藤田のぼるの理事長ブログ

88、サッカー、パソコン、アンコウ鍋(2022,12,5)

【師走になりました】

・月並みな表現になりますが、早くも師走。ただ、あっという間にというよりは、今年は結構いろいろあったな(まだ終わっていませんが)、という実感。

 さて、三題噺みたいなタイトルですが、そんな芸のある話ではなくて、バラバラな話題です。前回ちょっと予告した、那須さんの追悼本に関しては(まもなく届く会報に、そのチラシが同封されるはずですが)じっくりゆっくり紹介したいので、次回にさせていただきます。

・さて、まずはサッカー、もちろんワールドカップの話ですが、僕はドイツ戦は前回書いたように小樽のホテルで見たわけですが、コスタリカ戦は、その日夕刻から息子と池袋で会って一杯やる約束になっていて、居酒屋で息子のスマホ画面での観戦でした。そしてスペイン戦は、その日午後から日能研の文芸コンクール(中高生対象)の選考会が控えていたこともあり、さすがに朝の4時に起きるという根性はなく、5時に目覚ましを設定しました。それでも後半はまるまる見られますし、その時点で絶望的なスコアだったら、また寝ればいいと思ったのです。0対1というのは微妙でしたが、まあ無理かなとも思いつつ、ちょっと見てみようと思った矢先、後半開始早々に2点入って、結局まるまる見てしまいました。

・それにしても、こういう時につくづく感じるのは、監督の大変さですね。試合後の森保監督のコメントは、興奮気味ではあったものの、事前に準備されたコメントのように感じました。おそらくいくつかの場合を想定して用意したのでしょうが、その中の一番いいコメントが話せたのが幸いと思いました。

【パソコンを替えました】

・実は、このブログ、新しい(といっても中古ですが)パソコンで書いています。これまで使っていたパソコンが、容量不足で時々更新できなくなり、不安でした。また、そのパソコンにはカメラがついてなくて、リモートの時は小さいパソコンで代用していたのですが、やや不鮮明で、これからリモートの用途はまだまだありそうですから、この機会に取り替えました。

・パソコンというのは、ほかの電気器具と違い、かなりにやっかいな代物ですね。なにかトラブルがあったときに、皆さんはどうしていらっしゃるでしょうか。事務局の場合は、次良丸さんがかなり詳しいので、大体対応してもらえますが、自宅ではそうもいきません。電気店などに持ち込むのも大変です。

 僕の場合は、比較的近いところで、そうした対応をしてくれる専門の業者がいるので、なにかあると彼に連絡します。電話で済むことも結構あります。今回も、彼に頼んで新しいパソコンを購入してもらい、前のデータも移してもらいました。朝に前のパソコンを取りに来てくれて、午後にはデータが全部コピーされた新しいパソコンを届けてもらえたので、本当に助かります。

 そんなこともあり、今日のブログのアップは夕刻になりました。

【そして、アンコウ鍋です】

・明日、茨城県の阿字ヶ浦に行きます。会員で詩人の小泉周二さんの地元で、小泉さんを囲んで冬の味覚を味わうという集まりです。何年も前から開かれていたようですが、僕は大学の非常勤講師をしている間は、平日はなかなか時間が取れず、三年前に初めて参加しました。結構好き嫌いの多い人なので、初めてのアンコウ鍋はちょっと心配でしたが、いやぁ、おいしかった。小泉さんの教え子の家というこじんまりとしたホテルで、夜は小泉さんのギター伴奏の歌を聴いたりと、楽しい時間でした。その翌年に小泉さんの詩集の解説を書かせてもらったりして、本当はそのお祝いの集まりになるはずだったわけですが、コロナで三年ぶりということになりました。美空君もさらに成長していることでしょう。

 小泉さんの詩集は、『たたかいごっこ』というタイトルで、目で息子を見ることのできない小泉さんの“子育て”(そして“父育ち”)が主な題材になっています。ぜひ、僕の解説共々(は余計か?)お読みになってください。

2022/12/05

87、行ってきました(2022,11,25)

【予定通り】

・前回のブログに書いたように、20日に宮城教育大学で開かれた児童文学学会の研究大会(19、20日の二日間ですが、僕は二日目から)に参加するために、仙台に。お昼前に着いて、午後からのシンポジウム「現代児童文学をいかに歴史化するか~資料の保存・活用を考える~」で、パネラーの一人として発言。時間の関係で、かなりに端折りましたが、記念資料集のPRは多少できたかと。

・実は、これについては、次回あたりに改めて書きますが、那須正幹さんの人と文学を振り返る『遊びは勉強 友だちは先生~「ズッコケ三人組」の作家・那須正幹大研究』が、ようやくできて、出かける前日の19日に見本が届き、仙台まで持っていって、一緒に編集を担当した宮川健郎さんに(彼は19日から仙台なので、まだ見本を手にしておらず)見せて共に喜ぶ、という一幕もありました。(あと津久井惠さん、そしてポプラ社編集部の編という形です。)

・午後は、「東アジアの小校学国語教科書における児童文学を考える」というラウンドテーブルに出席しましたが、そこで韓国、中国、台湾の小学校国語教科書を見せてもらったのですが、かなりびっくりしたのは、韓国の教科書で、日本風にいえばほとんど副読本のようなスタイルの「作品集」で、低学年の場合は、結構新しい絵本の合本のような感じです。そして、改定の度に、作品がほぼ入れ替わるのだそうです。ですから、「おおきなかぶ」「ごんぎつね」のような定番教材といったものは、ほとんどないわけです。むしろ、中国の教科書が、なんというか、作り方の思想において日本とほぼ同じだな、ということも印象的でした。

・そんなことで、学会が終わり、僕は仙台駅に戻りました。話があちこちですが、なにしろ今回は4泊5日だったので、いつもの手提げのボストンバックではさすがに間に合わず、娘から借りたそれなりの大きさのスーツケースを引きずっての旅行となりました。そのため、スーツケースは仙台駅のロッカーに預けたので、それを回収し、地下鉄に乗って、姉の家に向かいました。三人いる姉のうち、すぐ上の姉で、兄弟の集まりなどで会ってはいますが、家に泊まったのは久しぶりで、東日本大震災の時のことなど、改めて聞いたり、でした。

【北海道へ】

・翌日、仙台駅から北海道新幹線に乗り、函館に。2時間半ほどで、さすがに速い。市電に乗り、予約していた五稜郭近くのホテルに行きましたが、もちろん旅行支援の4割引きで予約したわけですが、クーポン券3千円分を受け取ろうとしたら、うかつにもワクチンの接種証明を持ってこなかったことに気づきました。あわてて家に電話して、接種証明の写真をラインで送ってもらい、事なきを得ました。皆さんも、旅行支援でお出かけになる際は、お忘れなく。その日は近くの居酒屋で一杯やりましたが、4千円ちょっとのお勘定がクーポンのおかげで千円ちょっとになりました。

・そして、翌日、函館を発って、小樽に。まずは札幌まで、在来線の特急で4時間近くかかります。つまり、仙台から函館よりも、ずっと時間がかかるわけです。経路的にやや遠回りという問題もありますが、北海道の広さを実感です。そして札幌で乗り換えて小樽まで30分余り。翌日が、絵本・児童文学研究センターのセミナーだったわけですが、この日の夜は前日の懇親会で、三年ぶりにあった方たちも多くいました。そして、翌日がセミナーで、同センターの工藤理事長、茂木健一郎さん、斎藤惇夫さん、養老孟司さんという面々の自在な講演、シンポジウムでした。そして、その日の夜は講師やスタッフの夕食会が終わった後、部屋でサッカー観戦という次第でした。

【函館の思い出話】

・なんだか、ただ日程をなぞっているだけで、全然おもしろくありませんね。一つひとつ詳しく書いているとえらく長くなってしまうので、お許しをいただきますが、今回函館に行けたのが、僕としては一番の収穫だったでしょうか。今回が二回目で、函館の観光スポットは五稜郭と幕末に建てられたギリシャ正教の教会などの建造物群だと思いますが、前回、十数年前ですが、その時は教会群の方に行ったので、今回は五稜郭が目当てでした。五稜郭タワーというのがあり、まずはそこに上って全貌を見るわけですが、確かに西洋的というか、日本の城郭とはまったく違う様相です。歩いてみても、よく幕末の時代にこんなものが作れたなと感心する思いでした。ただ、2年前に再建が終わったという奉行所の建物が新しすぎることもあってか、全体に綺麗すぎるというか、整い過ぎている印象もあって、それなりに歴史好きの僕としては、もうちょっと“廃墟感”がほしいなという感じでもありました。

・それで、余談めきますが、十数年前の教会群の見物の際に、とても印象的なことがあって、今回はあまり見かけませんでしたが、その時は修学旅行の学生をたくさん見かけました。その中で、高校生ではない、もちろん中学生ではない女子の一団があって、なんというか、異様に(?)容貌が整った女の子たちなのです。譬えは悪いかもしれませんが、あの北朝鮮の女子応援団を思わせるようなグループでした。制服を着ているので、どこかミッション系の短大とかだろうか、それにしても、こんなに身長もそろっていて、全員が人目を惹く顔をしていて、そんな学校があるのだろうか、と思ってしまいました。

 今なら、おじ(い)さんの特権として、「どこの学校?」と聞いたかも知れませんが、その時は聞けませんでした。そしたら、イーゼルを立てて、教会の絵を描いていたおじさまがいて、立ちどまった彼女たちに聞いてくれたのです、「どこの学校?」。その答は、「(誇らしげに)宝塚音楽学校です」。深く深く納得でした。

 そんなことも?思い出させてくれた四泊五日でした。羽田に着き、空港内の蕎麦屋でお昼を食べましたが、一番搾りも一本注文して、一人慰労会(?)で締めくくった次第でした。

2022/11/25

86、旅に出てきます(2022,11,15)

【一日遅れになりました】

・14、15日と、打ち合わせや会議があり、協会事務局に出ていたので、一日遅れになりました。その前、13日の日曜日、5回目のワクチンを打ち、今回初めてファイザー社だったのですが、副反応はまったく、といっていいほどなく(その日の夜にロキソニンは飲みましたが)、無事でした。  

 協会では、一週間前の土日、宇都宮セミナーがあり、僕は新美南吉童話賞の選考と重なり、参加できなかったのですが、きむらゆういちさんの講演会、翌日の分科会も含め、とても中味の濃い、いい集まりになったようです。スタッフの皆さん、ご苦労様でした。

【20日から、“旅”に出ます】

・さて、今度の日曜日に僕は仙台に向かいます。児童文学学会の研究大会のためで、本来なら一日目の19日から行くのですが、今回は“その後”があり、自分の出番のある二日目の20日に向かいます。 出番というのは、二日目の午後に行われるシンポジウム「現代児童文学をいかに歴史化するか~資料の保存・活用の方策を考える~」のパネラーとして、話をします。資料の保存といったテーマのシンポジウムというのは、多分初めてではないかと思いますが、僕がパネラーに指名されたのは、協会の資料集の編纂に当たったからで、併せて、個人誌を発行しながら「現代児童文学史」を書いている、ということもあると思います。

・なので、その二つの話をしようと思っていたのですが、ここ一、二年、僕は妙に「資料」との出会い、というか、考えさせられる事態に直面していて、ひとつはこのブログにも書いた、黒姫童話館で「八郎」原稿を始めとする斎藤隆介資料を目にしたこと、そして今年度になって、著作権遺贈を受けて那須正幹さんの資料の整理を始めていること、さらにこの著作権管理ということと関連して、以前に協会が窓口となっていた新美南吉関連の資料についても、まとめなければならなくなったことなど、物事は重なる時には重なるものだなと、感じています。発言の持ち時間が20分なので、全部しゃべるのはどう考えても無理があるのですが、こういう機会に簡単にでも触れておく意味はあると思うので、なんとか項目だけでも、話したいと思っています。

【そこから北海道に】

・僕は例年のことですが、11月下旬に、児童文学ファンタジー大賞の授賞式で、小樽に行っています。主催している絵本・児童文学研究センターのセミナーの中で、授賞式も行われるのですが、今回は結局受賞者なしに終わりました。ただ、今年でこの賞も終わりということもあり、セミナーに呼んでもらいました。これが23日です。

 ということで、仙台から帰って、すぐまた北海道に向かうというのもムダな感じがし、この機会に、仙台から新幹線で北海道に行こうと考えました。北海道新幹線に乗るのは初めてです。20日は、仙台の姉の所に泊まり、翌日新幹線で函館に向かい、一泊。そして22日に小樽に行き、二泊します。合わせて四泊五日になるわけで、こんなに家を空けるのは、何十年か前にアジア児童文学大会に参加するため韓国に行った時以来のような気がします。晩秋というより、初冬の東北・北海道を満喫してこようと思います。次回は、その報告になるでしょうか。

2022/11/16

85、長谷川潮さんのこと(2022,11,5)

【長谷川潮さんが亡くなられました】

・児童文学評論家・研究者で、『日本児童文学』の編集長なども務められた、長谷川潮さんが亡くなられました。85歳でした。9月29日に亡くなられたのですが、10月半ばにご家族からお知らせがあり、ご葬儀に参列することは叶いませんでしたが、来週の月曜日に、きどのりこさん、河野孝之さんと、ご自宅に弔問にうかがうことになっています。

・長谷川さんは1936年10月生まれですから、終戦時は8歳、疎開世代で、実際に学童疎開を体験されました。その時の病気がもとで、脊椎カリエスを発症され、障害をお持ちでした。だから、というのは短絡に過ぎるかもしれませんが、長谷川さんの評論・研究の二大テーマともいうべき対象は、戦争児童文学、そして児童文学に描かれた障害という問題だったと思います。後者については、その集大成ともいえる『児童文学のなかの障害者』(ぶどう社)で、2008年の日本児童文学者協会賞を(評論書の協会賞は珍しいですが)受賞されています。

【「ぞうもかわいそう」のこと】

・戦争児童文学に関しては、かなりの量の論考がありますが、中でも特筆されるのは、絵本『かわいそうな ぞう』を批判した評論「ぞうも かわいそう」で、日本の児童文学の歴史の中で、単独の評論でこれだけの影響力を発揮したものはなかったといっても過言ではないと思います。

・この評論は、もともとは『季刊児童文学批評』の創刊号(1981年8月)に発表されたもので、僕もこの雑誌(今はありません)の同人の一人でした。サブタイトルが「猛獣虐殺神話批判」となっていて、戦時中に上野動物園の象が殺された顛末を描いた、あの有名な絵本『かわいそうなぞう』が批判の対象になっています。およそ児童文学に関わろうという人ならば、これだけは(?)ぜひ一度読んでほしい、それだけの意味のある評論だと思います。 上記の雑誌は手に入りにくいでしょうが、長谷川さんの著書『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』(梨の木舎、2000年)の冒頭に収録されています。埼玉県図書館横断検索で調べたら、県内の14館に所蔵されていました。というか、この名著が14館しかないというのはいささか悲しい(ついでに僕の『児童文学への3つの質問』を検索したら29館でした。やれやれ……)。

・さて、その「ぞうも かわいそう」の内容を紹介するとなると、かなり長くなってしまうのですが、あえて簡単にいえば、絵本『かわいそうな ぞう』には、見過ごすことのできないウソがある、ということです。まずは時間経過の問題。絵本では、「戦争が段々激しくなって、東京の町には、毎日毎晩、爆弾が雨のように振り落とされてきました(原文はひらがな分かち書き)」ので、もしも爆弾が動物園に落ちたら大変なことになるというので、猛獣や象が殺処分にされた、ということになっています。しかし、この殺処分は1943年の夏のことで、その頃は(前年に奇襲的な航空母艦からの爆撃が一度だけありましたが)東京の空に爆弾など全然落とされていなかったのです。B29による東京初空襲は、殺処分から1年以上後の1944年11月24日で、「連日連夜」という感じになったのは1945年になってからのことでした。

・ではなぜこの時期に動物の殺処分が行われたかということで、長谷川さんは、いくつかの資料を手がかりにそれを見事に推理していきます。ここはダイジェストは難しいのですが、例えば、絵本の最後の方にこんな場面があります。死んだ象を目の前にした動物園の人たちが、上空を飛ぶ敵の飛行機を見上げながら(上記のように、それはあり得ない光景ですが)、こぶしをふりあげて「戦争をやめろ」と叫ぶのですが、冗談じゃありません。この当時、そんなことを声に出したら、どうなりますか? 長谷川さんは「敗北以外のなにものもないことを知りつつ、あそこまで戦争を続行し、死ななくてもいい人々を多数殺した連中が、猛獣による危害を本当に心配するほど人道的などということはありえなかった」と書いています。この告発の重さには、当時僕も目を開かされ、その後B29の東京初空襲を題材にした絵本『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社、その後てらいんく)を書いたのも、これに少なからず影響を受けたように思います。

【少し、個人的な思い出を】

・長谷川さんでやはり思い出されるのは、長谷川さんのご結婚のことです。僕が最初にお会いした当時はまだ独身でした。僕が協会事務局に勤めるようになって、事務所が今の神楽坂の前の百人町の頃ですから、1980年あたりのことだったと思います。

 ある時、事務所に女子学生が訪ねてきました。当時は、大学で児童文学を勉強している学生などが、事務所を訪ねてきたりすることが時折あり、そういう学生をアルバイターにしたりすることもありました。その学生は平井えり子さんと名乗り、なかなか“ナマイキ”な口をききました(このパターンもよくあることでした)。僕も30歳そこそこの頃ですから、そういう場合はかなりていねいに?論破して、相手をしました。それがきっかけで、平井さんは僕らがやっている評論研究会や協会主催の研究会に顔を出すようになったのです。

 当時の研究部長は上笙一郎さんだったと思いますが、研究会といってもかなり準備が杜撰?だったりで、これは後から聞いたのですが、参加者が長谷川さんと平井さんだけ、ということもあったようです。そうです、その平井さんが長谷川夫人となったわけです。

 三人のお嬢さんに恵まれ、お孫さんもいることは長谷川さんからうかがっていましたが、長谷川さんより大分若かった平井さんは、残念ながら早逝されました。今度ご自宅に伺う際に、そのお嬢さんにお会いできるのも楽しみにしています。 長谷川さん、長いこと、お疲れさまでした。また平井さんと侃々諤々、戦争児童文学(いや、ジェンダー論かな)をめぐる論議など、再開してください。

2022/11/05

84、インボイス制度について(2)(2022,10,25)

【前回の続きです】

・前回は、17日の勉強会で学んだことなどをもとに、インボイス制度の仕組みについて書きました。今回は、では具体的に、これにどう対応したらいいのか、という、言わば実践編になります。

 今のところ、まだ限られた出版社ですが、「アンケート」という形で、インボイスに登録するかどうかを尋ねてきたところがあるようです。僕自身も、毎月本の紹介を書いているところから、この1月にそうしたアンケートが送られてきました。僕はまだ回答を保留しています。ただ、これから登録の期限である3月に向けて、そうした問い合わせが多くの出版社から送られてくることが予想されます。

・結論的にいえば、「今のところ、すぐに登録する予定はありません」と答えるか、「今後、登録のプラスマイナスを見極めて判断したいので、しばらく保留します」というふうに答えるのがベターかと思います。但し、売り上げ(印税等の著作権収入や講演料などの合計)が1000万円を超えて、すでに消費税を納めてきた方の場合は、登録しない理由はないと思います(但し、後で述べる個人情報の問題は残ります)。

【すぐに登録しない方がいい理由は】

・「適格請求書発行事業者」に、すぐに登録しない方がいい、もしくは保留した方がいい理由ですが、登録しないからといって、出版社から急に仕事が来なくなる、といったことはまず考えにくい、ということです。これが、例えば運送業者のような場合、小さい会社で免税事業者でインボイスに登録しないところがあれば、他の(登録した)規模の大きい運送業者に乗り換えられてしまう、といったこともあり得るでしょう。また、例えば雑誌のライター的な仕事とか、図鑑などのカットを描く絵描きさんとかの場合は、(言葉は悪いですが、取り換えの効く仕事という要素が強いと思われ)そういうこともなくはないように思います。ただ、相手が作家の場合は、そもそもほとんどの人が免税事業者だし、あなたに払う消費税が控除されないから他の作家に依頼します、というようなことは、考えにくいと思います。

 そして、実は、この制度には三年間の「移行措置」というのがあって、インボイスに登録していない相手に支払った消費税についても、三年間は一定の割合で控除が認められます。ですから、あわてて登録しなくても、少なくとも三年間はある程度の猶予はあるわけです。

【もう一つの問題は……】

・ここまで書きませんでしたが、このインボイス制度の発足については、特に文化団体などからは、もう一つの問題が指摘されています。それは、登録した会社や個人のリストが、国税庁のホームページに記載されるということです。例えば児童文学者協会は前回書いたように、すでに売り上げに拠って消費税を納めていますから、発行業者として登録し、登録番号をもらうことになります。そうすると、それが国税庁のホームページに記載されるので、協会に印税を支払う出版社は、それを見て協会の登録番号を確認し、協会からの請求書と照合して(今まで印税を受け取る際に請求書は必要ありませんでしたが、これからは求められるでしょう)まちがいがないか確かめることになります。協会のような団体とか会社であれば、そこに載っても特に問題はないわけですが、フリーの個人の場合は、特にペンネームの人などで住所が載ってしまうと、個人情報をさらすことになってしまいます。漫画家さんなどは、この点を一番危惧しているようです。ただ、ホームページにどのように記載されるかは、まだ未確定のようではあります。

【さらに危惧されることは】

・ということで、上記のように、少なくとも、いま急いで発行業者に登録することはむしろデメリットの方が大きいと思います。ただ、今後の問題として、何度も書いたように、出版社側からすれば、(登録していない)著者に支払った分の消費税が今後は控除されないわけですから、だったら、「今までは印税に消費税をつけていましたが、これからはつけません」あるいは「消費税分を印税から減らします」というような対応をしてくることは、可能性として考えられます。これについては、個人の問題ではないので、協会としても他団体と連携して対応していきたいと思いますが、もしもそういう申し出などがあった場合には、ぜひ協会に情報をお寄せください。

 以上、本当にざっとしか書けなかったので、前回も書きましたが、勉強会の録画・録音を直接聞きたいという方は、事務局までお申し出ください。

2022/10/25

83、インボイス制度の勉強会が開かれました(2022,10,18)

【3日遅れになりましたが】

・更新日の15日から3日遅れになりましたが、昨日(17日)インボイス制度の勉強会があり、その報告をと思っていたので、今日になりました。ただ、説明が相当長くなると思うので、この問題については、次回(25日)と2回に分けてお話したいと思います。

 「インボイス制度」という言葉、そんなに大きく報道されているわけでもないので、この言葉自体あまり聞いたことがないという方もいらっしゃるかもしれませんが、来年10月から開始されることになっています。「インボイス」というのは「適格請求書」と訳されていますが、そもそも請求書というもの自体、わたしたちにはあまりなじみがないのではないでしょうか。印税や原稿料、講演料などを受け取る時、請求書を出すことを求められることはあまりなかったと思います。しかし、この制度が開始されると、そのあたりが大きく変わってきます。

・ということで、割合急に勉強会が企画されたので、会員の皆さんに通知する機会がなく、とりあえず、理事・監事と部員・委員、評議員(メールで連絡できる方)にお伝えし、協会の顧問税理士である税制経営研究所の西澤税理士にお願いして、リモートでの勉強会を開きました。50名近い参加があり、また今後のことを考え、児童文芸家協会にもお声をおかけし、何人かの参加をいただきました。勉強会は1時間半で、西澤税理士のお話が50分ほど、残りの30分余りが質疑応答でした。  

上記のように、会員の皆さんにお伝えする暇がなかったので、この勉強会については録画・録音をしており、ご希望の方にはお送りできます。事務局までご連絡ください。

【さて、インボイス制度ですが】

・以下は、西澤税理士の説明で理解した内容、またその前にネットなどで仕入れた内容を、僕なりにまとめた形で書きますので、あるいは正確ではない部分があるかもしれません。

・まずどういう人がこのインボイス制度に関係があるのか、ということですが、基本的には印税や原稿料を受け取っている方になります。ただ、今のところまだ本も出ていないので印税は受け取ってないという方も将来的には関係してくる可能性があるわけで、知っておく意味はあると思います。

・実は、このインボイス制度について理解するためには、まず「消費税」というものの仕組みをある程度理解することが必須となります。西澤税理士のお話も、そこからスタートしました。 わたしたちが印税を受け取る際、例えば10万円であれば、これに10%の消費税がついて11万円支払われます。(源泉所得税が引かれることは、今は除外して考えます。)出版社は他の著者にも画家さんにも、そしてもちろん印刷所や配送業者などにも支払いをするわけで、この時にも消費税をつけて支払っています。一方、出版社は本を売るに当たって、例えば1000円の本であれば、100円の消費税を付けた形で代金を受け取ります。1000円がまるまる出版社にいくわけではなく、取次や書店で受け取る分があるわけで、例えば1000円の本ならば、半額の500円分の消費税50円が出版社の受け取り分になります。つまり、出版社は一方で消費税を受け取り、一方で消費税を支払っているわけです。そして、例えば一年間で消費税を100万円受けとり、70万円支払ったとすれば、差額の30万円を税務署に納入します。これがざっくり言って、消費税の仕組みです。

・さて、わたしたちも小なりとはいえ、印税や原稿料を受け取っていれば、税務署から見れば「事業者」ということになります。しかし、ほとんどの方は、否応なくそこから10%の源泉所得税を引かれて(つまり、10%を所得税として支払って)はいても、消費税を税務署に納めてきたという方は少ないと思います。なぜなら、売り上げ(わたしたちでいえば印税、原稿料、講演料など)の合計が1000万円以下の場合は、消費税の納入が免除されているからで、これを「免税業者」といいます。会社とかの場合は、売り上げが1000万円以下という場合はまずないでしょうが(児童文学者協会も印税や機関誌購読料、受講料などの「売り上げ」が1000万を超えますから、毎年数十万円の消費税を納めています)、小規模な個人商店やわたしたちのようなフリーで仕事をしている人間の場合は、かなりの割合で免税業者なわけです。

・出版社の話に戻りますが、インボイス制度が始まると、先程の例でいえば、支払った額に付けた消費税70万円について、その支払先が「適格請求書発行事業者」(以下、発行事業者)であるかどうかをチェックしなければならなくなります。このあたりからやや難しくなりますが、先程の例でいえば印刷所や運送会社はまずまちがいなく発行事業者でしょう。なぜなら、こうした会社は売上1000万円以上で、消費税を支払ってきた会社だからです。こうした会社は自分が発行事業者であることを改めて税務署に届け、「適格請求書発行事業者」としての登録番号をもらいます。そして、出版社に請求書を出す場合、その請求書に登録番号を記載するのです。

・さて、今まで免税事業者だったわたしたち。今後は、出版社から印税や原稿料の支払いに際して、請求書を出すことを求められるかもしれません。その場合、上記の登録番号を持ってなければ、番号なしの請求書になります。ところが、これがインボイス制度の一番のキモなのですが、今後は税務署は、そうした登録番号なしの相手に支払った消費税については、「消費税を支払った」とは認めない、ということになるのです。例えば出版社が年間に払った70万円のうち、30万円がそうした著者への支払いだったとすれば、税務署に認められるのは残りの40万円だけです。ですから、いままで100万円-70万円で、30万円を消費税として税務署に納めていたものが、今度は100万円-40万円で、60万円納めなければならないことになります。

・となると、出版社側としては、著者に対して、「適格請求書発行事業者」になって、登録番号をもらってください、ということになるでしょう。言われた我々は、申請すれば発行事業者になることはできます。しかし、そうなれば、1000万円以下であっても、免税事業者ではなくなるのです。つまり、出版社などと同じように、消費税を納めなくてはならなくなるのです。税金の負担が増えるということと、そのための計算がかなり厄介だということと、二つ負担が増えることになります。実はもう一つ問題があるのですが、それは次回に回します。

・ということで、わたしたちは、今まで多分ほとんどの方が「自分が受け取った消費税(の一部)を税金として納める」という発想はなかったし、それで済んできたわけですが、今後はそうはならなくなる、ということで、かなり身近で大変な問題だということが、お分かりいただけたでしょうか。ですから、すでに、文学団体、文化団体などで、反対声明を出しているところもありますが、児文協としては今回の勉強会を出発点に、他団体とも協議しながら、対応を考えていきたいと思います。(次回に続く)

2022/10/18

82、お金を拾った話(2022,10,5)

【市役所支所の帰りに】

・前回の「懸賞に当たった話」に続いて、「お金を拾った話」というショーモナイ話題で恐縮ですが、2、3日前に市役所の支所に、必要があって戸籍謄本を取りに行きました。支所(公民館も一緒ですが)は、歩いて5分もかからない所にあり、それでも自転車で行く場合もありますが、天気も良かったので歩いていきました。戸籍謄本を受け取ったら、手数料が450円ということで、「結構かかるんだな」と思い、500円玉をだして50円のお釣りをもらいました。

 その帰り道、支所と僕の家のちょうど中間ぐらいのところでバス通りを横切ります。そこが横断歩道になっているわけです。そこを渡る途中何の気なしに下を見ると、光るものがあります。500円玉に見えました。拾ってみたら、本当に500円でした。「これは、市役所の神様(笑)がお金を返したくれたのかな」と思い、持って帰り、よく洗って財布にしまいました。何円以上だと警察に届けなければいけない、という規定があるのでしょうか。まあ、ここに書いても捕まることはないと思いますが。

【お金を拾った話】

・思い出してみると、お金を拾ったことで記憶に残っているのは2回。1回目は子どもの時で、やはり500円でした。といっても、僕が小学校中学年くらいの時ですから、1960年前後、今の価値でいえば5000円くらいでしょうか。当時は「500円札」でした。学校の帰りで、友だちと一緒でしたが、ちょうど近くに派出所があり、勇んで(だったような気がします)届けに行きました。「良く届けてくれたね」みたいなことを言われたような気がします。書類を作ってくれて、家に帰り、母親に報告したのだと思います。

・このシステムは昔も今も変わらないと思いますが、拾われたお金は半年間保管され、持ち主が現れなければ拾った人のものになります。そのことは派出所で教えられたと思いますが、子どものことですから、忘れていたのではないでしょうか。やがて母親から半年が過ぎたことが告げられ、兄が銀行に取りに行ってくれました。兄といっても末っ子の僕より17才上で、学校の先生でした。当時でも銀行で500円を下ろすという人は少なかったようで(今のように機械で手軽に入れたり出したりするのと違い、下ろすとなれば、ある程度まとまった金額の場合が多かったようです)、窓口で500円を受け取るのは恥ずかしかった、と兄から言われた覚えがあります。その500円をどう使ったかは覚えていません。

・二度目は大学生の時でした。僕は秋田市の大学の寮に住んでいましたが、秋田駅の駅前広場で、銀行の封筒を拾ったのです。その時は一人だったように思います。拾ってみると、手の切れるような(という感じでした)1万円札が1枚と千円札が1枚入っていました。なにしろ、貧乏学生、場所がそこでなければ多分そのまま懐に入れたと思いますが、駅前広場という人が多い場所で、すぐ横に派出所があります。しかたなく(?)届けました。

 そこで書類を作ってもらったわけですが、今度は「半年後までに持ち主が現れなければ、自分のものになる」ということは知っています。ただ、銀行から下ろしたばかりのようだし、持ち主は当然現れるだろう、と思いました。

・「おっ」と思ったのは、半年後の日付でした。12月24日だったのです。ということは、その日は6月の24日(25日?)だったのでしょう。「こりゃあ、クリスマスプレゼントだな」と、内心笑ってしまいました。当時の1万円は今の5万円くらいでしょうか。僕からすれば大金で上記のように当然持ち主が現れると思いましたが、まあその程度のお金で、結局持ち主は現れませんでした。どうせ、もらえないだろうと思っていたので、このことは寮で吹聴していたので、もらった1万1千円は、寮の友だちやらで忘年会で(?)飲んで終わりだったと思います。

・このことを題材にして、大分前ですが、実話風の短編に仕上げたことがあります。学研の学年雑誌だったか。〈ぼく〉は、そのまま学生寮に住む大学生という設定。半年後の12月24日に1万円を受け取った帰り道、目の前をサンタクロースが歩いています。思わず後を追いかけるのですが、見失ってしまいます。その時に、子どもの頃にお金を拾ったことを思いだして、急に母親のことを思いだし、急いで家に帰るのです。1万円で、ケーキと母親へのプレゼントを買って。きっとこのお金は、そんなに遠くにいるわけではないのにちっとも家に帰らない僕への、サンタからのメッセージだと思いながら……。

 という話でした。考えてみると、10歳の頃に500円、20歳の頃に1万円ですから、その法則からすると40歳の頃に20万円を拾わないといけないのですが、72歳の今日までサンタはやってきません。今回500円拾ったのは原点に帰れ(!?)ということでしょうか。

2022/10/05

81、懸賞に当たった話(2022,9,25)

【「日刊ゲンダイ」のクロスワード】

・4、5日前のことです。郵便物の中に、「日刊ゲンダイ」からの封書がありました。「もしかして……」と思いました。新聞社などからの郵便物の場合、モノカキとしては、まずは原稿依頼を疑う?のが本来かと思いますが、「ゲンダイ」に関しては別の思い当たりがあったのです。クロスワードの応募です。 首都圏以外の方は、あまり馴染みがないかもしれませんが、タブロイド判の夕刊紙(普通の新聞と違って家で取っている人というのはごく少なく、駅の売店などで買います)は二紙あり、ひとつが「夕刊フジ」、もうひとつが「日刊ゲンダイ」です。「フジ」の方は産経新聞系で右寄りの論調が目立ちます。これに対して「ゲンダイ」の方は講談社の「週刊現代」系で、政権に対してかなり批判的なスタンスを取っています。以前、協会が学術会議の問題で理事会声明を出したとき、翌日だったか大きく報道してくれたのも「ゲンダイ」でした。

・僕は、事務所の行き返りなど、読む本がないような時、この「日刊ゲンダイ」をたまに買う時があります。上記の声明のニュースを見たのも、たまたまその掲載紙を買ったのでわかったのでした。結構ページはありますが、読むところは限られているので、時間が余ると、クロスワードパズルをやってみる時もあります。それなりに時間はかかりますが、まあ必ず全部解けます。

 大分前になりますが、せっかく解いたのだから、正解を応募してみようという気になりました。発表を見ると、大体応募は2~3千人位で、当りは何人だったか、数人という程度だったと思いますが、5千円のクオカードが商品です。これを何度か出したことがあって、はっきり覚えていませんが、半月ほど前にも出したと思うのです。

・開けてみると、やはり「当たり」のお知らせ、そして5千円のクオカードがまちがいなく入っていました。ものすごい、というほどではないにせよ、結構低い確率ですから、ちょっとびっくりしました。(応募の何日後かに、当選者として僕の名前が載ったはずですが、それは見ていません。)今まで出した回数もせいぜい5、6回というところでしょう。

【当たった、といえば】

・いわゆる“くじ運”という言い方がありますが、僕はまあそんなにいいわけでもないけれど、悪いわけでもない、という感じでしょうか。子どもの頃、マンガ雑誌か学年誌か、賞品からすると後者だったかも知れませんが、結構ちゃんとした水筒が当たったことがあり(3等くらいだったでしょうか)、なぜか赤い水筒だったので姉にあげた覚えがあります。

・宝くじは一度も買ったことがなかったのですが、もう二十年近く前になるでしょうか、芝居をやっている娘が、テレビの宝くじのコマーシャルに出るということがありました。西田敏行の後ろで踊っていた何人かの内の一人です。それで、この機会に買ってみようと、年末ジャンボだったか、通し番号のを一袋買いました。そしたら、なんと、いきなり1万円が当たったのです(1万円は4ケタの番号かな?)。 これにはびっくりしました。もしかして、自分はとてもくじ運がいいのでは、と思ってしまいました。

 以来、宝くじは買うようにしていますが、今まで初回を含め、1万円が3回当たっています。1回3千円かかりますから、これはまったく元は取っていないのですが、人に話すと、それは結構いい確率(長く買っても、一度も当たらないという人も少なからず)だとも言われます。まあ、〇億円を夢見て(その時は児文協に1千万くらいは寄付できるか!?)、とりあえずはハロウィンジャンボですね。

 今回は、なんだか暇そうな(笑)ネタになりました。そうそう、一昨日毎日新聞を見ていたら、池袋の芸術劇場で、10月に「世界のお巡りさん」コンサートというのがあって、すべてご招待、懸賞です。というので、スマホで検索したら、そのまま応募できました。これは以前に書いたかもしれませんが、某新聞の読者プレゼントで、初台の国立劇場のコンサートが当たったことがあり、それがウクライナのキエフ国立フィルでした。3年ほど前のことです。あのオケの人たちは、今どうしているのでしょうか。

2022/09/25

80、小樽、半田そして黒姫に(2022,9,15)

【小樽に】

・このブログは、基本10日毎の更新ですが、この間は僕としては珍しくかなりの“走行距離”を稼いだ日々でした。その手始めは、10、11日と小樽に行ってきたことで、児童文学ファンタジー大賞の選考委員会のためでした。

 すでにご存じの方も多いと思いますが、この賞は今回の第28回で終了となります。よく知られているように、大賞はわずかに2回、第1回の梨木香歩さん「裏庭」と第3回の伊藤遊さん「鬼の橋」のみです。委員になる前は「ぜひ大賞を」と思っていましたが、佳作すらなかなか出ないという状況で、最後の今回も最終候補作は3点ありましたが、佳作の次の奨励賞もなしという残念な結果になりました。 最終候補作は3作で、僕はそのうち1作はおもしろく読み、せめて奨励賞と思いましたが、賛同を得られませんでした。受賞作なし、というのも、この賞らしい終わり方といえるかもしれません。

・賞を今回で閉じることは2年ほど前から決まっていたこともあり、前回から新たに茂木健一郎さんとアーサー・ビナードさんが選考に加わりました。特に茂木さんのような他ジャンルの人の読み方、評価の仕方はなかなか新鮮で(かつ説得力もあり)、その点はおもしろかったです。「ファンタジー児童文学」を掲げた公募賞がなくなることはやはり残念ですが、東京ではなく、小樽に拠点を置く民間団体が、こうした大きな賞を実施してきたことは特筆されることだと思います。ちなみに、通算の応募数は5443作品ということでした。

【半田、そして黒姫へ】

・日曜日の夕刻に帰宅し、翌月曜日は協会の理事会でした。前回まではずっとリモートでしたが、コロナがいつ明けるか見通しにくい状況のなかで、集まれる人は集まり、リモートの人はリモートで、ということで、今回から“ハイブリッド”方式で理事会を開くことが決まっていました。理事長の僕としては、当初は事務所に出向いてリアル出席のつもりでしたが、前日に北海道から帰り、次の日の火曜日は半田市の新美南吉記念館に行かなければならず、体力的なことを考えて、今回はリモート参加のつもりでした。

 ところが、月曜日の午前中パソコンを開けると、ネットにつながりません。たまに、ルーター周りの配線がゆるんで繋がらなくなることがあるのですが、それも確認しましたが、相変わらず繋がりません。それが11時過ぎだったでしょうか。僕の家から神楽坂の協会事務局までは1時間半以上は優にかかります。ぐずぐずしている暇はないので、急きょ事務所に向かうことにしました。理事会は2時からでしたが、事務所についたのが1時45分くらいだったでしょうか。なんとかセーフでした。

・そして、火曜日、愛知県半田市の新美南吉記念館に向かいました。前も書いたように思いますが、僕は南吉記念館には年に3回出かける用事があり、夏の「事業推進委員会」、秋の「新美南吉童話賞選考委員会」、そして冬に同賞の表彰式です。今回はその事業推進委員会だったわけで、これは要するに館の運営に関して、外部の「有識者」にいろいろ意見を求めるための機構なのですが、去年から宮川健郎さんに加わってもらっています。半田市は、名古屋から名鉄線の特急で30分余りの距離です。その名鉄線の出発ホームで宮川さんと一緒になりました。そして、電車の中では那須さんの話になりました。ちょうど名古屋に向かう新幹線のなかで、那須さんの奥さんからラインが届き、広島ホームテレビで作成した那須さんの追悼番組をYouTubeにしたのを、送ってもらいました。それを宮川さんに見せながら、いろいろ話をしていたわけです。

 ふと気がつくと、止まった駅は知多武豊。本来降りなければならない知多半田駅を過ぎていました。あわてて降りて、記念館に電話し、戻りの電車を待って、大分遅刻して、記念館につきました。上記のように僕は通算すれば数十回記念館に行ってるはずですが、初めての乗り越しでした。

・会議は無事終わり、名古屋に戻りました。前は名古屋に泊まったりもしましたが、近年はその日のうちに帰るパターンが多くなりました。ただ今回はいつもとは違う旅程を組んでいて、名古屋から中央線経由で、長野に向かいました。というのは、長野県の黒姫童話館に行く用事があるのに、なかなかその機会が取れなかったので、「名古屋に行くついでに」黒姫に向かうことにしたわけです。

 名古屋から長野までは、松本を通って特急でちょうど3時間です。新幹線なら3時間あれば東京から大阪に行けますが(今ならもっと行けるかな)、在来線はやはり時間がかかります。それでも、5時40分に名古屋を発って、缶ビールなど飲みながらゆっくり長野に向かうのも(いささか疲れましたが)いい“旅”でした。

【黒姫童話館で】

・黒姫童話館に行こうとした一番の理由は、斎藤隆介関係の資料を見せてもらうためでした。以下、詳しく書き始めると相当長くなるのではしょりますが、黒姫童話館には、斎藤隆介夫人から童話館に寄贈された、原稿などの資料が保存されています。その中に、斎藤隆介の童話の言わば原点である「八郎」の原稿が含まれているのです。1950年に書かれた原稿ですから、僕の年と同じ、72年前の原稿です。このことは以前書きましたが、僕は「八郎」の原稿が童話館にあることは知っていましたが、これが1950年に書かれたオリジナルの原稿であることを知ったのは、結構近年のことです。僕の思い込みで、隆介さんがそんな古い原稿を保管しているはずがなく、後で原稿用紙に書き直したものだろうと思いこんでいたのです。それで、これが72年前の原稿だと知り、これは絶対見に行かなくては、と思っていました。

 今回、それが叶ったわけですが、この4月から館長になられた山崎玲子さんに黒姫駅まで迎えに来ていただき、「八郎」の原稿や、その他の資料をゆっくり、じっくり、見させてもらいました。本当に行って良かったです。行かなけれは絶対わからないことが、いくつかわかりました。出し惜しみするわけではありませんが(笑)、これについては、場を改めて、“発表”しようと思っています。

 僕は研究者ではなく、あくまで評論家だと思っていますから、今まで作家の(モノとしての)原稿に対する関心はほとんどありませんでした。ただ今回は、繰り返しますが、実物を見なければわからない発見がいくつかあり、そういう作業を遠ざけていた自分を反省する思いもありました。

 ということで、昨日の夜に帰ってきたわけで、最初に書いたように、僕としては珍しい強行軍でしたが、充分モトはとれた二日間でした。(なお、ネット接続は配線の問題とパソコンの方の接続がたまたまオフになってしまっていた二重の理由で、今朝ほど復旧しました。)

※那須さんのYouTubeは、広島ホームテレビ作成の「反戦への思い ズッコケ三人組と作者・那須正幹」です。結構長いです。https://youtu.be/JfOrFqNBPJQ 

2022/09/15

79、内田さんの本、高校生の時のこと(2022,9,5)

【内田麟太郎さんから】

・少し前に届けていただいた本は、『絵本のことば 詩のことば』というエッセイ集でした。全体が三章に分かれていて、第一章が「炭鉱の町から 故郷と家族」、第二章が本のタイトルと同じ「絵本のことば 詩のことば」、そして第三章が「出会った人々」という構成になっています。そこからもわかるように、絵本作家であり(ご本人は「絵詞作家」と自称されていますが)詩人である内田さんの文学論であると共に、なかば自叙伝風な内容、おもしろさの、誠に“読ませる”本でした。

・内田さんの来歴は、折りに触れ、うかがったり、読んだりしていましたが、大牟田での少年時代のこと、「プロレタリア詩人」だった父上のこと、六歳で死に分かれた生母と折り合いの悪かった継母のこと、そして若き日の詩人としての思想的な遍歴など、なかなかにドラマチックなのですが、例えば内田さんが生まれ育った大牟田には、家の近くだけで映画館が八館もあり、「絵本テキストを書いているときに、自分が映画監督になりテキストを展開しているのを感じる」といった一節には、なるほどと思わされました。

・中でも、いかにも内田さんらしくおもしろかったのは(と言っては失礼かもしれませんが)、高校時代のエピソードでした。そもそも数学がとても苦手だった内田さんがその高校に入学したのは、「いささか正当とはいえないやり方で」試験を通過したという告白付きですが、そのせいで数学はさっぱりわからず、三年間ほぼ数学の時間は寝ていたというのは、時代のおおらかさも感じさせます。そして、高校三年の時は遅刻の常習者で、それは憧れている同級生(女性です)がやはり遅刻の常習者で、毎日その後を追いながら登校するので否応なく遅刻になってしまう、という件は、その時の内田さんの表情が目に浮かぶようでした。卒業式の時はさすがに遅刻はせず、担任の先生から「いつもこの時間だとよかったのになあ」と言われた、というのですから、これも今なら考えられないような話です。ちなみに、その女性は内田さんのおつれあいではないようです(笑)。

・もう一つつけくわえると、この本は晧星社(こうせいしゃ)という出版社から出ています。僕もいささか縁のある出版社なのですが、これまで「ハンセン病文学全集」など、かなり硬派の本を出してきました。この出版社が、これから児童書も出していきたいということなので、皆さんの目に触れる、あるいは著者として関わっていただく、ということがあるかもしれません。

【僕の高校時代】

・内田さんの高校時代の、うらやましいような(?)エピソードを読みながら、自分の高校生時代を思い出したりしました。僕の高校時代は、内田さんから十年近い後ですし、なにしろ筋金入りの優等生だった僕(笑)のことですから、内田さんのような楽しいエピソードはほぼありません。ただ、三回前に書いた(統一教会がらみで)学外のユネスコ研究会というサークルに熱心に通ったのは、ひそかにあこがれていた女性がそこにいたからでした。このあたり、男子高校生のモチーフは、いつの時代もまあ似たようなものでしょう。告白もできませんでしたが、名前はよく覚えていて、娘が生まれた時にその名前にしようかと思ったのですが、カミさんに見透かされそうでやめておきました。

・そんな僕が、高校時代にやや唯一、反抗的思いを形にしたのは、自分の誕生日は学校を休んだことでした。「天皇誕生日」も休みなのだから、まして自分の誕生日は自分だけの祝日だ、というふうな理屈をつけました。僕の誕生日は3月5日で、三年生の時は大学受験で東京に来ていましたが(このことは前に書きました)、一年の時と二年の時はきちんと(?)休みました。ただその時期は確か期末試験の前あたりなので、まわりからは休んで勉強してんだろう、と思われていたかもしれません。やれやれ。

2022/09/05