【今年のお盆は】
・このところ、東北北部の大雨で、秋田でも県の北部に大きな被害がありましたが、僕の故郷の大仙市辺りは、雨は大丈夫だったようです。ただ、いずれにしても、13日のお盆は、台風の影響もあり、お墓参りどころではなかったと思われます。
お盆というのは、子ども時代を思い出すと、なんとなく心騒ぐ日だったような気がします。まず正月同様、家族がそろいます。僕の家は、年の離れた兄たちが進学や就職で家を出ていて、お盆は(必ずでもなかったかもしれませんが)帰ってきます。つまり、久しぶりに、兄たちと会える時であったわけです。
それと、子ども心に印象的だったのは、夜、たくさんの人が道を歩いているということで、田舎ではそういう状態はお盆と秋のお祭りくらいなのです。僕の家は父親が次男で「分家」でしたから、自分の家の墓というものはなく、「本家」つまり父の生家のお墓にお参りに行きます。お寺は学校の少し手前ですから、いつも歩く道なわけですが、夕暮れの時間、そして両親や兄・姉たちが一緒ということ自体、かなり非日常的な感じでしたし、お寺に向かう人たち、帰ってくる人たちで道はいっぱい(という印象)で、今思えばちょっとファンタジックな世界だったように感じられます。
・父の生家はそれなりの規模の地主で、ですからお墓もかなりのスペースを占めていました。ただ、不思議にお墓参りで本家の人たちと会った覚えがありません。父は、戦前家を飛び出したような格好で海軍を志願し、その他の事情もあって、生家とは折り合いがよくありませんでした。今にして思えば、わざと時間をずらしていたのかもしれません。ですから、僕にとっても父方の「先祖」というのは、なんとなくなじみがうすい感じで、行き返りの“にぎわい”の方が記憶に残っているのだと思います。
【〝キリシタン〟のことですが……】
・さて、父は僕が19歳の時に亡くなりました。墓は、本家の墓とは違うお寺で、歩いて10分足らずのところです。父の葬儀は、僕にとっては多分初めてのお葬式でした。中学生の時に父方の祖父が亡くなっているので、普通なら(近くに住む孫ですから)葬式に出るでしょうが、上記のような背景があり、父は「学校を休まなくていい」と言いました。ともかく、父が亡くなるまで、自分の家の墓地がそのお寺にあるということ自体、知らなかったと思います。浄土宗のお寺で、歴史はあるのですが、しばらく無住だったので大分荒れていて、ちょうど父が亡くなる少し前に住職が入った時でした。
・葬儀自体のことは、あまり覚えていません。さすがにショックを受けていたのだと思います。父が亡くなったのが4月で、その新盆の前あたりだったでしょうか。母と僕でお墓の掃除に行った時のことかもしれません。お寺の門に入ってすぐのあたりに、かなり昔のものと思われる墓石の残がいのようなものが、まとめられています。それを見た母が「この墓は、キリシタンのものかもしれない」と言ったのです。
・母も近隣の村から嫁いできた人ですから、話ははっきりしないのですが、その寺にキリシタンの墓があるという言い伝えは、それなりに流布している話のようでした。その時僕は大学の2年になっていたわけで、少し調べてみましたが、江戸時代初期に秋田の佐竹藩にキリシタンがいて、処刑されたという記録は確かにあります。東北では、伊達藩(これは割と有名ですね)と佐竹藩にキリシタンが多く、伊達や佐竹は大藩で徳川に対してもそれなりに対抗心があり、キリシタン禁令にしばらくの間は抵抗したらしいですが、さすがにそれも無理となり、処刑されたのは主に武家ですが、町人や農民の信者もいたようです。
・僕はキリシタンというのは、九州か京都あたりの話だとばかり思っていたので、母から「キリシタン」という言葉を聞いた時は相当びっくりしました。処刑されたということは、つまり教えに殉じたわけで、今から何百年も前に、この地でそんなことがあったということは、本当に驚きでした。当時学生運動の渦中にあって、「思想に殉じる」というようなことが、やや自分自身の問題と重なったこともあったかもしれません。処刑された中には、子どもも含まれていたようでした。
・そんなこともあり、その後キリシタン関係の本は結構読みました。そして、そのことを作品に書きたいと思ったこともありました。そう思ったのは、離婚して息子と二人で暮らしてからで、離婚の是非はともかく、子どもは自分の意思とは関わりなく、親のせいでそうした生活を余儀なくされるわけです。構想としては、離婚して片方の親と別れて暮らすようになった(現代の)子どもと、親がキリシタンのために不自由な生活を余儀なくされた(昔の)子どもを、タイムファンタジーの形で重ねようと考えました。
ただ、信仰の問題、特にその時代のキリスト教信仰の問題というのは、僕にはあまりに難しく、結局1行も書けませんでした。先般の安倍首相襲撃事件の背景が親の「宗教」がらみということもあり、このことがまた思い出された、という次第でした。