『わたしが子どもだったころ』いずみたかひろ
コロナ禍で,子どもたちは通常の学校での学びができない。学校は,子どもたちにとっては認知能力を獲得するのみならず,非認知能力をも獲得するかけがえのない空間である。ボクは,個人的には,この非認知能力を学ぶことこそが子どもたちにとって,いや人間にとって重要ではないかと考えている。
遊びやケンカを通して,友達とのかかわり方を学んだり,友達が転んだのを見て自分のことのように痛みを感じたりする心は,人が生きていくうえで,学んでいかなくてはならない大切なファクターではないだろうか。子どものときに読んだいい方がいい本は子どもの時に読むべきだし,子どものときに体験した方がいいさまざまな体験は,子どものときにできる限りたくさんした方がいいと思う。大人になってからでは,遅すぎることもある。
『わたしが子どもだったころ』は,1957年に出版され,この作品がきっかけで,ケストナーは,1960年に「国際アンデルセン賞」を受賞している。『わたしが子どもだったころ』には,ケストナー家の系譜,革細工店を営んでいた父母の出会いから始まり,ケストナーの誕生,体操が得意だった少年時代の頃のことが語られる。ケストナーが,15歳を1914年に迎える。その戦争で,「子ども時代」が終焉したととらえている。
作品に描かれた世界は,当然,ボクたちの子ども時代とは異なるものの,子どもたちの生きる呼吸やエピソードの数々は,子ども時代に経験しなければならないことでは,同じ世界だろう。
花束を買って「うれしさのあまり大声で『ママ!』と叫んだ。とたんに,足をすべらせて,ころんだ。まだ口をあけてどなっているところだったので,あごにがくんときた。階段はミカゲ石でできていたけれど,わたしの舌はミカゲ石ではなかった」という笑うに笑えないシーンがある。
舌をかみ切るという大怪我をするのだが,そんなの大変な出来事でさえもユーモラスにケストナーは描くのである。子ども時代は,大なり小なり怪我というアクシデントに見舞われる。そこで,周りの深い愛情に触れて「生きる」ということを学ぶのである。こうした非認知能力が,人としての大事な部分ではないだろうか。
恩師のレーマン先生を描く場面では,「レーマン先生は,冗談を言わなかった。冗談を解しなかった。私たちがぶっ倒れるほど宿題でいじめた」と,先生を的確にとらえている。いつの時代も,子どもはよく大人をとらえている。子ども時代のエピソードに満ち溢れた作品である。
ケストナーは,人間の葛藤やドラマを描くというよりは,ややきめ細かく報告するようなタッチで描いている。それだけに,その時代の息吹が,逆に照射される作品ではないだろうか。ナチスを公然と批判し,著作が発禁となっても抵抗するケストナーの反骨精神は作品の描き方にも表出しているように思う。
因みに,『わたしが子どもだったころ』にも「ペストが町を襲い,一家の半分を奪い去った」という一文があった。いつの時代にも,ボクたちや子どもたちの日常を脅かすウイルスの存在を改めて思い知らされた。
『わたしが子どもだったころ』 エーリヒ・ケストナー作 高橋 健二 訳