藤田のぼるの理事長ブログ

合同ミーティングのことなど

【恥ずかしながら……】

今年初めての更新です。年明けから一番時間がとられていたのは、出講している東洋大学の創作の授業の作品へのコメント書き。もう一つの聖学院大学の創作の授業のほうは、ゼミ的な規模なのでいいのですが、東洋大学のほうは、2コマ合わせて二百数十人の受講者がいます。2010年度からですから今回で5年目ですが、人数が多いとはいえ創作の授業なので、レポートとは違い、やはりコメントをつけて返さなくては、と思ったのはいいのですが、以来年末年始はほぼそれで忙殺されます。今年は休講があった関係で、最後の授業が2月にずれこみ、その分時間があったのですが(最終授業で作品を返却するので)、大変な時期が延びただけみたいな感じでした。加えて、今年から1月の終わりから2月にかけての6日間、法政大学の通信学部のスクーリングで児童文学の講義をしました。多分、小学校の教員をしていた20代の頃からぶりに(今の学生、こういう言い方しますね)一週間続けて朝の6時台に起きました。通信学部なので、学生の年代はまちまちですが、予想以上の熱心さと、レポートの優秀さには驚きました。そんなわけで、ここまではなかなかまじめに先生をしていました。

【1月24日の合同ミーティングで……】

協会の1月は、例年理事会はなく、隔年で「各部・委員会合同ミーティング」と「新入会員の集い」が開かれます。新年会を兼ねて、ということになりますが、今年は合同ミーティングでした。これは、協会の活動の各分野を担当する10の部と2つの委員会のスタッフが一堂に会するもので、7、8年前から始めています。協会は来年創立70周年ですが、会員は当然かなり入れ替わっているわけで、各部・委員会のスタッフといっても、新しい会員も少なくありません。そこで、この合同ミーティングでは、毎回協会のいろいろな分野の歴史を誰かに話してもらって、認識を深めるという“勉強”をしています。

今回は、「会報に見る協会の歩み」ということで、事務局長の僕が話をしました。会報というのは、機関誌の『日本児童文学』とは別に、会員のみに送っている会内報のことで、今は「Zb通信」というのが、年4回発行されています。僕が直接知っているのは、1970年代からですが、その頃はタイプ印刷「児童文学の旗」というのが会報で、その後冊子の形の「児童文学手帖」になり、97年に機関誌が隔年・自主発行となった際に、今の「Zb通信」になりました。もちろん、それ以前にも会報的なものは発行されていたわけで、今回合同ミーティングで話をするために古い資料をひっくり返して、いろいろな発見もありました。

さて、僕がその話の準備をしている時、24日当日の10日ほど前でしょうか。理事の中では最古参の上笙一郎さんから電話があり、古い資料を探していたら、昔の会報が出てきたから、良ければ送るよ、とのことでした。もちろんお願いして、上さんから送ってもらった60年代前半の会報も、合同ミーティング当日の資料として、コピーして配りました。

合同ミーティングで僕は50分ほど話をしたのですが、その後上さんが手を挙げて、古いことは自分が一番知っているけれど、会報についてこんなふうにまとめて考えたことはなかった、とてもいい話だった、と、ほめてくれました。ミーティングの後、懇親会の会場に移る時にも、僕に、今日の話はとても貴重だったから、ぜひ文章にしておいた方がいい、と勧めてくれました。

そして、それから5日後の29日です。前述のように、僕はこの時、午前中市ヶ谷の法政大学で講義していましたが、事務局からメールが届き、「上さんが亡くなった」という知らせでした。びっくり、というか、嘘だろう、という感じでした。午後に急いで事務局に戻り、上さんのお宅に電話し、奥さんの山崎朋子さん(「サンダカン八番娼館」などの作家)から亡くなった様子をうかがいました。夜中に仕事を終え、お風呂場で倒れられて、ということのようでした。

2月5日に行われた葬儀は、当初はご親族のみでということでしたが、上さんの近くで仕事をしていた十何人かが参列することができ、僕もうかがいました。無宗教で、奥さんの山崎朋子さんの上さんへの熱い思い出のお話が時間の半分ほどをしめました。いいお話でした。

ということで、今年の合同ミーティングは、上笙一郎さんとのお別れとセットになってしまいました。これをお読みの方で、上さんのことをご存じの方はもはや少ないかもしれません。児童文学に限らず、児童出版美術、童謡、児童史など、実に研究分野の間口の広い人でしたが、彼が比較的若い頃に書いた論文のタイトル(ちょっとうろ覚えです)を一つあげて、彼への追悼にしたいと思います。「児童文学者の体躯矮小なることへの一考察」。享年81歳でした。

 

2015/02/11