【古田さんといえば】
ほぼ唯一といえる趣味は麻雀で、協会のパーティーの時なども終わり頃になるとソワソワし始め、そのうち四人でどこかへ消えるというパターンでした。僕はやらないのでその点でのつきあいはありませんでしたが、編集者で大分つきあわされたものの、結局作品は書いてもらえずという“被害者”が、結構いたのではないでしょうか。
麻雀のせいかどうかわかりませんが、僕が協会の会員になってまもない頃、熱海で夏の集会があった時のことです。夕方大広間のようなところでみんな休んでいる時に、古田さんが腰が痛いというので、マッサージを誰かが呼び、白衣を着たおばさまがやってきました。早速マッサージが始まったのですが、これがなかなかハードで、古田さんがヒーヒーいうのを見て、亡くなった北川幸比古さんたちがゲラゲラ笑うわけです。僕は、あこがれの(?)古田足日の情けない(?)姿にややショックを受けましたが、きっとあの夜も卓を囲んだに違いありません。
【古田さんのまとめ】
僕が古田さんと知り合って始めの頃、もっとも印象的だったことの一つは、研究会などの際の古田さんの「まとめ」のすごさでした。いろいろな規模の研究会があり、古田さんがまとめの発言をすることが少なからずあります。さまざまな発言が出てきますが、それがすべてテーマを深める感じの発言とは限りません。むしろ、その逆の場合が多く、大体研究会の討議が本当に深まったと思えるようなケースはめったにないのではないでしょうか。そんな中、古田さんは、僕などからみて、トンデモ発言と思えるような発言も含めて、ほとんどの発言を全体の文脈の中に位置づけつつ、今日の討論の中で何が明らかになったのか、何がまだ明らかでないのかを解き明かしていくのです。僕にはそれは神業のように思えることがありました。つまり、古田さんの分析力は無論のこと、理論的包容力というのが半端ではなかったのだと思います。
【古田さんの会議】
それと表裏一体かと思いますが、今度9月に出る会報に掲載される丘さんの弔辞の中でも触れられていますが、古田さんは言葉の使い方、言葉の定義ということに、大変厳しい人でした。古田さんの辞書に「適当」とか「要するに」という言葉はなく(?)、一つひとつのことを決めるのにも、「そもそも」というところから組み立てていかないと、気が済まないのです。
これは、モノカキとしては美質かも知れませんが、実務的なところでは時々やっかいなことになります。あれは、いつ頃だったでしょうか。当時事業部は夏の集会を担当する「第一事業部」と、文学学校などを担当する「第二事業部」に分かれていて、古田さんが第一事業部長、安藤美紀夫さんが第二事業部長という時代がありました。
この二つの事業部の会議の時間が極端に違うのです。第二事業部はさっさと決めるべきことを決めてしまい、後は安藤さんの好きなお酒を飲みに行きます。でも、第一事業部は三時間くらい経っても、まだ「そもそもこのイベントの意義は」みたいなことをやっているのです。でも、その第一事業部の人たちは、異口同音に、その話し合いがいかに勉強になるかを語るのです。そして、正反対なような古田さんと安藤さんは、とても気が合うのです。安藤さんはガンで60代前半で亡くなりましたが、その葬儀の際の古田さんの号泣(この言葉、最近使いにくくなりましたが)は、今も忘れることができません。(第2回・終わり)