子どもと平和の委員会

5期目です。

こんにちは。

濱野京子です。前期にひきつづき、子どもと平和の委員会に席を置くことになりました。通算で5期目です。これまで、この委員会では、広い意味での平和を考えるための学習会、ブックトーク、戦争に関係する施設の見学などを行ってきました。広い意味、と申し上げたのは、私が関わった学習会だけでも、憲法、貧困、道徳教育など様々なテーマがあったからです。前期は、3月に登戸研究所の見学、6月に「子どもの権利条約」にからめた学習会を予定していましたが、いずれも、COVID19感染の影響で中止になってしまいました。

また、子どもと平和の委員会は、子どもの本・九条の会との共催イベントや、児文協の新しい戦争児童文学委員会(https://jibunkyo.or.jp/old/index.php/warliterature/index)と共同で学習会なども行ってきました。

現在、私は子どもの本・九条の会の運営委員もしているのですが、実は、それほど多くの戦争児童文学を書いているわけではありません。単著で、そういえるのは『アギーの祈り』と『すべては平和のために』の二冊です。ちなみに『すべては…』は、新しい戦争児童文学委員会の活動から誕生した作品で、タイトルの含意は「すべては平和のために、という名目で行われる、戦争さえも」ということになります。

主要なテーマではなくとも、戦争に言及した作品はほかにもありますし、戦争と平和への関心は、比較的若い頃より常に持っていました。私が生まれた頃は、まだ戦争を忌避する感情が社会を支配しており、戦争=悪であることは自明、という空気の中で育ったこともあるかと思います。

それから何十年かたち、為政者にも戦争経験者がいなくなっていく現在、感情としての厭戦をさえ継承することが難しいと思わざるを得ない時代となりました。そもそもが、厭戦は反戦にならないことは、すでに戦争末期に、清沢洌が指摘していますが(『暗黒日記』昭和45年1月1日)。

歴史を継承することの重要性(たとえ当事者の語りとは違うものになってしまうとしても、語り部を引き継ぐ活動をされている若い世代に敬意を表します)はいうまでもありませんが、これからの戦争を考える時、過去の戦争の悲惨さを語るだけでは足りないとの思いがあって、加害のこと、また人の心理や経済活動と戦争についてなど、あれこれ思いを至らせながら、書き手としては、新たな戦争文学に取り組むことができたら、と願っています。

5年前に、アウシュビッツ博物館に行き、さまざまなことを考えました。その一つが、南京に行かねば、ということでしたが、今年の春に予定していた南京ツアーも残念ながら中止となってしまいました。アウシュビッツ訪問後に考えたことについては、いつかこのブログで書く機会があれば、と思っています。

2020/09/12

9月19日〈子どもの本・9条の会〉学習会案内

 〈子どもの本・九条の会〉の学習会案内を共有します!

以下よろしくお願いします。

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弓狩匡純氏 講演会 〈過去に学び、未来を描く。〉

 『平和のバトン~広島の高校生たちが描いた8月6日の記憶』(くもん出版)の著者であるジャーナリストの弓狩匡純さんを講師にお迎えします。 『平和のバトン』は、被爆体験者の話を聞き取りながら一年をかけて油絵に描いて記録するという広島市立基町高等学校の「次世代と描く原爆の絵」プロジェクトに取材したノンフィクション作品です。「体験の継承」「体験者と非体験者の連帯」の可能性を教えてくれるこの本自体が一つの「平和のバトン」と言えるのではないでしょうか。弓狩さんのお話を聞き、私たちもそのバトンを受け取る機会にしたいと思います。

本書は今年、「第66回青少年読書感想文全国コンクール 中学校の部・課題図書」、「日本子どもの本研究会 第4回作品賞」に選ばれました。

            記

◇日時:9月19日(土) 14:00~16:00 講演後、サイン会あり

  (13:30開場 16:30 閉場)

◇開場:神保町ブックハウスカフェ2Fひふみ座

  都営三田線・新宿線、東京メトロ半蔵門線 神保町駅(A1出口 徒歩1分)

◇定員:会場参加20名 オンライン参加100名(Zoomによるリアルタイム配信)

◇参加費:(会場・オンライン共に)1000円

   *オンライン参加でサイン入り本購入希望の場合 2500円(参加費+書籍代)                                     

    送料・消費税サービス

◇申込み先:kodomonohon9jou@gmail.com        

    *申込時に、会場参加かオンライン参加かお知らせ下さい。

    *『平和のバトン』サイン入り本を購入ご希望の方は、その旨明記のうえ、

     郵送先ご住所もお書き下さい

◇支払い方法: *会場参加者…当日受付にて。    

  *オンライン参加者…ミーティングIDをお知らせする際に振り込み先をお知らせします。

2020/08/30

小さな和ちゃんと平和

 残暑お見舞い 申し上げます、指田 和です。    

              *  

 わたしは、今や40℃超えの猛暑で有名な、埼玉県の熊谷近くで生まれ育ちました。 

  家は代々続く農家で、祖父母、両親、兄、わたし、妹の3人きょうだい、計7人家族。イヌ、ネコニワトリに、一時期はヤギも一頭いました。それだけいれば、さぞにぎやかだったと思うかもしれませんが、幼いころの記憶をたどると、我が家はいつもどことなく暗く、冷んやりした空気が漂っていました。

 みなで食卓を囲んでも、大人たちの会話はほぼなし。でもそれぞれは決して無口ではなく、対面で話せば、むしろ饒舌。そういう家族から、わたしはいろんな話を聞いて大きくなりました。                

                                               *

 祖父からは、近衛兵だったという自慢話や、満州出兵時に兵隊仲間で歌った「誰か故郷を想わざる」の話など(おかげでわたしは、そらで歌える)。祖母からは、祖父に対するグチを(祖母は、結婚した実姉が水害に巻き込まれて亡くなったため、後添えとして祖父・指田に嫁いだ。7人の子をもうけるも、戦争中2人が病死)。また父からは、戦争前後の少年時代、6人の妹の子守と農作業の手伝いに明け暮れ、高校に行かせてもらえなかった親への不満や、焦がれた「アメリカのおじいさん(移民)」の話を。母からは、戦後に結核で亡くなった姉の思い出や、農家の嫁の苦労話など(ほぼ嫁姑問題)。

  今でこそ、幼子にそんな話をしてどうするの? と思いますが、当時の小さな「和(かず)ちゃん」が感じ取ったのは、(細かいことはさておき)「みんな、なんだかいろんなことがあってたいへんだったんだなあ」ということと、「おとなって、どうしてなかよくおはなしできないのかな?」という擬問でした。

 ギュッと端折りますが、そんなわけで実体験はないものの、「戦争」や「人の生き死に」の話は、いつもわたしの身近にありました。そして振り返れば、これまでわたしが不思議と惹かれて取材し、本にしてきたのは戦争や災害のことばかり。まさに、三つ子の魂百まで......。               *  さて、わたしはこの8月5〜9日を広島で過ごしてきました。6日の平和記念式典はテレビ中継でしっかりみて祈りを捧げ、その後は小さな船やフェリーで近くの島々に渡り、ひたすら歩いてきました。どの島にものこる戦争や原爆の爪痕。平和公園や原爆慰霊碑はもちろんだいじな場所ですが、こういう島やふとした街角の慰霊碑などに目や足を向けることで、改めて見えてくることがたくさんあります。(国のリーダーたちには、式典参加だけでなく各地の慰霊碑や島巡り行脚こそしてほしい)

 同時に思ったのは、戦争にかかわらず、災害や事故や公害など様々な理由でいのちが犠牲になり、慰霊と反省を込めて設けられた場や碑などが、この日本にどれだけあることか、また今もつくられ続けているか......ということ。

 「いのちと心が心底から大事にされていると感じられる時・暮らし」、そして「思うことを自由に話すことができる環境」。あれからかれこれ50年、縦横だいぶ大きくなった和ちゃんの思う平和です。

 みなさんが思う平和って? いっしょに考えていければ幸いです。                                

info)・「国際シンポジウム2020 核兵器廃絶への道 〜世界の危機に歩みを止めない〜」(8/1 発信地:長崎)youtubeノーカット版 https://www.youtube.com/watch?v=TnbN4_hGiJA 当日オンライン視聴しました。深い内容でした。第一部では、ゴルバチョフ元ソ連大統領のメッセージもあります。また第二部の被爆地(ヒロシマ&ナガサキ)で生きる若者たちのディスカッションは、足元を見つめた未来に続く力強い言葉に、勇気をもらいました(8/6朝日新聞の記事でも紹介) 少し長いですが、一見の価値ありです。

2020/08/15

りんごの歌-------- 自己紹介に代えて

初めまして、小手鞠るいと申します。

敗戦から11年後、日本が国際連合に加盟した年(1956年)に岡山県で生まれました。「もはや戦後ではない」「一億総白痴」という言葉が流行り、売春防止法の公布された年でもあります。70年代、学生運動の名残をとどめていた同志社大学に入学。卒業後は会社員、学習塾の講師などを経て上京し、雑誌のフリーライターとして働いたのち、1992年に渡米。それ以降、現在までニューヨーク州(りんごの名産地)で暮らしています。

実は8月6日は私たちの「渡米記念日」です。これは、まったくの偶然に過ぎません。飛行機のチケットを取った夫(アメリカ人です)が、なぜか、8月6日に到着する便を選んでいたのです。彼も特に原爆記念日を意識していたわけではなかったようです。

そして今、私たち夫婦の暮らしている村の名は、ウッドストック。1969年、ヴェトナム戦争に反対する若者たち約40万人が集結したロックフェスで知られている土地です。

原爆記念日にアメリカに移住し、ラブ&ピースの象徴とも言えるウッドストックで暮らしているわけですが、私は、平和活動家でもなければ、戦争反対運動家でもありません。大学時代も、社会人になってからも、反戦思想はもちろんのこと、なんの思想も抱かず、ただのほほんと生きてきました。私にとって「平和は当たり前」で「空気のようなもの」だったのです。両親は生まれたときから15歳まで、太平洋戦争を生きてきた人たちでしたが、私は両親の話に耳を傾けようともしないまま成長しました。

小説家として、戦争というテーマに興味を抱くようになったきっかけは、2012年から書き始めた『アップルソング』という作品です。この作品を書くために私は、生まれて初めて、みずから「戦争について知ろう」としたのです。56歳のときでした。つまり56歳になるまで私は、戦争について考えることも、世界平和に思いを馳せることもなかった。

こんな私に「子どもと平和の委員会」の委員を務める資格があるのでしょうか?(笑)

『アップルソング』は、敗戦直前の空襲の瓦礫の中から救い出された赤ん坊が10歳になったとき渡米し、幾多の困難をくぐり抜けて、アメリカで道を切り拓いていく物語です。この作品を書くためには、少女の将来の職業を決めなくてはなりません。何がいいかな? ブロードウェイでダンサー? ミュージシャン? オペラ歌手? 絵描き? ふっと浮かんできたのが戦争報道写真家でした。なぜ浮かんできたのか。それは、私がかねてから戦争映画のファンだったからです。

戦争はいけない、絶対にいけないと思っているのに、戦争映画を観るのがやたらに好きでした(今も好きです)。理由はわかりません。いまだに、わかりません。なぜ、爆撃で大勢の人が亡くなったり、激しい戦闘シーンで兵士が傷ついたりする場面を観るのが好きなのか。フィクションとしての戦争に興奮する、ということでしょうか。戦争というフィクションを通して、人々の苦悩や苦痛を「観る」ことに激しく惹かれる、ということかもしれません。

そんなわけで、少女を戦争報道写真家にさせて戦場へ行かせれば、私の好きなように戦闘場面を創作できる、これだけ戦争映画をたくさん観てきたのだから、簡単に書けるはずだ、と、私は考えたのです。この考えは、正しかった。戦場を「書く」ことに、私は夢中になりました。『アップルソング』はこうして完成し、多くの読者の共感を得ることができました。それまではずっと恋愛小説でやってきたので、驚いてくれた人もたくさん。

この作品をきっかけにして私は、映画だけではなくて、戦争文学、戦争の歴史に興味を抱くようになり、書くことにも調べることにものめり込み、そうしていつしか、子どもたちのための「戦争と平和のお話」を書くようになりました。

『アップルソング』は私にとって、私という物書きにとって、記念碑的な作品であったと思います。手のひらの中の一個の赤いりんご。ここから、すべてが始まりました。

2020/08/06

広島より 平和へのメッセージ

こんにちは。

くぼひできです。広島市のどまんなか在住です。

  このたび「子どもと平和の委員会」委員をおおせつかりました。

 この5年ほど絶不調で、いろいろと不義理をしていたのですが、今年になってちょっと浮上してきました。

 手はじめのおしごとが「子どもと平和」というのは、なんだかとてもすがすがしくていいですね。

 ブログのお題で「75年めの広島の様子をレポート」というのをいただきました。

 広島といえばヒロシマ。原爆を最初に落とされた街として有名です。ところが知らない人もちかごろ増えてきたそうです。

 広島以外の都道府県では「慰霊祭」も放映しなくなって、ますます知らない人が増えていくのかなと危惧しています。

 その慰霊祭。

 大きなものは広島市主催のものですが、ちいさな慰霊祭があちこちでおこなわれます。

 しかし今年はコロナウイルス禍の影響もあって、中止や規模縮小となりました。こんなことは初めてです。

 8月6日はほとんど雨が降らないのですが(統計的に雨の降らないことが原爆投下の基礎条件だったそうです。被害の様子を上空から撮影するために)、そんなときでもずっと開かれていました。

 この20年、慰霊祭で車椅子を見かけることがふえました。多くはあの75年前を生き抜いた方です。ずいぶん高齢化がすすんで、当時を知っている人は減ってきました。

 記憶をどう遺していくかが、目下の課題となっております。

 昨年と今年は、この75年にあわせていろいろな取りくみがおこなわれています。

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1)NHK広島で、若い人たちにひろく知ってもらうためにTwitterと連動した企画をやっています。 https://hiroshimaforpeace.com/hiroshima75/other75/nhk/ 「#ひろしまタイムライン 3つのツイッターアカウントで3人の日記を毎日配信中!」 "

「もし75年前にSNSがあったら?」と仮定して、若い世代に「戦争」「原爆」をより広く伝える試みを始めました。原爆が投下された1945(昭和20)年に実際に広島で書かれた3冊の日記をもとに、75年前の日々をNHKの3つのツイッターアカウントで毎日発信。日記の日付にあわせて春から投稿を始め、原爆が投下された8月6日を経て年末まで。"

 詳細は中身をみていただくとして、タイムラインを追うことで当時の様子を知るという試みはこの企画だけではないようです。

 3つのアカウントのうちのひとつ大佐古一郎さん(当時33歳)は広島の地元新聞・中国新聞社の記者で、その日記は中公新書にも収められています(『広島昭和二十年』)。

 これらの様子が番組化されます。8月7日(金)午後7時半から。 https://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=400&date=2020-08-07&ch=21&eid=35742&f=etc 「1945ひろしまタイムライン夏 もし75年前にSNSがあったら」

※余談ですが、わたしが今住んでるところは、原爆投下地点から1kmもないところ。大家さんは住んでいる地域にまつわる歴史を研究なさっておいでです。

 このNHKの企画への協力もされており、大佐古さんの日記の一部にある過誤も発見されておられました。大家さん恐るべし。月に一度お家賃を渡すときにお話をうかがっております。

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2)被爆建物の老朽化にともなって様々な動きが出ています。それらのなかから広島旧陸軍服支廠(ししょう)をめぐる動きをおつたえます。

 この建物は思いいれがあります。わたしの母校、広島皆実高校のとなりにあって、通っていた当時は日通の倉庫として使われていました。

 もともとはその名の通り、陸軍で使う服を作っていました。学徒動員でこの場に駆り出された多くの女学生が軍服や慰問袋などを縫製していた場所です。

 レンガ造りの外観は当時の様子をとどめています。

 爆心地から約3kmの位置であったにもかかわらず、爆風で鉄の窓が歪みました。その窓もまだ残っています。

 この建物は建物としても丈夫だったので、原爆投下後も救護所として使われ、その後も広島大学の寮として使われたり、企業が倉庫として使ったりしていました。

 その解体案が昨年末に、広島県から提出されました。管理する広島県から、3棟あるうちの1棟のみを保存とし残りは解体するという案が示されたのです。

 これをきっかけに存続運動が起こり、現在も議論の最中にあります(案はいったん収められました)。

 詳細は8月1日に放送のあった「テレメンタリー2020」で特集があったのですが、放映後なので記事へのリンクを貼っておきます。 https://news.yahoo.co.jp/articles/275afefe4fb3d81f4cbdec11e2e92d8a36873b22

 手前の話で恐縮ですが、こういうものが当たり前にそこらにありふつうの生活に入りこんでいることを念頭において、『カンナ道のむこうへ』の重要なシーンが組まれています(宣伝?)。

 まさしくこの被服支廠がでてきています。このレンガの建物に沿って町の人が植えていたカンナの花道がでてくるのですね。そこが主人公にとってかけがえのない場となっています(現在は植裁が禁止され不格好な黒布で覆われてて残念です)。

 原爆ドームをはじめとし、広島は被爆建物をのこすようにしています。いわゆる負の遺産をのこすことで、惨状を後世に知らしめていこうという目的です。

 被爆建物の周囲をあたりまえにゆく子どもたち。学校に通ったり、買い物に出かけたり、友だちと追いかけっこをしたり。

 ほんとうに何気ないところに原爆遺構がのこっています。子どもたちはここを見ながら育ってきて、日常にすぎてふだんは意識しない場所でもあります。

 戦争は特別にあった過去のできごとではない。いつまた起こるかわからない。自分が加害者になるかもしれない、被害者になるかもしれない、そのことを体感する場所として、できるかぎりの保存をめざしていきたいと思います。

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75年という月日は、世代交代というには長い時間が経過しているように思います。しかし、あのときと今をつなげる試みは今年も多くあり、ここで書ききれないほどです。

 広島のことばかり語りましたが、その後8月9日の長崎があり、翌年7月にはビキニ環礁における実験クロスロード作戦の2度の実験が続きます。

 祖父も祖母も被爆、父が入市被爆、母が胎内被爆の原爆2世としては、やはり他人事ではない。

 核への野望は現在もとどまるところがありません。子どもをはじめとする人々の生活において、少なくとも原子力やそれに類する武力は本当に不要のものです。

 その熱意と経済を、暮らしにまわしてほしい。とどこおりなく過ごしていける平和をこそ望みます。

 長くなりました。

 広島より平和へのメッセージです。

2020/08/05

2020/2021年度「子どもと平和の委員会」始動!

ご挨拶

みなさま、この度、「子どもと平和の委員会」の委員長になりました西山利佳です。

10年ほど前、『日本児童文学』の編集長を務めていた頃、編集長ブログを書いていたのですが、やり方をすっかり忘れてしまっていました。

さて、2020・2021年度の委員はコチラのみなさまです。

 川満昭広さん(沖縄在住、月末に東京へ移られるとのこと)

 くぼひできさん(広島在住)

 小手鞠るいさん(ニューヨーク在住)

 指田和さん(埼玉在住)

 濱野京子さん(埼玉在住)

西山も埼玉在住です。(埼玉率の高いメンバーですが、そこには意味はありませんので、気になさらないでください。)

 とりあえず、児文協のHP内の委員会ブログに、それぞれ書いた記事をアップしていくことを活動の中心にしたいと思っています。1巡目は自己紹介も兼ねた記事となります。

 今後よろしくお願いします!

2020/08/05

勉強会のお知らせ

道徳教科化以後  ~教育の現場で~
 
 
今の子どもたちは学校で、何をどんなふうに学び、どう受け止めているの? 
私たちの時代とは随分と様変わりしている? それとも、実は大して違わない? 
児童文学に携わる上で気にせずにはいられないこういった問いに、今回は、2018年度に教科化した道徳に関する話題を中心に、児童文学を愛する現役小学校教諭2名の方をお招きしてお話を伺います。
 
※是非、事前に質問内容をお寄せください。 
 ・こんなことを聞きたい! 知りたい! みんなで話し合いたい!

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日時  2019年7月28日(日)
     13:30~16:00(開場13:10)                                                            
会場  日本児童教育専門学校 
     (JR高田馬場駅より徒歩3分)
参加費 500円(資料代/当日精算)
 
お申込・お問合せ先 日本児童文学者協会事務局

TEL 03-3268-0691 FAX 03-3268-0692
E-mail zb@jibunkyo.or.jp

 

主催  子どもと平和の委員会 勉強会

 

 

2019/05/31

春の学習会報告 2017年3月20日 「ことばはどう抑えこまれていくのか」

「ことばはどう抑えこまれていくのか」
 
平和であってこその子どもの本に関わる、日本児童文学者協会子どもと平和の委員会、子どもの本・九条の会学習係が共催して、今なにができるかを考える時間だった。大津市、長野などから、それぞれ課題を持った総勢120名の参加。
講演は「児童文学と教科書をめぐって」と題して藤田のぼるさん。詳細な資料を配られての、1980年代の初頭の自民党などによる小学校国語教科書「偏向」攻撃をめぐっての経緯と内容。「かさこじぞう」は貧乏物語でしいたげられた民衆の暮らしを描いているから。「おおきなかぶ」は日本ではなくロシアの民話で団結を学ばせるから。そんな理由で差し替えが検討された。が、著者や市民などの大きなうねりの抗議運動で撤回される。
藤田さんは団結した成果をのべながら、そのあと古田足日が「この攻撃はことばと心に対する攻撃だ」として、ことばと心が育つ作品を生み出すことで今後攻撃が起きても跳ね返せると、子どもが本を読む意味を考え続けたと紹介した。
過去のことではなく、現在、道徳が教科化され、書き直し、あらすじだけの大幅なカットなど今後作品へ介入への問題点を提示した。{道徳初検定、パン屋が和菓子屋に}
30分の短い時間をとり、会場に展示されている「戦争と平和を考える本」を手にとってもらったあと、シンポジウム「子どもの本の可能性」。
広瀬恒子さん、絵本「かわいそうなぞう」から。空襲がない時期にゾウは殺処分されており、心情に訴えるだけでない、非人間性、しくみをも伝える作品をと。子どもとどう共有できるかが問われるが、今いやなことはいやと自由に書ける状況であってほしいとの思いが、響いた。
和歌山静子さんは日中韓でとりくんだ絵本をそれぞれの国で翻訳するという、画期的な取り組みを、写真を見せながら語る。それぞれの国の事情に縛られたり納得のいかないことを率直に指摘し合うなどじかんをかけて11冊刊行。二つの国で出版されていない現状もあると伝える。
きどのりこさんは、これまで収集してきた「戦争と平和を考える本
は、戦争による死を美化したもの、誤った戦争認識のもの、名作と言われるものでも加害の視点のなどは除外していると、厳しい評価も見せる。{文責 一色悦子}
2017/04/19

2017.3.20春の学習会

2016/12/23

『かわいそうなぞう』は“ノンフィクション絵本”ではなかった ~「こどもの本・九条の会」学習会報告~

(子どもと平和の委員会)
『かわいそうなぞう』は“ノンフィクション絵本”ではなかった
~「こどもの本・九条の会」学習会報告~
 
3月21日、「こどもの本・九条の会」主催の学習会に参加した。
“なぜ『かわいそうなぞう』が問題なのか?~今、戦争児童文学を問い直す~”と題して、児童文学評論家・研究家の長谷川潮さんによる講演だった。40人ほどの規模だったが、児文協の会員をはじめ読書運動の方や紙芝居関係、図書館司書、出版社など幅広い方が参加され、密度の濃い充実したひとときとなった。
 講演に先立ち、主催者あいさつに立ったきどのりこさんは、出版フォーラムの集会で、登壇した青年が、子どもの頃『かわいそうなぞう』に感動して戦争反対の気持ちが育ったと発言したことが、今回の学習会のきっかけになったと説明した。きどさんは、「この本に多くの問題 が含まれていることを知らない人が多い。今日は、早くからこの本の問題点を指摘してきた長谷川潮さんにお話をうかがい、戦争児童文学の全体的な問題についても語り合いたい」と話された。
 長谷川さんは、ご自身で調査・収集された資料から、国内の空襲年表や上野動物園の歩み、『かわいそうなぞう』発行から普及の足跡などの年代を対比しながら解説され、次の3つの問題点をあげられた。
①空襲がひどくなったので動物たちを処分した、と書かれているが、上野動物園で猛獣が殺害された1943年(昭和18)は国内に空襲はない。
②だれがどういう判断で殺処分などという残酷なことを命じたのかが不明。
③ 空襲で動物が暴れ出して民衆に被害を与えるから危険、というが、戦時中にそういう理由だけで動物を処分するのか。もっと他の理由があるのではないか。
資料としてあげられた空襲年表によると、猛獣の殺害が実行された1943年には日本国内への空襲は全くなく、翌年6月から北九州、佐世保などが空襲されている。東京への空襲が繰り返されるのはこの年11月24日からだ。それから翌45年元日までは、毎日のように東京空襲が繰り返される。1月は3度の空襲ですんだものの、2月16日からはまた連日のように空襲があり、3月10日の東京大空襲に続いていく。年表と照らして見ると、まるで、それを予知していたかのような殺処分ということがうなずける。
ノンフィクション絵本と謳いながら、でたらめで意図的に作り上げられたシナリオ。国策で動物を殺し、「かわいそう」と子どもの感性に訴えることで子どもの戦意高揚を図ったことも考えられる。この絵本はその後必読図書に選定され、教科書に掲載され、マスコミでももてはやされてベストセラーになっていった。
秘密保護法や安保関連法が成立し、あっという間に施行されている。目に見えない大きな力で感動が作り上げられ、作品や作家が利用されていったかつての事実が、また繰り返されないとも限らない。空恐ろしさを感じるとともに、真剣に、慎重に向き合いたいと、気持ちを新たにした。(茂木ちあき)
 
2016/04/02