藤田のぼるの理事長ブログ

2021年3月

29、3月、別れの季節です(21,3,26)

【一日遅れになりましたが……】

◎「5の日」のブログが一日遅れになりましたが、今朝はフジテレビの朝の情報番組「とくダネ!」が 最終回ということで、豪華なゲストがたくさん出演していました。朝のこの時間帯をどのチャンネルにするかは、結構人によって決まっているようですが、僕はキャスターの小倉智明さんが秋田出身という こともあって、大体このチャンネルにしていました(いかにも秋田県人らしい理由ですが)。もっとも小倉さんの場合は、生粋の(?)秋田県人というよりも、お父さんが帝国石油(だったと思います)に勤めていらした関係で、秋田で子ども時代を過ごした、ということらしいです。

 ここで、ピンとくる人は少ないと思いますが、実は秋田には油田があり、原油が獲れたのです。社会科の地図帳にはいろんなものの生産高のトップ3とか5とかがグラフなどで載っていたりしますが、僕らが小学生の頃は原油の生産高というのがあり、秋田が1位、新潟が2位(というか、ほとんどその2県のみ)だったと思います。式の時に校歌と並んで歌わされる「秋田県民歌」というのがあり(逆に、あの頃は「君が代」はほとんど歌わせられなかったような)、そこには「あふれる油田」という一節がありました。

◎そうした関係で、秋田には戦前から石油の精製工場がありました。今は秋田市の一部になっていますが、秋田市郊外の土崎という港町にそうした精製工場があり、実はここが1945年8月14日の夜に、アメリカ軍の爆撃の目標になりました。8月14日というのは、つまり終戦の前夜で、日本はすでにポツ ダム宣言の受諾を通告しています。しかし、この夜も全国の各地で爆撃があり、僕が住んでいる埼玉県のほぼ唯一の被爆地である熊谷空襲も、この時です。土崎港が狙われたのは、一説には終戦になっても それを認めない軍人が特攻攻撃を続けるかもしれないので、その燃料をなくすため、という話もありましたが、なにしろ太平洋戦争は日本が石油の権益を守るため、という考え方があるくらいですから、量的には少ないとはいえ、石油の生産地が重要な軍事的意味を持っていたことはまちがいないでしょう。

◎僕は、この「最後の空襲」ともいわれる土崎空襲を、なんとか絵本にしたいと何年か前から企画していて、延び延びにはなっているのですが、絵本が出たら、小倉さんにも「フジテレビ気付け」で進呈しようと思っていました。これからは、どこに送ればいいですかね?

 ともかく、小倉さんに限りませんが、朝のあの時間帯に出演するためには相当な早寝早起きが求められるわけで、それを22年続けたということだけでも、朝に弱い僕としては尊敬せざるを得ません。

【卒業式も……】

◎昨日は、協会の事務局に出かけましたが、行く途中で卒業式姿の女子学生をチラホラ見かけました。 昨年は卒業式を中止したところも多かったようですが、今年は、分散するなどして、開催したところが 多かったようです。そして事務所からの帰り、高田馬場の日本フラワーデザイン専門学校に寄ったので すが、そこで一年前の「最後の卒業式」を思い出しました。

 この学校は、協会の講座などでも使ったことがあり、聞き覚えのある方もいらっしゃるかと思います。実はその前身は「児童文化専門学院」で、 以前は『日本児童文学』に、夜間講座などの広告が毎号載っていました。以前事務局員だつた奈良規子 (結婚して赤木規子)さんはここの卒業生でしたし、現事務局員の宮田さんも、ここの夜間部の講座を受講していたのを、僕がリクルートした感じです。その後、フラワーデザインの専門学校に変わったわけですが、そんなご縁で僕はこの学院の理事を務めていましたし、年に何回かは授業を受け持って、絵本作りの講座を受け持っていました。しかし、専門学校をめぐる環境が年々厳しくなり、一昨年から学生募集を打ち切り、昨年が最後の卒業式でした。

 小さい学校なので、卒業式では学生一人ひとりがスピーチするのですが、このコロナ禍で花産業も相当に影響を受けているでしょうから、あの学生たちがどんなふうに仕事を続けられているか、心配もしています。

2021/03/26

28、3,11&大牟田セミナー、そして創立75周年

【10年目の3,11でした】

◎皆さんは、10年目の3月11日を、どのように受けとめられたでしょうか。僕の故郷・秋田は東北の中では比較的被害が少なかったわけですが、仙台に兄と姉がいて、連絡がつくまではかなり気をもみました。そして、福島の原発が東北電力ではなく、東京電力の発電所であるという事実に、東北出身の人間として改めて思い至りました。

 とはいえ、10年経った今、僕の中で何かが変わったのか、あの災害を児童文学に関わる者としてどう受けとめようとしてきたのかと問われれば、確たる答えは返ってきませ ん。3,11の「思想化」といえば大仰かもしれませんが、ほとんどこの問題を深めることができないまま、10年が経ってしまったというのが率直な感想です。

◎では、3,11の「思想化」とはなんだと問われれば、充分な答は持ち合わせませんが、阪神・淡路の大震災の後に、これを題材にした児童文学作品がそれなりに出てきて、そうした作品(もちろん一括りにはできませんが)を読んでいくうちに、ある問題点というか、疑問が生じていきました。

 それは、どうして児童文学では、「震災に負けずに健気にがんばった」あるいは「震災で建物は壊れたが、人の絆は壊れなかったぞ」というような話ばかりが書かれるのだろうという思いです。「子どもを励ます」ことによって自らをも励ます、というのは児童文学を書くものの本能? みたいな面はあるのかもしれませんが、これで本当に励ますことになるのか、と考えざるを得ませんでした。そのことを評論に書きたいと思って作品のリストアップなどもしていたのですが、それが果たせないまま東日本大震災を経験することになりました。

◎東日本大震災の作品化は、阪神・淡路に比べても、むしろ遅い感じでしたが、そのことはうなずけることでした。あれだけの圧倒的な不条理を児童文学として作品にするということは、並大抵のことではありません。大人の文学であれば不条理を不条理として書くということも可能かもしれませんが、それをどう子どもに向けたことばにするのか。さすがにあれだけの災害、そして原発事故を前にしては、安易な「健気にがんばった」物語の出る幕がないことは、むしろ当然だったでしょう。

 そうした中で、濱野京子さんの『石を抱くエイリアン』(2014)、これは『日本児童文学』の連載作品でしたが、「希望」をキーワードに、中学生にとっての3,11を描いた、僕の知る限りでは、初めての本格的な児童文学作品だったと思います。そして、柏葉幸子さんの『岬のマヨイガ』(2015)のテーマは、やはり「家族」ということになるでしょうか。岩手在住で自らも震災を体験した作家のこの作品は、明らかに以前に書いた短編「ブレーメンバス」(同タイトルの短編集所収)を下敷きにしており、僕はそのことにとても興味を覚えました。つまり、濱野さんにせよ、柏葉さんにせよ、(当たり前ですが)3,11を通過して別の人になるわけではないので、それまでのモチーフがあのできごとを通してどのように試されたのか、ということのような気がします。

 その点では、川上弘美が前に書いた「神様」という作品を、震災の直後に書き直し「神様 2011」を発表したということを思い出します。評論の立場で言えば、もちろん3,11後の作品を論じることも重要ですが、それ以前の作品を「3,11後」の視点から見つめ直すことで、もっと何かが見えてくるかもしれません。

 ともかく、『石を抱くエイリアン』と『岬のマヨイガ』(できれば、短篇集『ブレーメンバス』も合わせて)をまだお読みでない方は、この機会にぜひ読んでみてくだ さい。

【大牟田セミナー、そして創立75周年が……】

◎この週末、13、14日と、福岡県大牟田市で協会主催の児童文学セミナーが開催されました。内田前理事長の出身地で、ここに内田さんの絵本作品を中心とした美術館が建てられることをお祝いする意味も込めてセミナーを企画したわけですが、2月の段階で、福岡県にも緊急事態宣言が出されていましたから、予定通り開催するかどうか大分悩みました。

 それでも開催に踏み切ったのは(懇親会や子ども参加 のワークショップなどはとりやめましたが)「ぜひ実現させたい」という地元からの熱い思いに応えたいと思ったからで、実際この状況では大幅な定員割れは必至だろうと思っていたのですが、あべ弘士さんの講演をメインにした全体会は、150人の定員に迫る申し込みでした。当日の電話では、あべさんのお話や、その後の内田さん、大牟田市動物園の園長さんをまじえてのトークショーもとても好評だったようで(絵本美術館は動物園の敷地の中にできるのです)、本当に良かったです。

 このセミナーについては、大分先になりますが、7月の会報で報告されます。僕が担当するはずだった実作指導の分科会は中止(作品を提出された方には、文書で感想を送る形にしました)となって、行けなかったのですが、美術館がオープンしたら(コロナの関係などで、当初の予定より遅れています) 一度うかがってみたいと思っています。

◎そして、まもなく協会は創立75周年を迎えます。創立総会が開かれたのは、1946年3月17日ですから、あと二日ですね。3,11から10年、コロナ禍の中での75周年というのは、語弊があるかも知れませんが、なんとなく児文協らしい感じもします。

 お手元に『日本児童文学』の3・4月号(記念号)が届いたと思います。自分も書いたのでやや手前味噌になりますが、とてもいい記念号になったと思います。25年後の「100周年」を見据えて、というのがいいですね。

 僕はまあ確率はかなり低いですが、100周年は96歳になるわけで、よく冗談で、「100周年の集いに車椅子で出席して、(その時は誰も昔のことなど知りませんから)あることないこと、嘘ばっかりしゃべる」などと広言? しています。そんな“夢”を見ながら、当面は“嘘のない”記念資料集の編集に力を注ぎます。 

2021/03/15

27、今日は、誕生日です(21,3,5)

【誕生日を迎えて】

◎緊急事態宣言は再延長となりましたが、果たして二週間で済むのかどうか。行政側からは「国民へのお願い」ばかりで、宣言期間中になにをやるのかというビジョンが相変わらず見えてきませんね。

 さて、誠に私的なことですが、今日3月5日は僕の誕生日で、71歳になりました。70歳から71歳ですから、特に感慨もありませんが、まあいつのまにかこんな年になったのだなという感じでしょうか。

 このブログの第2回だったと思いますが、僕が「5の日」に更新することにしたのは「5時55分生まれ」 で、5がラッキーナンバーだからと書きました。その通りなのですが、加えて日も5日、まあ、さすがに5月ではありませんが、生まれた年も昭和25年、西暦では1950年と、それぞれちゃんと(?)5 が付いているわけです。

 ということで、今回は、ごく私的な話題にさせていただこうと思います。

◎僕が協会事務局に勤務したのは、1979年4月、29歳の時です。大学を出てそれまでの6年間、都内の私立小学校の教員をしていました。私立小学校の教員というと、なんとなくエリートっぽい感じがするかも知れませんが、そんなことでは全然なく、むしろ落ちこぼれてそういうことになったというのが“真相”です。

【ということで、やや身の上話になりますが】

◎というのは、僕は秋田大学教育学部の国語科を卒業したわけですが、当時は国立の教員養成の学部を卒業した人のほとんどが教員になったし、またなれた時代でした。東京学芸大とか、大都市の場合は(選択肢が他にもありますから)若干率が下がるかも知れませんが、秋田の場合だと教育学部の卒業生の90数パーセントが教員になっているはずです。但し、この当時から、秋田ではすでに過疎化、少子化の兆しがあり、学校の統合が進んだこともあって、地元秋田で教員になるのは狭き門でした。しかし、大都市圏の、特に小学校であれば、まずまちがいなく、就職できました。東京都や神奈川県などの教育委員会が、先生を確保するために、秋田とか山形とかに出張って就職試験をしていたのです。

 僕も大学4年の時に、東京都の採用試験を受けて、当然受かりました。僕は三男坊ですし、やはり児童文学を勉強したいという気持ちが強かったので、秋田に残る気はさらさらなく、東京を希望したわけです。そして、足立区の某小学校に配属先も決まり、そこの校長先生からは(ここはちょっと問題がありますが)「男の先生に来てもらえて良かった」と、とても喜んでもらえました。

 ところが、3月、卒業を控えて、単位が足りずに卒業できないという事態になりました。当時は学生運動が盛んな時期で、僕も4年間ほとんどそちらに熱中し、授業にはろくに出ていなかったからです。 それでも、音楽科とか体育科とか、実技が重視される学科と違って、国語科の場合は、追加レポートとかでなんとかなるとタカをくくっていたわけです。

 単位を落とされた先生の所を、「就職も決まったの で、なんとかお願いします」と頭を下げてまわったのですが、僕の“誤算”は、どの先生も「ぼくの一存では判断できない」ということで、僕の担当教官のところに、「いま、藤田君という学生が来てるんだけど」と、電話することでした。その後、担当教官(「大鏡」が専門の橘先生という方でした)にお願いしに行くわけですが、仏の顔もなんとやらで、三度目、四度目になると、どんどん不機嫌な顔になっていきます。嫌味も言われます。

 僕はこう見えて(?)結構気が短いところがあり、何度目かに「いいです、先生、もう一年いますから」と言ってしまったのです。その時の橘先生の返答もなかなかで、「藤田君、何年いたって同じだよ」 というものでした。

◎ともかく、そんな経緯で一年留年することになり、その一年間はさすがにまじめに授業に出ました。 そして、前の年は、ろくに就職試験の勉強もしていなかったのですが、今度はちゃんと準備して、もう一度東京都の採用試験を受けたわけです。自信満々でした。ところが、なんということか、落ちてしまったのです。受けるときに何人かに、「去年のドタキャンは大丈夫かな」と相談はしたのですが、誰もが 東京の場合は人数が多いし、関係ないだろうということで、安心していました。誠に甘かったとしか思えません。前年のドタキャンがなければ、落ちるはずはないのです。

 あわてました。僕の人生でもっともあわてた時かもしれません。大学の教務に行くと、「東京の私立初等学校協会というところから求人が来てるよ」という話でした。それで、多分、その足で、というくら いの感じで東京に向かいました。今も市ヶ谷駅の前にある私学会館。そこに協会の事務所があり、面接を受けて、中野区の私立小学校を紹介されました。そのままその学校に行き、校長と面接して、その場で採用が決まりました。

【もし、留年していなければ】

◎後で考えて、もし僕があの時ねばって、橘先生に頭を下げ続けていれば、あるいは4年で卒業できたかも知れません。しかし、そのまま公立の小学校に就職した場合、僕のことだから、組合活動とかに熱中して抜けられなくなり、児童文学の道に進むことは多分できなかったように思います。

 また、留年した年ですが、何人かの一年生たちが、僕が児童文学をやっていることを聞きつけて、「秋田大学児童文学研究会」というのを作りました。そして二度同人誌を出したのですが、その二回目に僕が書いたのが「雪咲く村へ」という、出稼ぎを題材にした作品で、これが『日本児童文学』の同人誌評 で、当時若手作家だった那須正幹さんに、随分ほめてもらいました。それから、多少の経緯があり、十数年後になりますが、この作品が僕の初めての創作単行本として出版されることになります。つまり、 留年がなければ、この作品は生まれていなかったわけです。

 そんなふうに、人間の一生は、なにが幸いになるのか、本当にわからないという気がします。ほぼ50 年近い前のことですが、僕の大きな転機になったできごとを、「71歳記念」に書かせてもらいました。

2021/03/05