藤田のぼるの理事長ブログ

78、カの話(2022,8,25)

【蚊の話です】

・タイトルを見て、「ちから」の話かと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、「か」の話です。 今日は、ようやく少し涼しくなり、雨でもなかったので、午前中、庭の草むしりをしました。ちっぽけな庭ですが、雑草は一人前に生えます。 毎年、春になると、「ああ、また草むしりの時期だな」と思うほど、結構時間を取られます。それで、この季節に草むしりをする場合、暑さということもありますが、一番の問題は蚊にさされないようにしたいということです。

・蚊に刺されやすい人とそうでもない人がいて、これは体質なのでしょうが、僕はかなり刺されやすい部類に入ると思います。酒飲みは(血液が酸性なので)刺されやすい、という説を聞いたことがありますが、これは眉唾でしょう。血液型でO型は刺されやすいというデータを見たことがあり、僕はO型なので、そうかもしれないと思いました。(まあ、そんなに信憑性のある話ではないかもしれませんが。)

・当然、万全(?)の備えをします。上はさすがに半袖ですが、下は短パンではなく長ズボンをはき、蚊取り線香は二つ用意します。そして、片方は、丸の形の三分の二くらいに切って、その両側に火をつけます。つまり、普通の二倍の威力があるようにするわけです。その上で、虫よけのスプレーを、足、両腕、首周りにかけます。

・ところが、それでも刺されるのです。刺されたところを見ると、やはりそこはスプレーのかけ方が充分でなかったところなのです。ちょっと感心(?)してしまいます。今の家に越してきた二十数年前、この経験を初めてした時、僕はラフカディオ・ハーンの「耳なし芳一」を思い出してしまいました。耳だけに経文を書くのを忘れ、耳をもぎ取られてしまうわけですが、実は耳のあたりも結構刺されるのです。昔は虫よけスプレーはなかったけれど、虫除けに塗る薬液のようなものはあったでしょうから、この作者は、もしかして耳に塗るのを忘れて蚊に刺された経験者なのではないか、などという、ばかばかしい連想をしたりしました。

【蚊取り線香に蚊帳】

・蚊取り線香も夏の風物詩ですが、懐かしいのは蚊帳ですね。「となりのトトロ」は全編なつかしいものでいっぱいですが、お父さんがさつきとめいに蚊帳をつるしてあげ、その中から二人が夜の庭を眺める(早く芽が出ないかと)ところは、好きな場面の一つです。布団は自分で敷けたとしても、蚊帳は子どもの身長や力では、ほぼつるすことができません。つまり、大人(父親であることが多かったように思います)が蚊帳をつるしてくれる、そういう家族の思い出やその時の匂いみたいなものと重なって、懐かしさがふくらみます。なんというか、毎日テントの中で寝ていたような感じですね。

 夏に、寝る前に親がしてあげること。今ならエアコンのタイマーをセットする……とかでしょうか。ちょっと味気ない、と思うのは、やはり昭和の人間の感傷でしょうか。

2022/08/25

77、お盆とキリシタン(2022,8,15)

【今年のお盆は】

・このところ、東北北部の大雨で、秋田でも県の北部に大きな被害がありましたが、僕の故郷の大仙市辺りは、雨は大丈夫だったようです。ただ、いずれにしても、13日のお盆は、台風の影響もあり、お墓参りどころではなかったと思われます。

 お盆というのは、子ども時代を思い出すと、なんとなく心騒ぐ日だったような気がします。まず正月同様、家族がそろいます。僕の家は、年の離れた兄たちが進学や就職で家を出ていて、お盆は(必ずでもなかったかもしれませんが)帰ってきます。つまり、久しぶりに、兄たちと会える時であったわけです。

 それと、子ども心に印象的だったのは、夜、たくさんの人が道を歩いているということで、田舎ではそういう状態はお盆と秋のお祭りくらいなのです。僕の家は父親が次男で「分家」でしたから、自分の家の墓というものはなく、「本家」つまり父の生家のお墓にお参りに行きます。お寺は学校の少し手前ですから、いつも歩く道なわけですが、夕暮れの時間、そして両親や兄・姉たちが一緒ということ自体、かなり非日常的な感じでしたし、お寺に向かう人たち、帰ってくる人たちで道はいっぱい(という印象)で、今思えばちょっとファンタジックな世界だったように感じられます。

・父の生家はそれなりの規模の地主で、ですからお墓もかなりのスペースを占めていました。ただ、不思議にお墓参りで本家の人たちと会った覚えがありません。父は、戦前家を飛び出したような格好で海軍を志願し、その他の事情もあって、生家とは折り合いがよくありませんでした。今にして思えば、わざと時間をずらしていたのかもしれません。ですから、僕にとっても父方の「先祖」というのは、なんとなくなじみがうすい感じで、行き返りの“にぎわい”の方が記憶に残っているのだと思います。

【〝キリシタン〟のことですが……】

・さて、父は僕が19歳の時に亡くなりました。墓は、本家の墓とは違うお寺で、歩いて10分足らずのところです。父の葬儀は、僕にとっては多分初めてのお葬式でした。中学生の時に父方の祖父が亡くなっているので、普通なら(近くに住む孫ですから)葬式に出るでしょうが、上記のような背景があり、父は「学校を休まなくていい」と言いました。ともかく、父が亡くなるまで、自分の家の墓地がそのお寺にあるということ自体、知らなかったと思います。浄土宗のお寺で、歴史はあるのですが、しばらく無住だったので大分荒れていて、ちょうど父が亡くなる少し前に住職が入った時でした。

・葬儀自体のことは、あまり覚えていません。さすがにショックを受けていたのだと思います。父が亡くなったのが4月で、その新盆の前あたりだったでしょうか。母と僕でお墓の掃除に行った時のことかもしれません。お寺の門に入ってすぐのあたりに、かなり昔のものと思われる墓石の残がいのようなものが、まとめられています。それを見た母が「この墓は、キリシタンのものかもしれない」と言ったのです。

・母も近隣の村から嫁いできた人ですから、話ははっきりしないのですが、その寺にキリシタンの墓があるという言い伝えは、それなりに流布している話のようでした。その時僕は大学の2年になっていたわけで、少し調べてみましたが、江戸時代初期に秋田の佐竹藩にキリシタンがいて、処刑されたという記録は確かにあります。東北では、伊達藩(これは割と有名ですね)と佐竹藩にキリシタンが多く、伊達や佐竹は大藩で徳川に対してもそれなりに対抗心があり、キリシタン禁令にしばらくの間は抵抗したらしいですが、さすがにそれも無理となり、処刑されたのは主に武家ですが、町人や農民の信者もいたようです。

・僕はキリシタンというのは、九州か京都あたりの話だとばかり思っていたので、母から「キリシタン」という言葉を聞いた時は相当びっくりしました。処刑されたということは、つまり教えに殉じたわけで、今から何百年も前に、この地でそんなことがあったということは、本当に驚きでした。当時学生運動の渦中にあって、「思想に殉じる」というようなことが、やや自分自身の問題と重なったこともあったかもしれません。処刑された中には、子どもも含まれていたようでした。

・そんなこともあり、その後キリシタン関係の本は結構読みました。そして、そのことを作品に書きたいと思ったこともありました。そう思ったのは、離婚して息子と二人で暮らしてからで、離婚の是非はともかく、子どもは自分の意思とは関わりなく、親のせいでそうした生活を余儀なくされるわけです。構想としては、離婚して片方の親と別れて暮らすようになった(現代の)子どもと、親がキリシタンのために不自由な生活を余儀なくされた(昔の)子どもを、タイムファンタジーの形で重ねようと考えました。

 ただ、信仰の問題、特にその時代のキリスト教信仰の問題というのは、僕にはあまりに難しく、結局1行も書けませんでした。先般の安倍首相襲撃事件の背景が親の「宗教」がらみということもあり、このことがまた思い出された、という次第でした。

2022/08/15

76、ヒロシマ、そして統一教会のこと(2022,8,7)

【77年目のヒロシマでした】

・2回続きで、2日遅れになってしまいました。前回、「2日遅れているので、もしやコロナ感染?」というメールをいただいて、恐縮しました。今回もそういうことではなく、なんだかバタバタしているうちに7日になってしまいました。

 昨日は8月6日。77回目の原爆の日でした。今日の毎日新聞に、この日をなんと呼ぶかについてのコラムが載っていて、戦後しばらくの間は「原爆記念日」が主流だったけれど、今は「原爆の日」と呼ぶことが多い、ということでした。確かに「原爆記念日」は抵抗がありますね。

・11月に出す那須正幹さんの追悼本『那須正幹の大研究』(ポプラ社刊)の編集が目下急ピッチで進められています。編集委員の一人である宮川健郎さんが担当する、第一章の「那須正幹のことば」(那須さんのエッセイなどで、その生涯を振り返る)の原稿が次々にメールで入ってきて、「ああ、これからは、8月6日は那須さんを思い出す日になるなあ」とも思いました。

 そういえば、僕はまだ見てないのですが、昨日の朝日新聞で、文芸評論家の斎藤美奈子さんが、那須さんの「ズッコケ三人組」と「ヒロシマ」三部作を紹介していたようですね。

・8月に向けて、児童書の世界でも何冊かヒロシマに関わる本が出ましたが、僕が注目したのは2冊。指田和さんの『「ヒロシマ消えたかぞく」のあしあと』(ポプラ社)と中澤晶子さんの『ひろしまの満月』(小峰書店)です。「あしあと」の方は、3年前に指田さんが出され、課題図書にもなった『ヒロシマ消えた家族』という写真絵本についての本、という、児童書ではちょっと珍しいタイプのノンフィクション。これは、両親と4人のお子さんの6人家族のアルバムから選んだ写真によって、この家族の日々を構成したものですが、その6人共原爆で亡くなったのです。女の子がねこをおんぶして笑っている表紙をご記憶の方もいるかもしれません。この絵本がどうして作られたのか、どんな反響を呼んだのか、といった舞台裏の話から、この絵本が出たことによって明らかになってきたことなど、まさに「本についての本」として、とても興味深いものがありました。ノンフィクションを書きたいと思っている人にとっては、ひとつの教材にもなるのではないでしょうか。

・『ひろしまの満月』のほうは物語で、作者の中澤さんはずっとヒロシマを追いかけてきた書き手です。庭の池に棲む一匹のかめが語り手で、ここに越してきた女の子につらい思い出を語るのですが、この作品の味わいは、あらすじでは伝わりにくいように思います。ただ、「かめ」そして「月」という〈時間〉を象徴する存在が、あの時からの時間の流れと、これからの時間の行方をも感じさせ、戦争が時間を断絶させるものであることが無理なく伝わってくるようでした。

【統一教会のこと】

・さて、統一教会と政治家のつながりが連日報道され、政治家の無責任なコメントにはあきれるばかりですが、統一教会の活動が盛んになったのは、1960年代の後半あたりからで、僕の高校生、大学生時代と重なります。当時、学生運動が盛んになり、それに対抗させるために組織されたとも言われています。桜田淳子は秋田出身ですが、秋田でも(当時は「統一原理」と言っていたように記憶します)かなり活発な“布教”活動が行われていて、僕も何度も誘われたことがあります。

・僕は高校時代、ユネスコ研究会という学外サークルに入っていて、その会場は県立図書館の一室でした。秋田駅からほど近く、かつての城跡が大きな公園になっていて、その入り口辺りに県立図書館と県民会館がありました。研究会の前後、会館の前のベンチとかで本を読んだりしていると、大学生くらいの男女が近寄ってきます。毎度のことなので、「あっ、統一原理だな」と思うわけですが、僕はどんなくだらない議論でも引き受ける体質なので(笑)、門前払いはしません。

 大体、「いついつに集まりがあるので、来てみませんか」といったお誘いなのですが、僕が言ったことに反論というか、説得を試みる輩もいます。今でも覚えているのは、「神はいるか」論争で、その彼(だったと思いますが)が、世の中のものはすべて生み出したものがいるはずで、その大本をたどれば一つの存在に行き着く」というので、僕は「だとしても、それをなぜ神と呼ぶのか、大根と呼んでもいいのではないか」というと、彼はさすがに憮然として去っていきました。我ながら50年以上も前のそんなことを覚えているのは、「勝った」と思ったからでしょうか(笑)。

・ただ、学生時代、僕の周囲でもその統一原理の集まりに行ったり、合宿のようなことに参加したりということは、そんなに珍しいことでもありませんでした。当時は「カルト」という言葉はなかったように思いますが、今はどんなふうに“布教”しているのでしょうか。僕にしても、当時なにか身辺にひどくつらいことがあったりしたら、果たしてどうだったか……。「大根」にすがったかも知れません。いずれにしても、人の弱みに付けこむような、こういう集団を許してはなりません。

2022/08/07

75、コロナ、国葬、ドボルザーク(2022,7,27)

【コロナ、急拡大!】

・2日遅れとなりました。この間、17日の日曜日ですが、地元の市の集団接種で、4回目のワクチンを打ちました。僕は1回目、2回目は、東京の自衛隊の集団接種、3回目は今回と同じ市の健康センターでの集団接種で、いずれもモデルナ。これまでも副反応もさほどではなく、今回も(ワクチンを打ってすぐ薬を飲みましたが)翌日37,0度という微熱が出た程度で、ノープログレムでした。

 ひとつ、副反応ならぬ副効果?があって、僕の住んでいるところは市の端っこなので、健康センターに行くには、(車を使えば直接簡単に行けるわけですが)バスで最寄りの駅に出て、電車で3駅乗り、そこからまたバスに乗って、という具合になります。ただ、そのバスがあまり本数がないので、帰りに時間調整のために駅の近くで暇つぶしをしなくてはならないことになりました。坂戸駅という東武東上線の特急なども止まる駅ですが、北口と南口に一つずつあった喫茶店が、ここ二年ほどでなくなってしまったのです。それで、スマホで「坂戸駅 喫茶店」で検索したら、いくつか出てきましたが、そんなにすぐ近くという感じではありません。これからもあることなので、ちょっと歩いてみるかと、一番良さそうなところに行ってみたら、予想よりずっと近いし、僕ぐらいの年配のマスターがひとりでやっている、いかにも喫茶店という雰囲気の店で、これはいい所を見つけた、と思いました。

・それにしても、ここにきて、こんなふうにまた感染が急拡大するとは、思いませんでしたね。実は22日の金曜日、千葉にいる上の娘が帰ってくる予定でしたが、二日前になって38度の熱が出たということで、帰れなくなり、その後陽性と判明。心配しましたが、熱が出たのは一日だけで、その後はほとんど体調も戻り、保育園の勤務は一週間休まなければならないけれど、むしろ退屈で困っている、というようなことで、まずは安心しました。これまで、コロナのニュースを聞いても、どこか他人事という感じがなくもありませんでしたが、ついに我が家にもきたか、という感じで、きいてみると、やはり「うちの娘が」とか「息子が」という話は珍しくないようです。なかなかこれを抑えこむことは難しいと思いますが、発熱外来が列を作っていたり、検査キッドが品不足というようなことを聞くと、相も変わらず対処が場当たり的と思わざるを得ません。

【安倍さんが、国葬?】

・これも、驚きましたね。亡くなったこと自体はお気の毒と思いますし、警護体制のお粗末さは指摘されなければならないと思いますが、正直、彼の死自体を悼むという感情は僕の中にはありません。むしろ、桜の問題にせよ、モリ・カケの問題にせよ、今回浮き彫りになった統一教会の問題にせよ、亡くなったからといって不問に付すわけには絶対いかないだろう、きちんと検証しなければいけない問題だらけだと思います。また、なにより集団安保にかじを切って、日本が、子どもたちが、戦争に巻き込まれる可能性を大きく広げた責任、教育基本法の改悪や道徳教科化によって、子どもたちが主権者として成長する道筋をゆがめた責任は、これからも追及し続けていかなければならないと思います。

・「国葬」ということですぐ思い出したのは、一人はアンデルセン。彼は一度も自分の家というものを持ったことがなく、言わば死ぬまで居候暮らしだったようですが、デンマーク王国は、彼を国葬で称えました。もう一人は作曲家のシベリウス。彼が作曲した「フィンランディア」はフィンランドの第二の国歌とも言われていますが、彼も国葬で送られています。その二人の場合、「国葬」ということを、誰がどうやって決めたのか。今まで気にしたこともありませんでしたが、いずれにしても、ほとんど反対する人はいなかったでしょう。 吉田茂が国葬だったというのも今回初めて知りましたが、いずれにしても今回のことが「前例」になってしまうわけでしょう。政治家だけが対象になるのでしょうかね? 政治家が良くも悪くも国民の尊敬を得ているとは言い難いこの国で、こういう形で国葬なるものが強行されることで、「大事なことは結局オカミが決めるのだ」「国民は肝心な時に意思決定に参加できないのだ」という感じが強まっていくことが、なにより懸念されるように思います。

【そして、ドボルザークです】

・これは国葬とは関係ありません。前にも書きましたが、僕は現代児童文学史をモノにすべく、『ドボルザークの髭』という個人誌を出していて、この度その9号を発行しました。これでようやく1960年代が終わったという具合で、まだまだ先は長いのですが、8号を出してから4か月後に出せたので、なんとかこのペースを守りたいと思っています。今回取り上げたのは、「曲がり角の時代」と名付けましたが、1960年代から70年代に移っていく時期の作品で、僕が学生時代に児童文学と出会った時代―つまり、ここからはようやく僕が体験的に書くことのできる時代になりました。「現代児童文学史」ということに関心があり、読んでみたいという方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただければと思います。

2022/07/27

74、那須さんを偲ぶ会が終わりました(2022,7,16)

【一昨日、偲ぶ会でした】

・ネットのニュースなどでもかなり流れたので、ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、一昨日、7月14日、那須正幹さんを偲ぶ会が東京會舘で行われました。本来なら、昨日が15日でしたから、すぐにも報告をアップするべきところでしたが、さすがに疲れて、昨日は一日ぐったりしていました。おまけに、夜の会食(偲ぶ会自体は、コロナのことがあり、飲み食いなしでしたが、夕刻、那須さんのご家族を囲んで、発起人とポプラ社のスタッフとで、懇親会でした)の後、帰宅して寝る前に鏡を見たら、ぐらついていた歯のところが腫れていて、翌朝になってもっとひどくなり、午後に急きょ歯医者に行ったら、結局抜く羽目になりました。余計にぐったりでしたが、これが一昨日でなくて良かったなと思った次第でした。

・さて、偲ぶ会ですが、東京會舘のかなり広い会場に(300人位は楽に座れそう)、間隔をあけて椅子を並べ、120人ほどの参会を得て、午後1時から始まりました。僕は発起人を代表して「開会あいさつ」というお役目でした。僕は結構“緊張しい”なのですが、まずまず頭の中にあったことを、言えたような気がします。

 その後、やはり発起人の中から、同人誌『亜空間』で一緒だった肥田美代子さん、『絵で読む広島の原爆』などの絵本を共に作った画家の西村繁男さん、そして俳優の原田大二郎さんのスピーチでした。原田さんは「ズッコケ三人組」の映画に出演したことがきっかけで那須さんと知りあい、同郷で魚釣りが趣味といった共通点もあり、「50を過ぎて、こんなに親友づきあいできる人が現れるとは思わなかった」というほどの親交を結ばれました。二人が一緒の時の場面など、さすがに臨場感たっぷりでした。

・その後、司会の村上信夫さん(元NHKアナウンサーで、村上さんが山口放送局にいらした時に、やはり親交を結ばれました)が持っておられた那須さんのインタビューの録音の一部を会場に流し、その後、那須さんの「読者代表」、一緒に仕事をした画家さんや編集者からの思い出が語られました。

・那須さんには四人のお子さんがいらっしゃるのですが、今回の偲ぶ会には、美佐子夫人はもちろん、ご長男、ご長女(とお連れ合い)、ご次男の三人が参加され(次女の方はご都合で残念ながらご欠席でした)、ご長男は四人のお子さん(つまり、那須さんのお孫さん)も連れてのご参加でした。一番下のお嬢さんが昨年の6月生まれということで、まだ一歳なわけですが、7月に亡くなった那須さんはコロナのために会うことができないままだった、ということでした。そのご家族がズラッと並ばれて、美佐子夫人からのご紹介があり、ご挨拶がありました。最後にポプラ社の千葉社長から閉会のご挨拶があり、献花に移りました。

・「那須家」としてのご葬儀やお別れ会ではないので、出口の所に、ご家族とともに、僕や千葉社長も並んでご参会の方たちにご挨拶しましたが、ほとんどの参加者が、美佐子夫人にこもごも那須さんとの思い出を語り、僕は隣に立っていましたが、美佐子夫人は(初めて会う方も多いわけですが)ちゃんと一人ひとりの関係性を把握している感じで、その点もさすがだなあと、那須夫妻のありようを思ったことでした。

【マスコミ関係の方たちも】

・偲ぶ会でちょっと驚いたことの一つは、マスコミ関係の取材が多かったことで、新聞社、テレビ局など、13社がきてくれました。さすがは那須さんだと感じました。帰りにスマホで検索したら、僕の開会あいさつや、NHKのニュースでは、原田さんと共に僕の写真も載っていて、こんな時に「うれしい」という表現は適切でないかもしれませんが、昨年の秋ごろから、かなりの時間をかけて準備してきたことだけに、本当にいい会になってよかったなと思えましたし、つまりはそれは那須さんの人徳、ということに尽きるのでしょう。

 これまで僕は、協会関係の方の、ご葬儀、お別れ会、偲ぶ会などに、かなり関わってきましたが、(比べるわけではありませんが)忘れられない会になったと思っています。

2022/07/16

73、夏は好きですか?~泳げない夏~(2022,7,5)

【猛暑お見舞い】

・前回は「合併号」にさせていただきましたが、書いたのが随分前のような気がします。20日だから、そんなでもないのに、ひょっとして「猛暑」の始まる前だったのかな。改めて調べてみたら、観測史上一番早いと言われた梅雨明けが27日だったんですね。そして、一昨日までのすごい暑さ……。僕の住んでいる坂戸市は、埼玉県の真ん中辺、この頃猛暑ポイントとしてニュースに出てくる鳩山町は隣ですから、東京都心よりも2、3度高いのです。

 二歳の孫が来ていて、去年買ったゴムプールを作りました。娘たちが小さい時は市のプールにもよく行きましたが、今年は公営プールはオープンするのかな? 去年、一昨年はコロナで学校も含めてプールは使えなかったでしょうから、子どもたちもかわいそうでしたね。

 さて、そのゴムプールを膨らませながら、子ども時代のことを思いだしたりしました。よく「好きな季節は?」という質問がありますが、今はこの猛暑で夏が好きという人は少ないでしょうが、かつては子どもなら「夏が好き」と答える子が多かったのではないでしょうか。僕は夏は嫌いでした。

・理由は、泳げなかったから。1950年代の秋田の農村でしたから、プールなどというものはなく、泳ぐのは川。僕はもともとアウトドアな子どもではなかったし、小さい頃ならともかく、中学年くらいになると、泳げなければ、カッコ悪くて川にはいけません。だから、夏休みでも大体家の中にいて、日に焼けません。夏休み明けに、なまっちろい顔で学校に行くのは、はずかしいというか、いささかゆううつでした。

【先生になった時】

・それでも、まあ子ども時代は、それで済んだわけですが、問題は、大学を卒業して、小学校の教員になった時でした。秋田県の採用試験の時だったと思いますが、「何メートル泳げるか」を書く欄があって、「25メートル(だったか)」と、控えめな嘘を書きましたが、これはどうせ落ちるだろうと思っていたので、ノープログラム。問題は、東京の私立小学校に就職が決まった時でした。

 なにしろ50年前の話で、この私立小学校にはプールがなかったのです。助かった!と思いました。ところが、やはり小学校でのプール指導は必須科目。それで、この学校では、4年生以上は夏休みに長野県蓼科のプール付きのホテルに4泊くらいだったか宿泊して、ここでみっちりプール指導をするというのです。

 あわてました。採用の時は「泳げますか?」と聞かれもしませんでした。あまりに当然のことだからでしょう。夏休みまで三ヵ月余り、そこまでなんとか泳げるようにしなければなりません。当時は今と違って、スイミングクラブのような施設はあまりない時代です。そしたら、たまたま新聞で、大人向けの水泳教室というのを見つけたのです。場所は千駄ヶ谷の神宮プールで(今もあるのでしょうか)、一週間に1回だったか二週間に1回だったか、全体で5、6回くらいの教室だったと思います。当時流行りつつあった「ドル平泳法」というスタイルの教室で、行ってみたら、20人位だったか、もう少し多かったか。

・ドル平泳法というのは、足はドルフィンキック、手は平泳ぎの形で、これが一番体に抵抗がないという「理論」に基づいた指導方法でした。それで、泳げない人というのは水の中で目が開けられないというのが共通するパターンで、まずは水の中で目が開けられるようにしよう、ということなのですが、これがなかなかできません。当時はアパートに一人暮しでしたが、家に帰ってからも、洗面器に顔をつけたり、必死の?努力でした。

・結果的にはちゃんと「泳げる」までにはいかなかったものの、なんとか浮くようにはなり、バタ足で少し進む程度にはなりました。ですから、夏休みの水泳指導の時には、「水泳はあまり得意ではないんです」とか言いながら、なんとかごまかせました。その後、子どもも生まれ、一緒にプールに行ったりしているうちに、平泳ぎなら25メートルくらいは泳げるようになりましたが、クロールの息継ぎはいまだにできません。それでも、神宮プールでの特訓のおかげで、子どもをプールに連れて行くのは嫌ではなくなりましたし、子ども時代に比べると、夏は(猛暑はともかく)そんなに嫌いでもなくなったかもしれません。

2022/07/05

72、仙台、南三陸、そして秋田(2022,6,20)

【「合併号」です】

・前号の最後に書いたように6日から8日まで仙台と南三陸、そして18・19日の土日に秋田に行ってきました。その前後、締め切り仕事やら、総会後の初めての理事会(各部・委員会の担当などを決めました)やらがあって、15日のブログ更新はパスさせていただき、今回15日の分と25日の分の「合併号」(週刊誌に時々ありますが)という感じにさせていただきます。ともかく、コロナがそれなりに収まって、遠くに出かけたり、人が集まったりすることがかなり戻ってきた、ということかな、(理事会も今回はリモートでしたが、7月は久しぶりに対面でやることにしました)と感じています。

【仙台と南三陸】

・これは前のプログに書いたように、僕の兄弟の集まりで、僕は6人兄弟の末っ子ですが、一番上の長兄は亡くなり、次兄、そして三人の姉たち、僕の5人で、コロナ前までは、秋田や(次兄と三番目の姉が仙台在住ということもあり)仙台近辺で一年に一回集まっていました。ただ、この二年間は(なにしろ高齢者の集まりでもあり)控えていました。ですから、今回3年ぶりに兄弟が顔を合わせることになったわけです。

 大体、秋田や仙台近辺の温泉に一泊し、姉たちはさらに次の日また少し違う所に出かける、というパターンだったのですが、今回姉たちが向かう二泊目が南三陸と聞いて、僕も(三年前までと違って大学の授業もなくなったので)参加することにしたわけです。恥ずかしながら(というのもおかしいですが)、大震災の海側の被災地を訪ねるのは、初めてのことでした。

 5月の学習交流会の時に、震災を題材にした作品を何冊か出されている指田和さんにその話をすると、多分そのホテルで(観洋というのですが)「語り部バス」というのをやっているはず、というので、ますます楽しみ(という言い方も変ですが)になりました。温泉も良かったですが、翌朝、語り部バスの予約をした人たち(平日でもあり、概ね僕くらいの年代の人たちが多かったですが)を乗せたバスがホテルを出発、ほぼ一時間かけて、町の被災地をゆっくり回り、ホテルの方の説明を聞く、という仕掛けでした。

 最初に向かったのは中学校ですが、そこに行くまでの道はすっかり整備されていますが、道の両側は広い空き地になっています。「このあたりが、震災前まで町の中心部でした」と聞いても、ほとんど想像することができません。道路自体、10メートルほどもかさ上げされているわけですが、さらにそこより少し高台にある中学校が最初の目的地だったのですが、その3階の途中まで津波が来たということや(単純に高さだけでなく地形的な要素もあり)、たまたま地震の直前の話し合いで、避難方法をめぐって教職員の間で意見の不一致があった(結局「慎重論」に基づいた避難がなされ、生徒たちは助かったわけですが、自分がその場にいたら、どういう行動をとったか、考えさせられました)という話は、その場で聞くとやはりすごい臨場感がありました。

 何カ所か回った最後は、あの、町の防災センター。「あの」というのは、津波からの避難を呼びかける放送を最後まで続けた女性が犠牲になったという、あの場所です。鉄骨だけになった防災センターが残っているわけです。びっくりしたのは(自分の認識不足を露呈するようなことですが)防災センターにはその時多くの町職員が残留しており、まだ二十人以上が行方不明なのだそうです。「自分の身を顧みず、最後まで避難を呼びかけました」という物語(ストーリー)にとらわれて、その女性のことにしか頭がいってない自分を恥じる思いでした。

 そして、もう一つなるほどな、と思ったのは、その鉄骨だけになった防災センターを残すのか、取り壊すのかということについて、町の人たち、特に遺族の方たちは複雑な思いがあり、むしろ取り壊してほしいという意見の方が強かったけれども、今は国の方針もあり、とりあえず残しているが、最終的な方針はまだ定まっていないという話でした。それで思い出したのは、広島の原爆ドームのことで、あの場合も、市民は当初必ずしも「残してほしい」という人ばかりではなかった、と聞いています。ほんとに、難しいことだな、と思いました。

 実は、ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、この「語り部バス」のことが、僕が乗った翌々日の朝日の夕刊で大きく紹介されたのです。僕の所は毎日新聞なのですが、横浜にいる二番目の姉がそのことを知らせてくれて、実は語り部バスは結構朝早かったこともあり、姉たちは乗らなかったのですが、「私たちも乗れば良かった」というのは、後の祭りでした。

【土日と秋田でした】

・こちらも3年ぶりになりますが、僕はあきた文学資料館という所の、資料収集検討委員というのをやっていて、本来年に2回その会議があるのですが、コロナでこの間開けませんでした。僕の出身地は、大仙市(花火で有名な大曲が中心)ですが、秋田新幹線の駅でいうと、その一つ手前の角館(城下町として観光地でもあります)から車で15分ほどの所です。いずれにしても、新幹線の終点の秋田市まではそれなりの距離があり、学生時代を過ごした秋田市に行く機会はなかなかなかったのですが、7、8年前にこの委員を務めることになったおかげで、秋田市まで行く機会が増えました。

 「文学資料館」という名前が示すように、「文学館」ではないので、まずは(秋田関連の)文学資料を収蔵することが第一義ですが、公開ということももちろん視野に入っていて、年に二回程度企画展も行われています。「赤い鳥」100年の時は「『赤い鳥』と秋田」という企画展をやり、この時は僕も少々お手伝いができました。ただ、建物自体がかつての高校の校舎の一部を転用したもので、スタッフの数も充分ではないので、本格的な展示を企画するのはなかなか難しいというのが現実です。

 話があちこちですが、読売新聞をお読みの方は気がつかれた方もいると思いますが、同紙で「とうほく名作散歩」というシリーズ企画があり、東北縁りの文学作品などが紹介されています。児童文学では、宮沢賢治(岩手)や浜田広介(山形)などの作品が紹介されたということですが、秋田に関してはそういったポプュラーな作品がなかなか見つからず、支局の方が取り上げようと決めたのが、斎藤隆介の「八郎」でした。隆介さんは東京生まれですが、戦時中に疎開で秋田に来、戦後八郎潟に伝わる民話のキャラクターを使って「八郎」を書いたわけです。その記事を書くため、僕に電話取材があり、5月上旬に掲載された記事には、僕のコメントが引用されています。このことは、何回か前のプログにも書きましたが、今回、その担当の記者さんとも初めて会うこともできました。僕はかねてから、いつか文学資料館で「斎藤隆介展」が開けないかと願っていて、その文学資料館で「八郎」を取り上げた記者さんと会うことができ、ちょっととっかかりができたような思いでした。

2022/06/20

71、学習交流会、総会が無事に終了しました(2022,6,5)

【「無事に」……】

・先週の金・土、5月26・27日ですが、学習交流会、総会が、無事に終了しました。学習交流会はともかく、総会は「無事」がいいのかどうかは微妙(議論沸騰して、〝無事〟ではなかったというのもアリだと思うので)だと思いますが、今回は対面とリモートを組み合わせたハイブリット開催、これは昨秋の公開研究会に続いてですが、その際は専門業者に依頼して配信したわけで、〝自前〟でのハイブリッドは初めてでした。次良丸事務局長を始め、理事の榎本さん、西山さんなどのご協力で、特にトラブルもなく進められたので、確かに「無事に」終了、という実感でした。

・学習交流会は、名古屋大学の内田良さんをお迎えして、ブラック校則の問題などについてお話しいただいたわけですが、一番感じたのは、「事実に基づいた説得力」という点でした。こういう問題は、「ブラック校則なんて、管理教育の極みで、悪いことに決まっているだろう」というふうな発想で、それ自体はその通りでしょうが、それで終わってしまうと思考停止になりかねません。内田さん曰く、「誰も〈子どもを管理してやろう〉などと思って教育に当たっている人はいない」、それがなぜ結果として、管理ということに傾いていくのか、現場の先生や子どもたち自身へのアンケート結果なども紹介しながら、そのあたりの〝からくり〟を解き明かしてくれる感じで、予想以上に「目を開かされた」という思いがしました。

【理事長に再選されたので】

・翌日の総会ですが、今年は役員改正の年度で、まず新理事が選出され、休憩中に行われた第一回理事会で、僕は再度理事長に選任されました。二期目ということになり、このブログも続けさせていただきます。最後の挨拶でも申し上げましたが、僕は歴代の会長・理事長に比べれば、文学的実績という点では恥じ入るばかりですが、取り柄があるとすれば、二十代のころから協会の活動に長く関わってきたという点で、そういう意味で、古い?世代と新しい世代をつないでいく役割があるだろうと思っています。ただ、前例主義というか、「今までがこうだったから……」という考え方は嫌いなので、変えていくべき点は(むしろ昔を知っている点で、変えていきやすい立場でもあると思うので)積極的に変えていって、これからの協会の活力に結びつけていければと、念じています。

 どうか、会員の皆さんからの積極的なご提言をお願いする次第です。

【明日から】

・さて、今度の学習交流会、総会もそうだったわけですが、6月に入り、コロナの状況自体はまだ予断を許しませんが、いろんなことが〈解禁〉された感じもしています。僕は、明日から仙台、南三陸と二泊三日の小旅行です。これは兄弟の集まりで、僕は六人兄弟の一番下ですが、長兄は亡くなり、今は五人。ほぼ毎年、一年に一度その集まりを持っていましたが、コロナで途絶えていて、三年ぶりになります。五人のうち二人が仙台在住なので、こういう設定になりました。

 僕はここ二年でも、仕事で北海道や名古屋方面、そして山口の防府(那須家)には行きましたが、東北はまるまる三年ぶりくらいでしょうか。18日には、これも三年ぶりにあきた文学資料館の会議で帰省することになっていて、特に震災から11年を経過した南三陸に行くのは楽しみにしています。その報告は、次回になります。

2022/06/05

70、総会間近、そして「教育と愛国」(2022,5,25)

【総会間近となりました】

・今年度の総会・学習交流会が、いよいよ間近となりました。前々回のブログに書いたように、総会前日の学習交流会の開催、そしてその学習交流会と翌日の総会を、顔を合わせる形で(リモートとの併用ですが)開催するのは、3年ぶりになります。僕にとっては、理事長になって初めて対面の総会ということになりますし、学習交流会の後に、文学賞の贈呈、公募賞の表彰があり、自分の手で受賞者の皆さんに賞状を渡すのも、初めてということになります。

・昨日東京に出る用事があり(埼玉の自宅から1時間半以上かかるので、こういう表現になりますが)、帰りに事務局に寄って、出欠表を見ましたが、金曜日の学習交流会は、リアル参加が39名、リモート参加が63名の計102名、土曜日の総会はリアルが32名、リモートが50名の計82名でした。リアル参加の方は、会場定員の半分以下で密にならないのでちょうどいいくらいですが、できれば特に学習交流会のリモート参加が、もう少し増えてほしい気がします。今日・明日であればなんとかなりますので、迷っておられる方がいらしたら、ぜひご出席ください。また、ハガキの(総会)委任状を出し忘れたという方は、メールで結構ですので、「委任する」旨をご連絡いただければと思います。

 それにしても、リアルとリモート併用のハイブリッド開催というのは、それだけ準備が大変なわけで、僕が事務局長時代は3人いたのが、今は事務局メンバーは2人、僕も具体的な準備に関して何も手伝えなかったので、次良丸さんと宮田さんはかなり大変だったと思います。その意味でも、まだの方は、今からでも出席や委任のご連絡を!

【映画「教育と愛国」のこと】

・前回のブログを書いた翌日、16日の月曜日ですが、この日は午後からポプラ社で、那須正幹さんの追悼本(これについては、また書く機会があると思います)の編集会議がありましたが、その帰り、池袋で映画「教育と愛国」を見ました。

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、この映画(ドキュメンタリーです)は、元々は大阪毎日放送のテレビで放送されたものを、さらに膨らませたもの。監督は毎日放送のディレクターでもある斉加尚代さんで、同タイトルの本が岩波書店から出されています。このサブタイトルは「誰が教室を窒息させるのか」となっており、校則の問題をテーマにした今回の学習交流会とも、通じるものがあると思います。

・僕は、映画はどちらかというと、リアルなものより、海外のSFとかぶっとんだものが好きで、日本のドキュメンタリ―映画というのはあまり見た記憶がないのですが、今回は教科書問題がテーマということで、ぜひ見たいと思っていました。「おもしろかった」というより、衝撃を受けた、というか、道徳や歴史教科書のことがメインなのですが、断片的に知っていたことが見事につながったというか、教科書の改編が「ここまで来ているのか」と、うすら寒くなる思いでした。

・そして、改めて感じたのは、従軍慰安婦や沖縄の集団自決の問題などで、歴史教科書の記述にいちゃもんをつけ、教科書の記述を後退させようとする人たちが、肝心の子どもたちのことなど、なにも考えていない、という事実でした。上映館が東京と大阪など限られているのが残念なのですが、見ることのできる方はぜひご覧になってください。こういう映画の観客動員数がまた力になると思うので。

 では、学習交流会、総会でお目にかかります。

2022/05/25

69、小松崎進さんのこと・事務局OBのこと(2022,5,15)

【小松崎進さんの追悼集会が】

・昨日、14日ですが、小松崎進さんの追悼集会が、市川市の文化会館で開かれ、出席しました。内田麟太郎さん、丘修三さん、加藤純子さん、津久井惠さん、木村研さん、国松俊英さん、最上一平さん、そしてきむらゆういちさんや画家の長谷川知子さん、浜田桂子さんなども出席されていました。

・小松崎さんは「知る人ぞ知る」という感じで、作家ではなかったので、ご存じない方も少なからずだと思うのですが、分野としては、文学教育、読書運動家ということになるでしょうが、そうした枠に収まらない幅広い活動をされた方でした。「この本だいすきの会」を立ち上げ、広げた方で、追悼集会も、この会の主催で開かれました。会は2時間ほどで、正面のスクリーンで、在りし日の小松崎さんの姿が映し出され、プログラムの節目節目で、小松崎さんの講演の動画や、昔話の語りが披露され、とても印象深いものでした。

・参加者には追悼集『過去・現在・そして未来へ』が配られ、僕はそこにも書いたのですが、僕が小松崎さんに初めて会ったのは、協会に入会したての25歳の時で、夏の集会に運営のお手伝い役として参加した時でした。小松崎さんは、参加者に配る「速報」の発行の“親玉”で、その活躍ぶりが印象に残り、僕は小松崎さんの書いたものに注目するようになりました。いわゆる実践記録なのですが、教師のそうした文章にありがちな“自慢げ”なところがまったくなくて、絵本や物語を受けとめる子どもの様子が実に生き生きと伝わってくるのです。小松崎さんは、そうした活動を「学校」という枠に閉じ込めることなく、「この本だいすきの会」を立ち上げ、絵本や物語の「読み語り」の運動を全国に広めていったのでした。

【事務局OB(OG)のこと】

・その追悼集に、僕も含めると、3人の元協会事務局員が文章を寄せていました。一人は、現協会員で、元童心社編集長の池田陽一さんです。この本だいすきの会は、作家・画家、そして編集者と読書運動の人たちをつなぐ場でもあったのですが、小松崎さんを囲む編集者たちの会(主な活動は、お酒を楽しく飲むということだったようですが~笑~)があり、その中心の一人が池田さんでした。それは知っていましたが、池田さんの追悼文を読むと、小松崎さんとの出会いは、児文協の事務局員時代でした。そうそう、池田さんは元事務局員で、これは前に書いたかもしれませんが、彼が事務局を辞めると聞いて、僕は事務局に入ることを決意したのです。

・もうお一人、大島早苗さんは、この本だいすきの会員として追悼文を寄せられていましたが、やはり事務局員時代に小松崎さんに出会っていて、協会の活動の中で、とりわけ事務局員の仕事に理解があったのが、小松崎さん、ということだったようです。

・元事務局員と言えば、最近その名前を聞く機会があったのが、僕が入会したころの事務局員だった霜村三二さん(このお名前は、3月2日生まれから)で、3回ほど前のブログに書いた、読売新聞秋田支局からの、「八郎」に関するインタビューの時です。「僕の他に、どなたに取材されましたか?」と聞くと、霜村さんの名前が出てきたのです。霜村さんは事務局を退職後、埼玉県の小学校教員になり、演劇教育などの分野で活躍されました、というより、今も教育評論家という感じで、幅広く発信されています。多分、教室で「八郎」を読んだ経験を文章にしたものを、新聞記者の方が目にされたのだと思います。

・僕が事務局に入る前は、大学を卒業してすぐの人が、言葉は悪いですが、腰掛的に事務局員になり、数年で辞めて、出版社に勤めたり、教員になったり、というパターンでした。僕が事務局に勤めようと思ったモチーフの一つに、そうした状況への反発めいた感情があったかも知れません。

 でも、こうしてみると、元事務局員の人たちが、事務局時代の思いや人脈を生かして、さまざまに活躍されているわけで、それも児童文学者協会のひとつの力かなとも思えます。

・実は、資料集を作った時の「心残り」のひとつが、「歴代事務局員名簿」を載せられなかったことで、ある時代までは、あまりに入れ替わりが激しいのと、記録が残ってないことで、断念しましたが、なにかの機会に、わかっている所だけでも記録に留めておきたいなと、改めて思ったことでした。

2022/05/15