藤田のぼるの理事長ブログ

2、総会を終えて今は/児文協と僕の出会い(20,6,15)

【総会を終えて、今は……】

◎「理事長ブログ」2回目になります。実は、1回目は6月5日にアップしようと準備していたのですが、事務局長ブログ時代から大分間か空いてしまって、アップの仕方があやふやだったので、10日に事務所に行った際に、次良丸さんに確認してもらい、ようやくアップしました。事務所に行って驚いたのは、機関誌版元である小峰書店の小峰広一郎社長から「理事長就任祝い」のとても立派な花籠が届いていたことで、せっかくなので、花と一緒に写真を撮ってもらいました。それはともかく、5日にアップできなかったことで、総会報告としてはやや遅くなってしまいましたが、今回は、当初の予定通り15日です。僕としてはできれば10日に1回、5のつく日に更新していきたいと思っています。5時55分生まれで(本名は「朝日が昇るころ」で「昇」です)、5が一応ラッキーナンバーなので(笑)。

◎さて、協会の〈今〉としては、総会で選出された新理事による最初の理事会を、22日に予定していて(今回もウェブでの会議になりますが)、ここで各部・委員会の部長(委員長)が決まります。部員・委員の決定は次の7月になりますが、そのあたりから新体制が動き出すことになります。次回のブログは、第1回理事会の報告がメインになると思いますが、今回は自己紹介がてら、僕と児文協との出会いについて(前回予告したように、いかにも「昔話」ですが)少し書かせてもらいます。

【児文協と僕との出会い】

◎その前に、今更の話ですが、「児童文学者協会」を略して「児文協」です。これに対して、「児童文芸家協会」は「児文芸」です。(似ていますが、「略」のポイントが違っています。)それから絵描きさんの団体である「児童出版美術家連盟」は「童美連」です。この3つが子どもの本の著者団体ということになりますが、子どもの本の世界では、国際交流組織である「日本国際児童図書評議会」も、翻訳家や編集者だけでなく、作家・画家・研究者も含めた著者団体の性格も持っていて、こちらの略称はJBBYです。

◎さて、僕の学生時代は1970年をはさむ時期で、いわゆる学園紛争が盛んな時期でした。僕は秋田の生まれで、大学も秋田大学教育学部でしたが、68年に入学してまもなく、学園封鎖(ロックアウト。もちろんコロナではありません。警察が学内に無断で入ったことがきっかけだったか)があり、夏休みまで授業がありませんでした。そんな中、秋だったと思いますが、学生寮の友人の部屋で、たまたま斉藤隆介の『ベロ出しチョンマ』という本を手にしたのが、児童文学との出会いでした。その中の「八郎」という作品は(一般には絵本でおなじみですが)秋田弁で書かれていて、僕は自分が育ってきた言葉で、こんなにも深いことが語られるのか、ということに衝撃を受けたわけです。

 それから一年ぐらいしたころでしょうか。これもたまたま僕は書店で『日本児童文学』という雑誌を目にしました。つまり、当時は秋田の書店の店頭にもこの雑誌が置いてあったのです。以来、この雑誌が僕にとってはバイブルのようになり、まわりに児童文学をやっている人は誰もいませんでしたから、ひたすらこの雑誌で勉強しました。が、なにしろ授業にはろくに出ていなかったので、一年留年することになりましたが、その年に、一年生が何人か集まって、僕が半分顧問のような感じで「秋田大学児童文学研究会」というのを作りました。僕は一年生たちに『日本児童文学』の購読を強要?し、それもなるべく違う書店で取らせるようにしました。そうすれば、その書店で、僕のように、この雑誌と出会う人が出てくるかもしれない、と思ったからです。なんと、今から50年近く前のことです。

 つまり僕は、学生時代に勝手に『日本児童文学』秋田営業部長(?)をやっていたわけで、それからいろいろありましたが(それも折々書かせてもらいますが)、あの頃秋田で一人で『日本児童文学』を読んでいた自分、というのが、協会との関わりの“原点”ということになるでしょうか。

◎これを書いている間に、れいわ新選組の山本氏が都知事に立候補とか。遅いよね、さすがに。でも、選挙はわからないよ、最後まで。

2020/06/15