【関英雄さんが亡くなった時のこと】
本日の“話題”は、ちょっと微妙である。ここまで2回にわたって書いたように、古田さんは僕にとってある種絶対的な存在だったが、僕は少なくとも一度理事会で古田さんに食ってかかったことがあるし、後で書くように、呼びつけて文句を言ったことが一度だけある。その「文句を言ったこと」だが、話は関英雄さんが亡くなった時のことに遡る。
といっても、若い会員のためには、関さん自体にも注釈をつけなければならないだろう。協会の初代会長は小川未明だが、その未明の弟子くらいの世代、ご存命なら百歳を少し超えている。だから、戦後間もない頃は30代の働き盛りで、“長老”の未明たちを説いて回って、児童文学者協会を作った人といっても、そう不正確ではない。僕が協会事務局に入った頃は、その関さんが協会の理事長で、藤田圭雄(たまお)さんが会長だった。藤田圭雄さんというのは童謡研究家だが、元々中央公論社の編集長を務めた人で、そのポジションは今では考えられないくらい、出版界で大きな存在感だった。だから、顔の広い藤田さんが会長、児童文学の世界生え抜きの関さんが、会のまとめ役の理事長というのは、とても座りがよかったのだ。(ちなみに、藤田圭雄さんと僕とは、親子でも親戚でもありません。)
あまり座りが良すぎて、藤田・関体制は、70年代から90年代にかけて、2期18年も続いた。そして、そのことは、いささか世代的なひずみを残す結果となった。関さんの次の世代である今西祐行さん、前川康男さん、長崎源之助さん、大石真さんといった人たちが会長・理事長を務めるタイミングがなくなってしまったのだ。そして、92年、藤田会長はついに退任し、関さんが会長に就任した。これは当然の昇格である。問題は理事長だった。上記のように、前川、長崎の世代はもう理事自体をリタイアしている。そうなれば、次の世代の代表格である古田さんが理事長に就くのが、誰の目からも当然のことだった。しかし、健康上の不安があるからということで、古田さんは固辞。結果としてさらに若い木暮正夫さんが理事長になった。そして、96年4月、協会創立50周年集会を目前にして、関さんが亡くなった。
となれば、問題は次の会長である。理事長はともかく、会の代表者である会長には、やはりどうしても古田さんについてもらわなければならない。僕はひそかに(でもないが)、そう思い、関さんが亡くなった日、病院に古田さんに来てもらった。ご家族を別にすれば、その夜、病院にいたのは、古田さんと古世古和子さんと僕の三人。口には出さなかったが、「古田さん、次の会長は引き受けてくださいよ」というメッセージだった。
しかし、その時も古田さんは、やはり健康上の不安を口にし、会長を引き受けなかった。この時の理事会はとても難航した。古田さんの口からは、木暮さんや僕の名前まで飛び出し、僕は正直腹が立った。自分でどうしても引き受けられないのなら、砂田弘さんなり、同世代の人に引き受けてもらえるよう、どうして下工作をしない。成り行きでもし木暮さんということになれば、古田さんや砂田さんを始め、先輩に当たる人たちがまだまだ元気な中で会長職を務めるということがどんなに苦労かということがわからないのか、と。さすがに木暮さんも会長を引き受けるとは言えず、結局理事長として一年間会長代行を務め、一年後に古田さんの健康が回復して会長に就任することを期待する……という結論になった。そして一年後、ようやく古田会長が実現した。古田さんが2期半、5年間会長職というのは、そういう経緯だったのだ。
【古田さんを呼びつけたこと】
その一年間の、木暮さんが会長代行だった時か、いやそう書いて今自信がなくなってきた。もしかしたら、その4年前の、木暮さんが(やはり古田さんの固辞により)理事長になった時のことだったかもしれない(すみません、僕の記憶はその程度で)。ともかく、そういうことで、木暮さんが理事会の議長を初めて務めることになったのだ。木暮さんはそんなに自分からみんなの発言をリードしたり、強くまとめていったりはしない。当時の理事メンバーは、話し出すと長い人が少なくなかったから、なかなか話が進んでいかないのだ。そんな理事会が2、3回続いた後だったと思う。古田さんが、議長を交替制にしようと言い出した。僕は本格的に腹が立ち、古田さんを呼び出した。さすがにそういうことは、後にも先にもこの時だけだった。高田馬場の駅前の喫茶店だった。
僕が言ったのは、「あなたがた(というのは、古田さんおよび同世代の理事たち)は、あれだけ理事長を固辞して、若い木暮さんに押しつけたのだから、無条件に、誰よりも木暮さんを応援するのが当然なのに、よりによって議長を交代させるとはどういう了見だ」という趣旨のことを、さすがに面と向かってはあまりきつい調子では言えず、もごもごと話した。古田さんは、そのことにはあまり直接には答えなかったと思う。少し間をおいて、なんだか別のことを話し始めた。僕ははぐらかされたような、少しホッとしたような、微妙な気分だったことを覚えている。
【古田さんなら……】
最初に書いた「理事会で食ってかかった」というのは、もっとずっと前のことで、古田さんは山口県立女子大に勤めるため、何年か東京を離れた時期があるが、その後また理事に復帰した。その時に、いない間の活動について、やや否定的な評価の発言があったので、「そういう清算主義的な評価はやめてもらいたい」というようなことを言い、後で木暮さんに「よくああいうことをいえるね」と言われた。
考えてみると、僕はこう見えて(?)結構気が短いところがあるのだが、古田さん以外の人に、そういう口をきいたことはないかもしれない。僕は他の理事と違い、事務局員でもある。理事の誰かと気まずい事になれば、仕事に差しさわりが出るのだ。しかし、古田さんなら、何を言っても大丈夫という気持ちが僕の中にあったのだろう。それを根にもったり、感情を害したり、というような、小さい人でないことが分かっていたから、僕は平気で(でもないけれど)ああいう口がきけたのだ。
いい年をして、今更甘えられる相手がいなくなったこと、はむかえる存在がいなくなったことを嘆くのはそれこそ甘えなのだろうが、(変な言い方だが)いてくれるだけでよかったのに、もう少し。(この回終わり)