子どもと平和の委員会

ウクライナ侵攻を聞いてとりとめもなく考えたこと(濱野京子)

ロシアによるウクライナ侵攻の報道を見聞きしながら、2003年のことを思い起こしていました。アメリカがイラク攻撃を開始した3月20日よりも前に、世界各地で攻撃反対のデモが起こったあの年は、幾度となく集会に足を運び、公道をねり歩いたものでした。

あの頃と今と何が変わったか……明らかな違いとしてまず私が思い浮かべるのは、当時はSNSが現在のように普及していなかったこと、そして、今回の攻撃がコロナパンデミック下の出来事であることでしょうか。

此度の攻撃に関しても、情報入手の手段として、ツイッターが大きな役割をしています。そうした「新しさ」が担うことには良い面もあるのでしょうが、だれもが発信できるツイッター空間にはフェイクも多く飛び交い、また、反戦を唱えることへの冷笑や揚げ足取り、はては暴力的な言辞を目にすることも少なくありません。他者の傷みに鈍感だったり分断を加速させるだけの言説にげんなりしてしまうのも確かです。

 パンデミック下での戦争というと、戦争が感染を広めたとされる第一次世界大戦とスペイン風邪を連想します。スペインが発祥ではないのに、スペイン風邪と呼ばれるようになったのは、中立国であっために感染を秘匿しなかったためだそうですが、それはさておき、新型のウイルスは環境問題との指摘もあります。COVID-19を、直ちに気候変動に結びつけるには無理がありましょう。しかしながら、目下世界が抱える気候危機は待ったなし。本当に戦争なんかしている場合ではありません。自国の優位性などを気にしている状況にもないはずです。けれどもそれも、現在進行形の出来事に鑑みれば、建前の言葉でしかないのかもしれません。なぜならば、この瞬間にも、命からがら逃げなければいけない人がいます。理不尽な攻撃で命を落とす人もいます。また、心ならずも他者の命を奪ってしまう人もいます。それが、私たちが目下直面していることなのです。

 ロシアは日本にとって隣国です。私はいわゆる自由主義陣営の「正義」を諸手を挙げて支持はしませんが、権威主義国家として力をつけてきたもう一つの隣国である中国の今後も気がかりではあります。

 今、言うべきことは「即時停戦を求める」に尽きるわけですが、ではそのために何が有効なのか。経済制裁はどこまで効果があるのか(国際政治で使われる制裁という言葉には違和感を抱いています。「制裁」という言葉が向けられない国とそうでない国があるのはなぜ?)、私にはわかりません。

人はなぜ争うのか。最終的にはだれにも利のない戦争などやめて、なぜ、平和に心安らかに生きられないのか。争うのが人の本質というとらえ方は悲しいしつらいのだけれど、どこかでそうなのかもしれないと思ってしまうほどに、人類は争いを繰り返してきました。そのことにこそ、絶望的になります。またしても、環境のことが頭をもたげます。人類はどれほどエゴイスティックな振る舞いを繰り返してきたのでしょうか。他の生き物のためには人間が存在しない方がいい、というのが正しい判断なのでは、との念を禁じ得ません。とはいえ、人として生きていく以上、人間の命を守ることを柱に据えて生きていかざるを得ないとも思います。

こうして、結局は、人権という理念に立ち返ることになります。言うまでもなく、戦争は最大の人権侵害です。迂遠なようでも、お花畑と揶揄されようとも、そこに向けて、歩いていくしかないのです。闘いという言葉は好きではありませんが、自分自身の虚無と闘い続けること、言挙げする手段がある以上、言葉を発し続けること。そんなことをつらつら思う日々です。

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昨秋、児文協の公開研究会で、講演をしてくださったフォト・ジャーナリストの安田菜津紀さんが、2月26日にこんなツイートをしています。

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ロシア軍がシリアで無差別な空爆を繰り返し、凄惨な事態を引き起こしているときに、どれほど世界は関心を払ってきたのか、とシリアから逃れた人から声が届く。

「自分たちを本当に苦しめてきたのは、世界から無視されていることなんです」と切実に語ってくれた方の顔が思い出される。そのこともまた、考えておかねばならないことです。私たちは何に反応し、何を見ようとしてこなかったか。

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報道のされ方にも深く関わることですが、それ以前に、私たちはどこかで事柄の軽重を手前勝手に判断し選別していないか、頭の片隅においておきたい視点です。(2022.3.2)

2022/03/03