【ちょうど50年前に】
・新年度、そして記念すべき?100回目のブログということで、「さあ、何を書こうか」と思っているうちに、3日過ぎてしまいました。まあ、これも、この緩いブロらしいでしょうか。
さて、3月5日の誕生日の時に、「72歳から73歳というのは、特に感慨もない」と書きましたが、ふと「そうでもないぞ」と思い直しました。というのは、僕が大学を卒業して東京に出てきて、小学校の教員になったのは23歳の4月。つまり、それからちょうど50年が経ったわけです。
・本来なら、その一年前、22歳で上京して教員になるはずでした。東京都の教員の採用試験に受かり、勤める学校まで決まっていました。ところが結局単位が足りず、一年留年することになったわけです。でも(これは前に書きましたが)その五年目の時に、秋田大学児童文学研究会というのを立ち上げ、同人誌を2冊出し、そこに書いた「雪咲く村へ」という作品を、『日本児童文学』の同人誌評で那須正幹さんにほめられ、後年それが本になるわけですから、人生、何が幸いするか、わかりません。
【新任の教師として】
・それはともかく、さすがにその年はまじめに授業に出て、都内の私立の小学校に就職することになりました。一学年一学級という、小さな小学校でした。僕は、新任で一年生担任ということになりました。
・その一日目、入学式の時のことは鮮烈に覚えています。アクシデントというか、ハプニングがあったのです。まずは入学式を待つ時間、ベテランの先生なら子どもたちの緊張をほぐすような話題で時間を過ごすでしょうが、僕はその自信はなかったので、絵本を読むことにしました。寺村輝夫さんの『ぞうのたまごのたまごやき』で、読み始めたら結構長いので(練習していた時はそう思わなかったのですが)、「もっと短いのにすればよかった」と思ったことを覚えています。
・さて、入学式です。実は、この一年生のクラス、学校の新しい試みとして、障害を持った子どもを入学させて、いわゆる健常児と一緒に育てるという、初めての試みのクラスでした。自閉症の女の子が一人、そして情緒障害という男の子が一人、そうした子を含んだ(確か)36人でした。
ハプニングは、校長先生の話の時に起こりました。その情緒障害の男の子が突然席を立って壇上に上がり、校長先生の演壇の中に潜り込んだのです。こんな時、どうすればいいのか、教師1日目の僕には見当がつきません。連れ戻さなければいけないのかなと思うものの、彼がすんなり戻るとは思えず、大騒ぎになるのは目に見えています。それに、校長は平然と話を続けているので、結局僕はそのまま見守るしかありませんでした。(後で聞くと、演壇の中でA君は校長先生を蹴りつづけていたそうです。)
・その時校長は、こんなことを言いました。「人は一生懸命な時が一番美しいのです。A君は、一年生になってうれしくてたまらず、一生懸命その気持ちを表したくて、ここに上らずにはいられなかったのです」と。僕は(母方の)祖父の代から学校の先生ですし、六人兄弟の僕も含め四人が先生という一家だったし、学生時代にセツルメントの活動で子どもたちとは結構接していましたから、ある意味自信満々で先生になったのですが、この一日目でその自信などあっという間になくなりました。同時に、本物の教育者を見たな、この学校に就職できて本当によかったなと思いました。
ただ、僕はそのクラスを三年生まで担任しましたが(一学年一学級ですから、クラス替えというのはないわけで)、まあなかなか大変な三年間でした。その時の子どもたちをモデルに、僕は『雪咲く村へ』の後に、「山本先生」シリーズ(『山本先生ゆうびんです』『山本先生新聞です』『山本先生ほんばんです』)を出しましたが、A君や自閉症のK子ちゃんのことは書けませんでした。
【講座を受講して】
・これも前に書きましたが、僕が東京に出てきたのは、基本的には就職のためでしたが、児童文学の勉強をしたいということもありました。その二年前から協会の児童文学学校が始まっていたのです。ただ、当時は今と違って秋からの開講だったので、その半年が待ちきれず、目白の子どもの文化研究所で4月から半年の児童文学講座があると聞いて、それに申し込みました。ですから、そこからもちょうど50年ということになります。その講座も確か月2回で、児童文学学校と同じようなカリキュラム(但し、実作指導はなし)でしたから、その講座で初めて児童文学作家や評論家の話を直に聞くことができました。その時の受講者のメンバーの何人かとは今でもお付き合いがあります。
思えばあれから50年、飽きっぽい僕としては、良く続けてこられたな、という感慨があります。一方で、50年もかかってどれほどのことができたのかという思いもありますが、児童文学を半世紀読み続けてきた者として、できることはちゃんとやらなければと思いを新たにしています。