藤田のぼるの理事長ブログ

98、3,11の集会のこと(2023,3,16)

【昨日は】

・このブログも、100回に迫ってきました。たいしたことは書いていませんが、僕としてはよく続いてきたかなという感想です。本来の更新日の昨日は、事務局に出かけ、11時から新しいホームページについてのミーティング、午後からは、文学賞の選考委員に本の手配などの連絡で一日終わってしまい、ブログまで行きつけませんでした。歴代の会長・理事長で、いまだにこんなことをしているのは僕ぐらいでしょう。まあ「事務局員あがり」だからということなのですが、僕が事務局長を退任した時点で本来なら新しい人を入れたかったわけですが、財政上それが無理で、次良丸さんが事務局長の仕事をしつつ、『日本児童文学』の編集実務まで担当し(以前は、専任のスタッフがいたわけですが)、宮田さんは数年前から契約社員的な条件で経理をやってもらっている、という体制の中では、僕が引き続きやらざるを得ない、という事情があります。

 正直言って、そうした事務仕事が、僕は嫌いではありません。協会の事務は、経理のような文字通りの事務もありますが、いろいろなところとの連絡、調整というのが大きなウェイトを占めていて、前に書いたことがあったかどうか、僕が事務局員になって密かに? 楽しんで? いたのは、会議日程の調整でした。例えば6人の集まりを設定する場合、6人の都合がそろえばいいのですが、なかなかそうはいきません。仮に5人の都合がそろった日(つまり、一人が欠席になってしまうケース)が2通りあったとして、どちらの人を欠席にするかというのは、なかなか微妙な選択になります。だから、欠席を余儀なくされた人が「自分が軽視されている」というふうに思わないように、いろいろ工夫しました。逆に言えば、これはまあ会社などでも同様と思いますが、そういうふうに思ってしまう人が少なからず、と僕には感じられ、結構気を遣いました。

 今回の本の手配なども、一つの本を回し読みにする場合は、誰を先にするのか、誰から誰に回してもらうかなども、機械的には決めず、いくつかの要素を考えながら、順番や組み合わせを設定しています。まあ、その辺はやや“趣味”の領域になるかもしれませんが、そういうことをある程度“楽しみ”という風に思わないと、仕事はつまらなくなるばかりではないでしょうか。

【12年目の3月11日に】

・さて、今年は東日本大震災から12年目の3月11日でした。この日、日本ペンクラブ・子どもの本委員会の主催で「平和の危機の中で考える 13年目の「3・11」」という集会があり、その第一部では、那須さんの『ねんどの神さま』を俳優の中村敦夫さんが朗読されました。この作品は、東日本大震災とは直接関りませんが、ペンクラブの会員でもあった那須さんの追悼という意味と、戦後という時間で忘れ去られていったことへの告発がモチーフになっているこの作品を読み返すことで、まだ12年しか経ってないのに、原発の再起動どころか新設まで話が出ている現状への異議申し立てという意味が込められてのプログラムだったと思います。

 僕は、この『ねんどの神さま』については、那須さんの作品の中では必ずしも手放しでは評価していません。この絵本は読者の「共感」というより「異化」を誘うことでメッセージを届けようという仕掛けの物語だと思いますが、果たしてそれが子ども読者に届くかどうか、微妙だと思うからです。

 しかし、中村さんの朗読は、むしろ淡々としていて決してドラマチックに流されず、それだけに切々と迫ってきて、この作品の迫力を再認識させられました。

 第二部では、「「3・11」は“今”に何を問うのか」というタイトルでのシンポジウムで、朽木祥さん、高田ゆみ子さん、中澤晶子さん、濱野京子さんがパネリスト、西山利佳さんが司会でした。高田ゆみ子さんは、核戦争を描いた『最後の子どもたち』などの訳者で、このテーマではこれ以上の組み合わせはないという顔ぶれだったと思います。その内容については、ペンクラブのHPなどでも紹介されると思いますが、作家のモチーフと“責任感”のような思いを重ねていくことはとても厳しい作業だと思うのですが、それに果敢に挑んでいるパネリストに、「作家魂」といったものを感じる時間でした。

 シンポジウムの中身からはちょっとずれるのですが、中澤さんがお話の中で高村薫の『神の火』を挙げられたのを聞いて、『ふうせんの日』という作品を思い出しました。『神の火』は原発をめぐる諜報戦、原発への襲撃計画が描かれ、多分中澤さんは児童文学ではあり得ない設定という感じでおっしゃったと思うのですが、『ふうせんの日』では、夏休みに原発で働くおじさんを訪ねた子どもが、原発への襲撃に巻き込まれるという展開です。

 作者の八起正道さんは『ぼくのじしんえにっき』という作品でSF童話大賞を受賞され、デビューしたのですが、これも東日本大震災どころか、阪神淡路の震災より前に書かれた作品です。そして、そのリアリティーは、二つの震災を経験した後に読むと、いっそう身に沁みます。その後、上記のように原発を舞台にした『ふうせんの日』(1992年)以降は本を出されてはいませんが、改めて注目したい作家だと思いました。

2023/03/16

97、子ども時代のこと(2023,3,5)

【今日は、誕生日です】

・本日3月5日は、僕の誕生日です。(それもあって、5の日にブログを更新しているわけです。なにしろ5時55分に生まれた人ですし。)72歳から73歳になるというのでは、特に感慨もありませんが、まあ、今のところ健康で70代を過ごせているのを良しとしなければならないでしょう。

 昨年は、ブログに書いたように、新美南吉童話賞の表彰式で、人生で2回目の「自宅にいない誕生日」を経験したわけですが、今年の表彰式は2月に終わり、確定申告も4日に税務署に送り、あと車の免許の書き換えがありますが、まずは“平穏”な誕生日を迎えています。

 そんなわけで、誕生日記念?に、自分の子ども時代のことをいくつか書いてみたいと思います。

・人間の記憶が何歳頃からかというのは、よく言われますが、断片的なことはあるにしても、学校に入る前の確かな記憶というのは、そんなにありません。ひとつには、田舎のことで幼稚園というものがなかった、ということもあるかもしれません。ただ、なにしろ団塊の世代ですから、近所には子どもがあふれていて、その中に僕を含めて、同学年の男の子が三人いました。何の時だったか、このブログに一度登場している(名前は出しませんでしたが)公明くん(コメちゃんと呼んでいました)、誠孝くん(センボと呼んでいました)、そして僕(そのままノボルちゃんでした)が一番の遊び友だちで、みんな上の兄弟がいて、「お弁当」にあこがれていました。「となりのトトロ」で、メイがサツキにお弁当を作ってもらう場面がありますが、お弁当は大きくなった証みたいな感じがあったのだと思います。

 そこで、これは4、5歳くらいになった頃でしょうが、親に弁当を作ってもらって、三人の家を持ち回りで、お昼の弁当を一緒に食べるのです。これを「弁当開き(べんとうびらき)」と言っていました。いつも遊んでいても、意外に家の中に入ることは少なかったので、それぞれの家や家族の雰囲気を感じることも新鮮だったような気がします。

 コメちゃんは僕と違ってスポーツ系で、クラスがずっと別だったこともあり、その後あまり付き合わなくなりましたが、センボからは竹ひご飛行機(これも、「となりのトトロ」でカンタが作っています)の作り方や将棋の指し方(僕はどちらもうまくありませんでしたが)なども教わりましたし、中学に入って、同じブラスバンドに入り、彼はトロンボーンを吹いていました。その頃のことを題材にした『錨を上げて~ぼくらのブラスバンド物語~』という作品に出てくるトロンボーン担当は、彼がモデルです。

・僕らが子どもの頃は、一日に10円をもらって駄菓子屋に行くのが日課でした。僕の家のあたりは、小さな田舎町ですが、当時は歩いて5分圏内位にほとんどの種類の店がそろっていて、老夫婦が営んでいる駄菓子屋もありました。まず5円でキャラメルとかお菓子を買い、あとの5円でクジを引く、というのが定番だったような気がします。

 その駄菓子屋(「ひさご」という、何か小料理屋のような店名でしたが)で、僕が中学年くらいの時だったでしょうか、貸本屋も一緒に始めたのです。いわゆる劇画風の漫画がメインだったように思います。貸本代がいくらだったか、いずれにせよ、漫画を借りるとお菓子を買えなくなります。また、借りられるのは多分1、2冊だったと思います。

 そこで僕は、今思うとよくそんなことを思いついたし、申し出たと思うのですが(なにしろ、気の弱い子どもでしたから)、10円出すから、借りるのではなく、そこで自由に漫画を読ませてもらう、という“契約”にしてもらったのです。(そんなシステムがあったわけではなく、僕だけの特別バージョンでした。)自分で言うのもなんですが、僕はいわゆる優等生で、そこのおばあちゃんに受けが良かったから、ということもあったかもしれません。そんなわけで、週に一、二度は、お菓子はあきらめて、もっぱら“読書”に勤しむ、という時間を過ごしていました。

・もう一つ子ども時代のことで忘れられないのは、「すいかを初めて食べた日」のことです。当時、テレビは徐々に普及し始めていましたが、まだテレビのある家は少数派でした。数軒先に電器屋さんがあり、ある時、近所の子と二人、外から窓越しに、その電器屋さんの家のテレビ(売り物ではなくて、居間に置いてあるテレビで、おばあちゃんが見ていました)を見ていました。夏の午後だったはずです。そしたら、電器屋さんのおばさんが、大きな皿にすいかと包丁を載せて持ってきました。その瞬間、「まずい」と思ったのですが、なんというか、体が固まって動けません。

 なにがまずいかと言うと、僕はすいかが食べられなかったのです。僕はとにかく偏食な子で、特に果物、すいか、みかん、ぶどう、いちごなど軒並みダメでした。「まずい」と思ったのは、そのすいかを電器屋のおばさんが、おばあちゃんにだけではなく、僕らにもくれるのではないかと思ったからです。

 案の定、切ったすいかが、窓越しに、僕ともう一人に渡されました。その時のずしりとした重さは、今でも思い出します(笑)。「食べられません」とは言えません。思いきってかじりました。それが、僕が人生で初めてすいかをくちにした日でした。このことは、子どもの作文調と短編作品調に描き分けて、大学の創作の教材に(「事実を元にした作品」の例として)使っていました。ちなみに、近所にもう一軒電器屋さんがあったのですが、僕の家ではそのすいかの電器屋さんから、テレビを買ったのでした。

 こうやって思い出すと、僕はそんなに外でわいわい遊ぶタイプの子ではありませんでしたが、それでもまわりには子どもがあふれていたという感じがあります。なにしろ一学年250万人の時代で、今80万人を切ったということですから、3分の1以下ですね。ここで少子化について論じるつもりはありませんが、やはり寂しい時代になったな、という感じは否めません。

2023/03/05

96、評論研究会のこと(2023,2,25)

【那須さんの本の書評が】

・今朝新聞を取りに行って、早速開いたのは読書欄でした。日曜日に読書欄という新聞が多いと思いますが、毎日新聞は土曜日が読書欄で3ページにわたります。その2ページ目と3ページ目の見開きの右上、一番目立つところに『遊びは勉強 友だちは先生~「ズッコケ三人組」の作家・那須正幹の大研究~』の書評が載っていました。載ることは内々に聞いていましたが、本の中身だけでなく、那須さんが著作権を児童文学者協会に遺贈されたことも含めて紹介されていて、懇切な紹介になっていました。ちょっと値段が高めではあるのですが(2700円+税、なにしろ1の冊の中に執筆者が多く、手間がかかっているので)、この記事を目にしたかつてのズッコケファンに手に取ってもらえれば、うれしいことです。

 これは偶然なのですが、前回に書いた毎日小学生新聞から受けた、那須さんのことについてのインタビュー記事も今日付けで載っています。こちらは、文字データだけならインターネットでもご覧いただけると思います。 今日は、そんなことで、書評の部分をスキャンして、他の編集委員やポプラ社の編集部に送ったり、(全然別の話ですが)4月のロッテの野球のチケットを取る算段をしたりで終わってしまいました。

【評論研究会の始まり】

 昼食の後、今日は午後2時から、児童文学評論研究会の月例会が予定されていました。今はやはりリモートでの開催です。この研究会は、毎月最終土曜日に行われるのですが、僕にとってはまさにホームグラウンドともいうべき場です。

 始まりは、なんと1970年代。前に書いたと思いますが、僕が『日本児童文学』に初めて評論を載せてもらったのは1974年で、「現代児童文学の出発点」という特集でした。この特集の評論の執筆者はすべて20代、30代の若手、中でも僕が一番若くて24歳でした。それで(後にも先にも異例なケースでしたが)分担された原稿を事前に出して、編集長の砂田弘さん、担当編集委員の古田足日さんを交えて合評(というか、指導というか)をしてもらい、その上で掲載するという形にしたのでした。それまでまったく一人で評論めいたものを書いてきた僕としては、新鮮でもあり、緊張する場でもありました。

 ちょうどその当時、児童文学学校の分校?のような感じで、批評評論教室が開講されていて、当時まだ学生だった宮川健郎さんなどが受講していました。昔も今も、児童文学の作家になりたいという人はたくさんいますが、評論を志す人はなかなかいません。それで、古田足日さんの意向が大きかったと思いますが、若手の評論家未満?がそろった機会をとらえて、児童文学評論の勉強というか研鑽の場を作ろうということになったわけです。それが児童文学評論研究会の始まりでした。

【それから48年……】

 ということで、第一回の例会は1975年6月、最初から最終土曜日だったと思います。以来、ほとんど休んだことはなく、今日の例会が第572回でした。あと2年で50年になります。

 こう書くと、随分“まじめ”な会のように思われるかもしれませんが、ここまで続けてこられたのは、その緩さということもあるように思います。「会員」というのは、例会に出た人、それ以外なんのしばりもなく、「児童文学評論研究会」という名前も確か『日本児童文学』に例会の案内を載せてもらうというので、「適当につけよう」と決めた気がします。略称の「評論研」もその頃からの呼び名です。

 創立時からのメンバーは、細谷建治、宮川健郎、僕というくらいですが、その後河野孝之、濱崎桂子、佐藤宗子、西山利佳、奥山恵、内川朗子、井上征剛といったメンバーが加わりました。こんな緩い集まりですが、もしもこの研究会がなかったら、現在の児童文学評論の層はもっと薄かったかもしれません。なにしろ児童文学の批評について語り合える場というのは、他にほとんどないのです。

 なにより、29歳の時教員を辞して、協会の事務局員になる時、僕のもっとも心の支えになったのはこの研究会の存在でした。少なくとも月に1回、その場では、口の利き方とかを気にせず思ったことを話すことができ、僕が事務局の仕事を長く続けられたのも、この評論研の存在抜きには考えられません。

 ところで、今日のテキストは、ジョナサン・ゴットシャルの『ストーリーは世界を滅ぼす』というアメリカの本でした。僕は地元の坂戸図書館と新宿図書館の両方にリクエストしたのですが、新宿はもとより、坂戸図書館の方も(大分前に予約したときは6人だか7人待ちでした)あと一人までになっていましたが、結局手に入らず、買うにはやや高かったので、結局読まないままで参加しました。まあさすがにそれはめったにないことですが、「読まずに参加できる評論研」、児童文学の評論に関心のある方は、機会がありましたら、覗いてみてください。ちなみに、4月例会(29日)のテキストは、最初に書いた『遊びは勉強 友だちは先生』です。

2023/02/25

95、秋田に行ってきました(2023,2,15)

【あきた文学資料館の会議で】

・この土日(11・12日)、秋田に行ってきました。前日の金曜日、こちらも雪だったわけで、電車や新幹線が大丈夫かなとやや心配でしたが、もう金曜日の夜から雨で、土曜日の朝にはあらかた解けていましたね。去年の6月にもちょっと書きましたが、僕はあきた文学資料館の資料収集検討委員なるお役目をいただいていて、毎年6月と2月に、その会議で秋田市に出向きます。コロナでしばらく開催できなかったわけですが(僕以外のメンバーは秋田県内の方たちで、中には僕の大学時代の先生もいらっしゃいます)、昨年の6月に久しぶりに会議が開かれました。ただ、2月は3年ぶりの開催でした。つまり、冬の秋田に3年ぶりに向かったことになります。

 いつもだと、その行きか帰りに生家に一泊してくるのですが、今回は、学生時代の後輩に会う用事があり、彼の都合で会うのが翌日の日曜日の昼になったので、土曜日の夜は一人で市内のホテルに泊まりました。会議が終わってから夕食までそれなりに時間があったので、そういう時、僕は映画を観たりします。以前、那覇市でもそんな感じで映画館に入ったことがありました。沖縄まで来て、映画を観ているというのは、我ながらおかしかったですが。

 ホテルも秋田駅とつながったホテルでしたが、同じビルの中に映画館もあるのです。というか、市内にはあと一つ映画館がありますが、そこは結構離れていて、選択の余地はありません。まあ、どこもそうでしょうが、僕の高校時代や大学時代はもっとたくさん映画館があって、僕は高校生の時、テスト期間の土曜日(大体、中間テストも期末テストも土日をはさみます)の午後はテストが終わると映画を観ることにしていて(頭を切り替えて、月曜日からのテストに備える?ために)、当時流行っていたマカロニウェスタン(イタリア製のアメリカ西部劇)なんか、よく観ました。

 で、4時から5時あたりに始まる映画というのが一つしかなくて、「アバター2 ウェイ・オブ・ウォーター」でした。僕は映画の興行収入記録を塗り替えた前作は観ていなくて、時間の長さ(3時間余り)は気になりましたが、まあはっきり言って暇つぶしなので、観てみようと思いました。

 結果としては、60点というところでしょうか。SFとしてはたいした意外性のある設定やストーリーではなく、良くいえば映像で魅せる映画、ということになるでしょうか。それはまあいいのですが、終わり頃になって気になってきたのは、この映画のイデオロギーというか、全編に漂う思想といった面で、主人公は、外惑星に同化した元海兵隊員なわけですが、現地の女性と結婚して子どもを4人もうけています。幸せな生活を送っていたのですが、地球からみれば〈お尋ね者〉的な彼が、地球人の捜索から逃れるために家族とともに海の部族に逃れ(元は森の部族の中で暮らしていたのですが)、そこが攻撃されるとついに地球人との戦いに挑みます。彼は、「家族を守ることこそ自分の務め」というようなことを信念とするわけですが、どうもそれがアメリカが母国(つまりは家族)を守るために原爆を落としたり、ベトナムで戦争を起こしたりということと、重なってくるように思えてくるのです。一方で、彼の子どもたちは地球人と現地人の“混血”なわけで、差別の問題なども出てくるのですが、そういうことも含めて、「銃を取って家族を守ることこそ、男の務め」というのが、かなり濃厚に漂うストーリーだと感じてしまいました。

【翌日】

 さて、話が大分横道に逸れましたが、翌日、後輩のS君との再会でした。以前、那須さんがらみで書いたと思いますが、僕は大学を一年留年して、二年目の四年生をやっている時に、秋田大学児童文学研究会というのを作りました。一年生が5、6人と僕で、まあ半分顧問のような形でした。一年生のほとんどは国語科の学生でしたが、一人S君は美術科でした。彼は県内に残り、地元の子ども園の仕事を務めましたが、僕は当時彼から永島慎二という漫画家のことを教わりました。後年、僕が東京への初空襲を題材にした絵本『麦畑になれなかった屋根たち』を作った時、永島さんに絵を描いていただいたわけですが、僕が永島慎二という名前(漫画の世界ではビッグネームです)を覚えていたのは、S君のおかげだったのです。何年か前に僕が秋田で講演をした折に会ってはいるので、学生時代以来という訳ではないのですが、今回はそのS君夫妻と、お昼を食べながら、ゆっくり話ができました。

 実は、S君のお連れ合いは、やはり大学の後輩なのですが、児童文学研究会のメンバーではなく、僕が一年生の時から入っていたセツルメントというサークルのメンバーでした。ですから、僕が関わった二つのサークルのメンバー同士だったわけです。僕がとりもったわけではありませんが(笑)。 それで、学生時代の話になったわけですが、実はその二日前に、僕はポプラ社で毎日小学生新聞のインタビューを受け、それは那須さんについてのインタビューでした。最初の質問項目が「那須さんとの出会いは?」ということで、その秋田大学児童文学研究会で出した同人誌に載せた作品を、『日本児童文学』の同人誌評で那須さんがほめてくれたのがきっかけという話をしたのですが、それは1973年のことで、つまり50年経ったわけです。S君とも「あれから50年経ったんだよね」という話になり、感慨深いものがありました。 そんな次第で、今回の秋田行は、いつも以上にセンチメンタルジャーニー(古いかな)という趣でありました。

2023/02/15

94、図書館の話(2023,2,5)

【新人賞の話】

・昨日は事務局に出て、前回書いた文学賞のリストの修正と、新人賞の対象作品のチェックをしました。協会の新人賞は、その著者の「3冊目程度まで」となっています。「程度」というのは、微妙な表現ですが、かつては最初の本(「処女出版」という変な言い方がありましたが)のみが対象でした。(僕が関わる前ですが、かつては同人誌の掲載作品なども対象でした。安房直子さんなどはそれで新人賞を受賞しています。)それが、1冊目はあまり注目されなかったものの2冊目で力作を出版、といったケースが結構見られるようになり、「2冊目まで」としたのも、大分前のことになります。

 ただ、出版状況が厳しくなる中で、特に高学年向けの本がなかなか出せず、3冊目でようやくその書き手本来の持ち味を発揮できた、といったケースも見られるようになり、これもそんなに最近ではありませんが、3冊目までを対象にすることにしたわけです。ただ、自費出版的な本をどうカウントするかといった問題や、逆に1冊目から(新人賞は逃すも)かなり力作を出している人の3冊目と、本当に1冊目の人を同列に扱っていいかといった問題もあり、「3冊目程度」として、機械的な運用を避けたり、3冊目の人は多少ハードルを上げたりしているわけです。このあたりは、なかなか難しいことですが、協会新人賞の歴代の受賞者を見ると、本当によくぞ有望な書き手を見逃さなかったな、と感心してしまいます。

【さて、図書館ですが】

・これも前回書いたかと思いますが、僕も文学賞委員をしています。去年出た本をそれなりに読んでいるとはいえ、リストを作ると、当然気になる本で読んでいないものが結構あることに気づきます。協会事務局にあるものもありますが、ないものは図書館で借りることになります。

 僕は公共図書館のカードを、6枚持っています。地元の坂戸市の図書館のカードの他に、今は(多分、全国的にそうだと思いますが)近隣の市町村の図書館のカードも作れるわけで、毛呂山町、鶴ヶ島市、川越市の図書館のカードを持っています。更に協会事務局は新宿区にありますから、勤務先という形で新宿区の図書館のカードもあります。これに、埼玉県立図書館のカードを加えて6枚です。3年前までは、講師をしている3つの大学図書館のカードも加え、9j枚を駆使(?)していました。

 j県立図書館は、古い本とかが必要な時に使うので、日常的に使うのは他の5館。一番近いのは(僕の自宅は、坂戸市の西端なので)隣町の毛呂山図書館で、数えたことはありませんが、年間100冊前後は借りるのではないでしょうか。ですから、受付のカウンターの方たちも「また来たな」という感じですが、小説や歴史の本などに加え、絵本や児童書をしばしば借りるわけで、「このオッサンは何者?」と思われているのでは、というのは自意識過剰でしょうか。また、鶴ヶ島や川越は本館までは距離がありますが、どちらも事務局に行く時に乗る東上線の駅前に分館があるので、借りる時も返す時も便利です。5館合わせると、年間で借りる数は相当な量になると思います。

・僕はこういう仕事をしている割には、蔵書は少ない方だと思いますが、持っている本は学生時代の60年代終わり頃からになります。学生時代、大学の図書館にはあまり寄り付きませんでしたし、行ったとしても児童書はほとんどなかったと思います。今思えば秋田市内の県立図書館や市立図書館に行けば当然児童書はあったはずですが、そうした発想というか、習慣がありませんでした。ですから、読みたい本は基本的に買い求めたわけです。ところが、どこでどうやって買ったのかほとんど覚えていません。むろん、市内の本屋でお金を出して買ったわけで(笑)、貧乏学生がよく買えたな、と思ってしまいます。ただ、そのおかげで、60年代終わりから70年代にかけての主要な本は、大体本棚にそろっているという状態です。

 これからも、図書館にはおおいにお世話になるでしょう。いま民間委託が主流になるなど、公共図書館はさまざまな問題を抱えていると思いますが、児童書の出版がなんとか支えられているのも、こうした図書館の存在抜きには語られません。『日本児童文学』についても同様です。皆さんの地元の図書館で『日本児童文学』がないところには、ぜひリクエストしてください。多分、上記のように今は広域での貸し借りが浸透しているので、どこからか取り寄せになってしまうと思いますが、それでも図書館の人にこの雑誌の存在を知らせることになるわけで、ぜひリクエストを続けていただければと思います。

2023/02/05

93、協会文学賞のこと(2023,1,25)

【昨日は】

・昨日は、午後から雨、夜には雪という予報だったのに、午後の3時ころまでは結構いい天気で、しかも暖かかったので、「本当に雪?」と思っていたら、4時過ぎくらいだったでしょうか、まずものすごい風が吹いて、“嵐”という感じでした。庭に出て、風で持っていかれそうなものを片づけていたら、なんと雪が舞ってきました。こんなにあっという間に天候が変わるのは、少なくとも今の家に移ってからは(もう二十五年以上になりますが)初めてという気がしました。「一天俄かにかき曇り」という表現がありますが、まさにそんな感じでした。

 僕は日曜日に事務局に出て、午後からは研究部の「子どもの権利」のブックトークのリモート研究会に参加しましたが、その前後は今年の文学賞選考のためのリスト作りの作業をしました。その作業を火曜日か水曜日に出て続けようかと思っていましたが、天気予報を見てやめました。天気とは無関係かもしれませんが、昨日は僕が使う東武東上線が午前と午後の二回人身事故があり(これもめったにないことです)電車がろくに動いていなかったので、まあ行かなくて良かったと思いますが、なんというか心騒ぐ一日でした。

【さて、協会の文学賞のことです】

・協会の文学賞には(長編児童文学新人賞のようなコンクール的な賞は別として)、日本児童文学者協会賞、日本児童文学者協会新人賞、そして三越左千夫少年誌賞があります。少年詩・童謡のみを対象とする三越賞は別として、協会の文学賞は、選考に関して大変なことが二つあります。 というのは、他のたいていの文学賞は、候補作品を選ぶにあたって「推薦方式」をとっています。出版社や関係者に「賞にふさわしい作品を推薦してください」と依頼するわけです。ですから、その時期になると、僕の所にも野間賞や坪田賞といった賞の主催者から、返信ハガキ入りで推薦依頼が届きます。無論、推薦作にはかなりバラツキがありますから、大体の場合予選委員という人たちがいて、その推薦作を絞り込み、候補作品を概ね一桁の数にして、それを選考委員が読み、受賞作品を決定するというパターンです。

 まあ、これでたいていの場合支障はないわけですが、やはり推薦からもれていて、実はいい作品があったのでは、という危惧は残ります。特に、後で述べるように、協会の文学賞は詩集や評論・研究書も 対象としますから、こうしたジャンルのものは推薦にはなかなか入ってきません。

・そこで協会では、こうした推薦方式はとらずに、原則として前年のすべての創作児童文学を対象にしています。「それは理想的だが、本当にそんなことができるのか」と言われそうですが、それを可能にするために、いろいろな工夫をしてきました。そもそも「すべての創作児童文学」というのが何冊くらいになるのかということですが、絵本を別にすれば大体400冊弱というところです。年間の児童書全体では3千冊以上なので、その中の創作児童文学の割合は1割強というところでしょうか。それにしても、すべての選考委員がそれを全部読むなどというのは、事実上不可能なことです。

 そこで以前は、協会賞、新人賞の選考委員が分担してそれを読み、候補作品を絞っていました。ただ、それでも選考委員の負担は大きく、また人によって評価の基準にバラツキがあって、スムースにいかない面がありました。それで、10年ほど前に、「文学賞委員会」というのを作って、ここでリストの中から協会賞、新人賞で検討すべき作品をそれぞれ30作品くらい選び出す、という形にしました。ですから、両賞の選考委員は、その二次リストから候補作品を絞っていく形になったわけです。ただ、僕ら評論に携わっている人間は、否応なくかなりの作品を読んでいますが、作家の場合は、普段そんなに他の人の作品を読んでいるわけではなく、これでもかなり(他の賞に比べれば)負担感は大きく、また選考料も圧倒的に?安いという問題があります。

・もう一つ、協会の文学賞で大変なのは、先に書いたように、創作作品だけでなく、詩集や評論・研究書も対象にしていることです。僕の知る限り、そんな文学賞は児文協の賞ぐらいではないでしょうか。その分、選考委員の負担も大きいわけです。

 以上が、協会の文学賞の「大変さ」の言わば“おおもと”ですが、他にも文庫書下ろし作品の扱いとか、さまざまな問題を抱えていて、いずれその在り方をかなり根本から見直さざるをえないと思いますが、それはまた別の機会にします。

【で、そのリスト作りですが……】

・ということで、選考の前提として、昨年出版された創作児童文学作品のリストを作らなければいけません。方法としては、児童図書出版協会が発行している『子どもの本』というPR誌に、ほぼ一月遅れで出版された児童書のリストが掲載されるので、そこから創作単行本を選んでリストにしています。ただ、児童図書出版協会に加盟していない出版社については、それぞれ独自に調べなければならないので、これはこれで大変です。

 で、その作業をいまだに僕がやっているわけです。本来なら、事務局員に引き継ぎたいところですが、事務局は僕が事務局長時代の三人体制から二人体制、さらに以前は機関誌の編集は嘱託の形で専門のスタッフがいたわけですが、それも大分前から事務局長の次良丸さんが引き受けています。とても、新しい仕事を増やせる状況ではありません。

 ということで、こんな風に書くと愚痴のようになりますが(それも多少ありますが)、このリスト作りをしていると、毎年の創作児童文学の出版傾向が自ずから見えてくるという“副産物”もあり、評論をやっている身としては、ありがたい作業ともいえます。

 ともかく、なんとか9割方はできたので、今週もう一度事務局に出て、このリストを完成させなければ、というところです。賞の発表は4月の終わりですが、1月からそんなふうに選考の準備が始まっていることをお伝えしたかった次第でした。

2023/01/25

92、今年の抱負です(2023,1,15)

【遅まきながら】

・この年になると(僕は1950年生まれなので、年齢は計算しやすいです)、「今年の抱負」といっても、そんなに飛び切りなことがあるわけではなく、むしろし残していることをいかに片づけるか、みたいなことになるのですが、自分の整理のためにも、半月遅れですが、書いておきたいと思います。

 第一は、なんといっても個人誌『ドボルザークの髭』の発行速度を上げること。この個人誌は、まあ僕のライフワークともいえる「現代児童文学論」を書くために発刊したものですが、2015年11月に創刊しましたから、もう七年以上経っていますが、大変恥ずかしながら、まだ9号でようやく1960年代が終わり、今70年代を書き始めている、という状態です。言い訳はいろいろありますが、言い訳するヒマがあったら書け、という具合で、10号は9割方できています。僕は1970年前後に本格的に児童文学を読み始めましたから、ようやく僕のリアルタイムの経験で書ける時代になったので以前に書いたものも援用できることになり、ともかくペースを速める、具体的には今年中に3号は出して、来年くらいには70年代を終わらせ、そこで一区切りにできればと念じています。

 後は順不同という感じですが、はっきりした宿題としては新美南吉著作権管理委員会の資料をまとめて、新美南吉記念館の来年の紀要に載せられるようにしなければなりません。協会が新美南吉著作権管理委員会の窓口になっていたことは以前に書いたと思いますが、そのため南吉作品がどこでどのように使われたのかが(絵本などはもちろんですが、「ごん狐」や「手袋を買いに」などは、人形劇とかアニメとか、いわゆる二次的使用がものすごく多いのです)、すべてファイルになっています。そのファイルはいずれ新美南吉記念館に寄贈するつもりですが、それにあたって、実際に著作権管理に当たった者の責任として、南吉作品の使用の実態について、大雑把にでもまとめて文章にしたいわけです。「ごんぎつね」がすべての国語教科書に載っていることもあり、ある意味、新美南吉は、戦後もっとも読まれた童話作家かもしれません。これはすでに南吉記念館の遠山館長に約束したことなので、明確に「宿題」です。 著作権管理ということで言えば、昨年から、協会に著作権を遺贈してくださった那須正幹さんの著作権管理についてもいくつか宿題というか、今年中にしておきたいこと、しなければならないことがありますが、この具体的な中身については、改めて書きます。

【抱負というか、野心というか】

・もう一つ、僕が今年中に何とかしたいなと思っているのは、僕がそもそも児童文学に関わるきっかけを作ってくれた斎藤隆介に関する仕事です。去年、黒姫童話館で「八郎」の1950年のオリジナル原稿を見たことはすでに書きましたが、『八郎』や『モチモチの木』など、絵本化されて多くの人に親しまれてきたものの、僕からすると、まだ絵本になっていないものでこれを絵本にしたらいいだろうなと思う作品が、いくつかあります。なんとかその可能性を探りたい。そして二年後2025年は没後40年になるので、どこかで斎藤隆介展をやってくれないかな、というのが、まあ僕の“野心”です。今年は6月に秋田市で、11月に八郎潟町で講演が予定されており、秋田の方たちとも共に、その可能性を探れればと願っています。

 最後に、これはまあ“夢”のレベルですが、去年の12月5日付で、詩人の小泉周二さんを囲む会に行きますという話を書きましたが、とても楽しい会でした。そこで僕はビールの勢いも手伝って、「小泉さんの詩に曲をつけたい」と宣言(?)したのでした。小泉さんはご自分で自作の詩にいくつも曲をつけて、CDも出しておられます。僕はどれも大好きで、できたら、まだ曲がついてない詩に曲をつけてみたいなと、これはまさしく野心ですね(笑)。野心のまま終わるかもしれませんが、ここに書いて、自分へのプレッシャーにしておきたいと思います。  

 最後、いかにもなことではありますが、多分(将来も含め)日本の歴史の中で同じ年代の人間がもっとも多い世代の一人として、絶対に「戦前」にはしないよう、子どもや孫世代が武器を持たせられるようなことにならないよう、今まで以上に声を大きくしなければと、やはり書かずにはいられません。

2023/01/15

91、遅ればせながら、新年のご挨拶です(2023,1,10)

【5日遅れになりましたが】

・年が改まり、最初から5日遅れとなってしまいました。今日、今年初めて協会事務局に来ています。例年だと、5日あたりに年賀状のチェックも兼ねて出てくるのですが、今年は4日に池袋で私的な“新年会”があり、6日に協会のホームページ更新に関しての(在宅での)リモート会議があり、ということもあって、僕宛の年賀状は、自宅に転送してもらいました。そのせいもあって、なんだかすっかり「5の日のブログ更新」が頭から抜けていました。

 まあ、それだけ、のんびりとした正月を過ごさせてもらったということでしょう。子どもたちや孫に囲まれて、大分おいしいお酒もいただきました。元日の初詣で例年のようにおみくじを引きましたが、「吉」で、学問の項は「努力すればよろし」。そりゃまあ、そうでしょうと突っ込みたくなりますが、仕事が進まないのにあれこれ理由をつけたがる我が身への苦言かもしれないと、ちょっと反省しました。

 もう一つ注目したのは「失物」の項で、こちらは「出る 物の間にあり」でした。実は、家の引き出しに僕の保険証と病院の診察券を入れておくケースがあったのですが、孫がいじるので、カミさんがどこかにしまったのですが、その「どこか」がわからなくなった、というよくあるパターン。あちこち心当たりを探しましたが、一向に出てきません。診察券はともかく、保険証がないといざという時困るので、文芸美術国民健康保険組合の事務局に連絡して、再発行してもらいました。ひとまず安心ですが、その後「物の間」を注意して見ているのですが、まだ出てきません。

・この「文芸美術国民健康保険」ですが、初耳の方も少なからずだと思います。ご存知のように、健康保険は、会社勤めの方が対象の社会保険と、自営などの人が加入する国民健康保険があるわけですが、 国保も所得によって掛け金が違ってきます。ある程度の収入がある場合は、言わば割を食う形で高い負担を強いられる形になります。そこで、という言い方が経緯として正しいかどうか定かではありませんが、国保は国保なのですが、名前の通り文芸や美術などの分野の職能団体が集まって、独自のグループともいうべき組織を作ったのが、「文芸美術国民健康保険組合」です。現在、67の団体が加盟しており、文芸や美術関係の団体の他にも、日本映画監督協会、日本作編曲家協会、いけばな協会、日本ジュエリーデザイナー協会など、加盟団体のリストを見ていると、日本の芸術関連の分野というのがこんなふうにあるんだ、ということがよくわかります。

 さて、ここに入るメリットですが、医療の負担割合などは通常の国保と同じですが、所得に関わらず保険料は同額で、現在月額21,100円(本人、家族は11,600円)で、人間ドッグなどへの補助も割合手厚いです。国保に加入の方で、今これより多く払っているという方は加入を考えてみてもいいかと思います。ただ、数年前までは、児文協(もちろん加盟団体)の会員であれば無条件にここに加入できたのですが、現在はそれぞれの分野で一定の収入があることや確定申告をしていることなど、要件がやや厳しくなっていますので(でも、文筆で食っていなければダメというほどの厳しさではありません)、詳しくは事務局にお尋ねください。

【年賀状を見ながら】

・僕は例年年賀状は400枚用意するのですが、数年前まではそれでも足りなくて少し買い足す具合でした。二、三年前からその必要がなくなり、今年は3,40枚くらい余る感じでした。その理由の一つは、同世代の人たちがいわゆる「年賀状仕舞い」をする人が増えてきていることで(もう一つの理由は、先輩たちが段々鬼籍に入られている、という残念な現実もありますが)、僕も一時チラッと考えたこともありますが、できれば続けたいと思っています。十数年前までは宛名も手書きしていたので、これは大変でしたが、今はパソコンで印刷できますから、それを考えればまだしばらくは続けられそうです。ただ、全部印刷というのはいかにも味気ないので、自分の名前は手書きにして、なるべく添え書きを一言つけ加えるようにしています。

 名前を手書きにしているのは、それが必要という事情もあって、仕事関係の方たちには「藤田のぼる」と署名するわけですが、秋田時代の友人とか、小学校教師の時の同僚や教え子とかには、本名の「藤田 昇」と書きます。今、その本名で書く場合はほとんどないので、つい「藤田のぼる」と書きそうになるのに気をつけなければいけません。でも、年賀状を書く度に、自分には「藤田昇の時代があったんだな」という感慨も湧いて、それもまた興あり、という感じでしょうか。

 本当なら、「今年の抱負」とかを書きたいところでしたが、それはまた追々に。ともかくも? 本年もよろしくお願い申し上げます。

2023/01/10

90、雪の思い出(2022,12,25)

【大雪のニュースが】

・クリスマス、いかがお過ごしでしょうか。少し前、新潟県で車が立ち往生したりと、大雪のニュースが報じられました。その後も、東北・北海道の日本海側は大雪が続いているようです。僕が生まれ、育ったのは秋田県仙北郡長野町というところで、その後二度の合併を経て、今は大仙市となっています。秋田新幹線とも重なっている田沢湖線の沿線の平野部で、豪雪地帯とまでは言えないものの、一メートル半くらいは普通に積もったでしょうか。大雪のニュースに加え、たまたま少し前に、いぬいとみこの『山んばと空とぶ白い馬』を読んだせいか(いぬいさんの山荘があった黒姫高原が舞台で、雪の描写がすごい)、子どもの頃の雪景色を思い出しました。

・とはいえ、冬に雪が降るのは言わば当たり前でしたから、そんなに思い入れがあるわけではないのです。ところが、というか、東京に出てきて何年目だったか(と思い、検索したら1976年ですから4年目でした)、NHKの朝の連続テレビ小説で「雲のじゅうたん」というのがありました。隣町の角館が舞台で、浅茅陽子演じる日本で最初の女性パイロットになった人がヒロインでした。この帯ドラは4月初めの平日から始まると思うので、その頃は小学校教員で結構朝早く家を出ていましたから普通なら見られないと思うのですが、なぜかたまたま一回目の時、家にいて見たのです。深い雪景色の中を、馬が引くそりが進んでいきます。それを見たとたん、涙が流れてきたのです。そりの御者は、角館出身の俳優山谷初男さんで、その秋田弁のせいもあったかもしれませんが、じわっとという感じではなく、ぼろぼろと涙が出てくるのです。おれはこんなにも故郷を恋しがる人だったか……、自分でも驚きました。その雪景色が引き金だったことは、間違いありません。

【馬そり、箱ぞり……】

・そういえば、僕が子どもの頃はまだ自動車は少なく、冬になるとまだ馬そりが運搬のかなりの部分を受け持っていました。朝学校に行くときに、馬そりが通った後だと、道路の雪がしっかり固められ、そりの跡はてかてかになっています。そこを長靴でつーっとすべって遊びながら学校へ向かいます。馬そりがやってくると、それにつかまって滑ろうとしますが、結構速いので、つかまりきれません。

 そりといえば、どの家にも箱ぞりというのがありました。昔風の乳母車の車輪の代わりにそりがついた形をイメージしていただければいいでしょうか。ベビーカー兼ショッピングカーという用途で、主に女性が使います。小さい子を乗せたり、冬は自転車が使えないので、買い物などの用事にも使います。その家の紋がついた立派なものもありました。

・箱ぞりの思い出と言えば、一度母が僕を箱ぞりに乗せて、実家まで行ったことがありました。おそらく四歳位の時のことで、僕の記憶の中でも一番早いほうの部類です。これは後で母から聞いたのですが、途中で僕が何度も「こわゃー、こわゃー」と言うのだそうです。「こわい」というのは秋田弁で「疲れた」という意味で、僕はただ箱ぞりに乗せられているわけですから、疲れるはずはないが……と母は思ったそうです。実は、酔っていたのですね。雪道はそれなりにでこぼこしていますから、車酔いの状態になったわけです。

 実家は隣の角館のいわゆる在で、そうですね10キロ以上の距離はあったのではないでしょうか。3時間くらいはかかったと思います。僕は酔ったことは覚えていませんが、途中でちょっとこわそうなおじさんから、「坊、どこまで行く?」というような声をかけられたことを不思議に覚えています。

 今思うと、その時、母はなぜ3時間もかけて、僕を連れて実家に行ったのでしょうか。そのことがあったから、というわけでもないでしょうが、子どもの頃、雪の中を角巻き(ショールのような防寒着です)をかぶった女の人が箱ぞりを押して歩いていく姿に、妙に心動かされるものがありました。杉みき子さんの作品に出てきそうな世界ですが、僕の原風景のひとつです。

【『雪咲く村へ』のこと】

・そういえば(というのもいささかわざとらしいですか、書き始めた時はこのことは頭にありませんでした)、僕の最初の創作の本は「雪咲く村へ」というタイトルです。学生時代に書いたこの作品が、那須正幹さんの推薦で本になった顛末はすでに書きましたが、このタイトルはある詩から取っています。ロシアの詩で、「行くはいづくぞ 桃咲く村へ 今日の議題は 春について」というのです。僕はロシアの農民詩人が書いたというこの詩を新聞で見た覚えがあり、「桃咲く村」を「雪咲く村」にしたわけです。それで本になるとき、冒頭にこの詩を載せようと思って探したのですが、結局出典がわかりませんでした。「今日の議題は春について」というのが、いいと思いませんか? もし、「その詩、知ってる」という方がいらしたら、ぜひご一報ください。

 それでは、皆さん、良いお年を。来年の議題が、いい議題になることを願って。

2022/12/25

89、那須さんの「大研究」の本が出ました(2022,12,15)

【チラシをお送りしましたが】

・会員の皆さんには、少し前に届いたであろう会報に、本のチラシを同封させてもらいましたが、『遊びは勉強 友だちは先生~「ズッコケ三人組」の作家・那須正幹大研究~』が、この度ポプラ社から刊行されました。我が家は毎日新聞なので、13日の朝刊の一面の下(書籍広告が並んでいるところ)にその広告が載っていましたが、朝日は今日のはずなので、それでご覧になった方もいらっしゃると思います(読売と日経は、日曜日に掲載されたはずです)。そこにも、またチラシにも名前が載っていますが、僕は宮川健郎さん、津久井惠さんと共に、この本の編集にあたりました。

 タイトルの「大研究」というのは、今回の編者でもある宮川さんが、石井直人さんと編集した3冊にわたる『ズッコケ三人組の大研究』を踏襲したもので、またメインタイトルにした「遊びは勉強 友だちは先生」というのは、那須さんが色紙などに好んで書いたフレーズです。いかにも那須さんらしい言葉だと思います。

・本書の内容ですが、全部で5章から成り、第1章が「那須正幹のことば」として、那須さんの最初の記憶である、1945年8月6日の原爆についての記述から始まり、折々のエピソードをはさんで、「東日本大震災」、そして最後は「なぜ日本は平和なのか」というエッセイ、というふうに、那須さん自身が書かれた文章や、インタビューを引用しながら、那須さんの歩みを構成しています。

 また、第2章では、「那須正幹が書いたこと」として、〈遊ぶ〉〈追いつめる〉〈探しだす〉〈解きあかす〉〈漕ぎだす〉〈祈りつづける〉〈迷いこむ〉〈生きる〉の八つのキーワードから、多彩な那須作品を読み解いています。評論家にまじって、吉橋通夫さん、富安陽子などにも執筆してもらいました。

 以下、「3章「ズッコケ三人組」わたしのイチオシ」「4章 座談会・那須正幹さんとの本づくり」、そして第5章は、「平和の願いをつなぐ場所・つなぐ人」として、「ズッコケ三人組」や原爆を描いた作品の舞台が紹介されます。

・この本のもうひとつの“売り”は、これらの各章をつなぐように、那須さんとご縁のあったさまざまな方たちからの追悼エッセイが寄せられていることで、児童文学関係者だけではなく、辻村深月、リリー・フランキー、俳優の原田大二郎さんなども並んでいます。さらに上記3章の「イチオシ」には、伊坂幸太郎、万城目学、バイオリニストの五嶋龍さんといった人たちも登場していて、この世代の読書体験の中で、「ズッコケ三人組」を始めとする那須作品が、どれだけ大きな位置を占めていたかがわかります。

【それにしても】

・本当は、追悼本など作りたくはないのです。ただ、そのあたりは矛盾していて、やっぱりこういう本が作れたことはうれしいのです。会報にもこのブログにも書きましたが、僕は大学の二年目の4年生の時、大学の同人誌に書いた「雪咲く村へ」という作品を、『日本児童文学』の同人誌評で、デビューしたばかりの若手作家・那須正幹に随分ほめてもらい、その後那須さんの推薦で、僕の初めての創作単行本になったわけですが、それを書いたのは22歳、今からちょぅど50年前になります。甘えたことをいえば、那須さんには「元会長」としてずっと会を見守っていてほしかったと思いますが、今回の本で、改めて那須さんの文学人生を振り返り、そのたゆまぬ、そしてゆるぎのない歩みに、頭が下がる思いでした。

 当初の予定より大分本のボリュウムが増し、価格も2700円(本体)と上がったのですが、会報に書いたように、会員は2割引きということで、ポプラ社にお願いしました。創作を続けている人、目指す人にとって大きな価値のある、「大研究」というタイトルに恥じない一冊になったと自負していますので、どうかお読みになってください。

2022/12/15