藤田のぼるの理事長ブログ

2022年4月

67、防府の那須家に行ってきました(2022,4,26)

【那須家訪問記です】

・一日遅れの更新になりましたが、今回は、山口県防府市の那須家訪問の報告です。先週、19、20日に、津久井惠さん、宮川健郎さんと一緒に、うかがってきました。 那須さんが亡くなられたのは昨年7月ですから、それから9カ月、コロナのために葬儀はもちろんその後も弔問にうかがうこともできず、また3月の会報で報告した那須さんの著作権遺贈について直接ご家族にお礼を申し上げることもできていませんでした。「コロナが明けてから」とずっと待っていたわけですが、完全な収束を待っていてはいつになるかわからず、このタイミングでうかがうことにしました。三人とも事前にPCR検査を受けた上での訪問でした。

・那須さんは、会長時代、飛行機でいらっしゃることが多く、それも調べてみましたが、最寄りの山口宇部空港は本数が少なく、羽田までの時間や空港から那須家までの道のりを入れると、そんなに時間差がないこともあり、それに三人ともJRのジパングクラブの会員で乗車券が3割引きになるということもあり、新幹線での往復となりました。

・東京駅を発ったのが8時半、新山口駅に13時9分ですからほぼ4時間半、防府はそこから在来線で3駅ほど戻る形になります。久しぶりに駅弁を食べました。防府駅について駅前のホテルに荷物を預け、すぐ近くにある花屋に行き、事前に頼んでおいたお花を受け取り、タクシーで那須家に向かいました。2時前くらいでした。

・那須さんのご葬儀は神式で行われたとうかがっていましたが、ですから仏壇ではなく、祭壇というのでしょうか。やはり二礼二拍手でのお参りになります。こぼれるような笑顔の遺影でした。津久井さんは編集者として那須家は7回訪問しており、泊めていただいたこともある由、また宮川さんは三巻にわたる『ズッコケ三人組の大研究』編集の関係で3度おじゃましたことがある由。僕は那須家にうかがったのは1回だけ。それは10年ほど前、那須さんから内々に著作権遺贈のお話があり、その相談のための訪問でした。まさかその時は、「その時」がこんなに早く来ようとは思いもよらず、ようやく那須さんに対面できたうれしさと、ご本人がいない寂しさで、とても複雑な思いでした。

【那須さんの書斎を】

・今回、三人で訪問したのは、弔問やお礼のご挨拶ということもありましたが、今後の著作権管理のために、那須さんの著作リストを作成する必要があり、これを一からやるとなると大変なことになりますが、幸い上記の『ズッコケ三人組大研究』で、2005年までは詳細に記録されています。残りは17年分程になるわけですが、今度は那須さんご本人がいないところで作るわけで、単行本は問題ありませんが、雑誌や新聞などに掲載した作品やエッセイなどは、現物に当たらなければなりません。そのために、書斎の中を調べさせていただく必要があったわけで、それも今回の訪問の重要なミッションでした。

・ということで、果たして一泊二日でそれがどの程度できるか心配でもあったわけですが、結論からいうと、ほぼ達成できたと思います。というのも、那須さんの書棚や書庫が実に整理されていて、近年のエッセイなどが掲載されている雑誌はほぼ同じところにまとめられており、しかも付箋が貼られています。まさか僕らが作業をするのを見越していたわけでもないでしょうが、那須さんの豊富な仕事量は、こうした整理にも支えられていたのだなと感じさせられました。

 また、美佐子夫人の了解を得て、パソコンの中も見ることができましたが、ドキュメントの中は執筆されたものがほぼ時間順に並んでいて、これも著作リストを作る上でとても役立ちそうでした。ただ、その画面の印刷の仕方がわからず、事務局に電話して次良丸さんのコーチを受けながら、なんとか印刷できました。 とはいえ、その場で著作リストを作るということはもちろん無理なので、見つかった資料をとりあえず積み上げ、その日の作業を終えました。

【二日目は】

・翌日10時にまたうかがって、前日探し出した資料を、ホテルで調達したダンボール箱に詰めました。4箱になりましたが、これを協会に送りました。しばらくお預かりすることになります。

 思いの外作業がスムースに進んだわけですが、その後美佐子夫人の車に載せていただき、那須さんが眠る納骨堂にご案内いただきました。防府はその名前が示すように、古くからの歴史を誇る町で、防府天満宮があります。那須さんのお嬢さんがかつてそこで巫女さんの仕事をしていたことがあるようにもうかがっていました。那須さんはもちろん広島生まれですが、防府は美佐子夫人のご実家がある町でもあります。

 その天満宮に隣接したところに納骨堂があり、とてもモダンな作りの納骨堂でした。そこで改めて那須さんとお別れのご挨拶をさせていただいたわけですが、美佐子夫人が「あなたが大好きだった三人がきてくださったわよ」と言ってくださって、泣きそうになりました。

・その後、広大な天満宮を案内していただき、帰途につきました。東京駅に着いたのが18時15分、駅の中のお店で軽く“反省会”をやり、二日にわたる那須家訪問の旅を終えました。ずっと気にかかっていた宿題をひとつ果たした気分ですが、お預かりした資料を精査してリストを作るのはこれからなわけで、改めて那須さんの文学的な成果と向き合う時間がこれから始まります。

2022/04/26

66、「八郎」のインタビュー&43年目のクラス会(2022,4,15)

 【まずは「八郎」のインタビュー】

・少し前、僕が事務所に出ていた日ですから、ちょうど一週間前の8日ですが、事務局に「藤田理事長の連絡先を教えてください」という電話があり、ちょうど僕はそこにいたわけで、電話を替わったら、読売新聞の秋田支局の方からでした。同紙の東北版で、東北縁りの児童文学作品を紹介するコーナーがあって、斎藤隆介の「八郎」を紹介したいので、それに関してインタビューを受けてほしいとの依頼でした。前に書いたと思いますが、僕は大学一年生の時に「八郎」を読んで児童文学に引っ張られたわけで、もちろん喜んで承知しました。

 その電話インタビューが、今日の午前中にあり、一時間ほど話しました。聞いたところ、ブログで僕のことを知ったということで、このブログ(他にはありませんから)でしょうか。協会HPの「会員専用ページ」の中に入ってはいますが、誰でも見られるし、僕の名前を検索すると、何番目かにこのブログが出てきます。

・上記のように、僕は18歳で「八郎」に出会ったわけですが、絵本ではなく、童話集『ベロ出しチョンマ』の中の一作として出会いました。この本は冒頭にプロローグとして「花咲き山」があり、その次に「八郎」が収録されています。二十何作かが入っていますが、その中でまるごと秋田弁で書かれているのはこの作品だけです。インタビューでも話しましたが、斎藤隆介は東京生まれで、1945年に秋田に疎開したのですが、「八郎」が書かれたのは、それから5年も経っていない1950年2月(僕が生まれる一か月前ということになりますが)です。ネイティブな秋田人である僕が、東京生まれの隆介さんの秋田弁の作品に参ってしまったわけです。言わば外国語に近い秋田弁を理解するだけでなく、完全に体の中に沁みこませて、それを文章で表現したという所がなによりすごいと思います。

・隆介さんを初めて見たのは、1972年の山形・上ノ山での児文協の夏の集会で、講演を聞きました。初めて話をしたのも協会がらみで、会議の後、砂田弘さんを交えて三人でお酒を飲みました。26歳の時だったと思います。大感激でした。そんな話をいろいろしたので、インタビューが一時間になりましたが、最後に「改めて、藤田さんにとって「八郎」はどういう作品ですか?」と聞かれて、とっさに答が出てきませんでした。僕にとってはこの作品はなかなか客観的に捉えられない作品だということを、改めて感じました。いずれにしても、楽しい一時間でした。

【そして、43年目のクラス会です】

・僕は(これも前に書きましたが)秋田大学を卒業して、東京に出てきて、中野の私立小学校の教員になりました。いきなり一年生の担任になりました。明日、その中の四人と〈ミニクラス会〉をやることになりました。男一人と女の子(いや、もう女の子ではありませんね~笑~)三人。男一人の方は、一年に1回くらい会って酒を飲みますが、女の子(と書いてしまいますね)たちのほうは、一人は彼女の結婚式に出たので、それでも30年は経っているでしょう、あとの二人は卒業以来です。僕は六年間教員をして、彼らの卒業と共に退職して児文協の事務局員になりましたから、43年ぶりということになります。その二人は20代の僕しか知らないわけで、ジイさんになった姿を見せることになります。

・たまたま明日は、午後に池袋でPCR検査を受けます。これはさすがに飲み会のためではなく、来週の火曜日、山口の那須さんのお宅に伺うので(昨年7月に亡くなられて以来、ようやくうかがえることになりました)、そのための検査です。ともかく楽しみです。

2022/04/15

65、「ドボルザークの髭」あるいはA4文化?のこと(2022,4,5)

【「ドボルザークの髭」とは?】

・年度が替わりました。僕が理事長になってからもう2年近くになるわけですが、なんでもコロナのせいにしてはいけませんが、それにしても2年間なにもできなかったな、という思いが強いです。「コロナが明けたら」という発想はやめて、今の状況の中でなにがどのようにできるかというふうに、切り替えていかなければと思っています。

・さて、タイトルにある「ドボルザークの髭」ですが、これは僕が2015年11月から出している個人誌の名前です。これを発刊したのは、僕のライフワークと(勝手に)思っている「現代児童文学史」を書くためで、4月3日付で8号を出しました。6年半で8号というのも遅いのですが、まだ1960年代をうろうろしているので、これで本当に最後までいきつけるのかというところです。特にこの間、協会の資料集の仕事に追われて(そんなことではいけないのですが)、7号から1年8カ月ぶりの発行でした。ともかく進むしかありません。

 今回の8号は、1960年代の戦争児童文学の考察が中味でしたが、いろいろ読み返してやはりいろいろ発見がありました。最終盤でロシアのウクライナ侵攻があり、かつての日本の歩みと重なって、余計に考えさせられました。

・その現代児童文学史のための個人誌が、なぜ「ドボルザークの髭」なのかを説明するとかなり長くなのですが、僕は中学時代にブラスバンド部で、毎日音楽室を使っていました。そして、ある時に音楽年表の時代の区切りの線(例えば、古典派とロマン派の区切り)が、斜めであることに気がついたのです。一方教室にある普通の歴史年表の時代の区切りの線(例えば江戸時代と明治時代の区切り)は、縦にまっすぐです。「そうか、誰かが○年○月にロマン派を始めたというようなことでなく、後から見るとこの辺りが境目ということなのだな」と得心しました。

 それを思い出したのが、大学生の時児童文学に出会い、いろいろ読み始めた時でした。1970年前後です。現代児童文学の出発から10年という時期ですが、その出発期の作品とリアルタイムで出ている作品とはかなり雰囲気が違うのです。「もしかして、今があの斜めの線の時期なのではないか」と考えたのが、僕の評論の出発点の一つになっています。音楽年表で目を惹くのは、なんといってもベートーベンのモシャモシャ頭とドボルザークの髭なので、「ドボルザークの髭」にした次第です。

【A4文化?の話】

・それで、この個人誌はB5判なので、表紙はB4のカラーの紙を使っています。いつもは高田馬場の紙専門の店でその用紙を買うのですが、今回日曜日に協会の印刷機を借りて印刷するために事務所に向かう途中、池袋のビッグカメラと東武デパートの文具売り場に行ったのですが(日曜日で、高田馬場のいつもの店は休みなので)、カラーの紙はA4しかありません。デパート(伊東屋でしたが)のほうはA4のカラーなら20種類ほどもあるのですが、「B4はお取り寄せになります」とのこと。チラッと、そんなこともあろうかと、前回の残りの紙を用意していたのでなんとかなりましたが、改めて世間? はもうすっかりA4の文化になっているのだなあと、実感させられたことでした。

2022/04/05