【コロナとオリンピック】
◎連日の感染者の新記録をよそに、オリンピックは進行しています。僕はスポーツ観戦は野球に限らず大好きなので、オリンピックの中継はそれなりに見ています。基本的には「日本選手中心の」「感動物語おしつけ」という枠組みは変わらず、僕の中にもそれに反応してしまう部分があることも確かです。それに代わる枠組みで放送するというのは多分無理だと思うので、例えば別の「感動物語」、今回初めて参加した国の選手とか、あるいは選手ではなくてスタッフの誰かとかに焦点を当てた〈物語〉を提示することで、今のパターンを多少とも相対化するくらいは試みてもいいと思うのですが、ないですね。
それと、選手のインタビューで、「こうした状況でオリンピックを開催していただいたことに感謝」というコメントは何人も聞きましたが、もう一つ突っ込んで、「コロナの状況を考えて、複雑な思いがありました」くらいのことは誰か言ってくれないかと思うのですが、僕が見た限りではないですね、それすらも。
オリンピックと言えば、僕は今回の東京オリンピック招致の時に、「えー、また東京!?」と思い、せめて日本でもう一度オリンピックを招致するのなら、広島オリンピックにしたら意義があるのでは、と思い、何かの折に那須さんに話したことがあったように覚えています。
【那須さんが提起したこと】
◎さて、前回、那須さんが協会の会長時代のことで、書かなければならないことが一つあると書きました。そのことを書きたいと思います。このブログに書いてきた中でも、なんというか、ややヘビーな内容になります。
那須さんは山口県にお住まいでしたから、理事会も毎回出席ということではなく、また出席されても自分からなにかを提案したり、発言したり、ということはそんなにありませんでした。言わばご自分の “役どころ”をよくわきまえていらしたと思います。その後の飲み会を楽しみにしていらして、前回書いたような僕との関係もあって、最後二次会もしくは三次会で二人で飲んだことも何度かあったように思います。
その那須さんが、ある時に大きな提案というか、問題提起をされたことがありました。今これを書くために会報のファイルを確認したところ、2009年12月発行の『Zb通信』№64でそのことについて報告されています。ですから、それ以降入会された方にとっては初耳のことになるかと思います。
那須さんの「提案」はこの年の7月運営委員会(今の理事会)になされたもので、それは児文協と児童文芸家協会との統合について検討してほしいとするものでした。その少し前に関西で集会があって、那須さんは会長として出席されたわけですが、その際に若手の会員から「どうして児文協と児文芸という二つの組織があるのか?」「合同できないのか?」という質問があったようなのです。その時は「いろいろ歴史的経緯もあり、難しい」というふうに答えたけれど、今二つの協会も組織を維持していくのに困難な状況もあり、思い切って合同ということも検討してみてもいいのではという、ある意味“爆弾発言”的な提案でした。これについては、上記のように、会報に詳しく経緯が述べられており、それを読みたいという方がいらっしゃれば、協会にメールをくださればコピーをお送りします。
その那須さんの提案について、当時の運営委員会は、当然何度か討論を重ねました。おおまかにいえば「賛成」「反対」「慎重」論が拮抗して結論が出ず、そういう状況では会員や相手方の児文芸に統合を提案するのは無理、という結末になりました。また、その討論の途中で、相手方の児文芸に対しても、こちらがそういう討論をしています、ということをお伝えしておくのが礼儀だろうということで、お伝えしたわけですが、その児文芸からは、今は法人改革への対応で精一杯で両協会の統合といったことを検討するのは無理、といった事実上のお断りもあって、この話は言わば立ち消えになりました。「法人改革への対応」というのは、その時に社団法人や財団法人に関する法律が改正され、従来の社団法人は公益社団法人か一般社団法人に組織変更する必要に迫られていたからです。逆に言うと、二つの社団が統合するためには、格好のタイミングでもあったのです。
さて、その際に僕がどんな意見だったかと言えば、僕は「賛成」派でした。僕はかなり前から児童文学の作家団体が一つになってもいいのでは、という考えは持っていて、ただそれは児文協と児文芸の合同というよりも、ある意味ご破算にして一つの作家団体を作る、という感じのイメージでした。これについては、また機会があれば書きたいと思いますし、今現在は、二つの協会の統合ということに関しては、いくつかの理由で非現実的な感じも持っています。
しかし、児文協、児文芸の合同というのは、それまでまったく誰も言わなかったわけではありませんし、タブーとまでは言いませんが、正面から論じられることはありませんでした。それが那須さんの提案で、協会として正式に検討したわけで、その意味は大きかったと思います。そして、今後児童文学の作家団体がどうなっていけばいいのか、ということを考えていく上で、那須提案がひとつの歴史を作ったといえるように思います。
◎その時のエピソードを一つ。これが議題となった最初の運営委員会だったと思いますが、メンバーの中でも古参の一人の上笙一郎さんが、「とんでもない提案だ」という面持ちで、開口一番「やはり田舎(と言ったか地方と言ったか)にお住まいで、協会のことはあまりお分かりになってないようだ」というふうなことを言い、僕はなんということを言うのだ、その(地方に住んでいる)那須さんにぼくらはなんとかお願いして会長になってもらったんじゃないか、と心のなかで叫び?ましたが、那須さんの表情は変わりませんでした。ただ、その日だったか、次の会だったか、二次会か三次会で二人になった時に、「上の野郎(と言ったか奴と言ったか)……」と、言葉はきつかったけれど顔は笑っていて、僕はやはりこの人は人物が大きいなと思わされたことを、覚えています。
明日は8月6日、76年目の広島の夏に、那須さんの追悼の文章を書くことになるとは、思いもよりませんでした。亡くなった翌日の新聞は一通り買ってチェックしましたが、本当にどの新聞の写真も笑っていて、それは確かに那須さんの笑顔でした。