【更新が遅れました】
◎25日に更新するはずが2日遅れとなりました。新年発行の「Zb通信」号外の年頭のあいさつで、25日付と〈予告〉してあるので(あいさつ文を書いたのは23日だったので)、このブログを初めてご覧になっている方もいらっしゃるかも知れませんが、のっけから日付が違っていて恐縮です。25日は所属する児童文学評論研究会の例会(リモートでしたが)で、久しぶりにレポーターをやり、前日その準備に一日使い、25、26日と、娘一家が去年の5月に生まれた孫を連れて遊びに来てたりしたので、今日になりました。
初めての方のために、改めてお伝えすると、このブログの更新を10日に1回としているのは、それくらいのペースの方が長続きするだろう、と思ってのことですが、それを「5の日」としているのは、これが僕のラッキーナンバーだからで、昭和25(1950)年3月5日、午前5時55分生まれ、名前の「昇」は、生まれた時間が「朝日が昇る頃」から来ています。そんなわけで、5の日です。特に今回は、このブログが「55回」でしたから、記念すべき会?になります。
◎回数と言えば、上記の評論研究会ですが、今回が第558回でした。毎月最終土曜日にやっているのですが、これを12で割れば46,5。つまり47年間続いている会なのです。僕は71歳ですから、47を引くと24。つまり、僕が24歳の時に始まった会です。この成り立ちには、今日のテーマである「初めてのインタビュー」の古田足日さんが関わっていますが、この時のメンバーで今も残っているのは僕の他に細谷建治さんと宮川健郎さんで、宮川さんがまだこの時19歳の学生でした。評論研についてはまた書く機会があるかと思います。ちなみに、今回のテキストは『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか~』(鈴木冬悠人・著、新潮選書)という本(児童文学ではありません)で、太平洋戦争の後期に使われたアメリカ軍の爆撃機B29のパイロットや関係者へのインタビューのテープが〈発見〉されたということで、それを題材にした本でした。
【そして、初めてのインタビューです】
◎さて、ようやく今日のテーマですが、そのB29関連のインタビューのことではありません。これがもちろん今年最後のブログなので、何か書き残したことはなかったか、今年初めて体験したようなことはなかったか、と考えて、結構最近なのですが、初めて本格的なインタビューを受け、それが画像として記録されるという体験をしたことをお伝えしたいと思いました。
それは11月28日のことで、場所は東京・小平市の白梅学園大学の図書館でした。なぜそこで? 何のインタビュー? というところで、上記の古田足日さんが関わってきます。古田さんは、協会の元会長で、一般には『宿題ひきうけ株式会社』『おしいれのぼうけん』などで親しまれていますが、戦後日本の児童文学界を代表する評論家でした。 その古田さんは2014年に亡くなられたわけですが、これは古田さんに限りませんが、文学者(あるいは研究者)が亡くなった後で困ることの一つは、残された資料をどうするか、ということです。資料とか蔵書というのは、本人がいればこそかけがえのない財産ですが、亡くなった後は、はっきりいえばかなりジャマなものでもあります。僕も時々ご遺族から「資料や本をどこかで引き取ってくれないだろうか」というご相談を受けるのですが、よほど珍しいものでない限り、まず引き取り手はありません。
◎古田さんの場合は、作家でもあり、評論家でもあり、戦後児童文学の第一線で長く活躍してこられ、また社会的な活動も様々にされていたので、古田さんの所にしかそろってないような資料が結構ありました。これについては、幸い神奈川近代文学館に引き取ってもらえることになり、まずは良かったのですが、問題は蔵書でした。なにしろ古田さんの蔵書は3万冊以上あったのです。
しかし、これも幸い、子ども学部のある白梅学園が受け入れ、それだけでなく、これを資料として古田足日の業績を検証し、顕彰する「古田足日研究プロジェクト」を立ち上げてくださいました。これには、学外から、宮川健郎さん、佐藤宗子さん、西山利佳さんも協力しています。資料の行き先としては、これ以上は望めないような所が実現したわけです。そして、そのプロジェクトの事業として、古田さんに縁りのある10人ほどにインタビューをして、それを画像として資料に残すという仕事を今年から始めました。古田夫人の文恵さんを始め、『おしいれのぼうけん』などに編集者として深く関わった童心社の酒井京子さんや、古田さんが主宰していた「古田塾」のメンバーなどが、その対象になっていて、僕もその一人としてインタビューを受けることになったわけです。
◎僕と古田さんとの関りは、もちろん事務局員として長く古田さんと仕事をしてきたという面もありますが、そもそも学生時代に古田さんの評論集を読んで強く影響を受け、創作と評論の両方を書きたいと思ったわけで、その出会いがなければ、評論家にはなっていなかったろうと思います。秋田から東京に出てきて2年目に、ある講座で古田さんの講義を聞き、その後お茶を飲んだ席で「評論を書いてます」という話をしたら、後でハガキが来て「書いたものを見せてほしい」というのです。なにしろ大学を出て2年目で、まともなものといったら卒論くらいしかありません。そして、その(ものすごく長い)卒論の最後の部分は古田足日論でした。でも送ったのは山中恒の『赤毛のポチ』という作品について論じた部分でした。そしたら、そのままという訳にはいかないが、少し書きなおせば『日本児童文学』に載せられる、というので(本当ですか、みたいな話でしたが)、本当に載ったのが(1974年10月号)、僕の『日本児童文学』デビュー、24歳の時でした。同じ号に、細谷建治や当時の若手の評論家が何人か使われており、それが上記の評論研究会の始まり(ちょうど同じ頃に、協会主催の評論教室があり、それを受講していた宮川さんたちも合流し)という次第でした。
ということで、そんなことや、事務局員から見た理事の古田さんについてなど話していたら、あっという間に1時間が経ってしまって、すぐ目の前にカメラがあるわけですが、緊張する暇もない感じでした。そんなわけで、自分がしゃべったことが、大学の図書館にアーカイブとして残るという経験はもちろん初めてでしたし、それが自分の児童文学の言わば原点ともいえる古田足日のことであったというのは、ぼくにとってもとても幸せな体験でした。
ということで、次回は来年の1月5日(予定!)になります。皆様、どうぞ良いお年を。