69、小松崎進さんのこと・事務局OBのこと(2022,5,15)
【小松崎進さんの追悼集会が】
・昨日、14日ですが、小松崎進さんの追悼集会が、市川市の文化会館で開かれ、出席しました。内田麟太郎さん、丘修三さん、加藤純子さん、津久井惠さん、木村研さん、国松俊英さん、最上一平さん、そしてきむらゆういちさんや画家の長谷川知子さん、浜田桂子さんなども出席されていました。
・小松崎さんは「知る人ぞ知る」という感じで、作家ではなかったので、ご存じない方も少なからずだと思うのですが、分野としては、文学教育、読書運動家ということになるでしょうが、そうした枠に収まらない幅広い活動をされた方でした。「この本だいすきの会」を立ち上げ、広げた方で、追悼集会も、この会の主催で開かれました。会は2時間ほどで、正面のスクリーンで、在りし日の小松崎さんの姿が映し出され、プログラムの節目節目で、小松崎さんの講演の動画や、昔話の語りが披露され、とても印象深いものでした。
・参加者には追悼集『過去・現在・そして未来へ』が配られ、僕はそこにも書いたのですが、僕が小松崎さんに初めて会ったのは、協会に入会したての25歳の時で、夏の集会に運営のお手伝い役として参加した時でした。小松崎さんは、参加者に配る「速報」の発行の“親玉”で、その活躍ぶりが印象に残り、僕は小松崎さんの書いたものに注目するようになりました。いわゆる実践記録なのですが、教師のそうした文章にありがちな“自慢げ”なところがまったくなくて、絵本や物語を受けとめる子どもの様子が実に生き生きと伝わってくるのです。小松崎さんは、そうした活動を「学校」という枠に閉じ込めることなく、「この本だいすきの会」を立ち上げ、絵本や物語の「読み語り」の運動を全国に広めていったのでした。
【事務局OB(OG)のこと】
・その追悼集に、僕も含めると、3人の元協会事務局員が文章を寄せていました。一人は、現協会員で、元童心社編集長の池田陽一さんです。この本だいすきの会は、作家・画家、そして編集者と読書運動の人たちをつなぐ場でもあったのですが、小松崎さんを囲む編集者たちの会(主な活動は、お酒を楽しく飲むということだったようですが~笑~)があり、その中心の一人が池田さんでした。それは知っていましたが、池田さんの追悼文を読むと、小松崎さんとの出会いは、児文協の事務局員時代でした。そうそう、池田さんは元事務局員で、これは前に書いたかもしれませんが、彼が事務局を辞めると聞いて、僕は事務局に入ることを決意したのです。
・もうお一人、大島早苗さんは、この本だいすきの会員として追悼文を寄せられていましたが、やはり事務局員時代に小松崎さんに出会っていて、協会の活動の中で、とりわけ事務局員の仕事に理解があったのが、小松崎さん、ということだったようです。
・元事務局員と言えば、最近その名前を聞く機会があったのが、僕が入会したころの事務局員だった霜村三二さん(このお名前は、3月2日生まれから)で、3回ほど前のブログに書いた、読売新聞秋田支局からの、「八郎」に関するインタビューの時です。「僕の他に、どなたに取材されましたか?」と聞くと、霜村さんの名前が出てきたのです。霜村さんは事務局を退職後、埼玉県の小学校教員になり、演劇教育などの分野で活躍されました、というより、今も教育評論家という感じで、幅広く発信されています。多分、教室で「八郎」を読んだ経験を文章にしたものを、新聞記者の方が目にされたのだと思います。
・僕が事務局に入る前は、大学を卒業してすぐの人が、言葉は悪いですが、腰掛的に事務局員になり、数年で辞めて、出版社に勤めたり、教員になったり、というパターンでした。僕が事務局に勤めようと思ったモチーフの一つに、そうした状況への反発めいた感情があったかも知れません。
でも、こうしてみると、元事務局員の人たちが、事務局時代の思いや人脈を生かして、さまざまに活躍されているわけで、それも児童文学者協会のひとつの力かなとも思えます。
・実は、資料集を作った時の「心残り」のひとつが、「歴代事務局員名簿」を載せられなかったことで、ある時代までは、あまりに入れ替わりが激しいのと、記録が残ってないことで、断念しましたが、なにかの機会に、わかっている所だけでも記録に留めておきたいなと、改めて思ったことでした。