79、内田さんの本、高校生の時のこと(2022,9,5)
【内田麟太郎さんから】
・少し前に届けていただいた本は、『絵本のことば 詩のことば』というエッセイ集でした。全体が三章に分かれていて、第一章が「炭鉱の町から 故郷と家族」、第二章が本のタイトルと同じ「絵本のことば 詩のことば」、そして第三章が「出会った人々」という構成になっています。そこからもわかるように、絵本作家であり(ご本人は「絵詞作家」と自称されていますが)詩人である内田さんの文学論であると共に、なかば自叙伝風な内容、おもしろさの、誠に“読ませる”本でした。
・内田さんの来歴は、折りに触れ、うかがったり、読んだりしていましたが、大牟田での少年時代のこと、「プロレタリア詩人」だった父上のこと、六歳で死に分かれた生母と折り合いの悪かった継母のこと、そして若き日の詩人としての思想的な遍歴など、なかなかにドラマチックなのですが、例えば内田さんが生まれ育った大牟田には、家の近くだけで映画館が八館もあり、「絵本テキストを書いているときに、自分が映画監督になりテキストを展開しているのを感じる」といった一節には、なるほどと思わされました。
・中でも、いかにも内田さんらしくおもしろかったのは(と言っては失礼かもしれませんが)、高校時代のエピソードでした。そもそも数学がとても苦手だった内田さんがその高校に入学したのは、「いささか正当とはいえないやり方で」試験を通過したという告白付きですが、そのせいで数学はさっぱりわからず、三年間ほぼ数学の時間は寝ていたというのは、時代のおおらかさも感じさせます。そして、高校三年の時は遅刻の常習者で、それは憧れている同級生(女性です)がやはり遅刻の常習者で、毎日その後を追いながら登校するので否応なく遅刻になってしまう、という件は、その時の内田さんの表情が目に浮かぶようでした。卒業式の時はさすがに遅刻はせず、担任の先生から「いつもこの時間だとよかったのになあ」と言われた、というのですから、これも今なら考えられないような話です。ちなみに、その女性は内田さんのおつれあいではないようです(笑)。
・もう一つつけくわえると、この本は晧星社(こうせいしゃ)という出版社から出ています。僕もいささか縁のある出版社なのですが、これまで「ハンセン病文学全集」など、かなり硬派の本を出してきました。この出版社が、これから児童書も出していきたいということなので、皆さんの目に触れる、あるいは著者として関わっていただく、ということがあるかもしれません。
【僕の高校時代】
・内田さんの高校時代の、うらやましいような(?)エピソードを読みながら、自分の高校生時代を思い出したりしました。僕の高校時代は、内田さんから十年近い後ですし、なにしろ筋金入りの優等生だった僕(笑)のことですから、内田さんのような楽しいエピソードはほぼありません。ただ、三回前に書いた(統一教会がらみで)学外のユネスコ研究会というサークルに熱心に通ったのは、ひそかにあこがれていた女性がそこにいたからでした。このあたり、男子高校生のモチーフは、いつの時代もまあ似たようなものでしょう。告白もできませんでしたが、名前はよく覚えていて、娘が生まれた時にその名前にしようかと思ったのですが、カミさんに見透かされそうでやめておきました。
・そんな僕が、高校時代にやや唯一、反抗的思いを形にしたのは、自分の誕生日は学校を休んだことでした。「天皇誕生日」も休みなのだから、まして自分の誕生日は自分だけの祝日だ、というふうな理屈をつけました。僕の誕生日は3月5日で、三年生の時は大学受験で東京に来ていましたが(このことは前に書きました)、一年の時と二年の時はきちんと(?)休みました。ただその時期は確か期末試験の前あたりなので、まわりからは休んで勉強してんだろう、と思われていたかもしれません。やれやれ。