藤田のぼるの理事長ブログ

古田さんのこと3

【関英雄さんが亡くなった時のこと】

本日の“話題”は、ちょっと微妙である。ここまで2回にわたって書いたように、古田さんは僕にとってある種絶対的な存在だったが、僕は少なくとも一度理事会で古田さんに食ってかかったことがあるし、後で書くように、呼びつけて文句を言ったことが一度だけある。その「文句を言ったこと」だが、話は関英雄さんが亡くなった時のことに遡る。

といっても、若い会員のためには、関さん自体にも注釈をつけなければならないだろう。協会の初代会長は小川未明だが、その未明の弟子くらいの世代、ご存命なら百歳を少し超えている。だから、戦後間もない頃は30代の働き盛りで、“長老”の未明たちを説いて回って、児童文学者協会を作った人といっても、そう不正確ではない。僕が協会事務局に入った頃は、その関さんが協会の理事長で、藤田圭雄(たまお)さんが会長だった。藤田圭雄さんというのは童謡研究家だが、元々中央公論社の編集長を務めた人で、そのポジションは今では考えられないくらい、出版界で大きな存在感だった。だから、顔の広い藤田さんが会長、児童文学の世界生え抜きの関さんが、会のまとめ役の理事長というのは、とても座りがよかったのだ。(ちなみに、藤田圭雄さんと僕とは、親子でも親戚でもありません。)

あまり座りが良すぎて、藤田・関体制は、70年代から90年代にかけて、2期18年も続いた。そして、そのことは、いささか世代的なひずみを残す結果となった。関さんの次の世代である今西祐行さん、前川康男さん、長崎源之助さん、大石真さんといった人たちが会長・理事長を務めるタイミングがなくなってしまったのだ。そして、92年、藤田会長はついに退任し、関さんが会長に就任した。これは当然の昇格である。問題は理事長だった。上記のように、前川、長崎の世代はもう理事自体をリタイアしている。そうなれば、次の世代の代表格である古田さんが理事長に就くのが、誰の目からも当然のことだった。しかし、健康上の不安があるからということで、古田さんは固辞。結果としてさらに若い木暮正夫さんが理事長になった。そして、96年4月、協会創立50周年集会を目前にして、関さんが亡くなった。

となれば、問題は次の会長である。理事長はともかく、会の代表者である会長には、やはりどうしても古田さんについてもらわなければならない。僕はひそかに(でもないが)、そう思い、関さんが亡くなった日、病院に古田さんに来てもらった。ご家族を別にすれば、その夜、病院にいたのは、古田さんと古世古和子さんと僕の三人。口には出さなかったが、「古田さん、次の会長は引き受けてくださいよ」というメッセージだった。

しかし、その時も古田さんは、やはり健康上の不安を口にし、会長を引き受けなかった。この時の理事会はとても難航した。古田さんの口からは、木暮さんや僕の名前まで飛び出し、僕は正直腹が立った。自分でどうしても引き受けられないのなら、砂田弘さんなり、同世代の人に引き受けてもらえるよう、どうして下工作をしない。成り行きでもし木暮さんということになれば、古田さんや砂田さんを始め、先輩に当たる人たちがまだまだ元気な中で会長職を務めるということがどんなに苦労かということがわからないのか、と。さすがに木暮さんも会長を引き受けるとは言えず、結局理事長として一年間会長代行を務め、一年後に古田さんの健康が回復して会長に就任することを期待する……という結論になった。そして一年後、ようやく古田会長が実現した。古田さんが2期半、5年間会長職というのは、そういう経緯だったのだ。

【古田さんを呼びつけたこと】

その一年間の、木暮さんが会長代行だった時か、いやそう書いて今自信がなくなってきた。もしかしたら、その4年前の、木暮さんが(やはり古田さんの固辞により)理事長になった時のことだったかもしれない(すみません、僕の記憶はその程度で)。ともかく、そういうことで、木暮さんが理事会の議長を初めて務めることになったのだ。木暮さんはそんなに自分からみんなの発言をリードしたり、強くまとめていったりはしない。当時の理事メンバーは、話し出すと長い人が少なくなかったから、なかなか話が進んでいかないのだ。そんな理事会が2、3回続いた後だったと思う。古田さんが、議長を交替制にしようと言い出した。僕は本格的に腹が立ち、古田さんを呼び出した。さすがにそういうことは、後にも先にもこの時だけだった。高田馬場の駅前の喫茶店だった。

僕が言ったのは、「あなたがた(というのは、古田さんおよび同世代の理事たち)は、あれだけ理事長を固辞して、若い木暮さんに押しつけたのだから、無条件に、誰よりも木暮さんを応援するのが当然なのに、よりによって議長を交代させるとはどういう了見だ」という趣旨のことを、さすがに面と向かってはあまりきつい調子では言えず、もごもごと話した。古田さんは、そのことにはあまり直接には答えなかったと思う。少し間をおいて、なんだか別のことを話し始めた。僕ははぐらかされたような、少しホッとしたような、微妙な気分だったことを覚えている。

【古田さんなら……】

最初に書いた「理事会で食ってかかった」というのは、もっとずっと前のことで、古田さんは山口県立女子大に勤めるため、何年か東京を離れた時期があるが、その後また理事に復帰した。その時に、いない間の活動について、やや否定的な評価の発言があったので、「そういう清算主義的な評価はやめてもらいたい」というようなことを言い、後で木暮さんに「よくああいうことをいえるね」と言われた。

考えてみると、僕はこう見えて(?)結構気が短いところがあるのだが、古田さん以外の人に、そういう口をきいたことはないかもしれない。僕は他の理事と違い、事務局員でもある。理事の誰かと気まずい事になれば、仕事に差しさわりが出るのだ。しかし、古田さんなら、何を言っても大丈夫という気持ちが僕の中にあったのだろう。それを根にもったり、感情を害したり、というような、小さい人でないことが分かっていたから、僕は平気で(でもないけれど)ああいう口がきけたのだ。

いい年をして、今更甘えられる相手がいなくなったこと、はむかえる存在がいなくなったことを嘆くのはそれこそ甘えなのだろうが、(変な言い方だが)いてくれるだけでよかったのに、もう少し。(この回終わり)

 

 

 

 

2014/07/18

古田さんのこと2

【古田さんといえば】

ほぼ唯一といえる趣味は麻雀で、協会のパーティーの時なども終わり頃になるとソワソワし始め、そのうち四人でどこかへ消えるというパターンでした。僕はやらないのでその点でのつきあいはありませんでしたが、編集者で大分つきあわされたものの、結局作品は書いてもらえずという“被害者”が、結構いたのではないでしょうか。

麻雀のせいかどうかわかりませんが、僕が協会の会員になってまもない頃、熱海で夏の集会があった時のことです。夕方大広間のようなところでみんな休んでいる時に、古田さんが腰が痛いというので、マッサージを誰かが呼び、白衣を着たおばさまがやってきました。早速マッサージが始まったのですが、これがなかなかハードで、古田さんがヒーヒーいうのを見て、亡くなった北川幸比古さんたちがゲラゲラ笑うわけです。僕は、あこがれの(?)古田足日の情けない(?)姿にややショックを受けましたが、きっとあの夜も卓を囲んだに違いありません。

【古田さんのまとめ】

僕が古田さんと知り合って始めの頃、もっとも印象的だったことの一つは、研究会などの際の古田さんの「まとめ」のすごさでした。いろいろな規模の研究会があり、古田さんがまとめの発言をすることが少なからずあります。さまざまな発言が出てきますが、それがすべてテーマを深める感じの発言とは限りません。むしろ、その逆の場合が多く、大体研究会の討議が本当に深まったと思えるようなケースはめったにないのではないでしょうか。そんな中、古田さんは、僕などからみて、トンデモ発言と思えるような発言も含めて、ほとんどの発言を全体の文脈の中に位置づけつつ、今日の討論の中で何が明らかになったのか、何がまだ明らかでないのかを解き明かしていくのです。僕にはそれは神業のように思えることがありました。つまり、古田さんの分析力は無論のこと、理論的包容力というのが半端ではなかったのだと思います。

【古田さんの会議】

それと表裏一体かと思いますが、今度9月に出る会報に掲載される丘さんの弔辞の中でも触れられていますが、古田さんは言葉の使い方、言葉の定義ということに、大変厳しい人でした。古田さんの辞書に「適当」とか「要するに」という言葉はなく(?)、一つひとつのことを決めるのにも、「そもそも」というところから組み立てていかないと、気が済まないのです。

これは、モノカキとしては美質かも知れませんが、実務的なところでは時々やっかいなことになります。あれは、いつ頃だったでしょうか。当時事業部は夏の集会を担当する「第一事業部」と、文学学校などを担当する「第二事業部」に分かれていて、古田さんが第一事業部長、安藤美紀夫さんが第二事業部長という時代がありました。

この二つの事業部の会議の時間が極端に違うのです。第二事業部はさっさと決めるべきことを決めてしまい、後は安藤さんの好きなお酒を飲みに行きます。でも、第一事業部は三時間くらい経っても、まだ「そもそもこのイベントの意義は」みたいなことをやっているのです。でも、その第一事業部の人たちは、異口同音に、その話し合いがいかに勉強になるかを語るのです。そして、正反対なような古田さんと安藤さんは、とても気が合うのです。安藤さんはガンで60代前半で亡くなりましたが、その葬儀の際の古田さんの号泣(この言葉、最近使いにくくなりましたが)は、今も忘れることができません。(第2回・終わり)

 

2014/07/14

古田さんのこと1

【本ブログについて……初めてお読みになる方に】

先週お送りした会報と一緒の文書で、協会HPの会員専用ページのことを告知したので、今回初めてこのブログをご覧になる方も、少なからずいらっしゃると思います。このブログのコンセプトというか性格については、5月18日付の第1回に書きましたので、ご参照ください。要するに、話題は協会のことが中心ですが、あくまで私的な性格のものだということです。

前回まででようやく総会報告が終わり、今回から何回かにわたって、先月亡くなられた古田足日さんについて、思い出のいくつかを書きたいと思います。

【古田足日との出会い】

僕は、秋田大学の学生だった時、児童文学と三つの出会いをしています。まずは、一年生の秋、斎藤隆介の「八郎」(これは、秋田弁で書かれています)を読んで、児童文学ってすごいと思い、読み始めるようになりました。二つめと三つめは、二年生から三年生になるあたりに前後してだと思いますが、一つは、書店で『日本児童文学』という雑誌を見つけたこと。まわりで誰も児童文学をやっている人がおらず、僕はここから、さまざまな情報を得ることができました。そしてもう一つが、古田足日と出会ったことで、具体的には『宿題ひきうけ株式会社』と評論集『児童文学の旗』でした。『児童文学の旗』は70年6月刊で、多分『日本児童文学』でそれを知って、出版直後に買い求めたのだと思います。田島征三の装丁が誠に印象的でした。そして、その影響で、僕は自分でも書きたいと思うようになりました。評論と創作の両方を、です。

四年生の時に「児童文学の現代的意義とその方法」という、大風呂敷の卒論を書いたのですが、卒業できず、二度目の四年生の時、一年生が何人か集まって(僕が半ば顧問のような形で)児童文学のサークルを作り、同人誌を2冊出し、僕はそこに評論と創作の両方を載せました。

【古田さんに初めて会った時】

ですから、僕が会いたい人は斎藤隆介と古田足日の二人でした。斎藤隆介は、二度目の四年生の年に、隣県の山形で児文協の夏の集会があり、その記念講演が斎藤隆介だったので、「見る」ことができました。残るは古田さんでした。東京に出て小学校の教員になった僕は、その年、春からは子どもの文化研究所の連続講座、秋からは児文協の児童文学学校に出たのですが(第3期で、その頃は秋の開講でした)、どちらも古田さんの講義はありませんでした。

そして、翌年、ということは1974年、上記の子どもの文化研究所の連続講座で古田さんが話すというので、その回だけ出させてもらいました。5月くらいだったでしょうか。古田さんは深緑色のカーディガン姿だったと思います。

話の中味は覚えていません。講義が終わった後、質問の時間になり、僕は手を挙げました。「あなたは、創作と評論を両方やっているが、それはどんな気持ちからなのか」というふうなことを聞いたのだと思います。その答は覚えていません。ただ、古田さんが僕の前のテーブルの上にじろりと目をやって、「君の机の上にある、明治書院の本は……」と言われたことは覚えています。ちょうどその頃に、明治書院から全8巻の「講座 日本児童文学」という叢書が出ていて、僕はなんとなくその本(オレンジ色の装丁でよく目立つのです)をテーブルの上に置くことで、古田さんに(ちゃんと読んでいますと)アピールしたい気持ちがあったのだと思います。それを見透かされたようで、ドキッとしたのだと思います。

講義の後、何人かで喫茶店に行きました。そこで、「君も評論を書くのかね?」と聞かれました。それまで書いた中である程度まとまったものといえば、卒論ぐらいしかありませんから、その話をしました。その中に、山中恒について書いた部分があり、古田さんは熱心に聞いてくれました。

【古田さんからのハガキ】

それから一週間くらい後だったでしょうか。古田さんから、ハガキが届きました。当時繰り広げられていた「ベトナムの子どもたちに平和を」のキャンペーンの絵ハガキで、そこには、この前聞いた山中恒論を送れ、と書いてありました。まったく予感がなかったといえばウソになりますが、ちょっとほっぽたをつねりたい感じではありました。当時(今のようなコピー機はなく)青焼きコピーというのがあり、それを送ったところ、『日本児童文学』で、「現代児童文学の出発を振り返る」というような特集を考えており、若手の書き手を探していたので、書きなおせば載せるということでした。今度は、ほんとに頬をつねりました。

それが、1974年10月号の特集「現代児童文学の出発点」で、表紙絵は田島征三。僕の“評論家デビュー”でした。僕は24歳、古田さん46歳。ちょうど40年のおつきあいだったことになります。(第1回・終わり)

2014/07/13

総会報告3

本日は、6月30日、総会からちょうど一ヵ月経ちました。こんなに遅くなっての「報告」で、面目ありません。

【時間の心配】

総会のオフィシャルな報告は、まもなくお届けする会報でお伝えしますが、今回事務局的に心配だったのは、まずは時間のことでした。協会の総会は、今回のように、役員改選や活動方針案審議のある「表」の年度と、それがない「裏」の年度が交互にきます。かつては、協会の総会は、午前からやっていましたが、かなり前から、「裏年度」は午後からの開会となりました。しかし、「表年度」については、前回つまり2年前まで、午前からの開会でした。協会の総会は、それだけ時間がかかるのです。しかし、前々回のブログに書いたように、総会の開催パターンが変わり、前日の夜が文学賞贈呈式・パーティーということになったので、いかにも午前開会はきつく、また総会の論議もそんなに延々と……ということでもなくなってきたので、今回初めて、「表年度」だけども午後から、ということになったわけです。

結論的には、事業報告とか決算報告とかは、かなりさっさとやり、後半の活動方針案審議や、参加者からの一言(ただし、今回は、初めての方や遠方の方などに限定しました)で、かなりいろいろな意見が出されて、という具合で、とても時間が有効に使えた気がします。活動方針案審議というのは、なかなか焦点のあった論議になりにくいのですが、今回は、方針案の中で触れられている協会の綱領の問題などをめぐって、活発に意見が交わされ、とても良かったと思います。(この件については、いずれこのブログでも書きたいと思います。)

【交流会での事件】

もう一つ事務局的な心配は、総会の後の交流会です。これは正式な行事ではなく(だから、事前に出欠などはとらず)、お疲れさん会という感じで、“宴会”になるわけですが、場所はおさえておかないと、数十人がうろうろすることになります。この人数を予測して場所をとっておくのですが、これが少なすぎたり、多すぎたり、なかなかピタッとはいきません。今年は40人として場所を取っていたのですが、ほぼそれに近い方たちが参加したので、これもホッとしました。

ただし、最後に“事件”が一つ。福山からはるばる参加された皿海達哉さんの靴がなく、代わりにかなり大きいサイズの靴が一足残っており、皿海さんはそれを履いて帰られました。どなたか、「妙に靴が小さかった」という人がいるはずなのですが、今日まで名乗り出てきた方はいません。謎です。

ということで、とてもとてもおそくなりましたが、事務局的総会(前日の学習交流会、贈呈式も含め)報告は、ここまでといたします。協会の総会は、まあ結構つまらなくない?と思います。来年は、ぜひあなたもご参加を!

2014/06/30

総会報告2

【文学賞贈呈式・パーティー】

さて、学習交流会は参加者大満足で終了。1時間余りの時間をおいて、贈呈式が開催されました。以前は神楽坂の出版クラブ会館で行われ、参加者は150名位でした。それが「報告1」で書いたように、金曜日に移してから、出版社関係のお客様が増え、また学習交流会が盛況ということもあり、続いて行われる贈呈式への会員の参加も多くなり、近年では200名前後の規模になりました。それもあって、中野サンプラザの一番広いパーティー会場での開催となっています。

ということで、今年も贈呈式はとても盛況でした。以前は贈呈式も含めて、全体を立食形式でやっていましたが、贈呈式が45分から1時間近くかかるので(協会賞・新人賞・三越賞に加えて、長編新人賞などの公募賞の表彰式もあります)、その間立っているのはつらいものがあります。そこで、今の会場になってからは、贈呈式は椅子を並べ、終了後に急いで椅子をどかし、後半のパーティーに移るという形にしています。例年は、後半のパーティーの冒頭で、関連団体代表の方にご挨拶をいただき、出版社代表の方に乾杯の音頭をお願いするのですが、今年はせっかく名誉会員の森久保さんがいらっしゃることでもあり、お二人にご挨拶をいただき、森久保さんにお祝いの乾杯のご発声をお願いしました。受賞者の皆さんにとっても、うれしいことだったと思います。

【武鹿さんへのインタビュー・ちょっと裏話、やや手柄?話】

当日ご参加の方は、入口の所に掲示した新聞記事をご覧になったかどうか、今回協会賞を受賞された武鹿悦子さんへのインタビュー記事が掲載された前日の京都新聞のコピーでした。各地方紙にも掲載されたと思うので、日付はさまざまでも、ご覧になった方も多いと思います。

文学賞が確定する4月末あたりに、選考結果を新聞各紙に送るわけですが、少しして共同通信の奈良支局から電話がありました。支局長の黒沢さんという方が、武鹿さんが奈良県在住ということで、インタビューしたいという話だったのですが、その黒沢さんはかつて(もう20年以上前ですが)僕が共同通信配信で毎月子どもの本の時評を書いていた時の担当記者で、近年は文化部長を務められていたことは知っていました。部長を辞め、定年前に希望の任地で過ごせるという慣例があるようで、初任地でもある奈良にいるというのです。それで、武鹿さんの経歴を見ると、大分ご年配のようだが、インタビュー大丈夫だろうか、という確認?の電話でした。(会員名簿にもちゃんと記載されているので書きますが、1928年生まれでいらっしゃいます。)もちろん、まったくOkと答えたわけです。

後日、また黒沢さんから電話があり、インタビューが無事済んだこと、いろいろおもしろい話をうかがえたけれど、紙面の関係で、そのほとんどを生かせなくて申し訳ないというような、報告の電話でした。僕からは、できれば贈呈式の時に皆さんにお見せしたいので、その前に掲載されるよう配慮してほしいとお願いし、なんとかぎりぎり間に合ったという結果でした。その電話の時におもしろい?話があり、インタビューの際、ホテルのロビーとかで待ち合わせたのだけれど、しばらく気がつかず、失礼してしまったというのです。つまり、経歴で見ていたご年配の女性をイメージして待っていたので、あまりにその年代には見えず、わからなかった、という話でした。

なお、武鹿さんは、今回、同じ詩集で日本童謡賞を、また新人賞の有沢佳映さんも今年が最後という椋鳩十賞(こちらは、読売新聞がインタビュー記事にしてくれました)とのダブル受賞でした。おめでとうございました。ということで、いったんここで切り、次でやっと総会報告ということにさせていただきます。

 

 

2014/06/22

遅くなりましたが、総会報告1です

【報告が、とても遅くなってしまいましたが……】

5月30日の学習交流会と文学賞贈呈式・パーティー、31日の総会が終わってから、20日以上経ってしまいました。本来なら、とっくにこの場で報告しなくてはいけなかったのですが、古田元会長の急逝という事態があり、このタイミングになってしまいました。今更という気もするのですが、報告をご覧になる会員の方たちにとっては必ずしもそうではないと思うので、やはり書くことにします。なお、ブログの第1回目にも書きましたが、このブログは協会としての「公式」な見解を述べる場ではなく、あくまでも藤田の視点による私的なものであることを、改めて申し上げておきます。

【まずは学習交流会のこと、その前に土日から金土への変更のこと】

この「学習交流会」というのは、今年で5年目になるでしょうか。それ以前は、土曜日に総会と文学賞贈呈式・パーティーがあり、翌日の日曜日に「総会付設研究会」というパターンでした。この形は1972年からのようで、僕は74年の入会ですから、僕が知っている限りはこのパターンでした。ところが、土曜日休みが一般的になり、文学賞贈呈式においでいただく出版社の方たちは、休日に出てこなくてはいけなくなりました。実際、他のほとんどの文学賞贈呈式は、平日に行われています。

そこで、五年前に、思い切って贈呈式を金曜日に変えることにしました。この時、総会も同様に金曜日にして、翌日に付設研究会(つまり、土・日を金・土に変更する)という案も浮上したのですが、平日午後に総会というのは、勤務を持っている人を事実上締め出す形になってしまうということで、総会は土曜日のままとしました。ところが、そうなると、大きな心配がひとつありました。

というのは、総会などというのはそもそもそんなにおもしろい?場ではなく、その後にパーティーが控えていればこそ参加しようと思うわけで、土曜日が総会だけということになると、出席者がガクッと減ってしまうのではないか。また、金曜日の贈呈式にしても、出版社の人たちは来やすくなるかも知れないが、会員の人たちは平日の夜、これもわざわざになるわけで、参加者が減るのではないか、という心配です。つまり、両日に分けたことで、どちらの参加者も減ってしまうのではないかという危惧でした。

そこで、贈呈式の前に、付設研究会というほど堅苦しい?場ではない、それでも聞いてみたいというような話が聞ける場を設定したら、ということで、「学習交流会」というのを考えたわけです。最初の2年は、最大の関心事であろう児童書の出版をめぐる話題をフォーラム形式でやりました。そして一昨年と昨年は、組織部からの提案で「同人誌フェスタ」を開催し、これも好評でした。その同人誌フェスタは、今年からはパターンを変えて設定することになり、さて改めて学習交流会の中身をどうしようということになったわけです。協会には、いろいろな分野で仕事を重ねられてきた方たちがおり、この機会にそういう方のお話をうかがったら、ということで、名前が出たのが、名誉会員でもある森久保仙太郎さんだったわけです。

【そして、当日】

会場定員の90名を上回る、びっしりの参加者(補助いすを十数脚出しました)の前に登場した森久保さん。96歳という年齢がウソのような、お元気などという言い方が失礼という感じのダンディーなたたずまい。「座って話されますか?」とお聞きしたのですが、立ったほうがやりやすいということで、実際1時間半ほど、ずっと立ってお話をされました。それをここで再現することはもちろんできませんが、僕が感心したのは、話がきわめて具体的であることです。森久保さんは、絵本の実作者であり、翻訳家であり、研究者でもいらっしゃいます。例えば僕などは、どうしても「そもそも現代の児童文学は……」といった大上段の構えになるのですが(そういうふうに組み立てたほうが、むしろ楽なのです)、森久保さんのお話は、「はらぺこあおむし」にまつわる、一見小さなエピソードを重ねていって、いつのまにか見事な絵本論になっているのです。特に印象に残ったお話を一つだけ紹介しますが、お話の後の質問の中で、「絵本の文章のありかた」を尋ねるものがありました。この時、森久保さんは、こぐま社の「こぐまちゃん」の絵本を作るときのエピソードを話されました。

赤ちゃん絵本がまだほとんどなかった時代、あの絵本の文章にとても苦労されたこと。絵で足りないところは絵を直していけばいいし、絵を見てわかることを文章にする必要はない。こぐまちゃんがおまるに座っている場面がありますが、その場面にどんな文をつけるか、随分考えた。その結果出てきたのが、「まだですか・まだですよ」というやりとりの文で、これによって、画面にはまったく登場してこないお母さんの存在が子どもたちに見えてくるわけで、このエピソードは本当に絵本の文章の真髄を象徴するようなお話だと思いました。

ということで、大分長くなったので、いったんここで終わり、贈呈式と総会については、次回に譲ることにします。前のほうで一つ書き忘れましたが、今の総会パターンになるまで、総会の翌日に開催していた「付設研究会」がなくなったわけですが、その代わりによりオープンな「公開研究会」が企画され、春の総会・秋の公開研究会という形が、大分定着してきたように思います。

2014/06/21

古田足日さんの葬儀

【まずはお詫びから……】

このブログ、5月18日付の「始めます」という予告のようなことを書いてから、一向に更新されず、申し訳ありませんでした。

総会が終わったら、学習交流会や贈呈式、そして総会の様子などをご報告しようと思っていました。総会明けの2日は、(私的なことになりますが)産経児童出版文化賞の贈賞式があり(思いがけないことに、拙作が同賞のフジテレビ賞をいただきました)、翌日からは総会決議の修正や会報(総会報告号)の手当てなどに追われ、おまけに土曜日は前期から講師をしている創作教室があったりで、とりかかれませんでした。

【古田さんの訃報が……】

そんなわけで、8日の日曜日、いよいよブログにとりかかろうとしていた昼少し前、古田足日夫人から自宅に電話がありました。何の気なしに電話に出たのですが、「古田が亡くなりました」というお報せに仰天。とりあえず2、3の人に電話やメールをして、家を出、協会事務局に向かいました。僕の自宅から事務局までは連絡が悪いと2時間近くかかるのですが、その間ボーッとしたような状態でした。事務局で新聞社に送る死亡記事の下書きを作り、東久留米の古田さんのご自宅に向かいました。古田さんは、前日まではまったく普通に過ごされていたということで、朝方、奥様が声をかけたら亡くなっていたという状況でした。そういう場合は、ほぼ例外なく「検死」を受けなければなりません。僕がご自宅に着いた時には、そんなわけで古田さんは病院に運ばれており、前後してかけつけた川北亮司さん、宮川健郎さん、西山利佳さんと一緒に、葬儀社の方と、まずは葬儀の場所と日程の相談になりました。その途中で、古田さんが病院から戻ってこられましたが、やつれたような感じもなく、本当に安らかなお顔でした。

実は、6、7年前でしょうか、川北さんと僕が古田家に呼ばれ、古田さんご本人や奥様と、葬儀のことを話し合っていました。ですから、葬儀に関する大枠は決まっていたのです。問題は会場で、ご自宅のエリアからあまり遠過ぎず、ある程度の人数を収容できる斎場となると、かなり限定されます。そこが空いてるのが、次の土日ということで、間が一週間空いてしまいますが、雨の季節、狭いところでは雨の中を参列者の方にお待ちいただくようなことになってしまい、14、15日の通夜、葬儀と決めたのでした。

【通夜、葬儀は滞りなく終了しました】

そして、14日の通夜式、15日の葬儀・告別式は、たくさんの方においでいただいて、滞りなく終了しました。ずっと続いていた雨が、待っていたように前日あたりからすっかりあがり、両日ともとてもいい天気でした。古田さんのご意向で、式は無宗教という形でした。通夜式は西山さんの司会で、山形からかけつけられた、学生時代からの友人である鈴木実さん、親地連の広瀬恒子さん、通称「古田塾」の門下生?である今関信子さん、そして古田さんのお嬢さんのあかねさんが、それぞれ「別れのことば」を述べられました。

葬儀では、葬儀委員長で、「おしいれのぼうけん」を始め古田さんとはずっとコンビを組んでこられた画家の田畑精一さん、協会理事長の丘修三さん、そして編集者として長く古田さんを支えてこられた童心社の酒井京子さんが、弔辞を読まれました。両日とも最後に奥様の古田文恵さんからご挨拶があったのですが、通夜の際は、古田さんの亡くなる前の晩のことが紹介されました。この日、お嬢さんのあかねさんの一家が訪れ、あかねさん手作りの料理を、とてもおいしそうに召しあがったのだそうです。まさに幸せな「最後の晩餐」だったわけです。そして、葬儀の際には、「通夜の時には、安らかに逝ったと申し上げましたが、古田には心残りがあったと思います」とおっしゃり、古田さんが現今の政治状況をとても憂いていたことが話されました。それを良く示したのが、絶筆となった「児童文学、三つの名言」という文章で、これは童心社が発行する「母のひろば」という冊子の600号のために書かれたもので、発行はこの5月15日でした。当日の参列者には、式次第の裏面に印刷してお配りしました。できれば、会報の追悼ページなどで、ご紹介したいと思います。

ということで、まずは葬儀のとりあえずのご報告でした。僕にとっても古田さんは、元会長という立場上のお付き合いというレベルをはるかに超える特別な存在でした。そのあたりのことは、また改めて書きたいと思います。ブログの事実上の1回目が古田さんの葬儀の報告になってしまったというのはなんとも皮肉ですが、古田さんの仕事の意味を問い続けていくことは、協会にとっても、僕自身にとっても、これから大事な課題になっていくと思います。

 

 

 

 

2014/06/15

「藤田のぼるの事務局長ブログ」を始めます

「事務局からのお知らせ」ページが開設されたのに合わせて、「藤田のぼるの事務局長ブログ」を始めることにしました。協会HPには、すでに「日本児童文学」のいずみ編集長と研究部長の西山利佳さんのブログがあり、まもなく他のいくつかの部や委員会のブログも始まります。そうした中で、このブログはちょっと他のブログと性格を異にする面があるかもしれません。1回目の今回は、そのあたりについて……。

僕は1974年、24歳の時に協会に入会しました。もう40年前ということになります。秋田から上京し、都内の私立小学校の教員になって、2年目のことでした。この年、『日本児童文学』に初めて評論を載せてもらい、“評論家デビュー”をしたのです。若かったなあ(笑)。

それから、5年後、29歳の時に、教員を辞めて、協会事務局に“就職”しました。もちろん最初から事務局長だったわけではありません。“新人事務局員”として、最初の年は経理の仕事をしました。当時は、協会の事務局員は、大学を出たばかりの人が2、3年勤めて、そこから教員になったり、出版社に勤めたり、というパターンでした。僕はその逆だったわけで、安定した教員の道を捨てて協会事務局に入るというのは結構驚かれましたし、反対も少なくありませんでした。そして、その反対意見の中には、「生意気な若手評論家に、事務局員という縁の下の力持ち的な仕事が勤まるはずがない」「どうせ、すぐやめるだろう」という観測も少なからずありました。

そして、それから35年、「生意気な若手評論家」は「相変わらず口数の多い熟年評論家?」になりましたが、いまだ協会事務局に居続けています。但し、60歳で定年を迎えてからの4年間は、「非常勤」という立場でしたが、それももう一年ということになりました。まあ、その後も協会役員ではいると思うので、さまざまに協会運営に関わることにはなると思いますが、事務局員としてはゴールが見えているわけです。

そんな折に、ブログ開設の話があり、僕としては、長い長い事務局員生活で見聞きしてきたことや、そうした体験を背景に今感じていることなどを、折に触れ書いていきたいなと思いました。協会では、創立60周年以降「活動の継承」ということがひとつのテーマとなっており、そういう意味でも、いささかの意味はあるかなと思ったわけです。

ですから、このブログは、事務局とか、いわんや理事会とかの「公式見解」を表明する場所では、まったくありません。事務局からのさまざまなお知らせは、同時にスタートする「事務局からのお知らせ」ページに掲載されるわけで、こちらはあくまでも「事務局長をしている藤田のおしゃべり」コーナーとして、お読みいただければと思います。まあ、「児文協事務局・今と昔」という感じでしょうか。よろしく、おつきあいのほどを。

 


 

2014/05/18