【長谷川潮さんが亡くなられました】
・児童文学評論家・研究者で、『日本児童文学』の編集長なども務められた、長谷川潮さんが亡くなられました。85歳でした。9月29日に亡くなられたのですが、10月半ばにご家族からお知らせがあり、ご葬儀に参列することは叶いませんでしたが、来週の月曜日に、きどのりこさん、河野孝之さんと、ご自宅に弔問にうかがうことになっています。
・長谷川さんは1936年10月生まれですから、終戦時は8歳、疎開世代で、実際に学童疎開を体験されました。その時の病気がもとで、脊椎カリエスを発症され、障害をお持ちでした。だから、というのは短絡に過ぎるかもしれませんが、長谷川さんの評論・研究の二大テーマともいうべき対象は、戦争児童文学、そして児童文学に描かれた障害という問題だったと思います。後者については、その集大成ともいえる『児童文学のなかの障害者』(ぶどう社)で、2008年の日本児童文学者協会賞を(評論書の協会賞は珍しいですが)受賞されています。
【「ぞうもかわいそう」のこと】
・戦争児童文学に関しては、かなりの量の論考がありますが、中でも特筆されるのは、絵本『かわいそうな ぞう』を批判した評論「ぞうも かわいそう」で、日本の児童文学の歴史の中で、単独の評論でこれだけの影響力を発揮したものはなかったといっても過言ではないと思います。
・この評論は、もともとは『季刊児童文学批評』の創刊号(1981年8月)に発表されたもので、僕もこの雑誌(今はありません)の同人の一人でした。サブタイトルが「猛獣虐殺神話批判」となっていて、戦時中に上野動物園の象が殺された顛末を描いた、あの有名な絵本『かわいそうなぞう』が批判の対象になっています。およそ児童文学に関わろうという人ならば、これだけは(?)ぜひ一度読んでほしい、それだけの意味のある評論だと思います。 上記の雑誌は手に入りにくいでしょうが、長谷川さんの著書『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』(梨の木舎、2000年)の冒頭に収録されています。埼玉県図書館横断検索で調べたら、県内の14館に所蔵されていました。というか、この名著が14館しかないというのはいささか悲しい(ついでに僕の『児童文学への3つの質問』を検索したら29館でした。やれやれ……)。
・さて、その「ぞうも かわいそう」の内容を紹介するとなると、かなり長くなってしまうのですが、あえて簡単にいえば、絵本『かわいそうな ぞう』には、見過ごすことのできないウソがある、ということです。まずは時間経過の問題。絵本では、「戦争が段々激しくなって、東京の町には、毎日毎晩、爆弾が雨のように振り落とされてきました(原文はひらがな分かち書き)」ので、もしも爆弾が動物園に落ちたら大変なことになるというので、猛獣や象が殺処分にされた、ということになっています。しかし、この殺処分は1943年の夏のことで、その頃は(前年に奇襲的な航空母艦からの爆撃が一度だけありましたが)東京の空に爆弾など全然落とされていなかったのです。B29による東京初空襲は、殺処分から1年以上後の1944年11月24日で、「連日連夜」という感じになったのは1945年になってからのことでした。
・ではなぜこの時期に動物の殺処分が行われたかということで、長谷川さんは、いくつかの資料を手がかりにそれを見事に推理していきます。ここはダイジェストは難しいのですが、例えば、絵本の最後の方にこんな場面があります。死んだ象を目の前にした動物園の人たちが、上空を飛ぶ敵の飛行機を見上げながら(上記のように、それはあり得ない光景ですが)、こぶしをふりあげて「戦争をやめろ」と叫ぶのですが、冗談じゃありません。この当時、そんなことを声に出したら、どうなりますか? 長谷川さんは「敗北以外のなにものもないことを知りつつ、あそこまで戦争を続行し、死ななくてもいい人々を多数殺した連中が、猛獣による危害を本当に心配するほど人道的などということはありえなかった」と書いています。この告発の重さには、当時僕も目を開かされ、その後B29の東京初空襲を題材にした絵本『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社、その後てらいんく)を書いたのも、これに少なからず影響を受けたように思います。
【少し、個人的な思い出を】
・長谷川さんでやはり思い出されるのは、長谷川さんのご結婚のことです。僕が最初にお会いした当時はまだ独身でした。僕が協会事務局に勤めるようになって、事務所が今の神楽坂の前の百人町の頃ですから、1980年あたりのことだったと思います。
ある時、事務所に女子学生が訪ねてきました。当時は、大学で児童文学を勉強している学生などが、事務所を訪ねてきたりすることが時折あり、そういう学生をアルバイターにしたりすることもありました。その学生は平井えり子さんと名乗り、なかなか“ナマイキ”な口をききました(このパターンもよくあることでした)。僕も30歳そこそこの頃ですから、そういう場合はかなりていねいに?論破して、相手をしました。それがきっかけで、平井さんは僕らがやっている評論研究会や協会主催の研究会に顔を出すようになったのです。
当時の研究部長は上笙一郎さんだったと思いますが、研究会といってもかなり準備が杜撰?だったりで、これは後から聞いたのですが、参加者が長谷川さんと平井さんだけ、ということもあったようです。そうです、その平井さんが長谷川夫人となったわけです。
三人のお嬢さんに恵まれ、お孫さんもいることは長谷川さんからうかがっていましたが、長谷川さんより大分若かった平井さんは、残念ながら早逝されました。今度ご自宅に伺う際に、そのお嬢さんにお会いできるのも楽しみにしています。 長谷川さん、長いこと、お疲れさまでした。また平井さんと侃々諤々、戦争児童文学(いや、ジェンダー論かな)をめぐる論議など、再開してください。