藤田のぼるの理事長ブログ

40、那須正幹さんのこと(2021,7,25)

【那須正幹さん、ご逝去】

◎このブログも40回を数えることになりましたが、まさかこんなことを書く羽目になるとは。新聞などでご存知と思いますが、元会長の那須正幹さんが22日、亡くなられました。79歳でした。

 二日前の20日に、お嬢さんからご連絡があり、「危篤」とうかがいました。16日に救急車で運ばれたが、その時にはすでに意識がなく、回復は見込めないとのお話でした。肺だけれど、コロナではないということでもありました。

 僕はたまたま二日前(ですから18日)に、やや久しぶりに那須さんにメールをしたところでした。 例のサイン本、那須さんは早々にサインをして、協会に3冊送ってくださっていたので、それをどこの小学校に送ったかの報告でした。ついでに、というのも変ですが、10月の公開研究会はなんとかリアルでやりたいし、できれば75周年パーティーも開きたいので、予定しておいてほしいというメールでした。

 というのも、60周年記念の時だったか、その時は創立会員の中川正文さんがご存命で、挨拶されたのですが、「わしゃあ、100周年まで生きて、挨拶するのを目標にするよ」と言って、みんなを笑わせてくれたことがあったからです。

 那須さん、まだ75周年だよ。

◎那須さんが会長に就任されたのは2007年。新聞によって「元会長」と「元理事長」がありましたが、 那須さんの任期の最後のところで、協会が旧社団法人から一般社団法人になり、代表者が「会長」から「理事長」になりました。ですから、那須さんは最後の会長ということになります。

 5年間会長(そして理事長)を務められたのですが、それを「?」と思った方がいらしたかどうか、協会の役員任期は2年ですから、本来は偶数年であるはずなのです。それが「5年」となったのは、木暮正夫さんが会長在任時に亡くなられ、一年間その後を引き継いだからです。

 このあたり、詳しく書くと長くなりますが、木暮さんが亡くなられたのは協会にとって大ピンチでした。はっきりいえば、その後を引き継ぐ会長の候補が見当たらなかったのです。そこで、言わば白羽の矢が立ったのが那須さんでしたが、那須さんは山口県にお住まいです。それまで首都圏以外に在住で会長というケースはありませんでしたし、ですから那須さんは理事の経験もなかったわけです。第一、那須さんが引き受けてくれるかどうか……。

 この時那須さんを説得してくれたのは、那須さんがもっとも信頼を寄せていた砂田弘さんで、砂田さんという人は普段は口数が少なく、なんというか、人任せみたいな雰囲気もあるのですが、いざという時は本当に頼りになる方でした。

【僕にとっての那須正幹さん】

◎その時点で僕は事務局長だったわけですが、那須さんとは実は個人的なつながりもありました。かなり古い話になるのですが、僕の学生時代ですから、もう半世紀近い前のことです。僕は秋田大学教育学部の学生で、二年目の四年生をやっていた時、学内で児童文学のサークルを作り、同人誌を二度出しました。それを『日本児童文学』の同人誌評に送ったわけです。

 その第2号の時、同人誌評を担当していたのが那須さんでした。1972年ですから、那須さんは『首なし地ぞうの宝』でデビューしたばかりの若手、「ズッコケ三人組」はまだ影も形もありません。その那須さんが、同人誌評で僕の作品をほめてくれたのです。秋田から東京への出稼ぎを題材にした「雪咲く村へ」という作品で、今手元にその雑誌が見当たりませんが、自分でいうのもなんですが、“激賞”という感じでした。「(マンガ週刊誌くらいの厚さでまいったが)最後の最後ですばらしい作品に出会った」というフレーズは、今も忘れることができません。

 その翌年、僕は東京に出てきて小学校教員となり、さらに翌1974年に古田足日さんに会って、大学の卒論の一部を元にした山中恒の『赤毛のポチ』論で、評論家デビューしました。それからは自分でも信じられないくらい『日本児童文学』に書かせてもらい、「若手評論家」という看板をもらう形になりまし た。

 その頃というか、数年経ったあたりだったと思います。多分、総会の時だったと思うのですが、那須さんが僕に近寄ってきて、「お前は、あの、藤田のぼるか?」と聞くのです。「あの」というのは、数年前に秋田大学の同人誌で「雪咲く村へ」を書いた藤田か、という意味でした。『日本児童文学』で僕の名前を見るようになり、見覚えのある名前だなと思っていらしたようです。「そうです」と答えると、「あれだけの作品を書いたんだから、バカな(と言ったかどうか、那須さん得意の表現ではあったと思いま す)評論なんか書いてないで、創作を書きなさい」と言ってくれました。

 そう言われて、うれしかったのは確かですが、僕はすっかり「若手評論家」になってしまっていて、 なんか今さら「創作も書いていました」とは言いにくいような感じで、また自己分析として、評論家としてはともかく、作家としては一流にはなれないだろうといった気持ちもあって(まあ、単に臆病だったのだと思いますが)、創作を再開することはありませんでした。

 それから十年近くも経ってからでしょうか。当時、岩崎書店の津久井さん(今、協会の理事ですが) が、「藤田さん、創作書いてたんだって?」と聞いてくれました。いっこうに創作を書かない僕に業を煮やして、那須さんが津久井さんに話をしてくれたようでした。そして、それが発端となって、書いてから13年経って、僕の初めての創作単行本として出版されたのが『雪咲く村へ』です。解説は、もちろん那須さんに書いてもらいました。そんな、僕にとっては「恩人」ともいえる那須さんなのでした。

 僕は「ズッコケ」はもちろんですが、他に那須さんの作品では『屋根裏の遠い旅』と『首なし地ぞうの宝』の文庫の解説を書いていて、特に前者は僕にとっては特別な作品です。機会がありましたら、偕成社文庫の解説を読んでみてください。

【最後に会ったのは】

◎会長を降りられてからは、やはりお会いする機会が少なくなりましたが、上記の砂田弘さんが2008年に亡くなられ(今思えば、那須さんを会長にしてくれた翌年でした)、その後しばらく那須さんのご希望もあって、毎年3月に砂田さんの追悼会をしていました。砂田さんはカラオケが大好きだったので、 二次会は必ずカラオケ、那須さんももちろん歌われました。

 その追悼会もなくなりましたが、二年前、 那須さんの喜寿のお祝いを東京・神楽坂で催し、那須さんと親しい俳優の原田大二郎さんや元NHKアナウンサーの村上信夫さんなどにもご出席いただきました。今思えばそれがお会いした最後になりました。那須さんの会長時代のことで、もう一つ書きたいこと、書かなければならないことがありますが、それは次回に譲ります。

 ここ数日、マスコミ対応やご家族とのご連絡等に追われましたが、昨日でやや一段落でした。今日、防府市でご親族の密葬が執り行われているはずです。それから、奥様の那須美佐子さんからの「関係者、読者のみなさんへ」というメッセージが寄せられていて、協会のホームページにアップしていますので、ぜひご覧になってください。

 那須さん、ありがとうございました。残念ですが、どうぞ安らかにお休みください。

2021/07/25