藤田のぼるの理事長ブログ

38、編纂図書プレゼントの抽選を(2021,7,5)

【昨日、抽選を】

◎昨日(7月4日)、大雨による熱海での大きな被害のニュースと、東京都議会議員選挙のさなかでしたが(僕は埼玉県民なので選挙権はありませんが)、事務局に出版企画部の津久井さんと原正和さんに来ていただいて、創立75周年編纂図書プレゼントの寄贈校の抽選を行いました。学校側からの応募締め切りは6月末だったので、昨日に抽選を設定していたわけです。

 この編纂図書プレゼントを発案したのは僕ですが、協会創立75周年については、50周年や60周年の時のような大きな記念事業はしないことは最初から決めていました。記念資料集の作成(もっともこれは、元々創立70周年記念として企画されていたものが75周年にずれこんだわけですが)というのは 協会にとっては大きな意味のある仕事ですが、これに関心を寄せてくれるのは協会外ではおそらく児童文学の研究者ぐらいで、特に読者である子どもたちには直接関わりがありません。

 一方で、ここ数年出版企画部の努力で、新しい出版社も含めていろいろな編纂図書のシリーズが企画され、刊行されています。75周年企画としてこれを全国の小中学校を対象にプレゼントしようと、なぜ思い立ったのかは自分でも定かではありませんが、せっかくこれだけの本が出ているのに、会の活動としてなかなかアピールする機会がないなとは、以前から思っていました。

 そんな思いがあったので、「75周年で、なにか子ども読者に直接結びつくことをしたい」と思った時に、「編纂図書プレゼント」というのが、ひらめいたのだと思います。

◎ということで、まず問題になるのは費用です。「プレゼント」とはいっても、希望する学校すべてに寄贈することはできません。まさか1冊ずつという訳にはいかないので、当然5冊もしくは10冊の1セットを寄贈ということになります。協会が出版社から購入する場合は2割引きになりますから、例えば1冊 1000円として5冊のセットで5000円になります。このあたりから計算を始めました。「懸賞」ですから、あまりフラットではおもしろくないので、A賞とB賞というふうにして、A賞は10冊のセット、 B賞を5冊のセットにしようと考えました。そして、B賞も含めて、ここ数年の中で協会の編纂図書を出してもらっている全部の出版社がそろうラインナップにしようと考えました。その結果、小学校がA賞に偕成社の「タイムストーリーズ」、B賞が偕成社、文溪堂、フレーベル館、ポプラ社の各シリーズ、中学校がA賞が偕成社の「児童文学10の冒険」で、B賞が偕成社と新日本出版社という具合に、とてもうまく収まりました。

 最初A賞が2校、B賞が各3校で計算してみたのですが、思ったほど大きな金額にならなかったのと、「75周年」と銘打って、あまりにしょぼいのでは格好がつかないという見栄(?)もあって、B賞 は各5校としました。これで小学校22校、中学校12校、計34校がプレゼントの対象になりますから、 まずまずかと思いました。

◎次の心配は、さてこれをどうやって、全国の小中学校に告知するのか、という点でした。それがうまくいかず、 極端な場合、応募が上記のプレゼントの数に届かないようなことになったらどうしようという心配もしました。一方で、 どこかで広く宣伝してくれて、応募が集まり過ぎたら、それも大変と思いました。

 告知としては、まずやはり図書の担当の先生の目に触れることがなによりと思い、全国学校図書館協議会(SLA)にお願いして、同会が月刊で出している『学校図書館』速報版というのに掲載してもらうことにしました。それから、これは個人ではなく学校単位の応募になりますから、校長の裁可が必要になるわけで、主に管理職が読んでいるだろうと思われる業界紙「日本教育新聞」にお願いしようと思いました。ここは、僕がかねてから関係のある日本図書教材協会(学校で使うテスト教材などを発行している出版社の団体)から紹介してもらいました。そしてもう一つ、学校図書館に対してはPTAがいろいろ関わっているということも聞いているので、PTA活動と関わりの深いベルマーク教育助成財団のホームページに載せてもらおうと思いました。ここは、僕が数年前から「ベルマーク新聞」に隔月で本の紹介を書いているので、すぐに頼めました。

 ということで、三つの媒体で告知したわけですが、ちょうどいい具合に応募が集まってくれるかどう か、最後まで心配でした。僕の希望的予想としては、小学校が百数十から多くても二百、中学校はその三分の一か四分の一という見当でしたが、最終的に小学校が72校、中学校が24校という結果でした。 「希望的予想」は下回ったわけですが、プレゼント対象校に対して、小学校が3倍強、中学校が2倍という倍率になったわけで、まあ良かったかな、と思えました。応募校は、それこそ北海道から沖縄まで全国にわたり、おそらくそれだけ熱心な学校が応募してくれた、ということだと思います。

◎ということで、昨日の「抽選」でした。応募校に番号をつけて、A賞は津久井さんと原さんに十の位と一の位のカードをめくってもらって、B賞は番号の書いた札を選んで、という形で、「厳正」に行いました。どこの学校にプレゼントすることになったかは、もう少ししたら協会のホームページに、また次の9月の会報にも載せますので、 皆さんの中でお知り合いの学校に声をかけてくださった方は、ご覧になってください。

 なお、サイン本ですが、上記のように、応募校がやや少なめだったこともあり、当初はプレゼントできなかった学校のみを対象に考えていましたが、編纂図書と並んでサイン本をとても楽しみにしているという声も聞いていましたし、プレゼント対象校にも3冊ずつ、それ以外の各校には6冊ずつサイン本が届くよう、目下配分中です。近日中にはお申し出いただいた方たちに、どこの学校に送ってくださいと いう通知をお送りできる予定です。

 応募のハガキの中には、「75周年おめでとうございます」といったメッセージや、図書館の様子などを書いてくださった学校もあり、また、「A賞のシリーズは購入していますので、B賞でお願いします」 といった学校もあり、普段の読書指導の一端を垣間見ることもできました。プレゼントはこれから届くわけですが、やって良かったと思っています。

2021/07/05

37、田畑精一さんの追悼展が(2021,6,25)

【田畑精一展が】

◎田畑精一さんというお名前をご存じでしょうか。絵本作家というよりは、画家という言い方の方がぴったりくる感じもありますが、代表作は古田足日さんとの共作の『おしいれのぼうけん』、それから先天性四肢障害児父母の会の方たちとの共作の『さっちゃんのまほうのて』も良く知られています。

 『おしいれのぼうけん』は、普通なら「古田足日・文 田畑精一・絵」と表記されるところですが、 絵本の表紙には「作/ふるたたるひ たばたせいいち」と書かれてあります。もちろん基本的には古田さんが文章を書き、田畑さんが絵を描かれたわけですが、古田さんも絵にがんがん注文をつけ、田畑さんも文章にどんどん意見を言い、ということで、二人の「共作」という形になったのでしょう。

◎その田畑さんが昨年6月に亡くなられて、折からのコロナ禍でお別れの会もできず、秋くらいに田畑さんのお仕事を振り返る展覧会ができないかという話が持ち上がっていました。中心になっていたのは、 『おしいれのぼうけん』の担当編集者、というより、もう一人の共作者といっていいほどの役割を果たされた童心社会長の酒井京子さんですが、その酒井さんが、田畑さんと関わりのあった編集者や絵本作家、そして宮川健郎さんや西山利佳さん、僕にも、実行委員会に入ってほしいと声をかけてくれました。

 この三人は、田畑さんとの直接のつながりというよりも、古田足日さんを通じてのおつきあいで、特に童心社から「全集 古田足日子どもの本」を刊行する際に、田畑さんと西山・宮川・藤田の4人が編集協力者ということで、随分集まりました。

◎そんなご縁があったので、もちろん実行委員会に加わり、追悼展の準備が始まったわけですが、昨秋はコロナ禍がますます猛威をふるう中で、開催を断念。この6月、一周忌のような形で追悼展が実現しま した。そして、昨日が初日で、午前中にオープニングセレモニーがあり、僕が司会をやらせてもらいましたが、実行委員長のいわむらかずおさん、展示を設営したデザイナーの谷口広樹さん、そしてかけつけてくださった詩人のアーサー・ビナードさんや絵本作家の西巻茅子さんたちから、田畑さんの思い出が次々に語られました。報道関係の方たちも集まられ、昨日の内に朝日のデジタル版で紹介されていましたので、下のURLでご覧ください。

 https://digital.asahi.com/articles/ASP6S636HP6SUTFL005.html

◎会期が来週の火曜日(29日)までと短いのですが、池袋に無理なく行ける方は、ぜひのぞいてみてく ださい。『おしいれのぼうけん』などの絵本原画はもちろんですが、田畑さんはむしろ挿し絵の仕事の方が多く、例えば灰谷健次郎さんの『太陽の子』、後藤竜二さんの『算数病院事件』、それから沖井千代子さんの『もえるイロイロ島』なども、田畑さんの仕事として並んでいました。あと印象的だったのは、 二十年近くにわたって毎月担当された『日本の学童ほいく』誌の表紙画で、さすがに二十年間分全部では ありませんが、ずらっと並んだ原画は圧巻でした。

【木暮正夫展が……!】

◎なんだか余談のようになってしまうのですが、田畑展にいらした元偕成社の編集者の方から、「群馬で木暮正夫展をやってたよね」という話を聞き、「えっ、聞いてないよ!」とびっくりしました。群馬には(歌人の)土屋文明記念の県立文学館があり、そこでかつて木暮さんのプロデュースの少年詩関係の展示があったこともあり、そこかと思いましたが、帰宅して検索してみると、そうではなくて、前橋文学館 (こちらは荻原朔太郎記念で、前橋市立のよう)でした。確かに「木暮正夫展」というのが出てきましたが、なんと2月20日から6月6日までとなっています。「えー、終わっちゃったの!?」と心のなかで悲鳴。前橋は木暮さんの出身地で、そこで木暮正夫展が企画され、開催されたことはうれしいことですが、まったく知りませんでした。文学館の木暮さんのプロフィールにも、協会の理事長や会長を務められたことも書かれており、知らせてほしかったなと、ちょっと恨(?)です。ただ、6月6日までだと惜しさが募りますが、コロナのまん延防止等措置で、5月15日に閉館のため終了したとあり、逆にちょっとあきらめがつきました。次回は、木暮さんの思い出を書こうかな……。

2021/06/25

36、ワクチン、野球、戦争(2021,6,15)

 【まずは、ワクチンの話】

◎なんだか、三題噺みたいなタイトルになりましたが、まずは前回の予告通り、コロナのワクチンの話です。僕は地元の接種が待ちきれず、東京の大規模接種が埼玉・神奈川・千葉県民もOKとなった時点でこちらに申し込み、先週9日に受けてきました。

 印象としては、実にスムースというか、”流れ作業”という感じ。会場が大手町の合同庁舎ということで、東京駅(もしくは地下鉄大手町駅)が最寄りだろうと思っていましたが、調べたら一番近いのは地下鉄東西線の竹橋駅。協会事務局のある神楽坂駅の三つ隣です。この駅は僕にとっては「毎日新聞社のある所」でしたが、案内通りその反対側の4番出口に出たら、もうそこがワクチン会場という感じで、一 度下見に行こうかなとも思っていたのですが、まったくその必要はありませんでした。

◎案内に従って進むと、合同庁舎の庭?に建てられたプレハブの建物が受付になっていて、持参した接種券を見せ、検温すると、黄色いクリアーファイルを渡され、後は「黄色の方はこちら」というスタッフについていき、エレベーターで上がって……という具合で、接種会場に到着。ここで問診(といってもあっという間に終わり)を受け、いよいよワクチン接種。そして15分ほど様子をみる間に、第二回の予約をして、「はい、終わり」でした。

◎僕は10時半という予約時間でしたが、余裕を見て10時前くらいに着いたのですが、まったく待つこともなく、全部終わったのが10時半少し過ぎくらいだったでしょうか。一番印象的だったのは、同じ年代の大量の人たちを見た(?)こと。高齢者枠の中でも75歳以上が先で、それから65歳以上という順番なので、まわりにいるのは、多分ほとんどが65歳から74歳までの人たち。それだけ大量の同年代の人間を見たのは初めてなのではなかったでしょうか。うじゃうじゃという感じ(笑)で、なんだかすごいなと思わされ ました。

◎ただ、ニュースでは、東京も大阪も、大規模接種会場は、最初の内は混んでいたものの、今は予約がガラ空きなんですね。僕はこの日もワクチン接種の後神楽坂の事務所に行って仕事しましたが、一般的にはわざわざ埼玉県から2時間近くもかかって大手町までワクチンを受けに行くというのは、ハードルが高いですよね(電車に乗ること自体、リスクがあるし)。自治体によっては地元でスムースに受けられるところもあるようで、地域の条件もあるでしょうが、やはり担当者の才覚が問われるところですね。

【そして、野球と戦争】

◎ワクチンの副反応は、その日は打った左腕がやや重いかなという程度。次の日がややだるかったかな、 と後になって思いましたが、まあ標準的なところでしょうか。そして、13日の日曜日、今シーズン初めて、千葉の幕張にあるロッテ球場に野球観戦に行きました。前にも書いたと思いますが、自宅から野球場までは3時間近くかかりますが、年に3、4回は見に行きます。ですから、通算にするとかなりの回数になると思いますが、今回初めての経験だったのはビールが飲めなかったこと。もちろんコロナ禍での時別な制約です。これも去年行った時に書いたかもしれませんが、日本人は本当に言うことを聞くな、と思わされるのは、誰も大声を出したりしないこと。ロッテは元々トランペットや太鼓に合わせて歌ったり (もちろん個々の選手によって歌が違うわけですが)、跳んだり跳ねたりという応援が有名ですが(僕はやりませんが)、そんなことをする人はただの一人もいません。代わりに拍手(これもいつのまにか結複雑なリズムが定まっています)での応援です。ホームランが出ても、「歓声」まではいかない、うれしいため息のような音がするだけです。

 オリンピックを(開催すること自体無茶苦茶な話ですが)無観客にするかどうかで、政府や組織委員会は、「他のスポーツイベントの例も見て」などと言い出しています。しかし、プロ野球の観客は、基本常連さんたちですし、遠くからといってもほとんど首都圏からですから、オリンピックとは全然違います。プロ野球が昨年の春のように無観客ではなく客を入れているのは、オリンピックに観客を入れる伏線のような気がして、自分も観戦に行きながら、なんだか利用されているような思いでした。 ちなみに、試合は交流戦最後の巨人戦で、菅野が早々に降板。5対0から5対4に詰め寄られましたが、なんとか勝利しました。

◎さて、「戦争」です。ロッテとジャイアンツの戦争という話ではありません。球場との往復が5時間以上あったわけで、当然その間は本を読みます。いつもだと、帰りはビールで眠たくなったりしますが、 今回はそれもなかったわけです。どの本を持っていこうかなと思い、選んだのは、池上彰の『君と考える戦争のない未来』(理論社)でした。

◎仕事柄、というか、かなりの数の出版社から、見本本が送られてきます。出版契約書を交わしたことのある方は、契約書の中に、出版部数の内、50部とか100部は宣伝用に使うので、印税計算の対象から外す、という項目があるのをご存知でしょう。そうした宣伝用の本は、新聞社や児文協のような団体に送られるわけですが、僕らのように、書評などを書いている個人にも送られてきます。相当な数で、 正直言ってなかなか処理に困ります。ある程度たまったところで(2週間に1回くらいのペースでしょうか)包装から出して、”仕分け”します。つまり、書評に取り上げる可能性がある本とない本に大別するわけです。 書評には取り上げないかもしれないが、協会の文学賞で対象にするかもしれない本もチェックします。 その「残しておく本」を仕事場に積んでおくわけです。(書評に使う可能性のない本のほうは、近所の子どもたちや地元の学校、カミさんの知り合いのお母さんたちに差し上げたりしています。それならほしいという方がいらっしゃいましたら、ご一報ください。)

 以前は、事務所や大学に行く日が週4から5日あったので、(積んであるほうの本を)行き返りに大分読めたのですが、今は週1、2なので、なかなか減りません。それで、野球の行き返りに、気になってい た池上彰の本を取り出したわけです。

◎結論からいうと、とてもおもしろかったです。一言でいうならば、日本を中心とした現代史の話。これは、自ずから戦争の話になります。池上彰さんについてはいろんな評価がありますが、僕は制約の多いマスコミの中で、うまく(というと語弊があるかもしれませんが)言うべきことを言っていると思います。文学的文章のうまさとは違いますが、やはり文章がうまいですね。平易に書きつつ、ポイントはおさえてあります。戦争がなぜ起こるのか、という一般論と、日本がなぜ無謀な戦争に走ったのかという問題とが、絶妙に重ねられて語られていきます。

 よく、子どもたちに答を押しつけるのではなく、考えてもらうよう問いかける、とはいいますが、これはとても難しいことです。戦争という、ある意味一番語りにくくかつ語らなければならないテーマについて、こうした本が子どもたちに向けて出されることは、心強いと思いました。ちなみに池上さんは僕と同じ1950年生まれ。その仕事量にも頭が下がります。

2021/06/15

35、総会とワクチン(2021,6,5)

【総会が無事に終わりました】

◎なんだか、随分時間が経ったような気がするのですが、今年度の総会は5月29日(娘の誕生日でも ありましたが)、予定通り開かれ、滞りなく終わりました。総会というのは、会にとってもっとも大切な意思決定の場ですから、「無事に」とか「滞りなく」というのが必ずしもいいのかどうか微妙ですが、 まずはホッとしています。

 参加された方はおわかりのように、最初の注意事項や、途中の資料などが画面にタイミングよく提示されたのは、次良丸さん、西山利佳さん、榎本秋さんたちが、いろいろと準備をしてくれたおかげで、やはり去年よりも手慣れた感じで進行しました。実は今回90人以上の方が参加してくださったのですが、僕の知る限り、総会出席者としては最高記録だと思います。リモートの威力でした。

◎僕の役回りとしては、最初の理事長挨拶と、それに続くこの一年間の物故者の読み上げ(黙とうのために)、それから終わりの方で、75周年の本のプレゼントの呼びかけ(サイン本提供のお願い。6月10 日までです!)を、させてもらいました。自分でしゃべっていると、短いつもりでも結構時間がかかっていることもあるので、開会挨拶は一応原稿を書いて、3分に収まるようにしました。最初に書いた原稿は後になってやや大上段すぎる気がして書き直し、今度はあまりに日常的すぎる気がして書き直し、 まあその中間くらいでなんとかまとめました(このあたりが僕の”小物感”を表わしていますが)。

◎物故者は6名でしたが、その中に、僕にとっては”特別”な方が二人いました。一人は元信州支部長の高橋忠治さん。高橋さんは名誉会員で、60周年の時の学習交流会だったか、3人のベテラン会員に話を聞くという設定で、あまんきみこさんの聞き役が宮川健郎さん、西内ミナミさんの聞き役があんびるやすこさん、そして高橋忠治さんの聞き役が僕でしたから、ご記憶の方もいらっしゃるかと思います。 高橋さんは詩人としてももちろんいい仕事をされましたが、僕はその”人物”が大好きでした。

 そしてもうお一人が伊豆の伊東にお住まいだった山本悟さんという方で、この方も古い会員でした。 年代としては古田足日さんとか鳥越信さんのちょっと下ぐらいで、山本さんは静岡大学の学生時代に児童文学に関心を持ち、書き始めたこともあり、1950年代の同人誌、例えば古田さんたち早大少年文学会の「小さい仲間」、いぬいとみこさんたちの「麦」、京都の上野瞭さんたちの「馬車」など、大阪国際児童文学館にしかそろってないような貴重な資料を、たくさんお持ちでした。僕は目下個人誌『ドボルザークの髭』で「物語的現代児童文学史」というのをシコシコと書いているわけですが、山本さんからそうした貴重な資料をかなりお譲りいただきました。

◎山本さんと初めてお会いしたのは、かつて伊東で開催された夏のゼミナールの時ですから、もう40 年近い前になります。山本さんは教員を辞められてからも地元の図書館などで子どもたちのために伊豆の民話をまとめた冊子を作るなどの活動を続けられていて、十数年前かと思いますが、そうした活動が認められて、野間読書推進賞を受けられてもいます。 その少し後だったかと思います。細かいことは忘れましたが、会報で山本さんにエッセイをお願いするという話があったものの、紙面の都合で次号回しになりました。ところが、その次号の時に、僕が忙しさに紛れてうっかり忘れてしまい、山本さんにお願いできなかったということがありました。そしてその後、山本さんから退会届が送られてきました。

 僕は例え退会のご意志自体は変わらないとしても、とにかく失礼をお詫びしなくてはと、上記の夏ゼミ以来だったと思いますが、伊東に向かいました。山本さんは何もおっしゃらず、ちょうどその折に地元の図書館で、山本さんのコレクションを使った展示をしていたのを見せてくださいました。そして、 退会は思いとどまっていただきました。さらにそれから何年かして、先に書いたように、僕が現代児童文学史を書き始めるにあたって、「見せてほしい」とお願いした同人誌などの資料を、見せていただくだけでなく、大きな段ボールに二箱ほど、そっくり譲ってくださったのです。

◎というようなことで、黙とうでお名前を読み上げるとき、高橋さんと山本さんについて、コメントを述べるかどうか迷いましたが、6人の内二人だけ、僕との関りで話をするのは他の4人の方に失礼かなとも思い、やめました。それでも、名前を読み上げながら、胸に迫るものがありました。

 総会自体は、すべて議案もご承認いただきましたので、ことさら報告することはありません。ほぼ予定時間で終わり、その後30分ほどの「文学賞お祝いタイム」も、協会賞受賞者のお一人の山口進さんがご入院中ということでご参加いただけませんでしたが、協会らしい、文学的な?時間になったように思 います。

【ワクチンの予約が】

◎最初に、「(総会から)随分時間が経ったような気がする」と書いたのは、その後、31日の月曜日に、 東京の大規模接種のコロナワクチンの予約というイベントがあったせいかもしれません。僕が住んでいる埼玉県坂戸市も同じ31日から予約開始だったのですが、その前にいくつかの医院に問い合わせてみたところ、「早くても7月半ば以降」とか、予約自体少し後になってからという具合だったので、東京の大規模接種(少し前から埼玉県民もOKになっていたので)に狙いを定めました。31日の11時から ということで、パソコンを2台並べて試みましたが、「サイトが混雑しているのでお待ちください」という表示が一向に切り替わらず、「これは無理かな……」と思い始めた頃、なんとか画面が切り替わっ て、それからは意外にスムースに進み、6月9日に予約が取れました。

 このところ、同年代の人たちとは「ワクチンの予約、取れた?」が挨拶代わりでしたが、まずはホッとしています。次回のブログでは、その報告ができるでしょうか。

2021/06/05

34、総会が間近です(21,5,25)

【今年の総会は】

◎総会まで、あと四日となりました。昨年に引き続きリモート総会ですが、昨年の場合は「本当にできるかな……」という感じだったのですが、一年間リモートは大分経験を積んだので、その点は安心して迎えることができます。ただ、パソコンの接続がその時になってみないと、という面もゼロではないので、なにごともないよう祈るばかりです。

◎さて、協会の総会は二年毎に、表と裏というか、パターンが違います。というのは、役員の任期が二年なので、その役員改選のある総会とない総会があります。ある方が「表」、ない方が「裏」ということになりますが、表の年は役員改選だけでなく、二年間の活動方針の審議というのもあるので、議事がその分詰まった感じになります。その点裏の年はプログラムがゆるやかですから、今までは「フリータイム」というのを設けて、出席者にマイクを回して一言ずつ、というようにしていました。今回もそれにならってフリータイムを設定しましたが、ただ、リアルの総会は全体の時間が4時間あるのに対して、リモート総会は2時間ですから、30分弱になります。それでも「フリー」なので、さまざまなアピールや協会への注文など、特に地方の方でこうしたリモートだからこそ参加できるという方は、この機会に遠慮なく手を挙げてください。(文字通りに手を挙げるのではなくて、リモート画面の中に「手を挙げる」という意思表示のアイコンがあります。これについては、当日説明があります。)

【総会といえば】

◎総会は、事務局にとってはやはり一年で一番大きいイベントで、事務局長時代は、やはりその準備というのは結構プレッシャーがありました。かつては、土曜日の総会の後に、文学賞贈呈式・パーティーで、次の日曜日が付設研究会でした。ですから、前の晩パーティーが終わって二次会があっても、あまり飲み過ぎるわけにはいかず、ほどほど?にするわけですが、その分、付設研究会が終わった後は解放感(?)で、何人かで飲みに行って、一度前後不覚になって、気がついたらまったく覚えがない電車に乗っていて、そこからなんとか都内に戻って、ホテルに泊まったこともありました。また、途中からは(特に今の埼玉に越してからは遠いので)土曜日は都内にホテルを予約して日曜日の研究会に備えたこともありました。

 なんか、総会と言いつつ酒を飲む話ばかりしていますが、会場の出版クラブ会館が今の九段下に移る前は、神楽坂の出版クラブでの総会の後、そのすぐ近くの「鮒忠」という飲み屋で懇親会を設定していました。ここは一階が普通の座席で、二階が中小の宴会場、そして三階が広い座敷になっているので、好都合でした。理事会の後の飲み会もほとんどここが会場で、ある意味、「児文協御用達」だったわけですが、ここが数ヵ月前から工事の囲いができていて、先日その横を通ったら取り壊されていました。どうやら、お店自体がなくなるようです。コロナのせいかどうか、そもそもそれなりの人数の「宴会」というものが少なくなったということかもしれませんが、なにか一つの時代が終わったような気分にさせられました。

◎総会の議事で記憶に残っているのは、90年代だったかと思いますが、子どもたちの「読書離れ」ということが盛んに言われていた頃です。多分活動方針をめぐる論議だったろうと思いますが、読書離れをどう受けとめるのかということに関して、書き手の我々も読書運動の人たちに任せるのではなくてさまざまな取り組みをすべきという意見と、いや書き手はあくまで子どもたちが喜んで読む作品を書くことに専念すべきという意見が出ました。これはまあ、言わばどっちも大切なわけで白黒決着がつくような話ではないのですが、結構な論議になって、前者は丘修三さん、後者は那須正幹さんがそうした意見の代表格でした。そして、確かそうした議論の後、前者の意見を受けて「子どもと読書の委員会」が発足し、後者の意見を踏まえる形で、古田足日さんが中心になって「プロジェクト〈子どもの本〉」が発足しました。子どもと読書の委員会は今も活動を続けており、またプロジェクトの方は2003年に『子どもと本の明日~魅力ある児童文学を探る~』を出版するという形で、成果をあげました。

 論議の末にそれぞれに委員会を作るというのはいかにも日本的解決で、その時は僕は必ずしも賛成ではなかったのですが、丘さんと那須さんがその後会長(理事長)になったこととも合わせて、熱のこもった論議だったなと、そして本当にどっちも大切だなと、今も思い出します。

2021/05/25

33、あなたは何番目?(21,5,15)

【総会が近づいてきました】

◎総会まで、あと二週間となりました。出欠ハガキ(委任状)はお出しいただいたでしょうか。また、 総会の案内と一緒に、75周年にちなんだ(全国の小中学校に贈る)サイン本のお願いへのお申し出のハガキは、出していただいたでしょうか。今週の水曜日(12日)に事務所に出向いて確認した段階では、 100名にあと少しという数でした。どのくらいの学校から応募が来るかわかりませんが、ぜひご協力のほど、お願いします。

◎さて、総会がまもなくということは、僕が理事長になってまもなく一年、つまりこのブログもあと少しで一年を迎える、ということになります。10日に1回の更新というのはブログとしてはかなりにスローペースだと思うのですが、それくらいの方が長続きするだろうと〔5の日〕(何度か書いたように、5が僕のラッキーナンバーなので)にしました。

 それは正解だったと思いますが、やはり10日だとその間結構いろんなことがあったりします。この間の大きな(?)できごとは、市からコロナのワクチンの接種券が届いたということでしょうか。僕が住んでいるのは埼玉県のまんなか辺にある坂戸市という人口10万人ほどの町です。この時期に接種券が届くのは市の広報などでわかっていましたし、「高齢者」を75歳以上と未満に分けて、75歳以上が先ということもわかっていました。それにしても、その届いた文書がわかりにくい。

 僕はニュースなどで予約の電話がパンクしているという話から、市の受付センターのようなところに予約の電話(もしくはネットで)を入れるのだとばかり思っていましたが、文書のどこを見てもそうしたセンターの番号はありません。その代わりというか、市内の病院・医院のリストと電話番号が一覧表になっていて、どうやら直接医療機関に電話して予約するというシステムのようなのです。そのこと自体はいいとしても、そうした基本的なことを書いてある文書というのがなくて、入っているのは政府が作成したと思われるリーフレットのような(ワクチンについての説明の)もの。まあ、こう言ってはなんですが、僕はこうした文書を受け取る側としては理解度は悪くない方だと思いますが、もうちょっとなんとかならないのかなと思いました。

【今朝の毎日新聞で】

◎本題(?)に入る前に、今日の朝刊で目についた記事を二つ。一つは(文化欄ではなく社会面でしたが)「出版大手3社が丸紅と流通会社~年内設立へ協議~」という記事で、講談社、集英社、小学館の3社が、商社の丸紅と、書籍や雑誌の流通会社の設立に向けて協議を始めたというニュースです。「協議を始めた」とあるからには、この話はかなり進んでいるのでしょう。記事を読むと、どうやら日販やトーハンといった今ある大手取次と競合する形になるようで、だとすれば、日本の出版流通にとってかなり大きな動きになるはずで、それがわたしたちにどう影響してくるかはわかりませんが、注視していかざるを得ません。

◎もう一つは読書欄で紹介されていた本のこと、というか、その紹介文の中味で、毎日新聞は日曜日ではなく、土曜日に読書欄が3ページとられているのですが、その本というのは『氏名の誕生~江戸時代の名前はなぜ消えたのか~』というちくま新書です。紹介しているのは社会学者の橋爪大三郎さんで、庶民が苗字をつけるようになったのは明治になってからなわけですが、明治8年の政府の指示は「女性は結婚後も元の氏を使え」というもので、それが戸主と同姓と決まったのは明治31年の民法からなのだそうです。橋爪さんの紹介文は「夫婦同姓は日本の名前と伝統と関係ない。ぜひ本書を読んで勉強しましょう」とありました。

【さて、”あなたは何番目?”です】

◎今日のタイトルを見て、多くの方はワクチンの順番だと思われたでしょうが、違います。協会の75周年記念資料集のことです。『日本児童文学』3・4月号に書きましたので、大体の内容はご承知と思いますが、最後の第四部の編集がまだ終わっていません。予定ではこの総会時にはできているはずでしたが、コロナで事務所に行く日が限られていることやなにやらで、さらに遅れています。それで、どうせ遅れたなら(というと言葉が悪いですが)と、元々僕ができればこの資料集に載せたいと思いつつあきらめていたものを載せようと思いなおしました。

 それは、協会の50年史『戦後児童文学の50年』に収録した「歴代会員名簿」の続きです。会の歴史的資料として、定款やら活動方針やら声明やらももちろん重要ですが、「誰が会員だったのか」ということがある意味では一番大事なことだろうと思います。そこで、51年目からここまでの入会者のリストを作って、資料集の最後に載せようと思いました。そう”決心”したのは、この連休前後です。

 50年史には1996年6月入会までの会員の名前が記載されており、そこまでが延べ1907名となっています。ちなみに1975年入会の僕は通算1183番目の入会者で、僕の一つ前は友人でもある細谷建治、一つ後は今関信子さんです。また少し後の1199番目は角野栄子さん、1200番目は肥田美代子さん、さらに1206番目に灰谷健次郎さんという名前もあります。昨年はコロナの影響もあって少なかったのですが、大体年間で30名以上は入会者がいるので、25年間で少なくも750名、そうすると現在は延べ2700人くらいには(多分2800人台)なっているはずです。つまり、このリストがあれば自分が創立以来何番目の入会者かということがわかるわけで、96年7月以降の入会の方は、ぜひお楽しみ(?)にしていただければと思います。

2021/05/15

32、創立75周年で、「赤旗」紙に(21,5,5)

【「子どもの日」ですが】

◎コロナ禍の中での連休、いかがお過ごしでしょうか。例年の上野公園での児童書フェスタもなく、な んだか寂しい連休です。実は僕は、昨日の5月4日に野球観戦(もちろんロッテ)に行くことにしていたのですが(連休時期はそうでなくてもチケットが取りにくいですが、今年は人数制限のために余計に大変でした)、相手の日本ハム球団にコロナ感染者が出たため中止になってしまいました。まあ、人のいるところには出かけるな、ということかと思い、あきらめるしかありません。

 今日は「子どもの日」ですが、今朝の毎日新聞の記事によれば、子どもの数は40年連続で減少、総人口に占める14歳以下の子どもの割合は11,9%で、人口4000万人以上の33カ国の中で一番低い割合ということです。少子化という問題は、下手をすると「女性は早く結婚して、子どもを産むべき」という議論になりかねないので注意が必要ですが、しかしやはり今の日本は、子どもを産んで育てたいと思っても、経済的なことも含めてそのハードルが高すぎることは事実です。特に昨年と今年はコロナ禍で少子化に拍車がかかると思われ、子どもの姿が見えない街の光景が”普通”になってしまうことが気がかりでなりません。

【75周年への思いを、「赤旗」紙に寄稿しました】

◎さて、少し日が経ちましたが、協会創立75周年ということにちなんで、4月19日付の「赤旗」の文化欄に寄稿しました。以下にその文章をコピーします。タイトルは「赤旗」編集部でつけてくれましたが、「日本児童文学者協会75年を迎えて」という基本タイトルと別に、僕の文章の最後の部分から取った「「なぜ児童文学か」問い続ける」という見出しが大きく横組みで置かれて、とても意を汲み取ってもらえた、と感じました。また、記事には、創立年の1946年9月に発行された『日本児童文学』創刊号の写真も掲載してもらいました。

 

●日本児童文学者協会75年を迎えて(「赤旗」2021年4月19日付掲載)

 児童文学の作家団体である日本児童文学者協会は、今年創立七五周年を迎えました。結成は一九四六年三月で、その準備が始まったのは前年(昭和20)年の九月ごろですから、まさに敗戦の焼け跡の中から立ち上がった組織といえるでしょう。

 創立時のメンバーには、小川未明、秋田雨雀、坪田譲治、塚原健二郎といった名前が並んでおり、この人たちの多くは、大正から昭和前期にかけて大きなムーブメントとなった、雑誌『赤い鳥』などの場で作家としての成長を果たした人たちです。また、会設立の中心的な働き手だった関英雄、菅忠道、小林純一といった人たちは、少年時代にこうした雑誌に親しんだ世代でした。つまり児童文学者協会は、戦前の『赤い鳥』に代表される童話・童謡運動の流れを汲んでいたわけですが、加えてその後のプロレタリア児童文学運動に関わった人たちを糾合する側面も持っていました。

 こうした会の性格は、創立時に掲げられた五項目の綱領の第一項「民主主義的な児童文学の創造と普及」に集約されています。もちろん、ここには新しい時代の中で子どもたちの真の成長を願う児童文学者たちの願いが込められているわけですが、もう一つの問題としては、彼らの多くが戦時中に、子どもたちに向けて戦意高揚の童話や童謡を書いていたという事実がありました。

 それをどう受けとめ、新たな児童文学を生み出していくのか、綱領に込められたこの課題は、ほぼそのまま戦後に書き手として出発した世代に引き継がれていくことになります。1950年代半ばから、古田足日、鳥越信、いぬいとみこなど若い世代による「童話伝統批判」という動きが相次ぎ、これらは1960年前後からの「現代児童文学」として結実していきますが、その間児童文学者協会の中でも新旧世代の対立として、いわば真の意味での戦後児童文学の、生みの苦しみの時期を会として経験することになります。

 会としての活動が軌道に乗ったのは、60年代後半から70年代にかけてで、例えば七一年に開講した「児童文学学校」は、作家を目指す人たちの講座の言わば老舗として、今も毎年続けられています。しかし、なんといっても会の活動の中で特筆されるのは、機関誌『日本児童文学』の発行を続けてきたことです。これも一九四六年の創刊で、僕自身学生時代に秋田の書店でこの雑誌に出会ったことで、児童文学の創作、評論を目指すことになりました。このほか、さまざまな研究会やセミナーの開催、アンソロジーの編纂、著作権に関する取り組み、国際交流活動、そして社会的メッセージの発信(最近では、日本学術会議の問題での声明発表)など、会の活動は多岐にわたります。これは児童文学という分野のある意味マイナーさ故ともいえるかもしれませんが、およそ文学団体の活動として考え得るほとんどすべての分野に手を出してきた、といえるように思います。

 そうした様々な活動の中で、では児童文学者協会が何をしてきたのか、と問われるならば、僕は「なぜ児童文学か」という命題を問い続けてきた、と答えたいように思います。児童文学は、大人の書き手が子どもに向けて、子どもの言葉で語るという、自己表現としてはある意味不思議なジャンルで、だからこそ「なぜ児童文学なのか」と問い続けることが書き手に求められると思うのです。

 創立時の敗戦後の風景の中で、そしてさまざまな意味で生き悩む子どもたちを目にする現在の中で、この問いを手放すことは許されません。 次の100周年に向けて、子どもたちとの豊かな、そして楽しい連帯の道を模索していきたいと願っています。

2021/05/05

31、連休を前に(21,4,25)

【緊急事態宣言に思う】

◎やはり、というべきか、総理も国会で何度も言い間違えた、蔓延防止等ナンタラはほとんど効果がな く、三度目の緊急事態宣言が出されました。テレビの放送で気になることを一つ。居酒屋などの時短(これからは休業になりましたが)にからんで、盛り場や公園などで夜に酒を飲んでいる若者の映像を、”困ったもんだ”という感じで流していますが、確かにそれ自体はいいことではありませんが、「こういう人たちがいるからコロナが収束しないんだ」という印象操作に思えてなりません。そうですか?? 全然関係ないとは言わないけど、全体の影響度からいったら、1%にもならないでしょう。コロナが収束しないのは、もちろん変異株のこともあるけれど、ただただ国民に”自粛”をお願いするばかりで、検査体制や医療体制の拡充に手をこまねいている政治のせいでしょう。これが一年前なら、まあしかたがない面もあったでしょうが、今の状況はわたしたちから見ても充分予想がついたことなのに、酒を出す店を悪者にし、今度は路上飲みをする若者を悪者にし、おまけに頼みのワクチンもさっぱり進まないという、 日本人の我慢強さも果たしていいことなのかどうか。この期に及んで、オリンピックの開催についてもまだマスコミは正面から取り上げようとしないし、シルバー民主主義と揶揄されてきた高齢者が、ここで一発”ワクチン一揆”を起こしていいのでは、という気がしてきました。

【徹子の部屋の話です】

◎これは、前回書こうかと思ったのですが、4月13日に、「徹子の部屋」に岡田晴恵さんが出ていましたね。僕は特にこの番組を見ているわけではありませんが、たまたまこの日、遅めの昼食でテレビをつけたら岡田さんが出ていたので、見ることができました。日本でも岡田さんはコロナで出番が一番多く なった一人だと思いますが、前にも書いたように児文協の会員です。これも前に書きましたが、かつて協会会長の藤田圭雄(ふじた・たまお)さんがこの番組に出たことがあり、会員で「徹子の部屋」 に出た人は、僕の知る限りでは、あと松谷みよ子さんと灰谷健次郎さんがおり、岡田さんで四人目ということかもしれません。

 岡田さんの話はもちろんコロナのこともあり、昨年は睡眠時間3時間という日が8ヵ月ほど続いたということで、さもありなんと思いました。また、初孫さんの話題も出て、ここは昨年初孫が生まれた(まもなく一歳です)僕にとってもうれしいお話でした。そして印象的だったのは、大学の研究室のドアの所にフランスパンのようなパンが入った袋がぶら下がっていて、これは岡田さんの信条として、学生たちに「ちゃんとパンを得られるように働きなさい」(つまり、自立しなさい)というメッセージなのだそうです。後で、あのパンはどうするんだろう、学生と一緒に食べるのかな? などと、思ったりしました。

【まもなく、総会通知が届きます】

◎いま事務局で必死に(といっても過言ではない)準備していますが、多分今週中に、5月の総会の通知が資料と共に届きます。前に書いたように、去年同様、前日の学習交流会、文学賞贈呈式・パーティーはなく、総会もリモートになります。

 それで、会員の皆さんの中には、リモートと言われても、これまでそういう機会がなく、参加したくても参加のしかたがわからないという方も少なからずいらっしゃると思います。カメラ付きのパソコンもしくはスマホがあって、Eメールのアドレスをお持ちという前提ではあるのですが、どういうふうにリモートで参加したらいいかわからない、あるいは不安という方は、その旨事務局にご連絡いただければ、一度リモートのテストをしてみるということでお手伝いできますので、遠慮なくお申し出ください。また、Eメールのアドレスは、ご自分専用のものでなくても、同居のご家族のアドレスでも、一向に構いません。

 昨年は、やはり文学賞の贈呈式ができなかったわけですが、受賞者の佐藤まどかさんはイタリア在住で、イタリアからご挨拶をいただき、リモートの威力を実感できました。どうぞ、この機会に、リモートの世界に参入してみてください。

2021/04/25

30、年度が替わりました(21,4,15)

【一回とばしてしまいました】

◎前回が一日遅れ、そして次の4月5日をとばしてしまいました。いかんいかん……。ただ、年度替わりのこの時期、結構いろいろありました。

 4月にはいって、僕は3日(土)、5日(月)、8日(木)、11 日(日)と協会事務局に出向き、7日、9日、13日がリモートの会議、10日がリモートの学習会と、かなりあわただしい日々でした。この時期は、例年5月の総会に向けて、決算や予算、文学賞の選考など、会議も一年で一番多い時期で、リモートなのでその“多い”という感覚がピンとこないのですが、こうして振り返ると、4月前半かなり忙しかったな、という実感です。

 事務局に出向く必要があったのは、文学賞の選考に関する実務などもありましたが、遅れている75周年 記念資料集の編集作業をなんとか進めなくては、ということもありました。『日本児童文学』3・4月号に記念資料集のことを書いたので、お読みいただいたかと思いますが、残る第4部も、ようやく目途がつき始めている、という状態です。

【今年の総会も】

◎さて、13日に理事会があり、5月の総会の開催方法などについて話し合ったのですが、結論的には昨年に続いて、今年も総会はリモート開催となります。一月前くらいまでは、集まれる人は集まって、リモートで参加する人はリモートで、というハイブリッド(というのだそうです)方式での開催も視野に入れていたのですが、ここのところのコロナの状況を考えると、リアルで集まれる人はごく少数になることも考えられ、半端にハイブリッドにするよりも、むしろ全面リモートにした方が意思疎通しやすい のでは、という判断になりました。

 去年の総会は「急きょリモートで」という感じでしたが、今年はそれなりの経験値もあるので、むしろリモ ートの特性を生かして、理事会側からだけでなく、双方向の発信にできるような工夫をしていきたいと考えています。

 ただ、総会はまあそれでもいいとして、昨年と同様に、文学賞の贈呈式ができないのが残念です。こ れも、受賞者にリモートでご挨拶いただくような形になりますが、秋に予定している公開研究会の後の75周年記念パーティーに昨年と今年の受賞者をお招きして、改めてお祝いできればと考えています。

 それにしても、オリンピックまであと100日とか。こんな状況で、ワクチンも遅れに遅れているのに、できるのでしょうか。100歩譲って(?)オリンピックは無理矢理開催するとしても、この状況下で聖火リレーを(あまり見に出てくるな、と言いながら)やる必要性がどこにあるのでしょうか。なんでも 「やる」よりも「やめる」決断の方が大変なことはわかりますが、様々な利害が絡む中で、そういう決断をする“勇気”が現政権にはないということでしょうか。ちょっと飛躍かも知れませんが、太平洋戦争の末期、あれだけのぼろぼろな負け戦の中で、戦争をやめさせる決断のできなかった日本の政府(軍部?)を思い出します。

【フォーラムの学習会が】

◎10日にリモートの学習会があったことを書きましたが、これは「フォーラム・子どもたちの未来のために」主催の学習会で、コロナ禍の中での児童書、読書の状況を知る、第二弾の学習会でした。日本子どもの本研究会の代表で、公共図書館館長の代田知子さんと、協会理事で子どもの本専門店・ハックルベリーブックスの店主でもある奥山恵さん、お二人のお話をうかがいました。これについては、フォーラム のホームページをぜひご覧になってください。ユーチューブでの録画配信も始める予定です。

 こう書きつつ、会員の方の中では、リモートやユーチューブの視聴といったことにはハードルが高くて、手が出せない、という方も、少なからずいらっしゃると思います。僕自身も、まあ協会の仕事をしているから否応なくリモート対応ができていますが、そうでもなければ“リモート弱者”である可能性が強かったと思います。特に、秋の公開研究会に向けて、多くの、特に地方在住の会員の方たちにリモー トでも参加していただけるよう、協会としてもいろんな手立てを考えていきたいと思っています。

2021/04/15

29、3月、別れの季節です(21,3,26)

【一日遅れになりましたが……】

◎「5の日」のブログが一日遅れになりましたが、今朝はフジテレビの朝の情報番組「とくダネ!」が 最終回ということで、豪華なゲストがたくさん出演していました。朝のこの時間帯をどのチャンネルにするかは、結構人によって決まっているようですが、僕はキャスターの小倉智明さんが秋田出身という こともあって、大体このチャンネルにしていました(いかにも秋田県人らしい理由ですが)。もっとも小倉さんの場合は、生粋の(?)秋田県人というよりも、お父さんが帝国石油(だったと思います)に勤めていらした関係で、秋田で子ども時代を過ごした、ということらしいです。

 ここで、ピンとくる人は少ないと思いますが、実は秋田には油田があり、原油が獲れたのです。社会科の地図帳にはいろんなものの生産高のトップ3とか5とかがグラフなどで載っていたりしますが、僕らが小学生の頃は原油の生産高というのがあり、秋田が1位、新潟が2位(というか、ほとんどその2県のみ)だったと思います。式の時に校歌と並んで歌わされる「秋田県民歌」というのがあり(逆に、あの頃は「君が代」はほとんど歌わせられなかったような)、そこには「あふれる油田」という一節がありました。

◎そうした関係で、秋田には戦前から石油の精製工場がありました。今は秋田市の一部になっていますが、秋田市郊外の土崎という港町にそうした精製工場があり、実はここが1945年8月14日の夜に、アメリカ軍の爆撃の目標になりました。8月14日というのは、つまり終戦の前夜で、日本はすでにポツ ダム宣言の受諾を通告しています。しかし、この夜も全国の各地で爆撃があり、僕が住んでいる埼玉県のほぼ唯一の被爆地である熊谷空襲も、この時です。土崎港が狙われたのは、一説には終戦になっても それを認めない軍人が特攻攻撃を続けるかもしれないので、その燃料をなくすため、という話もありましたが、なにしろ太平洋戦争は日本が石油の権益を守るため、という考え方があるくらいですから、量的には少ないとはいえ、石油の生産地が重要な軍事的意味を持っていたことはまちがいないでしょう。

◎僕は、この「最後の空襲」ともいわれる土崎空襲を、なんとか絵本にしたいと何年か前から企画していて、延び延びにはなっているのですが、絵本が出たら、小倉さんにも「フジテレビ気付け」で進呈しようと思っていました。これからは、どこに送ればいいですかね?

 ともかく、小倉さんに限りませんが、朝のあの時間帯に出演するためには相当な早寝早起きが求められるわけで、それを22年続けたということだけでも、朝に弱い僕としては尊敬せざるを得ません。

【卒業式も……】

◎昨日は、協会の事務局に出かけましたが、行く途中で卒業式姿の女子学生をチラホラ見かけました。 昨年は卒業式を中止したところも多かったようですが、今年は、分散するなどして、開催したところが 多かったようです。そして事務所からの帰り、高田馬場の日本フラワーデザイン専門学校に寄ったので すが、そこで一年前の「最後の卒業式」を思い出しました。

 この学校は、協会の講座などでも使ったことがあり、聞き覚えのある方もいらっしゃるかと思います。実はその前身は「児童文化専門学院」で、 以前は『日本児童文学』に、夜間講座などの広告が毎号載っていました。以前事務局員だつた奈良規子 (結婚して赤木規子)さんはここの卒業生でしたし、現事務局員の宮田さんも、ここの夜間部の講座を受講していたのを、僕がリクルートした感じです。その後、フラワーデザインの専門学校に変わったわけですが、そんなご縁で僕はこの学院の理事を務めていましたし、年に何回かは授業を受け持って、絵本作りの講座を受け持っていました。しかし、専門学校をめぐる環境が年々厳しくなり、一昨年から学生募集を打ち切り、昨年が最後の卒業式でした。

 小さい学校なので、卒業式では学生一人ひとりがスピーチするのですが、このコロナ禍で花産業も相当に影響を受けているでしょうから、あの学生たちがどんなふうに仕事を続けられているか、心配もしています。

2021/03/26