藤田のぼるの理事長ブログ

古田さんのこと1

【本ブログについて……初めてお読みになる方に】

先週お送りした会報と一緒の文書で、協会HPの会員専用ページのことを告知したので、今回初めてこのブログをご覧になる方も、少なからずいらっしゃると思います。このブログのコンセプトというか性格については、5月18日付の第1回に書きましたので、ご参照ください。要するに、話題は協会のことが中心ですが、あくまで私的な性格のものだということです。

前回まででようやく総会報告が終わり、今回から何回かにわたって、先月亡くなられた古田足日さんについて、思い出のいくつかを書きたいと思います。

【古田足日との出会い】

僕は、秋田大学の学生だった時、児童文学と三つの出会いをしています。まずは、一年生の秋、斎藤隆介の「八郎」(これは、秋田弁で書かれています)を読んで、児童文学ってすごいと思い、読み始めるようになりました。二つめと三つめは、二年生から三年生になるあたりに前後してだと思いますが、一つは、書店で『日本児童文学』という雑誌を見つけたこと。まわりで誰も児童文学をやっている人がおらず、僕はここから、さまざまな情報を得ることができました。そしてもう一つが、古田足日と出会ったことで、具体的には『宿題ひきうけ株式会社』と評論集『児童文学の旗』でした。『児童文学の旗』は70年6月刊で、多分『日本児童文学』でそれを知って、出版直後に買い求めたのだと思います。田島征三の装丁が誠に印象的でした。そして、その影響で、僕は自分でも書きたいと思うようになりました。評論と創作の両方を、です。

四年生の時に「児童文学の現代的意義とその方法」という、大風呂敷の卒論を書いたのですが、卒業できず、二度目の四年生の時、一年生が何人か集まって(僕が半ば顧問のような形で)児童文学のサークルを作り、同人誌を2冊出し、僕はそこに評論と創作の両方を載せました。

【古田さんに初めて会った時】

ですから、僕が会いたい人は斎藤隆介と古田足日の二人でした。斎藤隆介は、二度目の四年生の年に、隣県の山形で児文協の夏の集会があり、その記念講演が斎藤隆介だったので、「見る」ことができました。残るは古田さんでした。東京に出て小学校の教員になった僕は、その年、春からは子どもの文化研究所の連続講座、秋からは児文協の児童文学学校に出たのですが(第3期で、その頃は秋の開講でした)、どちらも古田さんの講義はありませんでした。

そして、翌年、ということは1974年、上記の子どもの文化研究所の連続講座で古田さんが話すというので、その回だけ出させてもらいました。5月くらいだったでしょうか。古田さんは深緑色のカーディガン姿だったと思います。

話の中味は覚えていません。講義が終わった後、質問の時間になり、僕は手を挙げました。「あなたは、創作と評論を両方やっているが、それはどんな気持ちからなのか」というふうなことを聞いたのだと思います。その答は覚えていません。ただ、古田さんが僕の前のテーブルの上にじろりと目をやって、「君の机の上にある、明治書院の本は……」と言われたことは覚えています。ちょうどその頃に、明治書院から全8巻の「講座 日本児童文学」という叢書が出ていて、僕はなんとなくその本(オレンジ色の装丁でよく目立つのです)をテーブルの上に置くことで、古田さんに(ちゃんと読んでいますと)アピールしたい気持ちがあったのだと思います。それを見透かされたようで、ドキッとしたのだと思います。

講義の後、何人かで喫茶店に行きました。そこで、「君も評論を書くのかね?」と聞かれました。それまで書いた中である程度まとまったものといえば、卒論ぐらいしかありませんから、その話をしました。その中に、山中恒について書いた部分があり、古田さんは熱心に聞いてくれました。

【古田さんからのハガキ】

それから一週間くらい後だったでしょうか。古田さんから、ハガキが届きました。当時繰り広げられていた「ベトナムの子どもたちに平和を」のキャンペーンの絵ハガキで、そこには、この前聞いた山中恒論を送れ、と書いてありました。まったく予感がなかったといえばウソになりますが、ちょっとほっぽたをつねりたい感じではありました。当時(今のようなコピー機はなく)青焼きコピーというのがあり、それを送ったところ、『日本児童文学』で、「現代児童文学の出発を振り返る」というような特集を考えており、若手の書き手を探していたので、書きなおせば載せるということでした。今度は、ほんとに頬をつねりました。

それが、1974年10月号の特集「現代児童文学の出発点」で、表紙絵は田島征三。僕の“評論家デビュー”でした。僕は24歳、古田さん46歳。ちょうど40年のおつきあいだったことになります。(第1回・終わり)

2014/07/13