藤田のぼるの理事長ブログ

2020年7月

6,5 急なお知らせです~茨城と近県の方々に~(20,7,29)

【茨城放送FMラジオで】

◎茨城県(および周辺)の会員の方々に限定ですが、お知らせしたいことができました。というのは、茨城放送のFMラジオの「コネクト」という番組の中に「日本アソシエーツ図鑑」というコーナーがあり、そこから協会に出演依頼がありました。

 これは全国のいろいろなアソシエーション(協会)から話を聞き、それを“図鑑”にまとめようという企画で、局のホームページを見たら、「日本合コン協会」とか「日本だじゃれ活用協会」とか、「そんな“協会”があるんだ!?」という感じのところが多かったようですが、そんな中で良くも悪くもまともすぎる(?)児童文学者協会に依頼が来たのは、夏休みということで、子どもたちの読書のことなども聞きたい、というようなことらしいです。

◎というわけで、8月4日・火曜日の6時15分から、僕が電話出演する、という次第です。「どういう感じなんだろう?」と思って、一週間前の(毎週火曜日にこのコーナーがあるということで)昨日、試しにFM茨城に周波数(94,6MHz)を合わせてみたら、思いの外ちゃんと聞けました。僕の家は埼玉県の真ん中よりやや南という位置ですから、茨城県だけでなく、福島県、栃木県、それに東京や千葉の大半はエリアに入るのではないでしょうか。

◎ちなみに、この日は「日本カレーパン協会」の方が話されていました。カレーパンの愛好者で構成される「協会」ということで、後でホームページを見たら、とても“立派”な協会でした。どれくらいのリスナーがいるかわかりませんが、一人でも「講座を受けてみようか」などと思う人がいたら、うれしいのですが……。

2020/07/29

6、斎藤隆介さんのことなど~児文協と僕②(20,7,25)

【斎藤隆介さんのこと】

◎関東は本当に毎日雨ですね。外国の小説だったか何かの記事だったか、日本の梅雨を「雨季」と訳しているのを見たことがあり、「なるほど、そう言われれば“雨季”なんだ」と思った覚えがあります。「雨季」が明ければあの酷暑が待っているのでしょうが、やはり梅雨明けが待たれます。

 さて、ちょうど一週間前の土曜日(18日)ですが、協会の事務局に着くと(コロナ感染のリスクを避けるため、なるべく休日に赴いています。今日も行くつもりでしたが、さすがにやめました)、パソコンの前に僕宛の手紙が置いてありました。事務局長時代と違って、僕宛の手紙が協会の方に届くというのは今はあまりないのですが、裏返してみると横浜の住所で覚えのない名前です。開封すると、ワープロの手紙とコピーが一枚入っていました。読んでみると、確かに未知の方で(年を取ると名前を失念するというパターンも少なからず)、斎藤隆介について調べているのでご教示願えないか、というような内容でした。

 今、斎藤隆介で一番ポピュラーなのは『モチモチの木』でしょうか。『ベロ出しチョンマ』という作品集の中の「モチモチの木」を始めとして、「八郎」「花咲き山」など、たくさんの作品が、滝平二郎さんの切り絵とのコンビで、どれもロングセラーの絵本になっています。隆介さん(と、僕は呼んでいます)は、協会の理事でもありました。実は、何を隠そう(というほどのことでもありませんが)僕は大学一年生のときに、その『ベロ出しチョンマ』の中の、特に「八郎」と出会ったことで、児童文学を読み始めたのです。

◎お手紙をくださった方(Y氏)はスポーツイベントの仕事などをされているのですが、お母上が秋田出身の方ということで、いちいち注釈が入りますが、隆介さんは東京生まれですが、太平洋戦争末期に秋田に疎開、戦後もそのまま秋田に住み続け、終戦後の一時期は地元紙の秋田魁新報の記者でした。おそらく、この「秋田時代」がなければ、上記のような創作民話は生まれなかったでしょう。それで、Y氏の母上のご実家は秋田の旧家らしいのですが、昔その旧家に伝わる伝説を聞くために魁新報の記者が訪ねてきたというのです。同封のコピーは、その伝説でした。そして、その記者というのがどうも斎藤隆介さんらしいということで、Y氏は母上のためにも斎藤隆介について調べ始めた、という経緯のようでした。それで、児童文学の世界で隆介さんとつながりのある人を、ということで、僕にたどりついた、というようなことでした。

【児文協と僕②~夏の講座のこと~】

◎ここで急に「児文協と僕」になるのですが、②とあるのは、6月15日付のブログで、僕が初めて児文協と出会ったのが、学生時代に秋田の書店で『日本児童文学』を見つけたことだと書いたからです。それを①として、その次の児文協との出会いに、斎藤隆介さんが関係してくるのです。僕が大学の、二年目の四年生をやっていた年ですから、1972年ですが、この年の夏、山形県の上ノ山温泉で、児文協の夏の講座が開かれました。

 ここでちょっと横道に逸れますが、かつて協会では、毎年2泊3日の夏の講座がありました。始まったのは1967年で、「言語教育と幼児童話夏季講習会」という名前でした。協会30年史の年表では参加者400人となっています。僕が参加した72年は、ですから第6回で、名称も少し変わり、「幼児教育と幼年文学夏期講座」となっています。なぜ「幼年」かというと、とにかく人を集めることを考えて、「幼年」をつけると、幼稚園の先生や保育園の保母さんたちが、夏の研修として園から支給される費用で参加できるー―それを当て込んで、ということだったらしいです。この夏期講座がその後「夏のゼミナール」になり、さらに「サマースクール」になり、90年代まで続けられました。今の「がっぴょうけん」は、泊りがけではないので、その一部復活という趣きでもあります。

◎さて話が1972年に戻りますが、なにしろ、秋田新幹線はおろか、東北新幹線もまだない時代です。それが隣県の山形で児文協の講座が開かれるというわけですから、僕が飛びついたことは言うまでもありません。そして、プログラムを見て、さらに狂喜(?)しました。開会の記念講演が、斎藤隆介さんだったからです。児童文学者協会の人たちに直接会えるばかりか、僕をこの世界に引きずり込んだ斎藤隆介さんの講演を聞けるわけですから、僕にとってこれ以上の幸運はありません。問題は安くない参加費で、アルバイト代では間に合わず、確か次兄に(僕は父がすでに亡くなっており、学費などは長兄の世話になっていました)たかったような覚えがあります。

 上ノ山温泉のホテルもなかなか豪華でしたが、講演で一番印象深かったのは、隆介さんが「八郎」を朗読したことでした。後で知ったことですが、彼は芝居の世界にしばらく身を置いていて、朗読はお手の物でした。全編が秋田弁で書かれたこの作品、だからこそ僕はこれを読んでショックを受け、児童文学の世界に魅せられたわけですが、作者本人の朗読が聞けたわけですから、満足この上なしでした。

◎さて、その夜のことです。なにしろ400人規模ですから、分科会も講師の数も多いです。その講師たちをそれぞれに「囲む会」というのが、一日目の夜に設定されていました。当時、斎藤隆介は、言わば人気絶頂の時代で、「斎藤隆介さんを囲む会」は、かなり広い場所が用意されていました。50人まではいなかったかもしれませんが、一クラス分くらいの人数は優にいたと思います。

 ところが、肝心の斎藤隆介がなかなか現れません。一同やや待ちくたびれたところで、スタッフの人が現れ、「すみません。斎藤先生はご体調がすぐれないので、本日はいらっしゃれません」とのこと。なんということか、「金返せ!」の世界です。みんなぞろぞろ引きあげかかった時に、すっくと立った一人の若者がいました。まあ、僕が22歳の時ですから、「若者」と言ってまちがいないでしょう。その彼が(僕ですが)言うには、自分たちは斎藤隆介の作品が好きだから、ここに集まったのではないのか。だとすれば、ご本人が来ないのは誠に残念ではあるが、せっかく集まった私たちで、斎藤隆介の作品について語り合えばいいじゃないか、おおよそそのようなことを若者は口走りました。

「なに、こいつ。偉そうに出しゃばって」という反応が3分の1、「そう言われればそうだなあ……」という反応が3分の1。残りはどちらともつかないような人たち。結局その「そうだなあ」の人たちが残って(十数人くらいだったでしょうか)、じゃあ、斎藤隆介作品について語り合いましょうか、となった、まさにその時だったと思います。さっきのスタッフさんが「斎藤先生がいらっしゃいました」とのたまわったのです。

◎そのあと、隆介さんがどんな話をしたのかは、まったく覚えていません。彼が本当のファンだけを残すために仕組んだのか、たまたま結果的にそうなったのか……。それから数年後ですが、今度は本当に隆介さんと話ができるようになった時、その時のことを聞いてみましたが、覚えておられませんでした。児文協と初めて直接出会ったその山形の集会のことでは、他にもいくつか思い出がありますが、なんといっても、あのこっそりと現れた隆介さんの姿が一番印象的です。

 そんなわけで、横浜のY氏にはこうしたエピソードはいくつかお話できますが、さて彼の求めているような手助けができるかどうか。ともかくも、斎藤隆介にまつわるお手紙をいただいたこと自体、僕にとってはうれしいできごとでした。

2020/07/25

5、テレビをめぐって(20,7,15)

【昨日の理事会で】

◎昨日、7月理事会(やはりリモートでしたが)があり、各部(委員会)の部員(委員)を委嘱する方を決めました。今期は、部長・委員長も基本的に留任となったので、必然的に部員・委員も継続の方が多くなったのですが、一方で協会の世代交替という課題もあり、そのバランスを取りつつの人選となりました。もう一つ、5月に実施できなかった学習交流会を秋にやろうという話が出て、その方向で決まりました。当初はリアル開催を目指しつつ、無理そうならリモートで、という話でしたが、昨今の状況も踏まえて、またリモートの方が全国から参加していただけるというメリットもあり、最初からリモート開催でいこう、という話になりました。中身については、もう少し定まってからお伝えします。10月後半の土曜日の予定です。

◎リモート会議も少し慣れた感もありますが、その度に「今回は、ちゃんと画像が映るかな」と心配になるのは、こういうことに慣れていない世代故でしょうか。実際、昨日の理事会でも、なぜか(声は聞こえるけれど)顔が出てこないという人が若干名いました。それはまあいいとしても、リモートだと基本的に発言している人しか映らないので(5、6人であれば全員が画面に出るように設定しますが、20人以上だとその設定は無理があり)、結局一度も画面に出てこないという人が多いことになり、「みんなで討議した」という雰囲気になかなかなりません。リアル会議であれば、発言しなくても、表情やボディーアクションで、参加者の反応が分かるわけで、改めて「集まって話し合う」ことの意義を感じています。8月は例年理事会が休みで、次の9月理事会は(広い会場を取るなどの措置をして)できればリアル理事会にしたいなと願っています。

【話題はガラッと変わりますが……】

◎今回は、「テレビをめぐって」という、よくわからないタイトルですが、とりあえずは、児文協とも児童文学ともまったく関係のない個人的な話題です。(「理事長ブログ」ですが、まあそういうことも含みますので、ご了解ください。)というのは、半月ほど前になるでしょうか、NHKの「ファミリーヒストリー」という番組がとても印象的だったからです。たまたまつけていたテレビで後半を見て、再放送で前半を見ました。ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、その回は柳葉敏郎さんがゲストでした。実は柳葉さんは僕と同郷(秋田県大仙市)で、彼は今も家族で秋田に住んでおり、僕の田舎にいる甥や姪と同世代なので、「この前、参観日に来たらしいよ」とか、たまに話題に出たりしていました。そして、彼が学校の先生の家系であることも聞いていました。それは僕の家も同様なので、二重に親近感を持っていたわけです。そんな次第で、たまたま見たテレビで喰いついたわけでした。

◎今回初めて知ったのは、先生はお母さんの方で、お父さんの方は映画の看板を描く仕事(内田前理事長の若い頃のお仕事ですね)だったということ。これはちょっと驚きました。というのは、田舎では大体夫婦で先生というパターンが大半だからです。今はともかく、かつては田舎で大学を出てつける仕事というのはきわめて限定されているので、いわゆる“つり合い”ということを考えて、先生同士、あるいは先生と公務員とか、そういうパターンが圧倒的に多かったのです(僕の兄や姉たちもそうでした)。そんなわけで、僕は柳葉さんの家も、ご両親が先生だったのだろう、と思いこんでいました。ですから、お父さんがそういう仕事だったというのは意外だったわけですが、結婚生活としてはやはり難しかっただろうと思います。実際、柳葉さんが6歳の時にご両親は別居、そして彼が8歳の時にお父さんは亡くなったということです。

◎ただ、そこまでであれば、このブログに書こうとまでは思わなかったかも知れません。むしろ、ドラマはそこからでした。これは柳葉さんもまったく知らなかったらしいのですが、そのお父さんが実は二度目の結婚で、一度目の結婚で娘がいた、つまり、柳葉さん(上記のような事情で、一人っ子です)には実はお姉さんがいた、ということが、今回のNHKの取材で、初めて分かったということなのでした。そのお姉さんの側も、もちろん自分に弟がおり、それが柳葉敏郎だということは、驚天動地のことだったわけですが、戦前とか戦時中ならともかく、この時代にそんなことがあるのだなあと、びっくりでした。これで思い出したのが、2005年の協会賞受賞作『4つの初めての物語』(さとうまきこ・作)の中の「初めてのお兄さん」です。主人公の6年生の真理奈は、お姉ちゃんとの二人姉妹ですが、ある時、「実は、お兄さんがいる」と聞かされます。この場合も、お父さんが実は一度結婚していて、その時に息子ができていた、という設定です。お母さんはそのことを知っていましたが、娘たちには知らされていなかったわけです。ところが、その「お兄さん」が、就職を機に訪ねてくる、というのです。これを聞いた真理奈とお姉さんが動揺しつつも、“お兄さん”をどう受け入れていくか、というストーリーです。この話も含めて4つの話からなるオムニバス形式のこの作品は名作だと思います。未読の方にはお勧めします。

【児文協とテレビ?】

◎後で思い出したのは、(さすがに「ファミリーヒストリー」に取り上げられた児文協会員はいないと思いますが)かつてNHKで、「わたしが子どもだったころ」だったか、タイトルは正確ではありませんが、その人の子ども時代をドラマ仕立てにして見せてくれる、という番組がありました。もしかして、「ファミリーヒストリー」と同じプロデューサーかな? その番組に出演されたのが会員の上條さなえさんで、それは彼女の『10歳の放浪記』を素材にしています。上條さんは家庭の事情で10歳の頃、お父さんと二人で池袋あたりの簡易宿舎などを転々とする生活を送った、その頃のことを題材にした作品ですが、お父さん役はあの? 嶋田久作だったと思います。今ウィキペディアで検索したら、2007年4月の放送、その前回は谷川俊太郎、前々回は野村克也でした。

◎「テレビと児文協」といえば、これは創立70周年の協会の(文学賞贈呈式の後の)パーティーで、僕が“余興”として「児文協クイズ」というのを5問ほど出したのですが、その内の一つが、「藤田圭雄元会長が出演したテレビ番組は何でしょう?」という問題で、答は三択で「1、のど自慢」「2、ニュース解説」「3、徹子の部屋」というものでした。

 正解は3の「徹子の部屋」で、結構皆さん、あたりませんでした。藤田圭雄(ふじた・たまお)さんというのは、歴代会長の中でも突出して長い九期18年会長を務められた方で、僕の事務局生活のほぼ半分を占めています。たまたま同姓なので、親子か親戚? と思われていた方も少なからずいましたが、「他人」です。中央公論社の編集部長を務めるなど出版界で重きをなした方で、童謡研究が専門、絵本『あおくんときいろちゃん』の翻訳などもされています。その藤田圭雄さんが「徹子の部屋」に出演されて、藤田さんが親しかった飯沢匡さん(黒柳さんが若い頃出演していた「ブーフーウー」の作者)のことなどが話題になっていました。藤田さんは今協会事務局のある神楽坂に近い所のお生まれで、その「江戸っぽい言葉」を黒柳さんがほめていらしたことも記憶に残っています。

◎さて、今回は大分長くなってしまいましたが、最後にクイズです。「今、児文協会員で、一番テレビに出ている人は誰でしょう?」……………、正解は、岡田晴恵さん。今や「コロナの女王」の異名をとる岡田さんですが、「病気の魔女と薬の魔女」シリーズを出された時に、子ども向けの本を出したので、ということで、確か岡田さんの方からご連絡をいただいて、入会していただいたように覚えています。朝の5チャンネルを見る度に、ひそかに声援を送っています。(このブログの日付、記事の最後には表示されますが、わかりにくいので、今回からタイトルに日付を入れ、また番号をつけました。)

2020/07/15

4、ちょっと(?)うれしい話(20,7,5)

【事務局で……】

◎「理事長ブログ」の4回目ですが、会報の僕の就任あいさつ文を読んで初めてこのブログを開いてみたという方もいらっしゃると 思います。まあ、たいしたことは書いていませんが、よろしければ遡ってのぞいてみてください。それから、会報の僕の写真、花と一緒に写っていますが、これは『日本児童文学』の発売元である小峰書店の小峰広一郎社長から「理事長就任祝い」ということで事務局に送られてきたものです。こんな豪華な花をいただいたのは、大分前のことになりますが、ロッテマリーンズが日本一になった時に、当時選者を務めていた童話コンクールを仕切っていた広告代理店から事務局に花が送られてきて以来のことで(僕が長年のロッテファンであることについては、また改めて……)、その時はただびっくりしましたが、今回は小峰さんからということで、じっくりとうれしく感じ、次良丸さんに写真を撮ってもらいました。

◎私的なことになりますが、僕は家に出産を控えた娘が戻ってきていたこともあって(おかげさまで、5月初めに無事に出産しました)、4月5月は、感染のリスクを考え、事務局にはほとんど足を運べませんでした。6月あたりからぼつぼつ週に一・二度、ラッシュの時間帯は避けながら埼玉の自宅から神楽坂の事務局まで出向いています。文化団体の中には、4・5月あたりには事務所を閉じたところもあるようですが、児文協の場合は雑誌を定期発行していて、その編集実務を担当している次良丸さんは、執筆者や印刷所のやり取りなど、テレワークというわけにはいきません。また、宮田さんもこの時期は決算や予算という大変な仕事があり、帳簿などの資料を全部持ち帰るというのもかえって大変なこともあり、ほぼ通常通りの勤務でした。また総会がウェブ開催になったことで、その準備が例年よりかえって大変だった面もあり、二人のことがとても気づかわれましたが、幸い無事に乗り切ってもらえて、本当に良かったと思っています。

【『日本児童文学』掲載作品のこと】

◎先週の月曜日だったか、その日は午後から他所で別の会合があり、事務局には短い時間しかいられなかったのですが、ちょっとうれしい話を聞きました。『日本児童文学』に掲載された作品を、某社で月刊絵本のテキストに使いたいというお話があったということで、会員からお知らせがあったというのです。月刊絵本の著作権に関するご相談も含めてのお電話だったようです。ことのついでに書いておくと、『日本児童文学』に掲載された作品を出版することについては、協会や小峰書店の許諾が必要といったしばりはありません。どの出版社からどんな形態で出版するか(しないか)については、著者の判断に任せられます。(出版や作品集に収録などの場合、もちろん報告はいただきたいですし、可能な範囲で、元が『日本児童文学』に掲載された作品であることを表記していただければと思いますが。)

また、これは今週の木曜日(2日)のことですが、午後から組織部長のいずみさんに来ていただいて、来年3月の大牟田セミナー(これについても、また改めて)に向けての打ち合わせをしました。その前にメールチェックをしていたら、この数日の間に、『日本児童文学』掲載作品についてのメールが二つあり、一つは京都の中学校の校長先生から、掲載された詩を「校長室通信」に掲載したいとの依頼、もう一つは中国の方から(日本在住の方かと思われますが)、前に賢治と南吉のオマージュ作品を募集したことがありましたが、その賢治のオマージュ作品の入選作を翻訳して中国の雑誌に掲載したいというものでした。前者については、作者に連絡してOKをいただき、後者については、まずはその雑誌の性格などについてお知らせいただくよう返信しました(僕がやったのではなく、次良丸事務局長が)。

たまたま同じ時期に重なった、ということでもありますが、『日本児童文学』がいろいろなところで読まれているということを改めて実感し、とてもうれしく思いました。また、京都の中学校の例は、以前なら無断で使用されていたケースかもしれませんが、著作権についての認識が多少とも広がっていることの表れでもあるように思います。ちなみに、この校長先生は、古本屋で『日本児童文学』を入手されたようで、できれば購読してほしいところです(笑)。

うれしいついでに(というと変ですが)もう一つ。事務局に、学研プラスから『うちにカブトガニがやってきた!?』という本が届いていたのですが、これは協会と学研プラスが共同で募集している「感動ノンフィクション大賞」の優良作品受賞作で、これまで最優秀賞受賞作は何冊か本になっていますが、佳作に当たる優良賞で学研から出版されたのは初めてだと思います。生きた化石ともいわれるカブトガニを家で飼育し卵から孵すという話で、とてもおもしろい味わいのノンフィクションです。ぜひ図書館へリクエストして読んでみてください。

◎この「理事長ブログ」、前にも書きましたが、一応「5のつく日」を目途に更新していく予定です。律儀に「10日に1回」にしなくてもいいような気もするのですが、長く続けるためにも、これくらいのペースがいいかなと思っている次第です。今回は“今”の話題になりましたが、これも前に書いたように、むしろ児文協に関わる“昔話”がメインになると思うので、楽しんで(?)いただければ幸いです。

2020/07/04