子どもと平和の委員会

りんごの歌-------- 自己紹介に代えて

初めまして、小手鞠るいと申します。

敗戦から11年後、日本が国際連合に加盟した年(1956年)に岡山県で生まれました。「もはや戦後ではない」「一億総白痴」という言葉が流行り、売春防止法の公布された年でもあります。70年代、学生運動の名残をとどめていた同志社大学に入学。卒業後は会社員、学習塾の講師などを経て上京し、雑誌のフリーライターとして働いたのち、1992年に渡米。それ以降、現在までニューヨーク州(りんごの名産地)で暮らしています。

実は8月6日は私たちの「渡米記念日」です。これは、まったくの偶然に過ぎません。飛行機のチケットを取った夫(アメリカ人です)が、なぜか、8月6日に到着する便を選んでいたのです。彼も特に原爆記念日を意識していたわけではなかったようです。

そして今、私たち夫婦の暮らしている村の名は、ウッドストック。1969年、ヴェトナム戦争に反対する若者たち約40万人が集結したロックフェスで知られている土地です。

原爆記念日にアメリカに移住し、ラブ&ピースの象徴とも言えるウッドストックで暮らしているわけですが、私は、平和活動家でもなければ、戦争反対運動家でもありません。大学時代も、社会人になってからも、反戦思想はもちろんのこと、なんの思想も抱かず、ただのほほんと生きてきました。私にとって「平和は当たり前」で「空気のようなもの」だったのです。両親は生まれたときから15歳まで、太平洋戦争を生きてきた人たちでしたが、私は両親の話に耳を傾けようともしないまま成長しました。

小説家として、戦争というテーマに興味を抱くようになったきっかけは、2012年から書き始めた『アップルソング』という作品です。この作品を書くために私は、生まれて初めて、みずから「戦争について知ろう」としたのです。56歳のときでした。つまり56歳になるまで私は、戦争について考えることも、世界平和に思いを馳せることもなかった。

こんな私に「子どもと平和の委員会」の委員を務める資格があるのでしょうか?(笑)

『アップルソング』は、敗戦直前の空襲の瓦礫の中から救い出された赤ん坊が10歳になったとき渡米し、幾多の困難をくぐり抜けて、アメリカで道を切り拓いていく物語です。この作品を書くためには、少女の将来の職業を決めなくてはなりません。何がいいかな? ブロードウェイでダンサー? ミュージシャン? オペラ歌手? 絵描き? ふっと浮かんできたのが戦争報道写真家でした。なぜ浮かんできたのか。それは、私がかねてから戦争映画のファンだったからです。

戦争はいけない、絶対にいけないと思っているのに、戦争映画を観るのがやたらに好きでした(今も好きです)。理由はわかりません。いまだに、わかりません。なぜ、爆撃で大勢の人が亡くなったり、激しい戦闘シーンで兵士が傷ついたりする場面を観るのが好きなのか。フィクションとしての戦争に興奮する、ということでしょうか。戦争というフィクションを通して、人々の苦悩や苦痛を「観る」ことに激しく惹かれる、ということかもしれません。

そんなわけで、少女を戦争報道写真家にさせて戦場へ行かせれば、私の好きなように戦闘場面を創作できる、これだけ戦争映画をたくさん観てきたのだから、簡単に書けるはずだ、と、私は考えたのです。この考えは、正しかった。戦場を「書く」ことに、私は夢中になりました。『アップルソング』はこうして完成し、多くの読者の共感を得ることができました。それまではずっと恋愛小説でやってきたので、驚いてくれた人もたくさん。

この作品をきっかけにして私は、映画だけではなくて、戦争文学、戦争の歴史に興味を抱くようになり、書くことにも調べることにものめり込み、そうしていつしか、子どもたちのための「戦争と平和のお話」を書くようになりました。

『アップルソング』は私にとって、私という物書きにとって、記念碑的な作品であったと思います。手のひらの中の一個の赤いりんご。ここから、すべてが始まりました。

2020/08/06