藤田のぼるの理事長ブログ

6、斎藤隆介さんのことなど~児文協と僕②(20,7,25)

【斎藤隆介さんのこと】

◎関東は本当に毎日雨ですね。外国の小説だったか何かの記事だったか、日本の梅雨を「雨季」と訳しているのを見たことがあり、「なるほど、そう言われれば“雨季”なんだ」と思った覚えがあります。「雨季」が明ければあの酷暑が待っているのでしょうが、やはり梅雨明けが待たれます。

 さて、ちょうど一週間前の土曜日(18日)ですが、協会の事務局に着くと(コロナ感染のリスクを避けるため、なるべく休日に赴いています。今日も行くつもりでしたが、さすがにやめました)、パソコンの前に僕宛の手紙が置いてありました。事務局長時代と違って、僕宛の手紙が協会の方に届くというのは今はあまりないのですが、裏返してみると横浜の住所で覚えのない名前です。開封すると、ワープロの手紙とコピーが一枚入っていました。読んでみると、確かに未知の方で(年を取ると名前を失念するというパターンも少なからず)、斎藤隆介について調べているのでご教示願えないか、というような内容でした。

 今、斎藤隆介で一番ポピュラーなのは『モチモチの木』でしょうか。『ベロ出しチョンマ』という作品集の中の「モチモチの木」を始めとして、「八郎」「花咲き山」など、たくさんの作品が、滝平二郎さんの切り絵とのコンビで、どれもロングセラーの絵本になっています。隆介さん(と、僕は呼んでいます)は、協会の理事でもありました。実は、何を隠そう(というほどのことでもありませんが)僕は大学一年生のときに、その『ベロ出しチョンマ』の中の、特に「八郎」と出会ったことで、児童文学を読み始めたのです。

◎お手紙をくださった方(Y氏)はスポーツイベントの仕事などをされているのですが、お母上が秋田出身の方ということで、いちいち注釈が入りますが、隆介さんは東京生まれですが、太平洋戦争末期に秋田に疎開、戦後もそのまま秋田に住み続け、終戦後の一時期は地元紙の秋田魁新報の記者でした。おそらく、この「秋田時代」がなければ、上記のような創作民話は生まれなかったでしょう。それで、Y氏の母上のご実家は秋田の旧家らしいのですが、昔その旧家に伝わる伝説を聞くために魁新報の記者が訪ねてきたというのです。同封のコピーは、その伝説でした。そして、その記者というのがどうも斎藤隆介さんらしいということで、Y氏は母上のためにも斎藤隆介について調べ始めた、という経緯のようでした。それで、児童文学の世界で隆介さんとつながりのある人を、ということで、僕にたどりついた、というようなことでした。

【児文協と僕②~夏の講座のこと~】

◎ここで急に「児文協と僕」になるのですが、②とあるのは、6月15日付のブログで、僕が初めて児文協と出会ったのが、学生時代に秋田の書店で『日本児童文学』を見つけたことだと書いたからです。それを①として、その次の児文協との出会いに、斎藤隆介さんが関係してくるのです。僕が大学の、二年目の四年生をやっていた年ですから、1972年ですが、この年の夏、山形県の上ノ山温泉で、児文協の夏の講座が開かれました。

 ここでちょっと横道に逸れますが、かつて協会では、毎年2泊3日の夏の講座がありました。始まったのは1967年で、「言語教育と幼児童話夏季講習会」という名前でした。協会30年史の年表では参加者400人となっています。僕が参加した72年は、ですから第6回で、名称も少し変わり、「幼児教育と幼年文学夏期講座」となっています。なぜ「幼年」かというと、とにかく人を集めることを考えて、「幼年」をつけると、幼稚園の先生や保育園の保母さんたちが、夏の研修として園から支給される費用で参加できるー―それを当て込んで、ということだったらしいです。この夏期講座がその後「夏のゼミナール」になり、さらに「サマースクール」になり、90年代まで続けられました。今の「がっぴょうけん」は、泊りがけではないので、その一部復活という趣きでもあります。

◎さて話が1972年に戻りますが、なにしろ、秋田新幹線はおろか、東北新幹線もまだない時代です。それが隣県の山形で児文協の講座が開かれるというわけですから、僕が飛びついたことは言うまでもありません。そして、プログラムを見て、さらに狂喜(?)しました。開会の記念講演が、斎藤隆介さんだったからです。児童文学者協会の人たちに直接会えるばかりか、僕をこの世界に引きずり込んだ斎藤隆介さんの講演を聞けるわけですから、僕にとってこれ以上の幸運はありません。問題は安くない参加費で、アルバイト代では間に合わず、確か次兄に(僕は父がすでに亡くなっており、学費などは長兄の世話になっていました)たかったような覚えがあります。

 上ノ山温泉のホテルもなかなか豪華でしたが、講演で一番印象深かったのは、隆介さんが「八郎」を朗読したことでした。後で知ったことですが、彼は芝居の世界にしばらく身を置いていて、朗読はお手の物でした。全編が秋田弁で書かれたこの作品、だからこそ僕はこれを読んでショックを受け、児童文学の世界に魅せられたわけですが、作者本人の朗読が聞けたわけですから、満足この上なしでした。

◎さて、その夜のことです。なにしろ400人規模ですから、分科会も講師の数も多いです。その講師たちをそれぞれに「囲む会」というのが、一日目の夜に設定されていました。当時、斎藤隆介は、言わば人気絶頂の時代で、「斎藤隆介さんを囲む会」は、かなり広い場所が用意されていました。50人まではいなかったかもしれませんが、一クラス分くらいの人数は優にいたと思います。

 ところが、肝心の斎藤隆介がなかなか現れません。一同やや待ちくたびれたところで、スタッフの人が現れ、「すみません。斎藤先生はご体調がすぐれないので、本日はいらっしゃれません」とのこと。なんということか、「金返せ!」の世界です。みんなぞろぞろ引きあげかかった時に、すっくと立った一人の若者がいました。まあ、僕が22歳の時ですから、「若者」と言ってまちがいないでしょう。その彼が(僕ですが)言うには、自分たちは斎藤隆介の作品が好きだから、ここに集まったのではないのか。だとすれば、ご本人が来ないのは誠に残念ではあるが、せっかく集まった私たちで、斎藤隆介の作品について語り合えばいいじゃないか、おおよそそのようなことを若者は口走りました。

「なに、こいつ。偉そうに出しゃばって」という反応が3分の1、「そう言われればそうだなあ……」という反応が3分の1。残りはどちらともつかないような人たち。結局その「そうだなあ」の人たちが残って(十数人くらいだったでしょうか)、じゃあ、斎藤隆介作品について語り合いましょうか、となった、まさにその時だったと思います。さっきのスタッフさんが「斎藤先生がいらっしゃいました」とのたまわったのです。

◎そのあと、隆介さんがどんな話をしたのかは、まったく覚えていません。彼が本当のファンだけを残すために仕組んだのか、たまたま結果的にそうなったのか……。それから数年後ですが、今度は本当に隆介さんと話ができるようになった時、その時のことを聞いてみましたが、覚えておられませんでした。児文協と初めて直接出会ったその山形の集会のことでは、他にもいくつか思い出がありますが、なんといっても、あのこっそりと現れた隆介さんの姿が一番印象的です。

 そんなわけで、横浜のY氏にはこうしたエピソードはいくつかお話できますが、さて彼の求めているような手助けができるかどうか。ともかくも、斎藤隆介にまつわるお手紙をいただいたこと自体、僕にとってはうれしいできごとでした。

2020/07/25