藤田のぼるの理事長ブログ

2021年8月

43、記念資料集が、いよいよ(2021,8,25)

【明日、最後の入稿です】

◎協会創立75周年記念資料集のことは、これまで何度か触れたと思いますし、これからも書くと思いま すが、ようやく明日最後の分の入稿、というところまできました。こう書くと、「えっ、まだそんな段階?」とも言われそうですが(『日本児童文学』3・4月号には、 今にも刊行されそうな雰囲気で書いたので)、僕としては、ようやくここまで来たという感じです。

 明日入稿するのは、巻末の「付録」というと語弊がありますが、全体は縦組みなのですが、巻末だけ横組みで、「歴代会員名簿」と「歴代役員名簿」を載せます。

【それについて、お願いです】

◎この名簿を作るにあたっての“苦心談”などは、また機会を改めますが、今回は「歴代会員名簿」についてのお願いのみを書きます。

 実はこの資料集を作る時、「協会にとって一番大事な“資料”はなん だろう」と考え、それは誰が会員だったのか、誰によって会が支えられてきたのか、その名前のリストではないかと思いました。しかし、かつて50年史を作った際に「歴代会員名簿」を作った時の大変さは身に染みていたので、今回時間的にも体制としてもそこまでやるのは無理だろうと諦めていました。

 当初、少なくともこの5月の総会時には(その際、75周年のパーティーも開くつもりでしたから)刊行しなくては、と思っていましたが、幸か不幸か総会はリモートとなり、パーティーも開けないということで、ゴールを秋の公開研究会に設定し直したわけです。それで、「どうせ延びたから」と、心残りだった 「歴代会員名簿」を載せよう、と思ったわけです。1996年6月までの分は上記の50年史にありますから、それを再録し、今回それ以降現在に至るまでの入会者リストを作りました。

◎それで、お願いというのは、リストは会報の入会者紹介と入会申込書を照合して作りましたが、なにしろ25年分で、間違いがあるかもしれず、正直100%の自信がありません。そこで、今度の9月会報をお送りする際に、そのリストの原稿を同封して(A3両面1枚に収まりました)、会員の皆さん自身に(ご自分のお名前を)確認してもらおうと考えました。この資料集の性格上、「重版の時に改める」というわけにはいかないと思い、言わば苦肉の策ですが、何卒ご協力のほどお願いいたします。

◎さて、その10月31日の公開研究会が、果たして願い通りリアルで開催できるかどうか、かなり不透明な感じになってきましたが、僕としてはぎりぎりまで可能性を探りたいと思っています。そのご案内も9月会報の文書にチラシと共に同封しますので、よくお読みいただき、リアル開催、リモート開催両方に対応していただけるようご準備いただければ一番うれしいです。(もちろんリアル開催の場合でもリモートには対応しますので、地方の方などは最初からリモート参加でOKです。)

2021/08/25

42、76年目、そして75年目(2021,8,15)

 【76年目の終戦記念日です】

◎コロナやら、オリンピックやら、大雨被害で、なんだか8月15日がかすんでしまった感がありますが、76年目の終戦記念日です。よく言われることですが、終戦の日がほぼお盆と重なったことで、日本人にとってより強く「死者を想う」日になったことは確かですが、その「死者」はほぼ日本人のみで、 日本が戦争を起こしたために亡くなった二千万人とも言われるアジアや南方の人たちになかなか思いが至らない(これは、もちろん季節のせいだけではないでしょうが)という側面もあるように思います。

 ここでちょっと微妙な話になりますが、韓国の「反日」のことです。ネットニュースなどを見ていると、もう半分くらいがそれ関係じゃないかと思うくらい、特にオリンピック以降、目立つ感じがします。 正直、韓国のオリンピック選手団のふるまいなどを見ていると、ルール違反という感じは否めません。 もちろん、こうした問題の根底には、日本が朝鮮を植民地にして、創氏改名など民族の尊厳を否定する統治を行ったことへの無反省という問題が厳然とあるわけですが、「反日」によって利するのは誰かという視点も必要な気がします。

 いささか乱暴な括りかもしれませんが、「反日」で利するのは、韓国と日本の政治家。そして、それによって不利益を被るのは両国民、といって、まちがいないのではないでしょうか。亡くなった田畑精一さんなどが中心になって、韓国と日本の画家たちが共同して立ち上げた 「日・中・韓平和絵本」のプロジェクトがありましたが、児童文学の世界でもなにかできないか、考えてみたいと思いました。

◎ちょっと話がそれますが、お盆の日の13日、子どもと平和の委員会主催のリモート学習会がありま した。10月に予定されている公開研究会で講演をお願いしている安田菜津紀さん(今日も、TBSのサ ンデーモーニングで入管問題などについてコメントされていましたが)の本を読みあおう、という企画でした。この中身については、子どもと平和の委員会のブログを見ていただければと思いますが、僕は最後に挨拶をする予定だったのですが、途中からネットの接続が不安定になり、最後ほとんどつながらなくなって、挨拶ができなくなりました。名スピーチ(?)を準備していたのですが、残念! 参加者の皆さんには、大変失礼しました。

【75周年記念資料集のこと】

◎僕は、先月から久しぶりに神楽坂までの定期を買って、ほぼ一日置きくらいに事務所に通っています。7月12日に二回目のワクチンが済んだので、ということもあり、遅くなっている協会創立75周年の記念資料集の編集作業を、早く進行させるためです。これについては、ここまで何度か書いたと思いますが、四部構成の最後の第四部を、この10日にようやく入稿しました。第四部の内容は当初の構想とは違ってきたのですが、協会の各分野の活動、例えば講座の歴史が分かるように、1971年の第一期児童文学学校の資料を載せるとか、そういう内容になっています。その最後に「協会財政の変遷」という項があり、75年の中から各時代の決算書を4つ載せました。その中で、僕も初めて見たのですが、創立の年の1946年の、そして1947年度の決算表というのが出てきたのです。これを見つけてくれたのは、資料集編纂をずっと手伝ってくれている会員の佐々木江利子さんですが、まさかそんなものがあるとは思っていませんでした。そして、その創立当時の決算書が、意外に(?)きちんとしたものであることにも驚きました。こういう驚きの資料が実はまだあるのかもしれませんが、ちょっときりがないので、ともかくゴールをめざして進めています。秋の10月31日の公開研の時には、この資料集をなんとかお目にかけたいと念じています。

2021/08/15

41、那須正幹さんのこと・2(2021,8,5)

 【コロナとオリンピック】

◎連日の感染者の新記録をよそに、オリンピックは進行しています。僕はスポーツ観戦は野球に限らず大好きなので、オリンピックの中継はそれなりに見ています。基本的には「日本選手中心の」「感動物語おしつけ」という枠組みは変わらず、僕の中にもそれに反応してしまう部分があることも確かです。それに代わる枠組みで放送するというのは多分無理だと思うので、例えば別の「感動物語」、今回初めて参加した国の選手とか、あるいは選手ではなくてスタッフの誰かとかに焦点を当てた〈物語〉を提示することで、今のパターンを多少とも相対化するくらいは試みてもいいと思うのですが、ないですね。

 それと、選手のインタビューで、「こうした状況でオリンピックを開催していただいたことに感謝」というコメントは何人も聞きましたが、もう一つ突っ込んで、「コロナの状況を考えて、複雑な思いがありました」くらいのことは誰か言ってくれないかと思うのですが、僕が見た限りではないですね、それすらも。

 オリンピックと言えば、僕は今回の東京オリンピック招致の時に、「えー、また東京!?」と思い、せめて日本でもう一度オリンピックを招致するのなら、広島オリンピックにしたら意義があるのでは、と思い、何かの折に那須さんに話したことがあったように覚えています。

【那須さんが提起したこと】

◎さて、前回、那須さんが協会の会長時代のことで、書かなければならないことが一つあると書きました。そのことを書きたいと思います。このブログに書いてきた中でも、なんというか、ややヘビーな内容になります。

 那須さんは山口県にお住まいでしたから、理事会も毎回出席ということではなく、また出席されても自分からなにかを提案したり、発言したり、ということはそんなにありませんでした。言わばご自分の “役どころ”をよくわきまえていらしたと思います。その後の飲み会を楽しみにしていらして、前回書いたような僕との関係もあって、最後二次会もしくは三次会で二人で飲んだことも何度かあったように思います。

 その那須さんが、ある時に大きな提案というか、問題提起をされたことがありました。今これを書くために会報のファイルを確認したところ、2009年12月発行の『Zb通信』№64でそのことについて報告されています。ですから、それ以降入会された方にとっては初耳のことになるかと思います。

 那須さんの「提案」はこの年の7月運営委員会(今の理事会)になされたもので、それは児文協と児童文芸家協会との統合について検討してほしいとするものでした。その少し前に関西で集会があって、那須さんは会長として出席されたわけですが、その際に若手の会員から「どうして児文協と児文芸という二つの組織があるのか?」「合同できないのか?」という質問があったようなのです。その時は「いろいろ歴史的経緯もあり、難しい」というふうに答えたけれど、今二つの協会も組織を維持していくのに困難な状況もあり、思い切って合同ということも検討してみてもいいのではという、ある意味“爆弾発言”的な提案でした。これについては、上記のように、会報に詳しく経緯が述べられており、それを読みたいという方がいらっしゃれば、協会にメールをくださればコピーをお送りします。

 その那須さんの提案について、当時の運営委員会は、当然何度か討論を重ねました。おおまかにいえば「賛成」「反対」「慎重」論が拮抗して結論が出ず、そういう状況では会員や相手方の児文芸に統合を提案するのは無理、という結末になりました。また、その討論の途中で、相手方の児文芸に対しても、こちらがそういう討論をしています、ということをお伝えしておくのが礼儀だろうということで、お伝えしたわけですが、その児文芸からは、今は法人改革への対応で精一杯で両協会の統合といったことを検討するのは無理、といった事実上のお断りもあって、この話は言わば立ち消えになりました。「法人改革への対応」というのは、その時に社団法人や財団法人に関する法律が改正され、従来の社団法人は公益社団法人か一般社団法人に組織変更する必要に迫られていたからです。逆に言うと、二つの社団が統合するためには、格好のタイミングでもあったのです。

 さて、その際に僕がどんな意見だったかと言えば、僕は「賛成」派でした。僕はかなり前から児童文学の作家団体が一つになってもいいのでは、という考えは持っていて、ただそれは児文協と児文芸の合同というよりも、ある意味ご破算にして一つの作家団体を作る、という感じのイメージでした。これについては、また機会があれば書きたいと思いますし、今現在は、二つの協会の統合ということに関しては、いくつかの理由で非現実的な感じも持っています。

 しかし、児文協、児文芸の合同というのは、それまでまったく誰も言わなかったわけではありませんし、タブーとまでは言いませんが、正面から論じられることはありませんでした。それが那須さんの提案で、協会として正式に検討したわけで、その意味は大きかったと思います。そして、今後児童文学の作家団体がどうなっていけばいいのか、ということを考えていく上で、那須提案がひとつの歴史を作ったといえるように思います。

◎その時のエピソードを一つ。これが議題となった最初の運営委員会だったと思いますが、メンバーの中でも古参の一人の上笙一郎さんが、「とんでもない提案だ」という面持ちで、開口一番「やはり田舎(と言ったか地方と言ったか)にお住まいで、協会のことはあまりお分かりになってないようだ」というふうなことを言い、僕はなんということを言うのだ、その(地方に住んでいる)那須さんにぼくらはなんとかお願いして会長になってもらったんじゃないか、と心のなかで叫び?ましたが、那須さんの表情は変わりませんでした。ただ、その日だったか、次の会だったか、二次会か三次会で二人になった時に、「上の野郎(と言ったか奴と言ったか)……」と、言葉はきつかったけれど顔は笑っていて、僕はやはりこの人は人物が大きいなと思わされたことを、覚えています。

 明日は8月6日、76年目の広島の夏に、那須さんの追悼の文章を書くことになるとは、思いもよりませんでした。亡くなった翌日の新聞は一通り買ってチェックしましたが、本当にどの新聞の写真も笑っていて、それは確かに那須さんの笑顔でした。

2021/08/05