72、仙台、南三陸、そして秋田(2022,6,20)
【「合併号」です】
・前号の最後に書いたように6日から8日まで仙台と南三陸、そして18・19日の土日に秋田に行ってきました。その前後、締め切り仕事やら、総会後の初めての理事会(各部・委員会の担当などを決めました)やらがあって、15日のブログ更新はパスさせていただき、今回15日の分と25日の分の「合併号」(週刊誌に時々ありますが)という感じにさせていただきます。ともかく、コロナがそれなりに収まって、遠くに出かけたり、人が集まったりすることがかなり戻ってきた、ということかな、(理事会も今回はリモートでしたが、7月は久しぶりに対面でやることにしました)と感じています。
【仙台と南三陸】
・これは前のプログに書いたように、僕の兄弟の集まりで、僕は6人兄弟の末っ子ですが、一番上の長兄は亡くなり、次兄、そして三人の姉たち、僕の5人で、コロナ前までは、秋田や(次兄と三番目の姉が仙台在住ということもあり)仙台近辺で一年に一回集まっていました。ただ、この二年間は(なにしろ高齢者の集まりでもあり)控えていました。ですから、今回3年ぶりに兄弟が顔を合わせることになったわけです。
大体、秋田や仙台近辺の温泉に一泊し、姉たちはさらに次の日また少し違う所に出かける、というパターンだったのですが、今回姉たちが向かう二泊目が南三陸と聞いて、僕も(三年前までと違って大学の授業もなくなったので)参加することにしたわけです。恥ずかしながら(というのもおかしいですが)、大震災の海側の被災地を訪ねるのは、初めてのことでした。
5月の学習交流会の時に、震災を題材にした作品を何冊か出されている指田和さんにその話をすると、多分そのホテルで(観洋というのですが)「語り部バス」というのをやっているはず、というので、ますます楽しみ(という言い方も変ですが)になりました。温泉も良かったですが、翌朝、語り部バスの予約をした人たち(平日でもあり、概ね僕くらいの年代の人たちが多かったですが)を乗せたバスがホテルを出発、ほぼ一時間かけて、町の被災地をゆっくり回り、ホテルの方の説明を聞く、という仕掛けでした。
最初に向かったのは中学校ですが、そこに行くまでの道はすっかり整備されていますが、道の両側は広い空き地になっています。「このあたりが、震災前まで町の中心部でした」と聞いても、ほとんど想像することができません。道路自体、10メートルほどもかさ上げされているわけですが、さらにそこより少し高台にある中学校が最初の目的地だったのですが、その3階の途中まで津波が来たということや(単純に高さだけでなく地形的な要素もあり)、たまたま地震の直前の話し合いで、避難方法をめぐって教職員の間で意見の不一致があった(結局「慎重論」に基づいた避難がなされ、生徒たちは助かったわけですが、自分がその場にいたら、どういう行動をとったか、考えさせられました)という話は、その場で聞くとやはりすごい臨場感がありました。
何カ所か回った最後は、あの、町の防災センター。「あの」というのは、津波からの避難を呼びかける放送を最後まで続けた女性が犠牲になったという、あの場所です。鉄骨だけになった防災センターが残っているわけです。びっくりしたのは(自分の認識不足を露呈するようなことですが)防災センターにはその時多くの町職員が残留しており、まだ二十人以上が行方不明なのだそうです。「自分の身を顧みず、最後まで避難を呼びかけました」という物語(ストーリー)にとらわれて、その女性のことにしか頭がいってない自分を恥じる思いでした。
そして、もう一つなるほどな、と思ったのは、その鉄骨だけになった防災センターを残すのか、取り壊すのかということについて、町の人たち、特に遺族の方たちは複雑な思いがあり、むしろ取り壊してほしいという意見の方が強かったけれども、今は国の方針もあり、とりあえず残しているが、最終的な方針はまだ定まっていないという話でした。それで思い出したのは、広島の原爆ドームのことで、あの場合も、市民は当初必ずしも「残してほしい」という人ばかりではなかった、と聞いています。ほんとに、難しいことだな、と思いました。
実は、ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、この「語り部バス」のことが、僕が乗った翌々日の朝日の夕刊で大きく紹介されたのです。僕の所は毎日新聞なのですが、横浜にいる二番目の姉がそのことを知らせてくれて、実は語り部バスは結構朝早かったこともあり、姉たちは乗らなかったのですが、「私たちも乗れば良かった」というのは、後の祭りでした。
【土日と秋田でした】
・こちらも3年ぶりになりますが、僕はあきた文学資料館という所の、資料収集検討委員というのをやっていて、本来年に2回その会議があるのですが、コロナでこの間開けませんでした。僕の出身地は、大仙市(花火で有名な大曲が中心)ですが、秋田新幹線の駅でいうと、その一つ手前の角館(城下町として観光地でもあります)から車で15分ほどの所です。いずれにしても、新幹線の終点の秋田市まではそれなりの距離があり、学生時代を過ごした秋田市に行く機会はなかなかなかったのですが、7、8年前にこの委員を務めることになったおかげで、秋田市まで行く機会が増えました。
「文学資料館」という名前が示すように、「文学館」ではないので、まずは(秋田関連の)文学資料を収蔵することが第一義ですが、公開ということももちろん視野に入っていて、年に二回程度企画展も行われています。「赤い鳥」100年の時は「『赤い鳥』と秋田」という企画展をやり、この時は僕も少々お手伝いができました。ただ、建物自体がかつての高校の校舎の一部を転用したもので、スタッフの数も充分ではないので、本格的な展示を企画するのはなかなか難しいというのが現実です。
話があちこちですが、読売新聞をお読みの方は気がつかれた方もいると思いますが、同紙で「とうほく名作散歩」というシリーズ企画があり、東北縁りの文学作品などが紹介されています。児童文学では、宮沢賢治(岩手)や浜田広介(山形)などの作品が紹介されたということですが、秋田に関してはそういったポプュラーな作品がなかなか見つからず、支局の方が取り上げようと決めたのが、斎藤隆介の「八郎」でした。隆介さんは東京生まれですが、戦時中に疎開で秋田に来、戦後八郎潟に伝わる民話のキャラクターを使って「八郎」を書いたわけです。その記事を書くため、僕に電話取材があり、5月上旬に掲載された記事には、僕のコメントが引用されています。このことは、何回か前のプログにも書きましたが、今回、その担当の記者さんとも初めて会うこともできました。僕はかねてから、いつか文学資料館で「斎藤隆介展」が開けないかと願っていて、その文学資料館で「八郎」を取り上げた記者さんと会うことができ、ちょっととっかかりができたような思いでした。