした。

・内田さんの来歴は、折りに触れ、うかがったり、読んだりしていましたが、大牟田での少年時代のこと、「プロレタリア詩人」だった父上のこと、六歳で死に分かれた生母と折り合いの悪かった継母のこと、そして若き日の詩人としての思想的な遍歴など、なかなかにドラマチックなのですが、例えば内田さんが生まれ育った大牟田には、家の近くだけで映画館が八館もあり、「絵本テキストを書いているときに、自分が映画監督になりテキストを展開しているのを感じる」といった一節には、なるほどと思わされました。

・中でも、いかにも内田さんらしくおもしろかったのは(と言っては失礼かもしれませんが)、高校時代のエピソードでした。そもそも数学がとても苦手だった内田さんがその高校に入学したのは、「いささか正当とはいえないやり方で」試験を通過したという告白付きですが、そのせいで数学はさっぱりわからず、三年間ほぼ数学の時間は寝ていたというのは、時代のおおらかさも感じさせます。そして、高校三年の時は遅刻の常習者で、それは憧れている同級生(女性です)がやはり遅刻の常習者で、毎日その後を追いながら登校するので否応なく遅刻になってしまう、という件は、その時の内田さんの表情が目に浮かぶようでした。卒業式の時はさすがに遅刻はせず、担任の先生から「いつもこの時間だとよかったのになあ」と言われた、というのですから、これも今なら考えられないような話です。ちなみに、その女性は内田さんのおつれあいではないようです(笑)。

・もう一つつけくわえると、この本は晧星社(こうせいしゃ)という出版社から出ています。僕もいささか縁のある出版社なのですが、これまで「ハンセン病文学全集」など、かなり硬派の本を出してきました。この出版社が、これから児童書も出していきたいということなので、皆さんの目に触れる、あるいは著者として関わっていただく、ということがあるかもしれません。

【僕の高校時代】

・内田さんの高校時代の、うらやましいような(?)エピソードを読みながら、自分の高校生時代を思い出したりしました。僕の高校時代は、内田さんから十年近い後ですし、なにしろ筋金入りの優等生だった僕(笑)のことですから、内田さんのような楽しいエピソードはほぼありません。ただ、三回前に書いた(統一教会がらみで)学外のユネスコ研究会というサークルに熱心に通ったのは、ひそかにあこがれていた女性がそこにいたからでした。このあたり、男子高校生のモチーフは、いつの時代もまあ似たようなものでしょう。告白もできませんでしたが、名前はよく覚えていて、娘が生まれた時にその名前にしようかと思ったのですが、カミさんに見透かされそうでやめておきました。

・そんな僕が、高校時代にやや唯一、反抗的思いを形にしたのは、自分の誕生日は学校を休んだことでした。「天皇誕生日」も休みなのだから、まして自分の誕生日は自分だけの祝日だ、というふうな理屈をつけました。僕の誕生日は3月5日で、三年生の時は大学受験で東京に来ていましたが(このことは前に書きました)、一年の時と二年の時はきちんと(?)休みました。ただその時期は確か期末試験の前あたりなので、まわりからは休んで勉強してんだろう、と思われていたかもしれません。やれやれ。

2022/09/05