子どもと平和の委員会

小さな和ちゃんと平和

 残暑お見舞い 申し上げます、指田 和です。    

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 わたしは、今や40℃超えの猛暑で有名な、埼玉県の熊谷近くで生まれ育ちました。 

  家は代々続く農家で、祖父母、両親、兄、わたし、妹の3人きょうだい、計7人家族。イヌ、ネコニワトリに、一時期はヤギも一頭いました。それだけいれば、さぞにぎやかだったと思うかもしれませんが、幼いころの記憶をたどると、我が家はいつもどことなく暗く、冷んやりした空気が漂っていました。

 みなで食卓を囲んでも、大人たちの会話はほぼなし。でもそれぞれは決して無口ではなく、対面で話せば、むしろ饒舌。そういう家族から、わたしはいろんな話を聞いて大きくなりました。                

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 祖父からは、近衛兵だったという自慢話や、満州出兵時に兵隊仲間で歌った「誰か故郷を想わざる」の話など(おかげでわたしは、そらで歌える)。祖母からは、祖父に対するグチを(祖母は、結婚した実姉が水害に巻き込まれて亡くなったため、後添えとして祖父・指田に嫁いだ。7人の子をもうけるも、戦争中2人が病死)。また父からは、戦争前後の少年時代、6人の妹の子守と農作業の手伝いに明け暮れ、高校に行かせてもらえなかった親への不満や、焦がれた「アメリカのおじいさん(移民)」の話を。母からは、戦後に結核で亡くなった姉の思い出や、農家の嫁の苦労話など(ほぼ嫁姑問題)。

  今でこそ、幼子にそんな話をしてどうするの? と思いますが、当時の小さな「和(かず)ちゃん」が感じ取ったのは、(細かいことはさておき)「みんな、なんだかいろんなことがあってたいへんだったんだなあ」ということと、「おとなって、どうしてなかよくおはなしできないのかな?」という擬問でした。

 ギュッと端折りますが、そんなわけで実体験はないものの、「戦争」や「人の生き死に」の話は、いつもわたしの身近にありました。そして振り返れば、これまでわたしが不思議と惹かれて取材し、本にしてきたのは戦争や災害のことばかり。まさに、三つ子の魂百まで......。               *  さて、わたしはこの8月5〜9日を広島で過ごしてきました。6日の平和記念式典はテレビ中継でしっかりみて祈りを捧げ、その後は小さな船やフェリーで近くの島々に渡り、ひたすら歩いてきました。どの島にものこる戦争や原爆の爪痕。平和公園や原爆慰霊碑はもちろんだいじな場所ですが、こういう島やふとした街角の慰霊碑などに目や足を向けることで、改めて見えてくることがたくさんあります。(国のリーダーたちには、式典参加だけでなく各地の慰霊碑や島巡り行脚こそしてほしい)

 同時に思ったのは、戦争にかかわらず、災害や事故や公害など様々な理由でいのちが犠牲になり、慰霊と反省を込めて設けられた場や碑などが、この日本にどれだけあることか、また今もつくられ続けているか......ということ。

 「いのちと心が心底から大事にされていると感じられる時・暮らし」、そして「思うことを自由に話すことができる環境」。あれからかれこれ50年、縦横だいぶ大きくなった和ちゃんの思う平和です。

 みなさんが思う平和って? いっしょに考えていければ幸いです。                                

info)・「国際シンポジウム2020 核兵器廃絶への道 〜世界の危機に歩みを止めない〜」(8/1 発信地:長崎)youtubeノーカット版 https://www.youtube.com/watch?v=TnbN4_hGiJA 当日オンライン視聴しました。深い内容でした。第一部では、ゴルバチョフ元ソ連大統領のメッセージもあります。また第二部の被爆地(ヒロシマ&ナガサキ)で生きる若者たちのディスカッションは、足元を見つめた未来に続く力強い言葉に、勇気をもらいました(8/6朝日新聞の記事でも紹介) 少し長いですが、一見の価値ありです。

2020/08/15