子どもと平和の委員会

安田菜津紀さんの写真展に行ってきました(濱野京子)

フォトジャーナリストとして、 貧困や災害、 難民問題を国内外で取材し、テレビやラジオのコメンテーターとしても活躍されている安田菜津紀さんの写真展「照らす 生きた証を遺すこと」を見てきました。

この写真展は、東北をはじめ日本の国内で安田さんが出会った方々の、身近な方が遺したものを「照らし」、生きた証を刻みたいとの思いで開催とのことです。 まず目をひくのは、津波に襲われた陸前高田。ひしゃげた車が津波の激しさを語っています。震災関係だけでなく、認可外保育所で亡くなった子の靴や、沖縄で遺骨収集をする方の手の中の遺骨、入管施設で亡くなったスリランカ女性の遺品など、「生きた証をのこす」が写真が展示されています。

 

実は、安田菜津紀さんは、今秋開催の児文協公開研究会で講演予定とのことです。私も今からたのしみにしています。

 

写真展は、26日まで(期間中、お休みの日もありますのでお気をつけください)。 詳しい情報はコチラ。 https://fotopus.com/showroom/index/detail/c/3208

 

うかがった時、安田さんも在郎されていて、少しだけお話もできました。比較的長く在郎されているようですので、お目にかかれるかもしれません。

2021/04/18

平和について語るときに私の語ること(その4) 小手鞠るい

戦争と環境破壊をテーマにして書いた『ぼくたちの緑の星』(童心社)が「第37回うつのみやこども賞」を受賞しました。この賞の大きな特徴は、選考委員を子どもたちが務めていることです。毎月、読んだ本の中から「友だちにすすめたい作品」を選び出し、最終的には、1年分の各自の推薦図書の中から1冊だけを選んで、賞を与えてくれるようになっています。今年は、14人の子どもたちが選考に当たってくれたそうです。

 

思うに、子どもたちはきっと、作家の名前、出版社の名前、帯の宣伝文などにはまったく左右されないで本を選んで、読んでいるのではないでしょうか。1ページだけ読んで、おもしろくなければパタンと本を閉じてしまうかもしれませんし、たとえあと10ページになっていたとしても、つまらないと思えば、あっさりと読むのをやめてしまうかもしれません。曇りのない目、色眼鏡をかけていない視点を持っている子どもたちがこの作品を最優秀賞に選定してくれたことがただただ嬉しくて、ああ、書いてよかった、と、喜びに浸っています。

 

思い返せばこの作品、出版までは苦難の道のりでした。最初の壁は、編集者から「男の子の物語を書いて欲しい」とリクエストされたこと。彼はどうしても「男の子の物語が読みたい」と言うのです。これまで私は、多くの児童書の主人公を女の子にして、書いてきました。それはやはり、書きやすいからです。自分はかつて女の子であったし、実は今もそうだから(私は親ではないので、いつまでも子ですし)。私は「女の子の視点」を永遠に持ち続けたいと思っています。女性の視点でもなく、女の視点でもなく、大人の視点でもなく、女の子の視点。言ってしまえば永遠に「女の子」でありたいのです。そんなことは不可能だと笑われようとも。

 

そんな私が男の子の視点で物語を進めていくのは、至難の技でした。できあがった作品は、果たして男の子の物語になっているのだろうか。今も疑問に思っています。もしかしたら、男の子の姿を借りた、女の子の物語なのかもしれないと思ったりもしています。

 

アメリカでは現にそうなりつつあるのですが、私は、これからは女が戦争へ行く(もしも、戦争が起こったら)時代になっていくのではないかと思っています。男は戦争を起こす、女は平和を願う、と、長年、信じられてきた性の神話は壊れつつあるのではないか、と。女には母性がある、母性とは平和を願う性である、なんて言説、こんなにも実母による幼児虐待がはびこっている昨今、手放しで信じることは到底できません。

 

だから、いつか、同じテーマで書くことになったら、私は女の子を主人公にして、戦争の物語を書いてみたいと思っています。兵士として、戦争へ行く女の子のお話を。女の子は戦場でどう戦い、戦争をどう生きるのか。だって「1本の竹槍で10人のアメリカ人を殺せ!」と国から命令され、実際にそういう訓練を受けていた、私の母のような女の子は、今からわずか70年あまり前には日本に存在していたのですから。

 

もうひとつの難しかった点は、この作品がSFであった、ということ。SF小説は読むのも書くのも苦手なのに、それでも書こうとして、苦労に苦労を重ねました。それというのも、本作の場合「最後の1行だけ」が最初から決まっていたのです。この最後の1行にたどり着くためには、SFにするしかなかった。ああ、難しかった! SFはもう二度と書きたくないし、書かないでしょう(苦笑)。

 

大いなる産みの苦しみを味わい尽くしたこの作品。子どもたちからのエールをいただき、すべての苦労が報われたような気持ちでいます。平和とは、願うものでも祈るものでもなく、アクションを起こして築いていくもの。そうして、築いた平和を守っていくことが大切。平和が崩れたら、地球環境も破壊される。戦争で死ぬのは人間だけではなくて、生き物も自然も死ぬ。これが、子どもである私がみんな(←ここには大人も含まれています)に伝えたかった「平和」です。子どもたちに受け止めてもらえて、本当に嬉しい。 (2021年4月8日)

2021/04/08

ドキュメント映画「福島は語る」Zoom上映案内 (西山)

△「緊急事態宣言解除」「第4波」「オリンピック聖火リレー」……マンボウ? はぁ? な日々、いかがお過ごしですか。

 

△広島在住、本協会会員の中澤晶子さんが下記ドキュメント映画のZoom上映会をご案内下さいました。

 

△ドキュメント映画「福島は語る」 <現在原発の被害を逃れて避難している福島県の住民は全国に7万人を超えます。 (略)この人たちの日常を追ったドキュメント映画です。 3時間と長い映画(途中休憩あり)ですがよかったらいらしてください。

日時 4月10日 開場19:30 開始20:00

視聴は事前申し込みが必要です。 配信先のメールアドレスとお名前(ニックネームでもOK) をお送りください。

お申込先は shimomachizoom@gmail.com です。>

 

△中澤さんは、ドイツで長年、脱原発と反核の運動を続けているご友人からこの案内を受け取ったそうです。「一昨年、放映館で観ましたが、3時間以上というのを感じさせない、よいものでした」とのことです。

 

△私も申し込みました。定員がありますが、ご関心のある方は申し込んでみてください。

2021/04/05

平和について語るときに私の語ること(その3) 小手鞠るい

去年の10月に書いた話の続きです。

 

『平和の女神さまへ-----平和ってなんですか?』(講談社・小学校高学年向け)が2月22日に無事、刊行の運びとなりました。どういう内容の作品なのか、これについては(その1)にわりと詳しく書きましたので、ここでは省きます。

 

この作品のジャケットのラフ画(下絵)を見て、私は、登場人物が「みんなそろって、元気で素直で明るくて健康そうな、いい子」でいいのだろうかと疑問を感じた、という話は前回に書いた通りです。そして、私からさまざまな提案をし、編集者と話し合いを重ね、イラストレーターのサトウユカさんに細かいリクエストを何度か出して……試行錯誤をくり返しながら、最終的にできあがったイラストを見て、私の心配は杞憂に終わったと実感しています。単純な言い方をあえてしますと、素晴らしいジャケットになった、と思っています。これなら、自信を持って、日本の読者に届けることができる、と。

 

素晴らしいと思える点をいくつか。

 

まず、9人全員が違った方向を見つめているところがいい。願っていることは「世界の平和」なのだから、同じ方向を見つめていてもいいわけですが、そうはなっていない。ひと口に「平和を願う」と言っても、その「平和」は決して同じではないと、私は思っています。たとえば、戦争で勝った国の人と、負けた国の人では「平和」の解釈も異なるはずです。たとえば、攻め込んだ国と、攻め込まれた国、あるいは、被爆した人の原爆観と、そうではない人のそれとが異なるのと同じでしょうか。

 

9人の髪の色や肌の色が微妙に異なっているところもいい。日本人とヴェトナム人とアラブ人の髪は黒、アメリカ人とヨーロッパ人は金髪。このようなステレオタイプから、明らかに脱却できていること。同様に、人物のファッションにもバラエティがあり、なおかつ、それが人種のステレオタイプに陥っていないこと。

 

結果的には、9人の人種や生まれ育った国がなんとはなしにわかるようで、はっきりとはわからなくて、現代の子か、過去の子かも曖昧になっていて「そこがいい」と、私は思いました。めがねの子、ちょっとぽっちゃりした子も、もちろん入っています。ラフではそれが「みんな同じ」に見えていたけれど、それはあくまでもラフだったからなのです。

 

また、9人の表情が3人(笑顔ではないが、厳しいわけでもない)を除いて「きらきら笑顔」というのもいい。なぜなら、9人がみんな泣きそうな顔をしていたら、誰もこの本に手を伸ばさなくなるだろうから。「児童書で戦争の話を書いた」と私が言うと、知人・友人の大半は「重い、暗い、悲惨なお話は読みたくないし、子どもにも読ませたくない」と言います。もちろん、戦争の話は、決して軽くもなければ、底抜けに明るくもないはずだし、そもそも、悲惨なできごとの起こらない戦争なんて、ないわけです。それでも、戦争についての物語を書いて、子どもたちに読んでもらうためには、ジャケットを見ただけで、親にも子にも尻込みをさせてしまうような暗い絵ではなくて「こんなにもきらきらした笑顔の子どもたちが戦争について語っているのなら、ひとつ、話を聞いてみようか」と、思わせなくてはならない。これは教科書ではなくて、商品なのだから。

 

そして、あともうひとつ。9人の子どもたちが虹の上に立っていたり、座っていたりする、この「虹」がいい。そう、LGBTの象徴として知られているレインボウ・フラッグがさりげなく出ているところが素晴らしい(この「虹」は、私からのリクエストではありません)。

 

サトウユカさん、お疲れ様でした! と言いたくなりました。うるさい私からのリクエストにしっかりと、でもご自身の絵のスタイルと美学を壊すことなく、本文中の挿絵も含めて、丁寧に、真摯に描いてくださいました。

 

そうそう、こんなエピソードもありました。ジャケット裏の絵。そこには「自由の女神」を見学しているアメリカ人の家族の絵が描かれています。両親とふたりの娘。父親はイラク戦争に派遣されることになった軍人です。

 

この軍人は、アフリカ系なのか、非アフリカ系なのか、物語の中では、私は特定していません。上がってきた絵は非アフリカ系、つまり、白人系でしたが、それはそれで問題ないと思いました(アメリカ国内で出す児童書においては、アフリカ系がひとりも入っていないと、もうそれだけで大問題ですが、これは一応、日本国内で出る、日本語で書かれた本ですので)。

 

ただ、できあがってきた絵の「軍人である、アメリカ人の父親」がなんとはなしに、いかにも日本人男性っぽく、しかも、会社員風(しかも、堅い会社?)に見えてしまったのです。私の目には、ということです。

 

それで急きょ、すでにできあがっていた絵なのに、ふたたび手直しをしていただきました。そのとき私は「これがアメリカン・ダディだ」と思えるような写真を探し出して、編集者に送ったのですが、その写真というのが……がっしりとした体格、カウボーイハットをかぶり、ジーンズ姿の、髭もじゃの男の写真だったのです!

 

何が言いたいのかと言いますと、私自身の内面には、そのような偏見というか、ステレオタイプ像が存在しているのだ、ということ。つまり、アメリカン・ダディとは、家族を守る強い男、知的で優しい男性ではなくて、むしろ、肉体労働や大工仕事などを得意とする、たくましい、荒々しい男。「俺に付いてこい!」タイプ。そういう偏見です。軍人は、ひ弱な男であってはならない、というステレオタイプかもしれません(もちろん、軍人には、そういう「たくましい女性」がいるべき、とも思っています。これもやっぱり偏見かな?)。

 

サトウさんは、このような私からの理不尽なリクエストに、非常にうまく応えてくださっています。みなさま、ぜひ、実物をご覧ください。ジャケット表・裏・本文の挿絵、すべてをお見逃しなく!(今回は、かなり気合いを入れて、自著の宣伝をしました。ご容赦を)。

2021/02/11

〈子どもの本・九条の会〉学習会(2月21日)のご案内  西山

子どもと平和に関わる情報連携担当「子どもと平和の委員会」イインチョー西山です。

去年の今頃はまだ、covid-19は遠い話しでしたね。

こんなに自然に(?)、異常な日常に入れるんだ……ときどき、戦争が始まったときもこうだったのだろうかと思ったりしています。

 

さて、今日は以下のイベントのご案内です。 会場が遠くても参加できる利点を活かして、全国各地からご参加いただけたら嬉しゅうございます。どうぞよろしくお願いします。

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2021年 春の学習会 蓮岡修氏の講演「絵本でひろがる、いのちのありかた」

 

2021年2月21日(日) 14:00〜16:00 オンライン

◇定員: 100名(Zoomによるリアルタイム配信)

◇参加費: 1000円

◇申込み先: kodomonohon9jou@gmail.com

◇支払い方法:振込(参加受付け後に振り込み先をお知らせします)

 

講師 蓮岡 修 氏

1973年島根県生まれ 真宗大谷派僧侶 大谷大学在学中よりアフガニスタン・ユーゴスラビアでの取材活動を行う。 1999年より中村哲が代表のペシャワール会でアフガニスタンでの水源確保事業に参加合計4年滞在。他団体でスリランカ・ベトナムでの難民支援・医療支援事業に参加。2008年より子どもの本専門店「きんだあらんど」を引き継ぐ。阪急梅田で開催『絵本パーク』2016、2017の会場全ての選書、解説を担当。京都市の子育て支援つどいの広場事業「どんぐり広場」「かしの木」の代表。保育園や児童館での絵本に関する講義を数多く行う。大谷大学非常勤講師。

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僧侶で、中村哲さんとアフガニスタンで井戸掘って、子どもの本専門店店主って、もう、おもしろくないわけなかろうと思います。

↓ こちら、会のHPです。だんだん整えている段階です。 http://kodomonohon9.planet.bindcloud.jp/index.html#section1

よろしくお願いします。

2021/01/27

学習会(2月11日)のお知らせなど 濱野京子

▸新型コロナウイルスが世界を席巻する中、アメリカでは大統領の就任式が行われ、日本でもその模様が大きく報道されました。ひときわ目を引いたのは若き黒人女性アマンダ・ゴーマンさんによる詩の朗読です。敗れたとはいえトランプ前大統領が獲得した票は前回より多く、アメリカという国の分断は深刻であり、バイデン大統領も難しい舵取りを迫られるでしょう。それでも、カマラ・ハリス副大統領が11月に行った勝利演説といい、このような瞬間に立ち会えるアメリカの人々が羨ましい気がしました。

 

▸力強く美しい言葉だと、私の心を動かしたそれは、どちらもマイノリティである女性によるものでした。

 

▸余談ですが、「美しい」は、いつの頃からか使い勝手のあまりよろしくない言葉となりました。用い方によっては陳腐であるというだけではない事情は、「感動」が使えなくなったのに似ていますが、『日本児童文学』1-2月号に載せた短編「壁」の中のあるシーンで「美しい」のほかに言葉が浮かばず、 「なんてうつくしいのだろう」 と書きました。仮名に開くとニュアンスが変わる。これは日本語ならではのことでしょうか。

 

▸前置きが長くなりましたが、本題です。 児文協の行事ではありませんが、学習会を一つ紹介させてください。

 

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JBBY希望プロジェクト・学びの会 2020年度 第3回(オンライン)

「震災から10年 被災地の子どもたちが教えてくれること」

講師:菅野祐太さん(NPOカタリバ・コラボスクール大槌臨学舎長/大槌町教育専門官)

日時:2月11日(木・祝)14:00~16:00 参加費:1,200円

申し込み方法など詳しい情報はJBBYのHPをご覧ください。 https://jbby.org/news/domes-news/post-10486

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JBBY(日本国際児童図書評議会)の希望プロジェクトというのは、困難な状況に置かれている子どもたちに本を通じての支援を行うチームで、要請にしたがって本の寄贈を行うほか、実際に現場で活動・研究されている方のお話を伺い、活動に生かすための勉強会を行っています。

 

▸今年度3回目は、東日本大震災10周年ということもあり、その関連で菅野祐太さんを講師にお招きすることになったのですが…。大槌? 臨学舎? なんか記憶がある……。過去の記録をたどっていくと、なんと2013年12月に訪れたところでした。

 

▸それは、当時の児文協会報部の有志が、岩手を訪問するというので、混ぜてもらっての旅でした。その時の案内役が、我が子どもと平和の委員会のメンバーである指田さん。私たちは、当時、釜石の旅館をお手伝いしていた指田さんと宮古で合流、宮古では小学校訪問。大槌、釜石ではいくつもの場所をご案内いただき、いろんな方から被災当時の話を伺いました。大槌臨学舎はそのうちの一つでした。

 

▸今、こうしてパソコンに向かいながら、7年前に遠く離れた岩手でお近づきになった指田さんと同じ委員会に所属していることに、不思議な縁を感じています。

 

▸他団体主催のイベントではありますが、ご都合のつく方がいらっしゃいましたら、ぜひご視聴ください。

 

▸なお、本年度希望プロジェクト第1回「コロナ禍と子どもたちの居場所――学校ソーシャルワークの視点から」の報告記事を濱野が書いてますので、ご関心のある方はご一読ください。   ↓

https://jbby.org/kibou/post-10408

 

2021/01/23

ごあいさつと、いくつかの情報を   (指田 和)

寒中お見舞い申し上げます   

あっという間に1月も十数日が過ぎました。

コロナで明けた2021年、一都三県に出た緊急事態宣言。その後も続きそうな各地の同宣言。気が抜けない日々ですが... いや、でもその間にも世の中ではいろんなことが起きているし、進んでいることを忘れてはいけない、と自戒を込めて。気がついた時に、大事だと思うことはとにかくメモしておかなければ。いくつかですが、みなさんと情報共有できたら幸いです。

●1月22日核兵器禁止条約発行 関連info 「すすめ! 核兵器禁止条約プロジェクト」  https://www.susumeproject.com/?lang=ja 2021年1月22日に迫った核兵器禁止条約発効をさらに盛り上げるべく長崎・広島・東京に住む若者が共同ですすめ!核兵器禁止条約プロジェクト。

▶︎通信社に勤める友人から教えてもらいました。HPを開くと、核禁条約発行までのカウントダウン時計が1秒1秒、時を刻んでいます。条約の内容やポイントもわかりやすく表現され、デザインも素敵です。若者たちのフレッシュな言葉、アプローチに刺激されます。 ヒロシマ・ナガサキ、そして第五福竜丸の被曝。これらの経験を持つ日本の政府が、なぜ核禁条約に参加しないのか。私はヒロシマの絵本を何冊も書いているのに、このことを子どもたちにちゃんと説明できないのが、自分に対してもくやしくもどかしい。

ヒロシマ連続講座・通信「ヒロシマ へ ヒロシマ から」

元教員の竹内良男さん(東京都立川市在住)が、退職後の2016年から開催している学習会。戦争や原爆の被害について理解を深める講座をこれまでに100回以上開催し、通信はNo.580 を超える。慰霊碑や戦争に関する遺跡をめぐるフィールドワークも行なっている。昨年12月、第26回平和・共同ジャーナリスト基金の奨励賞を受賞。

▶︎ヒロシマ で被爆、戦後埼玉に移り、のちに埼玉県原爆被害者の会で長く活動されてきた堀田シズエさん(現在100歳)を取材する中で、竹内さんと出会いました。(竹内さんが二年以上堀田さんの聞き取りをしてまとめた『済南・広島・鴻巣... ーわたしの歩んだ道ー』は貴重な一冊) 8.6のヒロシマ では、平和公園で、シンポジウム会場で、ジーンズにリュック姿の竹内さんといつもばったり。竹内さん、実際には何百回もヒロシマ へ出かけているはず......。戦争や人権に関わる様々なテーマを取り上げ、深く追求した情報を提供し続けている「ヒロシマ連続講座」、ぜひご覧いただきたいです。

ヒロシマ連続講座: qq2g2vdd★vanilla.ocn.ne.jp (★を@に変えて送信すると、竹内さんから通信を送っていただけます)

●第五福竜丸展示館の催しなど(開館情報等、詳しくは第五福竜丸展示館のHPをご参照)

「子どもたちが見たビキニ事件」(展示)2020.9.19〜3.14

1945年に被曝、入院した乗組員たちの元へ届いた、全国の子どもたちからのお見舞いや励ましの手紙は約3000通にも(展示館が保管)。そのたくさんの手紙から50通を展示(コロナ感染防止柵のために、パネルにして展示)。

「3.1ビキニ記念のつどい   〈ふね遺産〉認定記念 オンライン・シンポジウム」 2021.2.21

第五福竜丸の持つ木造船としての価値が認められ、2020年7月、日本船舶海洋工学会の定める「ふね遺産」に認定(終戦直後の建造〈洋型肋骨構造〉で現存する木造船の貴重さが評価された)。産業遺産として、また平和遺産として、福竜丸の価値や保存の意義を改めて広く知ってもらう機会に。

▶︎2005年の冬、太平洋戦争末期に広島で被爆した古いピアノに初めて出会いました。「このピアノのことを絵本にして伝えたい」と心の中で決めた時、私がまず出かけたのは第五福竜丸展示館でした。なぜ...? それは、「原爆や核のことを、ヒロシマだけを見て書いてはダメだ」と直感的に思ったから(被爆ピアノコンサートの手伝い。同行で長崎へも)。それ以来の関わりとは言え、夢の島へ出かけられるのは2年に1、2度ほどなのですが。

昨年、この第五福竜丸展示館・主任学芸員の安田和也さん(第五福竜丸平和協会事務局長でもある)の講演を改めて聴き、これはもっと多くの人・子どもたちに絶対聴いてもらいたいと強く思いました(前述「ヒロシマ連続講座」で参加。安田さんが貴重な写真資料をたくさん紹介しながら、ビキニ事件の経緯や被曝状況、世界・日本の動きなどを詳しく解説してくださった)。いつかぜひ、児童文学者協会の何らかの催しか、この子どもと平和の委員会などで企画できたら.....(いかがでしょう?)。

▶︎余談 『日本児童文学』2021年1・2月号にノンフィクション「いのちと食べものと水俣」を書きました。コロナ禍での移動・取材は悩みましたが、意を決して電車・新幹線を乗り継ぎ、熊本の水俣まで約8時間。原稿には書けないドタバタ劇がいくつもあって緊迫ヘトヘトの約1週間でしたが、いのち・食・健康、人の尊厳、自然の循環など深く考えさせられ、ハッとすることの多い日々でした。今、水俣病の歴史を学ぶことは、コロナ禍との共通点も含め、大きな意味があると感じています。自分の中では、これからも水俣に行く覚悟がついた気がします。

この『日本児童文学』1・2月号の創作特集タイトルは「ディスタンス」。書き手それぞれがこの1年、五感で感じ作品に落とし込んだ「ディスタンス」を、ぜひお楽しみください。

2021/01/14

平和について語るときに私の語ること(その2)  小手鞠るい

広島と長崎に落とされた原爆の是非について、公開討論会で意見を戦わせるアメリカの高校生たちを描いた『ある晴れた夏の朝』(偕成社、2018年刊)の英語版の出版に向けて、着々と準備を進めています。この作品の英語版を出すことは私の悲願のようなものだったので、出版が決まって、とても嬉しく思っています。

 

先に「英訳版」ではなくて「英語版」と書いたことには、理由があります。それは、もしも逐語訳版を出版したら、日本国内では問題にならないことでも、アメリカでは問題になるかもしれない、というようなことを私が書いているからです。実は、作品を書いているときにも、私は「アメリカの読者」を少しは意識していました(アメリカ国内が舞台になっている物語なので)。意識はしていましたが、その意識がまだまだ足りなかったということです。

 

 たとえば、アフリカ系アメリカ人の登場人物に、私は「ダリウス」という名前を付けました。なぜダリウスにしたのかというと、実際にアフリカ系アメリカ人で、ダリウスという名前の人を知っていたからです(カントリーソングの歌手)。実際にそういう名前の人がいるから間違いないだろうと思って付けました。アフリカ系の人の中には、わりとユニークな名前の人も多いので、そういう雰囲気も出るといいのかなと思ったのです。

 

しかし、英訳を担当してくれることになった夫(アメリカ人です)から、さっそく指摘されました。「この名前はまずい。もっと匿名性のある名前にしなくてはならない」。つまり、私がアフリカ系アメリカ人に「いかにもアフリカ系らしい名前を付けている」ということがある種の人種差別に当たる、というわけです。

 

また、ノーマンの愛称が「スノーマン」である、というのもよくない。なぜなら、スノーマン(雪男)は肌が白くて太っている。もしもノーマン(白人です)の体格が太めなのであれば、それは明らかに差別的な愛称であるということになる。 これ以外にも、細かいところで、差別コードに引っかかる箇所が多々ありました。アメリカでは、本人が本人の人種に言及するのは問題ありませんが、本人以外の人がその人の人種を口にしたり、話題にしたりすることは厳禁です。たとえば、本作の主人公のメイが「エイミーはチャイニーズ系アメリカ人です」と発言してはいけない。

 

アメリカ人は総じて、ファミリーネームによってある程度、人種や出身国はわかるようになっています。たとえば私の夫の苗字は「サリバン」ですから、彼はアイルランド系であると、誰にでもわかります。しかし、夫の父親の母親はユダヤ系なので、夫はアイリッシュ&ジューイッシュ系なのです。だから、何も知らない人が夫をアイルランド系だと思って、うっかりユダヤ系の悪口を言ったりすると、大変なことが起こります。

 

どんな人種も平等に尊重されなくてはならない。人種はその人のかけがえのない個性である。しかし、その人種をステレオタイプに描いてはいけない。もちろん人種だけではなくて、性別についても、家族構成についても、同じことが言えます。アメリカの児童書業界では、編集者も、作家も、このことを頭に叩きこんで作品作りに励んでいます。少なくとも私の目には、そのように映っています。

 

私自身、日本語で日本人向けの児童書を書いているときに、日本人以外の人種の子どもたちをどれくらい意識しているでしょうか。正直なところ、これまではほとんど意識していなかった。日本国内には「在日韓国人」と呼ばれている(この呼び名、本当におかしいと私は思います)日本人、外国人と日本人の両親のもとに生まれた日本人(ハーフという呼び名、今もあるのでしょうか)、日本国籍を取得した元外国人である日本人とその子どもたちも住んでいる--------にもかかわらず。これは私自身の大きな反省点でした。あるいは盲点だったと言ってもいいかもしれません。

 

そんなこんなで、『ある晴れた夏の朝』は、アメリカ人読者が読んでも違和感のない英語版に生まれ変わりつつあります。この作品が広く英米圏で読まれて、日本への原爆投下に対する理解をよりいっそう深め、平和について考えていただける一材料になったら、こんなに嬉しいことはありません。みなさん、『On A Bright Summer Morning』をぜひ、応援してください。

2020/10/31

平和について語るときに私の語ること 小手鞠るい

タイトルは、レイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)の真似です。

 

先ごろ、「平和とは何か?」というテーマの児童書の執筆を終えたばかりです。子どもたちに平和を教えるということは、戦争を教える、ということでもありますから、私は世界で起こったさまざまな戦争を取り上げて書こうと決めました。

 

(1)平和憲法とその改正について考えている現代の日本の子ども。

(2)イラク戦争に父親が参戦することになったアメリカの子ども。

(3)911テロ事件で母と弟を亡くした(当時アメリカ滞在中だった)日本の子ども。

(4)おじさんが湾岸戦争に行くことになったイラクの子ども。

(5)ヴェトナム戦争で父と兄を失ったヴェトナムの子ども(この少女は過去に兵士としてヴェトナム戦争で戦ったこともある)。

(6)ナチスドイツの迫害から逃れようとして懸命に生きるユダヤ系の子ども。

(7)太平洋戦争中、殺された動物園の動物たちに思いを馳せる日本の子ども。

(8)真珠湾攻撃によって、祖母の暮らす日本へ行けなくなったハワイの子ども。

(9)強制徴用されて日本へ来た朝鮮半島出身の曽祖父から、当時の話を聞く現代の日本の子ども。 合計9人の子どもたちを登場させました。

 

(1)から順に過去へさかのぼっていって、最後の(9)でふたたび現在にもどる、という構成。男女の割合は、女の子が男の子よりひとり多い。いろんな時代に、いろんな場所で、いろんな戦争があった。日本の子どもたちにとって、戦争は決して遠い外国で起こっているできごとではないし、他人事ではない、ということを、物語を通して感じとってもらえたらいいなと思って書きました。

 

原稿を書き上げて、イラストレーターから送られてきた表紙の下絵を見せてもらったとき、私は「ううん、どうなのかな、これは」と、首をかしげました。表紙には、日本の子ども4人、アメリカの子ども2人、イラクの子どもひとり、ヴェトナムの子どもひとり、ユダヤ系の子どもひとり、合計9人の姿が描かれています。日本人読者向けに日本語で書いた、日本で出版される本なのだから「これでいいのか」とも思うのですが、その一方で、アメリカ在住(今年で28年目)が長くなってきた私には「どこか不自然」に思えてならないのです。

 

不自然かなと思えた理由は、アフリカ系、ラテン系、ネイティブアメリカン、その他の少数民族の姿が描かれていないこと。しかし、これは当然です。私の書いた物語には、そういった人たちは出てこないのですから。だったらなぜ?

それは、カバーに描かれていた子どもたちがみんな同じような背格好をしていたからです。太った子もいなければ、背の低い子もいない。障害のある子もいない。目の見えない子もいない。みんなそろって、元気で素直で明るくて健康そうな、いい子。それのどこがいけないのか?

 

いけなくはありません。いけなくはないのですが、やはり「これではいけないのだ」と思えてならない。「みんなおんなじ」「みんな健康」「みんなきらきら明るい笑顔」というような、児童書にありがちなイメージというか、傾向というか、そこに潜んでいる危険な思想、あるいは無意識、あるいは無知に対して、アメリカという多種多様な人たちが暮らす国に長く住んでいる私は、敏感になっているのかもしれません。

 

現在のアメリカ(あくまでも私にとってのアメリカということです)では、人種差別、男女差別、年齢差別のみならず、太った人に対する差別、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人たちに対する差別、障害のある人たちに対する差別、それらを少しでも匂わせるような出版物、特に児童書における差別の匂いに対して、非常に神経質になっているように、私の目には映っています。いわゆる政治的正しさですね。偏見でゆがんでしまった大人の考えを正すのは至難のわざ。ならば、まだ世間の毒に汚されていない子どもたちに偏見を抱かせないようにしなくては、という努力を、アメリカの児童書業界はやろうとしているのでしょう。

 

これは素晴らしい努力だと私は思っています。大いに神経質になっていいのではないでしょうか。かつての女性解放運動のように、嫌煙運動のように、児童書業界における差別の撤廃運動が起こったらいいなと夢想するのは、私だけでしょうか。

以前、日本の出版社から絵本の原作を依頼されたとき「障害のある子を主人公にしたい」と話したら、編集者から「普通の子にして欲しい」と言われたことを思い出します。私は、目の見えない母(母の弟には知的障害があった)といっしょに暮らしてきたこともあって、障害のある人は特別な人ではなくて、ある意味では「ごく普通の人である」ということを、普通に理解しているつもりです。世の中には、健常者の物語が多過ぎる、とも感じています。子どもたちが平和を考えるとき、その子どもたちの中に障害のある子が含まれていて、どこがいけないのでしょうか。

 

また、これは別の児童書ですが、物語に「おばあさん」を登場させたところ、顔はしわだらけ、腰の曲がった、よぼよぼのおばあさんのイラストが上がってきたので「これは違います。ジーンズにTシャツにスニーカー姿の、若々しくて美人のおばあちゃんを描いて下さい」とお願いしたこともありました。だって私は64歳のおばあちゃんなんですから!

 

話が横道に逸れていきそうなので、このあたりで話をまとめます。結局、9人の子どもたちのうち、ひとりにめがねを掛けさせてもらい、ひとりはちょっとだけ背を低めに、あとひとりはちょっとぽっちゃり、というところで、妥協しました。松葉杖をついている子、もリクエストしたのですが、それは却下されました。

 

平和について考えること、イコール、世界の多様性と人間の多様性について考えることではないだろうか。このエッセイを書きながら、私はそんなことを考えました。最後は小学生の作文のようになってしまいましたが、お許し下さい。64歳ですが、気分は子ども!

2020/10/22

日本学術会議任命拒否問題で考えた

 みなさん、こんにちは。「子どもと平和の委員会」委員長の西山利佳です。

 10月15日付けで、私たち日本児童文学者協会では、理事会声明「日本学術会議の任命拒否問題について、わたしたちはこう考えます」を出しました。 → https://jibunkyo.or.jp/old/index.php/about/declaration ご覧いただけましたか? 自分の会のHPにアップされるのと、「日刊ゲンダイ」(10月16日)に当声明に言及した記事が載るのとほぼ同時だったようです。なんか、びっくり。

 私は本件が最初に報道されたとき思ったのは、「総理大臣って、天皇が任命することになっているけれど、任命拒否ってできるの? もし、そんなことがあったら、大問題じゃない?」ということでした。いろいろ見ていたら、宇都宮健児弁護士も以下のようにコメントされていました。

<「日本学術会議法17条2項は日本学術会議の会員は同会議の推薦に基づいて内閣総理大臣が任命すると定めているが、同会議の独立性を考えれば内閣総理大臣には任命権はあるが任命拒否権はないと解釈すべきである」との考えを示した。宇都宮氏は同様の例として「憲法6条1項により天皇に内閣総理大臣の任命権はあるが任命拒否権はないのと同じ考えである」と指摘した。>https://www.daily.co.jp/gossip/2020/10/04/0013755364.shtml より

 さて、以下、本件に関してこのところ考えたことをつらつら書きたいと思います。

(いま、うっかり「書かせていただきます」と書きかけて、おっといけねぇ!と書き直しました。「〇〇させていただきます」の蔓延に抵抗する会の会員として。注・そんな会あるんかい?)

 スエーデンの児童文学「ステフィとネッリ」シリーズ(全4巻、アニカ・トール作、菱木晃子訳、新宿書房、2006~2009年)をこのところ毎年学生と読み合っています。今年も再読をはじめて、何度読んでもすごい作品だわーと思っているところです。これは、ナチスドイツの占領下におかれたウィーンからスウェーデンに逃れたユダヤ人の姉妹の物語です。救援委員会から養父母に支払われるお金、自宅の空いた部屋に住まわせ進学を支えてくれているお金持ち……。

 ステフィは、しばしば不当な扱いを受けます。お金を出してもらっている、家に置いてもらっているから感謝しなくてはならないのだろうけれど……と納得できない思いを抱える場面を読んで、ああ、これ、日本学術会議の任命拒否をずらして、税金10億がどうのこうのという話にされている、これだ、これ! とつながりました。

「だれに食べさせてもらってるんだ?!」

親から子へ

夫から「専業主婦」の妻へ

あるいは生活保護受給者へ、福祉支援を受ける障がい者へ……

なかなか無くならないパワハラ発言の数々。

 2019年度の協会賞受賞作『むこう岸』(安田夏菜・講談社)が、生活保護受給に対するパワハラマウンティングをきもちよく切り返していたことも思い出されます。

どうしてお金を出す方がえらいと思うかな?

<菅首相は会見の中で、学術会議の会員は特別職の国家公務員としての性格を持ち、税金から出費しているのだから、その構成にも責任を持つべきといった趣旨の発言をしています。まさに「金を出すのだから、口を出すのも当然」という論理です。>

 今回の、児文協理事会声明の一節です。

 公共施設で「九条」をタイトルにしたイベントが開きにくいとか、この理屈の延長線上にありますよね。愛知トリエンナーレ問題もまさに同じ。

 「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と自慢していた中曽根康弘という政治家(あ、もちろん、その他いろんなことをなさっています。)の内閣と自民党の合同葬儀に弔意を求める文書を国立大学に出すとか、くらくらするような、暴挙もこの延長戦もとい延長線上にあるのではないでしょうか。「国立」なんだから、国の言うことは聞け、と。

国ってなんでしょね。

 それに、先にパワハラ親父やパワハラ夫、と今回の件を相似形の構造として並べましたが、そもそも、国の運営資金は私たちが出し合っている「税金」です。

<政府・与党は、学術会議には税金が投入されているとか、既得権益だとかいうような議論を展開し、今回の判断を正当化しようとしていますが、税金は国民全体のものであり、時の政権の「私物」ではありませんし、組織のもつ問題点と委員任命の手続きが正当か否かはまったく別の問題であることもいうまでもありません。いずれも悪質な議論のすり替えというべきものです。>

「フォーラム・子どもたちの未来のために」の「声明」の一節です。 https://www.f-kodomotachinomirai.com/appeal

 限られたお金を、どういう風に使うか、様々な立場、価値観の人間が集まっている社会をよりよく運営するために、より公正にやりくりするのが政府の役目ではないのでしょうか。大事なお金を、やれマスク配るのに460億、中曽根の葬儀に約1億円、オスプレイにいくら投入した? あたしゃ、なさけないよ、ちびまる子ばりにため息をつきたくなります。

 芸術・文化、学問研究、それぞれ好きなことをやってるんだから、自分の金でやれよって、「自助」バンザイの人は言うのかもしれませんが、自由に展開される芸術活動・研究活動に、出資する度量の国になればいいのに。しなくちゃな、と思います。

 ああ、それから、日本学術会議の会員が総理大臣の任命になったときからこの事態は始まっていたのだろう、というのも、この間の感想です。1983年、中曽根政権下で政府高官が「実質的に首相の任命で会員の任命を左右するということは考えていない」と国会で答弁したのだそうですが、「国旗・国歌法」(国旗及び国歌に関する法律)が1999年に成立したとき、志位和夫議員の質問に対し、内閣総理大臣小渕恵三が、1999年6月29日の衆議院本会議で以下のように答弁したのだそうです。(「ウィキペディア」ありがとう!)

<国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております>

でも、その後どうなりました?

 君が代伴奏を拒否した音楽の先生を処分し、歌っているかどうかを教育委員会の人間がチェックするとか!

  法律は力を持つのですよ。安倍政権以来、法律が軽視されていますけれど、私たちは法に律されます。

 そう思うと、「特定秘密保護法」(特定秘密の保護に関する法律・2013年)とか、「共謀罪法」(改正組織的犯罪処罰法・2017年)とか、あらためてじわじわ怖い。

 うーん、土曜日の「学習交流会」がとても楽しく充実していて、豊かな気分になったところで、書くほどに憂鬱になってしまいましたけれど、ひとりで悶々とするよりみんなで怒った方が精神衛生上よいですね。

「金を出していただくのだから、言うことを聞くのは当然」という価値観なんて、はぁ?という子どもや若者がのびのびと活躍する児童文学をたくさん読みたいと思う、西山でございます。最後まで読んでくださって、ありがとうございました!(2020/10/18記)

2020/10/19