講座ブログ

おすすめ本の紹介 ⑪

『わたしが子どもだったころ』いずみたかひろ  

 

コロナ禍で,子どもたちは通常の学校での学びができない。学校は,子どもたちにとっては認知能力を獲得するのみならず,非認知能力をも獲得するかけがえのない空間である。ボクは,個人的には,この非認知能力を学ぶことこそが子どもたちにとって,いや人間にとって重要ではないかと考えている。 

遊びやケンカを通して,友達とのかかわり方を学んだり,友達が転んだのを見て自分のことのように痛みを感じたりする心は,人が生きていくうえで,学んでいかなくてはならない大切なファクターではないだろうか。子どものときに読んだいい方がいい本は子どもの時に読むべきだし,子どものときに体験した方がいいさまざまな体験は,子どものときにできる限りたくさんした方がいいと思う。大人になってからでは,遅すぎることもある。

『わたしが子どもだったころ』は,1957年に出版され,この作品がきっかけで,ケストナーは,1960年に「国際アンデルセン賞」を受賞している。『わたしが子どもだったころ』には,ケストナー家の系譜,革細工店を営んでいた父母の出会いから始まり,ケストナーの誕生,体操が得意だった少年時代の頃のことが語られる。ケストナーが,15歳を1914年に迎える。その戦争で,「子ども時代」が終焉したととらえている。

作品に描かれた世界は,当然,ボクたちの子ども時代とは異なるものの,子どもたちの生きる呼吸やエピソードの数々は,子ども時代に経験しなければならないことでは,同じ世界だろう。

花束を買って「うれしさのあまり大声で『ママ!』と叫んだ。とたんに,足をすべらせて,ころんだ。まだ口をあけてどなっているところだったので,あごにがくんときた。階段はミカゲ石でできていたけれど,わたしの舌はミカゲ石ではなかった」という笑うに笑えないシーンがある。

舌をかみ切るという大怪我をするのだが,そんなの大変な出来事でさえもユーモラスにケストナーは描くのである。子ども時代は,大なり小なり怪我というアクシデントに見舞われる。そこで,周りの深い愛情に触れて「生きる」ということを学ぶのである。こうした非認知能力が,人としての大事な部分ではないだろうか。

恩師のレーマン先生を描く場面では,「レーマン先生は,冗談を言わなかった。冗談を解しなかった。私たちがぶっ倒れるほど宿題でいじめた」と,先生を的確にとらえている。いつの時代も,子どもはよく大人をとらえている。子ども時代のエピソードに満ち溢れた作品である。

ケストナーは,人間の葛藤やドラマを描くというよりは,ややきめ細かく報告するようなタッチで描いている。それだけに,その時代の息吹が,逆に照射される作品ではないだろうか。ナチスを公然と批判し,著作が発禁となっても抵抗するケストナーの反骨精神は作品の描き方にも表出しているように思う。

因みに,『わたしが子どもだったころ』にも「ペストが町を襲い,一家の半分を奪い去った」という一文があった。いつの時代にも,ボクたちや子どもたちの日常を脅かすウイルスの存在を改めて思い知らされた。 

『わたしが子どもだったころ』 エーリヒ・ケストナー作 高橋 健二 訳

 

2020/06/23

今、事業部は?

新型コロナウィルスの感染の広がり、自粛要請がでて、今年はたくさんのイベント、講座が中止になりました。

事業部主催の日本児童文学学校は、中止、創作教室は、4月からの教室が10月からへと延期になりました。

とてもさびしい状態で夏をむかえています。

ただ、そんな中でも、できることはないかと、事業部も動き出しています。

感染予防に気をつけながら、秋に一日講座を開催すべく、企画をたてています。7月には、発表できると思います。

また、がっぴょうけんがなくて、残念だったという声にこたえるべく、オンラインでがっぴょうかいができないかと、部員で意見交換を始めています。オンラインについては、部員どうしの知識に差があるので、若手におしえてもらう形になっています。事業部の若手はたのもしいので、いろんな意見をだしてくれています。

今年はコロナで残念な年ではなく、新しいことにチャレンジできた年にすべく、今、がんばっているところです。

今後の予定もこのブログで発表していきますので、時々、のぞいてください。

 

また、ひきつづき、日本児童文学学校、創作教室、卒業生の声なども募集しています。

「わたしも書きます」とひと声かけてください。

2020/06/19

デビューをめざす方々へ

 毎年、日本児童文学者協会では、がっぴょうけん(合評創作研究会)を開催し、作家、編集者いっしょになって、より子どもたちの心に届く作品をさぐっています。しかし、今年は新型コロナウィルスのため、開催を断念しました。残念だという声をたくさんいただきました。

 そんなおり、毎回、がっぴょうけんに協力してくださっているフレーベル館の渡辺舞さんが、今の状況に負けないで、新しい物語を書いてくださいと声をかけてくださいました。フレーベル館は、フレーベル館 ものがたり新人賞 という公募で新人作家を応援してくれています。ぜひ、みなさまの物語をふるって応募してほしいということです。

 

 フレーベル館ものがたり新人賞は、会社の創業110周年を記念し、2017年に創設。第3回目からは隔年開催で応募受付しているそうです。

 第一回受賞作『右手にミミズク』、第二回受賞作『あの子の秘密』ともに、多くの方から注目される話題作で、輝かしいデビューとなりました。わたしも読みましたが、どちらも新鮮で読み応えのあるものでした!

 新型コロナウィルスで思うように外出もできない今は、物語を書くチャンスかもしれません。

チャンスの前髪は逃げやすいといいます。

この夏、勇気をだして、前髪をつかみとるべく、一步ふみだしてください。(赤羽)

応募をおまちしています! 渡辺舞

クローゼットを開けて洋服をかきわけるとき、

いまでもときどき、「奥に異世界への道がつながっているんじゃないか」と思うことがあります。

ミシンが立てる音が「たったかたあ」と聞こえたり、ラッパのファンファーレに「テレレッテ、プルルップ…」と節をつけたり。

 

子どものときに児童書からもらったみずみずしい風景や音が、おとなになったいまでも、自分のなかに息づいていると感じる瞬間です。

 

みなさんのなかにも、きっとそういう原体験があるからこそ、

子どもたちのための物語を紡いでいらっしゃるのだと思います。

「フレーベル館ものがたり新人賞」は、そんな感性から生まれた作品をお待ちしています。

 

でも、お送りいただくまえには、

「子どもに寄り添う目を忘れていないか?」

「おとなの自分がじゃまをしていないか?」

原稿をなんども読み返して推敲し、作品と向かいあってください。

 

今を、そしてこれから先の未来を生きる子どもたちにひびく物語とのたくさんの出会いがありますように。

みなさんの作品を、心からお待ちしています!

 

 

 

 

 

2020/06/13

おめでとうございます!

児童文学学校で得たもの  ちゃたに恵美子

 

ずっと前から心にあった、「子どもの本を書きたい」という気持ち。けれどどのように書けばいいのか、人に読んでもらえるような作品を書けるのかと怖がる気持ちばかりが先に立ち、手探りの状態で過ごす中で、この日本児童文学学校の講座案内を見つけました。

児童文学の書き手の方々に直に教えていただける機会、でも私の住む関西からはちょっと遠い……。悩んだあげくに「えいやっ!」と申し込み、私は日本児童文学学校の40期生となりました。

月に1回、関西と東京とを往復するのは大変でしたが、先生方の講義は毎回興味深く新鮮で、こんな切り口や発想があるのか!と驚かされることの連続でした。なにより、実際に作品を生み出している先生方の言葉には説得力があり、悩んでいても仕方がない、書いて前に進むしかないのだ、と力強く背中を押されたような気持ちになりました。

また、同じ講座に集う方々と知り合えたことで、私の世界は大きく広がりました。年齢も性別もばらばらで、でもそれぞれ「書きたい」という強い気持ちを持っていて、真剣に創作に取り組んでいる。そんな同期の方々と卒業後も合評会を行うようになり、作品を互いに合評しあうことで、様々な気づきを得ることができました。

他の人の作品を読んで自分の意見を伝え、いただいた意見をもとに自分の作品を書き直して、また合評にかけて……。そんな繰り返しの中で客観的な視点が身につき、書くことへの怖れも次第に消えていきました。そして、自分の書き方のくせや弱点、自分の持ち味のようなものも少しずつ見えてくるようになりました。そうした積み重ねの結果、今回、第35回福島正実記念SF童話賞で佳作をいただくことができました。

まだまだ道のりは長いけれど、悩んだときには児童文学学校で得たものを道しるべとして、これからも書き進めていきたいと思います。

第35回福島正美記念SF童話賞 佳作おめでとうございます!! 卒業生の活躍、とてもうれしいです。(赤羽)

 

2020/06/01

おすすめの本の紹介 ⑩

パンダ好きにも、パンダ好きでない人にもおすすめ     望月芳子

 

新型コロナウイルスによる緊急事態宣言はそろそろ解除になるが、まだしばらくは自粛生活が続きそう。行きたい所へ行けず、やりたいことができなくてストレスが溜まりがちな今、楽しい気分にさせてくれるのが、『世界一のパンダファミリー 和歌山「アドベンチャーワールド」のパンダの大家族』(神戸万知 作、講談社青い鳥文庫)だ。

 これは、子どもが次々と生まれ、16頭が無事に育っている和歌山県の「アドベンチャーワールド」のパンダファミリーを描いたノンフィクションだ。絶滅危惧種であるパンダが、故郷中国以外でこれほど自然繁殖に成功している例はほかにはない。お父さんパンダの永

明(えいめい)は、世界一の子だくさんだ。

 おっとり優しい美パンダ・永明は、主食の竹の好き嫌いが激しく、飼育員さんを泣かせながらも気遣いができるオスに成長。妊娠可能期間が年にたった3日しかないメスを上手にリードして、赤ちゃんを誕生させた。丸顔美女のお母さんパンダ梅梅(めいめい)は、普通なら一頭しか子育てしないパンダの習性にあらがい、双子を同時に育てたグレートマザー。梅梅が生んだ二代目お母さんの良浜(らうひん)も、子どもの頃は暴れん坊だったのに、今や9頭も育てた立派なお母さんパンダだ。

 本書は、永明が2歳でアドベンチャーワールドにやってきた頃から、最初のパートナーのメスが死に、3年後に梅梅がやってきて少しずつ家族が増えていく悲喜こもごもの軌跡をたどりながら、知られざるパンダの生態や歴史、パンダが絶滅の危機に瀕しているのは、人間が住みかをどんどん開発してしまったことが原因だと教えてくれる。パンダの可愛い写真に癒され、それぞれ性格が違い、意外と人間くさいパンダたちの描写にクスッと笑いながら、パンダを始めとする野生動物の未来についても考えさせられる良書だ。

 

 

2020/05/29

おすすめの本の紹介 ⑨

美しいファンタジー 高橋秀雄

『朝顔のハガキ』作 山下みゆき 絵 ゆの 朝日学生新聞社

副タイトルに「夏休み、ぼくは『ハガキの人』に会いに行ったとあった。帯には「夕鶴ルール?」と「河童の仕事?」の言葉と、本の説明としてだと思うが「少年2人の、ちょつとホラーな夏休み」と書いてある。

読み始めて感激だったのは、ポンポンと、上等なコントのやりとりの「二人の視点の入れ替え」のような章分けが気持ちいい展開を見せてくれたことだ。本の紹介だから、まだ読んでいない読者のことを考えて、読者と同じ立場になろうと、いつもは半分くらいしか読まないつもりで本に向かっていたのに、テンポの良さに乗せられて、あっという間にラストに行き付いてしまった。

 

主人公は6年生の山口誠也だが、突然友だちになった梶野篤史の生き方も興味深かった。二人が出会うきっかけは、誠也の家のばあちゃん宛に毎年来て3枚になった「朝顔のハガキ」と1枚の招待状だった。最初に来たハガキはばあちゃんが破り捨て、その後のハガキを誠也がとっておいたのだ。今年来たハガキの4行の文章のうちの2行「夏休みに、ぜひ遊びにきてください。魚釣りなら教えられます。」という、まるで誠也宛てに書かれたようなハガキだった。

4枚のハガキを並べて考える。

この「ハガキの人」のところに行けないだろうかと。そして、ステキな考えに到達する。

「――ぼくが行動を起こせば、何かが変わる」になる。

夏休みが迫っていた。「ハガキの人」のいるところを知るために、パソコンを使える子を探し、いきなりそれをお願いする。そこで篤史の登場となり、二人の視点の「章」が始まる。

 

誠也が島根の「ハガキの人」のところに行くまでに、ばあちゃんの妨害に会う。母さんが味方になってくれた。島根に行った誠也。篤史の世話になったけれど、強くて不思議な結びつきもできる。篤史の変わり方もすごかった。

帯の言葉では「ホラー」だが、私には遠い昔からの「美しいファンタジー」に思えた。そして、読者はラストまで一気に読まされることになるのだ。

今回は機関誌部長でお忙しい高橋秀雄さんが書いてくれました。ご協力、感謝します。講座ブログは原稿募集中です。事務局まで「講座ブログ原稿」と書いて送ってください。日本児童文学者協会員、日本児童文学学校在籍または卒業生、創作教室在籍または卒業生の方々、よろしくお願いします。

 

2020/05/26

おすすめの本の紹介 ⑧

今こそ読破を   石井英行 

『失われた時を求めて』マルセル・プルースト 

 これをテキストに挙げることに、今更何を、と思われるかもしれない。しかし、待ってほしい。というのは、忌々しいほどに長いこの小説を、いったい何人の人が通読しているだろうか。多くの人たちが途中で、いや、数ページで挫折していることを知っている。だから今、プルーストなのだ。かく言うぼくも、実は二度挫折している。

 「この世界には、二種類の人間がいる。それは失われた時を求めてを読んだことのある人間と、読んだことのない人間である」一度目の挫折の後の高校を卒業する頃だから、今では思い出しようもないのだが、何かの記事でこんな趣旨の文章を読んだ。今にして思えば全くばかばかしいレトリックなのだが、本好きの青少年にとっては何とも刺激的なプロパガンダであった。

 そのころ(1960年代後半)、出版の世界では「○○全集」「○○百科事典」と言うのがたくさん出ていた。今でも個人全集は引きを切らないが、その頃はぼくも少ない小遣いの中から、毎月発売になる世界文学全集を購読していた。全巻を予約していたので、黙っていても家に届く。本屋さんが配達してくれていたんですね。良い時代だったなあ。支払いはその時に現金。ぼくは昼間は留守なので、受取りの時は、祖父母が立て替えてくれていた。毎回とはいかなかったが時々はちゃっかりと踏み倒した。まあ、かわいい孫であるし、よく本を読む高校生は祖父母の自慢でもあったから、言ってみれば祖父母孝行であったかもしれない、と勝手な理屈を付けている。閑話休題。

 その中の一冊に「花咲く乙女のかげに」が有った。題名もなんとなくロマンチックであったので、さっそく読んでみた。ところがさっぱり分からない。話しは進まないし情景ばかりがやけに詳しく書かれているが、そのイメージは全く湧いてこない。しかも解説をよく読むと、それは長い長い物語の途中の話しではないか。それなら最初から読めばもう少し理解出来るはずだ、と思い、翌日さっそく学校の図書館へ行ってみると、十数巻がズラリと並んでいるではないか。意気込んで借り出した。しかもその貸し出しカードを見るとなんと憧れの先輩の名前が記されているではないか。さっそく教室に持て来て取りかかるが、これまたさっぱり。我が家にある一巻よりもさらに分からない。回りくどい。お手上げでカバンの中にしまい込むと、あっという間に一週間だ。次の週、読んだふりをして第二巻を借りにゆき、それを取り上げて図書カードを見ると、先輩の名前がない。念のため三巻目も見てみたがやっぱりない。先輩の名前どころか全て空欄である。なあんだ、誰も借り出してはいないのだ。ホッとしたことを覚えている。

 冒頭の文章が気になっていたものだから、大学生になりたての頃、退屈な授業を抜け出して再チャレンジを試みた。大学の図書館へ。しかし、挫折はすぐにやってくる。ぼくはこの世界的な名作を読める能力は持ち合わせていないのだ。そう思ってどんなに落ち込んだことか。しかも忘れもしない。図書館のシリーズは図書カードに最終刊まで同じ名前の人が借りていたのだ。それがずっとずっと心のシコリになった。

 長々と、我が読書遍歴を書かせてもらったのは他でもない、こんなぼくでも上手く読めた本を紹介したかったからだ。決してプルーストを解説しようという無謀な試みではない。それは、鈴木道彦の個人訳のプルーストである。集英社から出ている。鈴木氏はきっとぼくのような多くの挫折者を見てきているに違いない。それは本書の前書きを読めば分かる。あきらかに挫折者に向けて書かれている。そして編集方針を確認すればさらに納得する。そして励まされもする。

 まずは巻末の細かな注釈だ、これが心憎い。「桃太郎」だとか「サザエさん」といえば誰でも知っている。だけど物語の中に突然現れたらそのニュアンスは日本人にしか分からないだろう。「失われた時を求めて」には、このたぐいのフランス版桃太郎がいくらでも出てくる。何とか侯爵だとか、何とか将軍が活躍したどこどこの町、といった具合だ。しかも十九世紀末のサロンの光景や恋物語、はたまた社会現象であったり政治問題の解釈で登場してみたりする。高校生に分かりっこない。その解説が丁寧なのである。その他にも人物の紹介、家族の相関図もある。極めつけが、各巻の本当に大まかなというかざっくりとした粗筋が書いてある。これが挫折者に心強い。粗筋を書かれては読む意味がないではないかと思われるかもしれない。ところが違う、ここがこの小説の名作と言われる所以である。知っていてもなお飽きさせない展開や言い回しが待っている。なおかつ読むうちに作品の細部が見えてくるのだ。入り組んだ筋の一つ一つが俯瞰するように見えてくる。どういうマジックなのだろう。それらに導かれてぐんぐんと読める。極めつけと言ったが、鈴木氏の思いやりはそれだけではない。○巻まではわかりにくいかもしれないが頑張って読んでほしい。そこを過ぎると前半までの複雑さが次第に結びついて物語が大団円に向かってくるのが分かる。とさらに読者を励ましてくるのだ。こんな前書きを読んだことがない。鈴木氏はどれほど累々とした挫折者たちを見てきたのだろう。

 さてさて、こんなに読者を励ましてくれる鈴木氏に敬意を払おうではないか。あなたが挫折者であるならなおさらだ。と言うことでこの本をご紹介したい。読んだ側の人にぜひなって下さい。

                                                 

 

2020/05/23

創作教室 卒業生より

ジェットコースター     スーザンももこ

2014年。絵本や創作を我流で続けていた私ですが、「42期児童文学学校、こんなのあるよ」と見つけてくれたのは主人でした。行ってみようかなと、(失礼ながら)カルチャーセンター気分で申込みましたが、入ってみたら、真剣にとりくむ多くの背中と、その前方に著名な講師の方々の、貴重でするどい講評に圧倒されっぱなし。

そして、そこで「合評」というものを知りました。それまで、作家とは電気スタンドの下、ひとり黙々と書くものと思っていたのです。

「え? 自分の作品を読まれるの? ほかの人のを読むの? みんなの前で意見を交わす?」それってまな板の上の鯉……、としか思えませんでした。

でも、それが、私の新しい道のスタートでした。文学学校と、その後の創作教室も2期受講し、「合評」を知り、「仲間」に出会ったのです。

今もその仲間と続く「合評」は、とても厳しいものです。ほめられては舞い上がり、指摘されては地に落ち、時にはふて寝し、みんなの作品を読めば、その巧みさに感動し、そして落ち込み、違う価値観に悩み……。まるで、ジェットコースターに乗っているようです。

でも、遊園地のジェットコースターは苦手ですが、この乗り物は乗らないなんてもったいない、そんな気がします。

 もちろん、作品と向き合うのは孤独に一人ですが、文学学校、創作教室がなかったら、今の自分はないと断言できます。この縁をみつけてくれた主人に感謝しつつ、これからも作品を書いていきます。

 最後に、このコロナ自粛の下、何かできないかと、新しいチャレンジを。本当は、手に取る紙の本のその質感、大きさ、そこも大好きなのですが、何かとオンラインになっていく今、日本児童文学に掲載された自分の掌編から、読み聞かせ絵本を自作し、なんとYouTubeにアップしてみました。指導してくれたのは“Google先生“。試行錯誤ですべて自作の、あか抜けないものです。お恥ずかしいですが、よろしければ覗いてください……。

「スーザンの読み聞かせのお部屋」(まだ1冊しかないお部屋ですが)

https://www.youtube.com/channel/UCCaSUeL18Hyr1aBqqZ9NNTg?view_as=subscriber

 このブログで、皆さんからこのご紹介いただいた本も、手に取ってみたいものがたくさんあり、楽しみです。ありがとうございました。

 

 

 

 

2020/05/20

おすすめの本の紹介 ⑦

柚木麻子のまっとうな読まされ方 しめのゆき

 

 柚木麻子には、はぐらかされてばかりいる。読み始めから気が抜けない。この話は明るいのか? 暗いのか? そこからまったく油断ならず、上下左右に揺さぶられて、着地点が見えそうで見えない。最後はしっかり涙まで流させられて、感動させられ、まんまと作者の手の上で転がされている。それが柚木麻子のまっとうな読まされ方だ。

『本屋さんのダイアナ』(新潮社)は、家庭に恵まれない少女が、腹心の友を得て、自分の力と感性で精一杯、おとなになっていく物語――どこかで、聞いたことが……?

 そう、この小説は『赤毛のアン』(モンゴメリ著)を下敷きにしている。主人公の名前は、ダイアナ。今流行りのドキュンネームで、よりによって競馬好きの、生まれてこの方会ったこともない父親が、大穴(おおあな)を当てることを夢見てつけた名前だ。水商売で母一人、子一人の生活を支える母親の商売ネームは、ティアラ。キラキラしかしていない、頭が空っぽの母親と、この名前のせいでろくな人間関係を築けないと悲劇のヒロインになっているダイアナの前に、ダイアナが求めても手に入らない暮らしをやすやすと送っている清楚な少女、彩子(アンにあたる)が現れる。

 二視点で進む物語は、小学校を卒業すると同時に二人が交わることは無い。だが、読者は、二人の結びつきを信じて疑わない。その要因のひとつに、本がある。『アン』以外にも要所要所で登場する『若草物語』『風と共に去りぬ』『悲しみよ、こんにちは』など古典文学のエッセンスを共有する二人と、読者自身もまた、自分の読書体験を通じて、結びつきを深めていくのだから(もちろんこれらをすべて読んだことがなくても、まったく問題ない)。そして、ダイアナと同じ名前の主人公が登場する、作中作が、すべてをつなぐ、とても大事なカギを握っている。

 と、こんな紹介が、まったく意味をなさないほどの展開をぜひ読んでみてもらいたい。そして、この作品を気に入って、ほかの柚木作品に手を出した時、「え? これ同じ作家さん?」という大きな驚きに出会えることも、間違いない。

  

 

2020/05/16

おすすめの本の紹介⑥

元気になれる小説   赤羽じゅんこ

 

自粛で時間ができたら、いつもは読まない長編の小説も読みたいところです。

そんなところでわたしが紹介するのは、原田マハさんの書いた成長小説『生きる ぼくら』です。

大人向けの小説ですが、十分、児童文学的でおもしろい!!

いじめをうけ、ひきこもりの麻生人生が主人公。ある日起きたら、いつもご飯をつくってくれたお母さんがいなくなっていました。

「わたしはもう、疲れ果ててしまいました。」という書き置きと、この中のだれかと連絡をとって、生きていってくださいと年賀状の束をのこして。

人生は、その中から蓼科に住むおばあちゃんのところに行くことにしまいた。昔、何度もいったことがあるからです。

しかし、蓼科に着くと、おばあちゃんは認知症で、おまけに知らない女の人がおばあちゃんと住んでいて・・・・。

そんな出だしてどうなるのかとぐいぐい引きこんで読ませてくれます。

蓼科の風景がまたきれい。御射鹿池という東山魁夷の絵になった場所も出てきます。

 

わたしがこの本と出会ったのは、昨年の中学生ビブリオバトルの決勝戦大会。残念ながらチャンプ本にはなれませんでした。

しかし、決勝戦に残った6人ほどの中で、わたしはこの本に一番ひかれ、読んでみたいと思って即、購入しました。

だけど、ずっとそのまま、机に積んでおくまま。忙しさにまぎれて、最後まで読めずにいました。

巣ごもりになって、一気読み! 長編の成長小説を読み終えると、やったー、読書したという、感動が味わえます。

読み出したら、小説の世界にどっぷりつかって、人生くんといっしょに、愕然としたり、悲しんだり、喜んだり。いろんな感情が味わえます。また、蓼科の山々が目の前にうかんできます。おいしい空気を深呼吸したような、旅にでたような気持ちになります。

今、田んぼで稲が穂をのばす時期。この本を読むのに、ぴったりの季節ですよね。

ぜひ、読んでみてください。

2020/05/09