平和について語るときに私の語ること(その2) 小手鞠るい
広島と長崎に落とされた原爆の是非について、公開討論会で意見を戦わせるアメリカの高校生たちを描いた『ある晴れた夏の朝』(偕成社、2018年刊)の英語版の出版に向けて、着々と準備を進めています。この作品の英語版を出すことは私の悲願のようなものだったので、出版が決まって、とても嬉しく思っています。
先に「英訳版」ではなくて「英語版」と書いたことには、理由があります。それは、もしも逐語訳版を出版したら、日本国内では問題にならないことでも、アメリカでは問題になるかもしれない、というようなことを私が書いているからです。実は、作品を書いているときにも、私は「アメリカの読者」を少しは意識していました(アメリカ国内が舞台になっている物語なので)。意識はしていましたが、その意識がまだまだ足りなかったということです。
たとえば、アフリカ系アメリカ人の登場人物に、私は「ダリウス」という名前を付けました。なぜダリウスにしたのかというと、実際にアフリカ系アメリカ人で、ダリウスという名前の人を知っていたからです(カントリーソングの歌手)。実際にそういう名前の人がいるから間違いないだろうと思って付けました。アフリカ系の人の中には、わりとユニークな名前の人も多いので、そういう雰囲気も出るといいのかなと思ったのです。
しかし、英訳を担当してくれることになった夫(アメリカ人です)から、さっそく指摘されました。「この名前はまずい。もっと匿名性のある名前にしなくてはならない」。つまり、私がアフリカ系アメリカ人に「いかにもアフリカ系らしい名前を付けている」ということがある種の人種差別に当たる、というわけです。
また、ノーマンの愛称が「スノーマン」である、というのもよくない。なぜなら、スノーマン(雪男)は肌が白くて太っている。もしもノーマン(白人です)の体格が太めなのであれば、それは明らかに差別的な愛称であるということになる。 これ以外にも、細かいところで、差別コードに引っかかる箇所が多々ありました。アメリカでは、本人が本人の人種に言及するのは問題ありませんが、本人以外の人がその人の人種を口にしたり、話題にしたりすることは厳禁です。たとえば、本作の主人公のメイが「エイミーはチャイニーズ系アメリカ人です」と発言してはいけない。
アメリカ人は総じて、ファミリーネームによってある程度、人種や出身国はわかるようになっています。たとえば私の夫の苗字は「サリバン」ですから、彼はアイルランド系であると、誰にでもわかります。しかし、夫の父親の母親はユダヤ系なので、夫はアイリッシュ&ジューイッシュ系なのです。だから、何も知らない人が夫をアイルランド系だと思って、うっかりユダヤ系の悪口を言ったりすると、大変なことが起こります。
どんな人種も平等に尊重されなくてはならない。人種はその人のかけがえのない個性である。しかし、その人種をステレオタイプに描いてはいけない。もちろん人種だけではなくて、性別についても、家族構成についても、同じことが言えます。アメリカの児童書業界では、編集者も、作家も、このことを頭に叩きこんで作品作りに励んでいます。少なくとも私の目には、そのように映っています。
私自身、日本語で日本人向けの児童書を書いているときに、日本人以外の人種の子どもたちをどれくらい意識しているでしょうか。正直なところ、これまではほとんど意識していなかった。日本国内には「在日韓国人」と呼ばれている(この呼び名、本当におかしいと私は思います)日本人、外国人と日本人の両親のもとに生まれた日本人(ハーフという呼び名、今もあるのでしょうか)、日本国籍を取得した元外国人である日本人とその子どもたちも住んでいる--------にもかかわらず。これは私自身の大きな反省点でした。あるいは盲点だったと言ってもいいかもしれません。
そんなこんなで、『ある晴れた夏の朝』は、アメリカ人読者が読んでも違和感のない英語版に生まれ変わりつつあります。この作品が広く英米圏で読まれて、日本への原爆投下に対する理解をよりいっそう深め、平和について考えていただける一材料になったら、こんなに嬉しいことはありません。みなさん、『On A Bright Summer Morning』をぜひ、応援してください。