【評議員会が開かれました】
・先般(7日)、12月理事会と合わせて評議員会が開かれました。「評議員(会)」というのは、理事(会)と違ってあまり馴染みがないと思いますが、理事会の諮問機関という位置づけの役職です。実際には元理事(監事)、支部関係を含む地方の、なんというか有力会員、つまり首都圏にいれば理事をお願いしたいけれど遠方で無理なので……というような方たち、そして首都圏ではあるけれど他の団体の中心的な役割をされていて、やはり児文協の役員は無理……というような方たちで構成されています。理事会だけで結論を出しにくいような場合、そういう方たちの意見をうかがって参考にさせてもらう、というような位置づけで、だから「諮問機関」なわけです。ただ、そういう相談事がそう度々あるわけではないので、通常は2年に1回、大体任期2年目の12月に、理事会と合わせて開催しています。12月にしたのは、その後忘年会をという含みもあったわけですが、今回はもちろんそれは抜きでした。
・上記のように、評議員は地方の方が多いし、今は必ずしもそうではありませんが、相対的にご高齢の方が多い、ということもあって、これまでは実際に出席されるのは数人、という程度でした。ところが、今回はリモート開催だったので、北海道支部の三浦さん、鹿児島支部の齊藤きみ子さん、沖縄支部の池宮城さん、そして広島の中澤晶子さん、大阪の令丈ヒロ子さんといった遠方の方たちを含め、13人が出席されました。僕が知る限り、この参加人数は驚異的新記録で、なんといってもリモートの威力でした。前回、リモートは恐いという話をしましたが、怖いけどすごい、というのを改めて実感しました。
【そして、ハワイの話】
・12月8日は太平洋戦争の開戦記念日で、NHKを中心に結構特集番組が多かったですね。僕は2年前の12月初め、ハワイにいました。娘の結婚式のためです。今思えば普通に外国に行けるぎりぎりのタイミングでした。僕の渡航歴(?)はきわめて乏しく、大分前にアジア児童文学大会で一度韓国に行っただけです。お金がない、ということもありますが、特に行きたいとも思わない、同じお金を使うなら、国内旅行でゆっくりしたほうがいい派、というところでしょうか。だから、ハワイに行くなどということはまったく想定していませんでしたが、娘の結婚式とあっては話は別です。そして、いざ行くとなれば、やはり楽しみでもありました。といっても、海で遊びたいとか、ショッピングを楽しみたいといった希望はありませんでした。ただ、ハワイに行ったなら、一ヵ所行きたいところがありました。真珠湾、パールハーバーです。
・僕の父親は海軍の職業軍人で、終戦時海軍大尉でした。といっても、真珠湾攻撃には参加していません。ただ、山本五十六の部下(のはしくれ)だったので、立案関係の雑務くらいは関わっているかもしれません。父は海軍兵学校に入りましたが、旧制中学から(エリートとして)入学したわけではなく、選抜学生といったか、要するに兵からのたたきあげで(すさまじい倍率をクリアーして)兵学校に入学したのでした。ですから、その時点ではすでに結婚していて、兄たちも生まれていたのだったと思います。
海軍兵学校には「卒業航海」というのがあり、どういうコースだったか定かではありませんが、真珠湾にも立ち寄ったのです。もちろん開戦前のことです。戦後は公職追放で大分苦労して、僕が物心ついた頃はただの田舎おやじでしたが、家にはその時のお土産があったり、父からハワイに上陸した時の話 (一応英会話をしたのが印象的だったようです)を聞かされたりもしました。ですから、父の思い出として、真珠湾に行ってみたかったわけです。
結婚式の前の日に行ってみようと、ホテルの日本人スタッフに、行き方などを聞いてみました。そしたら、行くのはバスで行けるが、この時期は、行ったとしても記念館にはとても入れないよ、というのです。つまり、12月8日が間近なその時期になると、アメリカ人の観光客で、真珠湾はいっぱいになるというのです。ちょっとびっくりしました。例えば、8月6日の広島で、ホテルがなかなか取れない、というようなことでしょうか。つまり、“Remenver Pearl-Harbor”というのが生きているのですね。びっくりもし、ちょっとショックでもありました。
大した買い物もしませんでしたが、それなりの値段のアロハシャツを一枚買いました(それで、結婚式に出ました)。アロハシャツにはちょっと思い入れがあって、僕が事務局にいたころの藤田圭雄会長(同じ姓ですが“他人”です)は、夏のゼミナールやサマースクールの時必ずアロハシャツを着て現れました。その時は気がつきませんでしたが、今考えると、それはハワイで買われたものだったと思います。というのは、かつて川端康成がハワイ大学に招かれて集中講義をした時、藤田圭雄さんは夫妻で同行されているのです。藤田さんは元中央公論社の編集部長などを務められ、川端康成とは大変親しい間柄でした。アロハシャツはその時のお土産だったのだと思います。僕の父と同じ年ですが、背がすらっと高く、なかなか似合っていました。
ということで、僕も真似をして、今は夏の泊りの集会がないので、合評研の時とかに、アロハシャツを着て出かけることを秘かに(?)狙っているのですが、今年はリモートだったので、残念!