66、「八郎」のインタビュー&43年目のクラス会(2022,4,15)
【まずは「八郎」のインタビュー】
・少し前、僕が事務所に出ていた日ですから、ちょうど一週間前の8日ですが、事務局に「藤田理事長の連絡先を教えてください」という電話があり、ちょうど僕はそこにいたわけで、電話を替わったら、読売新聞の秋田支局の方からでした。同紙の東北版で、東北縁りの児童文学作品を紹介するコーナーがあって、斎藤隆介の「八郎」を紹介したいので、それに関してインタビューを受けてほしいとの依頼でした。前に書いたと思いますが、僕は大学一年生の時に「八郎」を読んで児童文学に引っ張られたわけで、もちろん喜んで承知しました。
その電話インタビューが、今日の午前中にあり、一時間ほど話しました。聞いたところ、ブログで僕のことを知ったということで、このブログ(他にはありませんから)でしょうか。協会HPの「会員専用ページ」の中に入ってはいますが、誰でも見られるし、僕の名前を検索すると、何番目かにこのブログが出てきます。
・上記のように、僕は18歳で「八郎」に出会ったわけですが、絵本ではなく、童話集『ベロ出しチョンマ』の中の一作として出会いました。この本は冒頭にプロローグとして「花咲き山」があり、その次に「八郎」が収録されています。二十何作かが入っていますが、その中でまるごと秋田弁で書かれているのはこの作品だけです。インタビューでも話しましたが、斎藤隆介は東京生まれで、1945年に秋田に疎開したのですが、「八郎」が書かれたのは、それから5年も経っていない1950年2月(僕が生まれる一か月前ということになりますが)です。ネイティブな秋田人である僕が、東京生まれの隆介さんの秋田弁の作品に参ってしまったわけです。言わば外国語に近い秋田弁を理解するだけでなく、完全に体の中に沁みこませて、それを文章で表現したという所がなによりすごいと思います。
・隆介さんを初めて見たのは、1972年の山形・上ノ山での児文協の夏の集会で、講演を聞きました。初めて話をしたのも協会がらみで、会議の後、砂田弘さんを交えて三人でお酒を飲みました。26歳の時だったと思います。大感激でした。そんな話をいろいろしたので、インタビューが一時間になりましたが、最後に「改めて、藤田さんにとって「八郎」はどういう作品ですか?」と聞かれて、とっさに答が出てきませんでした。僕にとってはこの作品はなかなか客観的に捉えられない作品だということを、改めて感じました。いずれにしても、楽しい一時間でした。
【そして、43年目のクラス会です】
・僕は(これも前に書きましたが)秋田大学を卒業して、東京に出てきて、中野の私立小学校の教員になりました。いきなり一年生の担任になりました。明日、その中の四人と〈ミニクラス会〉をやることになりました。男一人と女の子(いや、もう女の子ではありませんね~笑~)三人。男一人の方は、一年に1回くらい会って酒を飲みますが、女の子(と書いてしまいますね)たちのほうは、一人は彼女の結婚式に出たので、それでも30年は経っているでしょう、あとの二人は卒業以来です。僕は六年間教員をして、彼らの卒業と共に退職して児文協の事務局員になりましたから、43年ぶりということになります。その二人は20代の僕しか知らないわけで、ジイさんになった姿を見せることになります。
・たまたま明日は、午後に池袋でPCR検査を受けます。これはさすがに飲み会のためではなく、来週の火曜日、山口の那須さんのお宅に伺うので(昨年7月に亡くなられて以来、ようやくうかがえることになりました)、そのための検査です。ともかく楽しみです。