【今日は、誕生日です】
・本日3月5日は、僕の誕生日です。(それもあって、5の日にブログを更新しているわけです。なにしろ5時55分に生まれた人ですし。)72歳から73歳になるというのでは、特に感慨もありませんが、まあ、今のところ健康で70代を過ごせているのを良しとしなければならないでしょう。
昨年は、ブログに書いたように、新美南吉童話賞の表彰式で、人生で2回目の「自宅にいない誕生日」を経験したわけですが、今年の表彰式は2月に終わり、確定申告も4日に税務署に送り、あと車の免許の書き換えがありますが、まずは“平穏”な誕生日を迎えています。
そんなわけで、誕生日記念?に、自分の子ども時代のことをいくつか書いてみたいと思います。
・人間の記憶が何歳頃からかというのは、よく言われますが、断片的なことはあるにしても、学校に入る前の確かな記憶というのは、そんなにありません。ひとつには、田舎のことで幼稚園というものがなかった、ということもあるかもしれません。ただ、なにしろ団塊の世代ですから、近所には子どもがあふれていて、その中に僕を含めて、同学年の男の子が三人いました。何の時だったか、このブログに一度登場している(名前は出しませんでしたが)公明くん(コメちゃんと呼んでいました)、誠孝くん(センボと呼んでいました)、そして僕(そのままノボルちゃんでした)が一番の遊び友だちで、みんな上の兄弟がいて、「お弁当」にあこがれていました。「となりのトトロ」で、メイがサツキにお弁当を作ってもらう場面がありますが、お弁当は大きくなった証みたいな感じがあったのだと思います。
そこで、これは4、5歳くらいになった頃でしょうが、親に弁当を作ってもらって、三人の家を持ち回りで、お昼の弁当を一緒に食べるのです。これを「弁当開き(べんとうびらき)」と言っていました。いつも遊んでいても、意外に家の中に入ることは少なかったので、それぞれの家や家族の雰囲気を感じることも新鮮だったような気がします。
コメちゃんは僕と違ってスポーツ系で、クラスがずっと別だったこともあり、その後あまり付き合わなくなりましたが、センボからは竹ひご飛行機(これも、「となりのトトロ」でカンタが作っています)の作り方や将棋の指し方(僕はどちらもうまくありませんでしたが)なども教わりましたし、中学に入って、同じブラスバンドに入り、彼はトロンボーンを吹いていました。その頃のことを題材にした『錨を上げて~ぼくらのブラスバンド物語~』という作品に出てくるトロンボーン担当は、彼がモデルです。
・僕らが子どもの頃は、一日に10円をもらって駄菓子屋に行くのが日課でした。僕の家のあたりは、小さな田舎町ですが、当時は歩いて5分圏内位にほとんどの種類の店がそろっていて、老夫婦が営んでいる駄菓子屋もありました。まず5円でキャラメルとかお菓子を買い、あとの5円でクジを引く、というのが定番だったような気がします。
その駄菓子屋(「ひさご」という、何か小料理屋のような店名でしたが)で、僕が中学年くらいの時だったでしょうか、貸本屋も一緒に始めたのです。いわゆる劇画風の漫画がメインだったように思います。貸本代がいくらだったか、いずれにせよ、漫画を借りるとお菓子を買えなくなります。また、借りられるのは多分1、2冊だったと思います。
そこで僕は、今思うとよくそんなことを思いついたし、申し出たと思うのですが(なにしろ、気の弱い子どもでしたから)、10円出すから、借りるのではなく、そこで自由に漫画を読ませてもらう、という“契約”にしてもらったのです。(そんなシステムがあったわけではなく、僕だけの特別バージョンでした。)自分で言うのもなんですが、僕はいわゆる優等生で、そこのおばあちゃんに受けが良かったから、ということもあったかもしれません。そんなわけで、週に一、二度は、お菓子はあきらめて、もっぱら“読書”に勤しむ、という時間を過ごしていました。
・もう一つ子ども時代のことで忘れられないのは、「すいかを初めて食べた日」のことです。当時、テレビは徐々に普及し始めていましたが、まだテレビのある家は少数派でした。数軒先に電器屋さんがあり、ある時、近所の子と二人、外から窓越しに、その電器屋さんの家のテレビ(売り物ではなくて、居間に置いてあるテレビで、おばあちゃんが見ていました)を見ていました。夏の午後だったはずです。そしたら、電器屋さんのおばさんが、大きな皿にすいかと包丁を載せて持ってきました。その瞬間、「まずい」と思ったのですが、なんというか、体が固まって動けません。
なにがまずいかと言うと、僕はすいかが食べられなかったのです。僕はとにかく偏食な子で、特に果物、すいか、みかん、ぶどう、いちごなど軒並みダメでした。「まずい」と思ったのは、そのすいかを電器屋のおばさんが、おばあちゃんにだけではなく、僕らにもくれるのではないかと思ったからです。
案の定、切ったすいかが、窓越しに、僕ともう一人に渡されました。その時のずしりとした重さは、今でも思い出します(笑)。「食べられません」とは言えません。思いきってかじりました。それが、僕が人生で初めてすいかをくちにした日でした。このことは、子どもの作文調と短編作品調に描き分けて、大学の創作の教材に(「事実を元にした作品」の例として)使っていました。ちなみに、近所にもう一軒電器屋さんがあったのですが、僕の家ではそのすいかの電器屋さんから、テレビを買ったのでした。
こうやって思い出すと、僕はそんなに外でわいわい遊ぶタイプの子ではありませんでしたが、それでもまわりには子どもがあふれていたという感じがあります。なにしろ一学年250万人の時代で、今80万人を切ったということですから、3分の1以下ですね。ここで少子化について論じるつもりはありませんが、やはり寂しい時代になったな、という感じは否めません。