藤田のぼるの理事長ブログ

2022年7月

75、コロナ、国葬、ドボルザーク(2022,7,27)

【コロナ、急拡大!】

・2日遅れとなりました。この間、17日の日曜日ですが、地元の市の集団接種で、4回目のワクチンを打ちました。僕は1回目、2回目は、東京の自衛隊の集団接種、3回目は今回と同じ市の健康センターでの集団接種で、いずれもモデルナ。これまでも副反応もさほどではなく、今回も(ワクチンを打ってすぐ薬を飲みましたが)翌日37,0度という微熱が出た程度で、ノープログレムでした。

 ひとつ、副反応ならぬ副効果?があって、僕の住んでいるところは市の端っこなので、健康センターに行くには、(車を使えば直接簡単に行けるわけですが)バスで最寄りの駅に出て、電車で3駅乗り、そこからまたバスに乗って、という具合になります。ただ、そのバスがあまり本数がないので、帰りに時間調整のために駅の近くで暇つぶしをしなくてはならないことになりました。坂戸駅という東武東上線の特急なども止まる駅ですが、北口と南口に一つずつあった喫茶店が、ここ二年ほどでなくなってしまったのです。それで、スマホで「坂戸駅 喫茶店」で検索したら、いくつか出てきましたが、そんなにすぐ近くという感じではありません。これからもあることなので、ちょっと歩いてみるかと、一番良さそうなところに行ってみたら、予想よりずっと近いし、僕ぐらいの年配のマスターがひとりでやっている、いかにも喫茶店という雰囲気の店で、これはいい所を見つけた、と思いました。

・それにしても、ここにきて、こんなふうにまた感染が急拡大するとは、思いませんでしたね。実は22日の金曜日、千葉にいる上の娘が帰ってくる予定でしたが、二日前になって38度の熱が出たということで、帰れなくなり、その後陽性と判明。心配しましたが、熱が出たのは一日だけで、その後はほとんど体調も戻り、保育園の勤務は一週間休まなければならないけれど、むしろ退屈で困っている、というようなことで、まずは安心しました。これまで、コロナのニュースを聞いても、どこか他人事という感じがなくもありませんでしたが、ついに我が家にもきたか、という感じで、きいてみると、やはり「うちの娘が」とか「息子が」という話は珍しくないようです。なかなかこれを抑えこむことは難しいと思いますが、発熱外来が列を作っていたり、検査キッドが品不足というようなことを聞くと、相も変わらず対処が場当たり的と思わざるを得ません。

【安倍さんが、国葬?】

・これも、驚きましたね。亡くなったこと自体はお気の毒と思いますし、警護体制のお粗末さは指摘されなければならないと思いますが、正直、彼の死自体を悼むという感情は僕の中にはありません。むしろ、桜の問題にせよ、モリ・カケの問題にせよ、今回浮き彫りになった統一教会の問題にせよ、亡くなったからといって不問に付すわけには絶対いかないだろう、きちんと検証しなければいけない問題だらけだと思います。また、なにより集団安保にかじを切って、日本が、子どもたちが、戦争に巻き込まれる可能性を大きく広げた責任、教育基本法の改悪や道徳教科化によって、子どもたちが主権者として成長する道筋をゆがめた責任は、これからも追及し続けていかなければならないと思います。

・「国葬」ということですぐ思い出したのは、一人はアンデルセン。彼は一度も自分の家というものを持ったことがなく、言わば死ぬまで居候暮らしだったようですが、デンマーク王国は、彼を国葬で称えました。もう一人は作曲家のシベリウス。彼が作曲した「フィンランディア」はフィンランドの第二の国歌とも言われていますが、彼も国葬で送られています。その二人の場合、「国葬」ということを、誰がどうやって決めたのか。今まで気にしたこともありませんでしたが、いずれにしても、ほとんど反対する人はいなかったでしょう。 吉田茂が国葬だったというのも今回初めて知りましたが、いずれにしても今回のことが「前例」になってしまうわけでしょう。政治家だけが対象になるのでしょうかね? 政治家が良くも悪くも国民の尊敬を得ているとは言い難いこの国で、こういう形で国葬なるものが強行されることで、「大事なことは結局オカミが決めるのだ」「国民は肝心な時に意思決定に参加できないのだ」という感じが強まっていくことが、なにより懸念されるように思います。

【そして、ドボルザークです】

・これは国葬とは関係ありません。前にも書きましたが、僕は現代児童文学史をモノにすべく、『ドボルザークの髭』という個人誌を出していて、この度その9号を発行しました。これでようやく1960年代が終わったという具合で、まだまだ先は長いのですが、8号を出してから4か月後に出せたので、なんとかこのペースを守りたいと思っています。今回取り上げたのは、「曲がり角の時代」と名付けましたが、1960年代から70年代に移っていく時期の作品で、僕が学生時代に児童文学と出会った時代―つまり、ここからはようやく僕が体験的に書くことのできる時代になりました。「現代児童文学史」ということに関心があり、読んでみたいという方がいらっしゃいましたら、ご連絡いただければと思います。

2022/07/27

74、那須さんを偲ぶ会が終わりました(2022,7,16)

【一昨日、偲ぶ会でした】

・ネットのニュースなどでもかなり流れたので、ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、一昨日、7月14日、那須正幹さんを偲ぶ会が東京會舘で行われました。本来なら、昨日が15日でしたから、すぐにも報告をアップするべきところでしたが、さすがに疲れて、昨日は一日ぐったりしていました。おまけに、夜の会食(偲ぶ会自体は、コロナのことがあり、飲み食いなしでしたが、夕刻、那須さんのご家族を囲んで、発起人とポプラ社のスタッフとで、懇親会でした)の後、帰宅して寝る前に鏡を見たら、ぐらついていた歯のところが腫れていて、翌朝になってもっとひどくなり、午後に急きょ歯医者に行ったら、結局抜く羽目になりました。余計にぐったりでしたが、これが一昨日でなくて良かったなと思った次第でした。

・さて、偲ぶ会ですが、東京會舘のかなり広い会場に(300人位は楽に座れそう)、間隔をあけて椅子を並べ、120人ほどの参会を得て、午後1時から始まりました。僕は発起人を代表して「開会あいさつ」というお役目でした。僕は結構“緊張しい”なのですが、まずまず頭の中にあったことを、言えたような気がします。

 その後、やはり発起人の中から、同人誌『亜空間』で一緒だった肥田美代子さん、『絵で読む広島の原爆』などの絵本を共に作った画家の西村繁男さん、そして俳優の原田大二郎さんのスピーチでした。原田さんは「ズッコケ三人組」の映画に出演したことがきっかけで那須さんと知りあい、同郷で魚釣りが趣味といった共通点もあり、「50を過ぎて、こんなに親友づきあいできる人が現れるとは思わなかった」というほどの親交を結ばれました。二人が一緒の時の場面など、さすがに臨場感たっぷりでした。

・その後、司会の村上信夫さん(元NHKアナウンサーで、村上さんが山口放送局にいらした時に、やはり親交を結ばれました)が持っておられた那須さんのインタビューの録音の一部を会場に流し、その後、那須さんの「読者代表」、一緒に仕事をした画家さんや編集者からの思い出が語られました。

・那須さんには四人のお子さんがいらっしゃるのですが、今回の偲ぶ会には、美佐子夫人はもちろん、ご長男、ご長女(とお連れ合い)、ご次男の三人が参加され(次女の方はご都合で残念ながらご欠席でした)、ご長男は四人のお子さん(つまり、那須さんのお孫さん)も連れてのご参加でした。一番下のお嬢さんが昨年の6月生まれということで、まだ一歳なわけですが、7月に亡くなった那須さんはコロナのために会うことができないままだった、ということでした。そのご家族がズラッと並ばれて、美佐子夫人からのご紹介があり、ご挨拶がありました。最後にポプラ社の千葉社長から閉会のご挨拶があり、献花に移りました。

・「那須家」としてのご葬儀やお別れ会ではないので、出口の所に、ご家族とともに、僕や千葉社長も並んでご参会の方たちにご挨拶しましたが、ほとんどの参加者が、美佐子夫人にこもごも那須さんとの思い出を語り、僕は隣に立っていましたが、美佐子夫人は(初めて会う方も多いわけですが)ちゃんと一人ひとりの関係性を把握している感じで、その点もさすがだなあと、那須夫妻のありようを思ったことでした。

【マスコミ関係の方たちも】

・偲ぶ会でちょっと驚いたことの一つは、マスコミ関係の取材が多かったことで、新聞社、テレビ局など、13社がきてくれました。さすがは那須さんだと感じました。帰りにスマホで検索したら、僕の開会あいさつや、NHKのニュースでは、原田さんと共に僕の写真も載っていて、こんな時に「うれしい」という表現は適切でないかもしれませんが、昨年の秋ごろから、かなりの時間をかけて準備してきたことだけに、本当にいい会になってよかったなと思えましたし、つまりはそれは那須さんの人徳、ということに尽きるのでしょう。

 これまで僕は、協会関係の方の、ご葬儀、お別れ会、偲ぶ会などに、かなり関わってきましたが、(比べるわけではありませんが)忘れられない会になったと思っています。

2022/07/16

73、夏は好きですか?~泳げない夏~(2022,7,5)

【猛暑お見舞い】

・前回は「合併号」にさせていただきましたが、書いたのが随分前のような気がします。20日だから、そんなでもないのに、ひょっとして「猛暑」の始まる前だったのかな。改めて調べてみたら、観測史上一番早いと言われた梅雨明けが27日だったんですね。そして、一昨日までのすごい暑さ……。僕の住んでいる坂戸市は、埼玉県の真ん中辺、この頃猛暑ポイントとしてニュースに出てくる鳩山町は隣ですから、東京都心よりも2、3度高いのです。

 二歳の孫が来ていて、去年買ったゴムプールを作りました。娘たちが小さい時は市のプールにもよく行きましたが、今年は公営プールはオープンするのかな? 去年、一昨年はコロナで学校も含めてプールは使えなかったでしょうから、子どもたちもかわいそうでしたね。

 さて、そのゴムプールを膨らませながら、子ども時代のことを思いだしたりしました。よく「好きな季節は?」という質問がありますが、今はこの猛暑で夏が好きという人は少ないでしょうが、かつては子どもなら「夏が好き」と答える子が多かったのではないでしょうか。僕は夏は嫌いでした。

・理由は、泳げなかったから。1950年代の秋田の農村でしたから、プールなどというものはなく、泳ぐのは川。僕はもともとアウトドアな子どもではなかったし、小さい頃ならともかく、中学年くらいになると、泳げなければ、カッコ悪くて川にはいけません。だから、夏休みでも大体家の中にいて、日に焼けません。夏休み明けに、なまっちろい顔で学校に行くのは、はずかしいというか、いささかゆううつでした。

【先生になった時】

・それでも、まあ子ども時代は、それで済んだわけですが、問題は、大学を卒業して、小学校の教員になった時でした。秋田県の採用試験の時だったと思いますが、「何メートル泳げるか」を書く欄があって、「25メートル(だったか)」と、控えめな嘘を書きましたが、これはどうせ落ちるだろうと思っていたので、ノープログラム。問題は、東京の私立小学校に就職が決まった時でした。

 なにしろ50年前の話で、この私立小学校にはプールがなかったのです。助かった!と思いました。ところが、やはり小学校でのプール指導は必須科目。それで、この学校では、4年生以上は夏休みに長野県蓼科のプール付きのホテルに4泊くらいだったか宿泊して、ここでみっちりプール指導をするというのです。

 あわてました。採用の時は「泳げますか?」と聞かれもしませんでした。あまりに当然のことだからでしょう。夏休みまで三ヵ月余り、そこまでなんとか泳げるようにしなければなりません。当時は今と違って、スイミングクラブのような施設はあまりない時代です。そしたら、たまたま新聞で、大人向けの水泳教室というのを見つけたのです。場所は千駄ヶ谷の神宮プールで(今もあるのでしょうか)、一週間に1回だったか二週間に1回だったか、全体で5、6回くらいの教室だったと思います。当時流行りつつあった「ドル平泳法」というスタイルの教室で、行ってみたら、20人位だったか、もう少し多かったか。

・ドル平泳法というのは、足はドルフィンキック、手は平泳ぎの形で、これが一番体に抵抗がないという「理論」に基づいた指導方法でした。それで、泳げない人というのは水の中で目が開けられないというのが共通するパターンで、まずは水の中で目が開けられるようにしよう、ということなのですが、これがなかなかできません。当時はアパートに一人暮しでしたが、家に帰ってからも、洗面器に顔をつけたり、必死の?努力でした。

・結果的にはちゃんと「泳げる」までにはいかなかったものの、なんとか浮くようにはなり、バタ足で少し進む程度にはなりました。ですから、夏休みの水泳指導の時には、「水泳はあまり得意ではないんです」とか言いながら、なんとかごまかせました。その後、子どもも生まれ、一緒にプールに行ったりしているうちに、平泳ぎなら25メートルくらいは泳げるようになりましたが、クロールの息継ぎはいまだにできません。それでも、神宮プールでの特訓のおかげで、子どもをプールに連れて行くのは嫌ではなくなりましたし、子ども時代に比べると、夏は(猛暑はともかく)そんなに嫌いでもなくなったかもしれません。

2022/07/05