藤田のぼるの理事長ブログ

2020年11月

18、協会の事務所のこと~児文協昔話・1~(20,11,25)

【協会の前の事務所のこと】

◎コロナの行方はますます心配ですが、今回はこのブログで急いでお知らせすることはないので、協会にまつわる「昔話」をしたいと思います。もともと、このブログ、むしろそういうことを話題にしようとして始めたところもありますが、思いの外その都度お知らせすることが出来し、今回ようやく? こういうネタで書くことになりました。

◎さて、その一回目は、協会の事務所のことです。協会の事務局が今の神楽坂に移ったのは1981年で すから、今年で40年目ということになります。おそらく大半の会員の方が、入会時から「新宿区神楽坂6-38 中島ビル502」という住所だったろうと思います。協会はまもなく創立75年ですから、その半分以上が今の事務所ということになります。しかし、それまでをたどると、なんというか、「転々と して」という感じの歴史でした。

  創立時の、つまり協会の最初の事務所は、初代の事務局長だった「関英雄宅」となっています。小さ い会ではよくあるパターンですね。その後1947年から、出版社の新世界社や教育文化社に間借りする形で事務所が置かれます。そして、49年から自前の事務所を持っていた新日本文学会に間借りする形が 60年まで続きます。つまり、創立から15年ほどは“借り暮し”だったわけです。そして、60年からはようやく一応自前の事務所ということになったようですが、代々木、四谷、池袋、市谷という風に移り、 73年に新宿区百人町に事務所が移って、ここは今の神楽坂に移るまでの8年間、比較的長い期間事務局の所在地でした。

◎百人町というのは、最寄りはJR大久保駅で、今は韓国系のお店が並ぶ国際的な雰囲気ですが、当時は今とはかなり違っていました。僕は入会が74年、事務局に勤め始めたのが79年ですから、ここが 僕にとって最初の地でもあるわけです。大久保駅は総武線ですが、すぐ近くが山手線の新大久保駅で、この界隈は昔のいわゆる赤線地帯(僕もさすがにその時代は知りませんが)、その後はラブホテルが乱立?する町になったわけです。ですから、大久保駅から事務所に行くには、居並ぶラブホテルを横目に見ながら歩いていく形になりました。そういう地区ですから、キリスト教系の(だと思いますが)矯風会のビルがあったりもしました。

 ところが4、5分歩いて道を一本渡ると、ガラッと雰囲気が変わり、団地や国立博物館の分館などが並びます。ここは昔の国有地の後でした。そうした中にポツンとという感じで、「メゾン吉田」という3階建てのアパートがあり、その2階が協会の事務所でした。

◎ですから、長く在籍しておられる会員の方は、あるいは「メゾン吉田2F」という住所をご記憶の方もい らっしゃるかも知れません。名前を聞けばなにやら高級な雰囲気ですが、一階に一所帯ずつの小さな木造アパートでした。間取りは2Kというか、入ったところがキッチンになっていて、風呂場もありました。 真ん中が洋間、奥が和室(確か6畳)でした。ですから、部会などは和室で座りながらだったと思いま す 。

 そんな中で、何年目かに3階が空いて、大家さんから「お宅で借りてくれないか」という話が持ち上がりました。当時は、協会の財政もやや余裕があり、とにかく手狭でもあったので、その3階も借りることにし、洋間と和室を開け放してじゅうたんを敷き、周りは本棚を置いて会議スペースにしました。 理事会なども、ここで開けることになったわけです。

◎そういう時期が2年くらい続いたのでしょうか。その程度のアパートとはいえ、2フロアー借りるとなれば、結構な家賃です。「これだけ出すんだったら、もっといい場所で、事務所らしい所を借りられるんじゃない?」という話になって、事務所探しが始まり、今の神楽坂に辿り着いたわけです。これについては僕が自分でやったことなので、まちがいなくお話できますが、これは次回とします。

 その百人町の思い出を一つ。3階が空いた話はしましたが、その前だったか後だったか、1階も空いたのですが、それは平和的に? 空いたのではなく、朝来てみたら、なにやら下がごそごそしていて、近所の人たちもウロウロしています。やがて、不動産屋らしい人もやってきました。(大家さんは赤坂にお住まいで、すぐは来れないのです。)聞くともなしに聞いていると、「夜逃げ」という言葉が耳に入り ました。1階に住んでいたのはご夫婦とまだ小さい子どもだったように記憶しています。どんな事情があったのか、「夜逃げ」という言葉は知っていましたが、本当にそんなことがあるんだという、人生の 一断面(?)も感じさせてくれた「メゾン吉田」でした。

2020/11/25

17、うれしいお知らせ二つ(2020,11,18)

【まずは、持続化給付金】

◎今回は、(5の日に更新のはずが)3日遅れとなりましたが、二ついいお知らせができます。一つは、10月5日付のブログに書いた持続化給付金のことです。このほど事務局に決定通知が届き、それより早く協会の口座に振り込まれていました。満額の200万円でした。但し、会計事務所から申請してもらったので、その手数料5%が引かれて、協会に入るのは190万円になります。

  今期は創作教室、児童文学学校が開講できず、講座収入がほぼ見込めないなどコロナ禍による減収で、かなりの赤字も覚悟しなければならなかったところでした。これですべて補填されるかどうかはまだわかりませんが、少なくとも大きな赤字にはならないだろうと思います。誠にホッとしました。

 来年3月の協会創立75周年に向けて、協会創立時からの基本資料を集めた「記念資料集」の編纂にかかっていて、全体の4分の3まできたところで(財政の見通しがはっきりしないので)ストップしていましたが、これで再開できます。この資料集については、また改めてお伝えしたいと思います。

【来年度の公開研究会のこと】

◎もう一つは、来年度の公開研究会のことです。今年度の公開研究会は地方セミナーとして、来年3月に福岡県大牟田市で開催の予定ですが、来期は久しぶりの東京開催になります。本来、公開研究会は東京と地方の交互開催が原則ですが、2017年度に北海道で開催した翌年の18年度は「赤い鳥」創刊100年の年で、協会も含めた実行委員会主催の記念事業がいくつかあり、公開研をこれに振り替える形になりました。そして次の19年度は新潟県糸魚川出身の小川英子さんや糸魚川在住の横沢彰さんが中心になって、2016年の糸魚川大火への復興支援という意味も込めて、糸魚川でのセミナーとなりました。

  ですから、本来ならこの20年度が東京開催だったはずなのですが、前理事長の内田麟太郎さんの出身地である福岡県大牟田市で内田作品さんにちなんだ「ともだちや絵本美術館」がオープンするということがあり、これに合わせて大牟田でセミナーをという話になり(その関係で、秋ではなく3月開催になりました)、結果的に4年間東京での公開研究会が開催されなかったわけです。

◎折しも来年は協会創立75周年でもあり、本来なら21年度の公開研究会についてはもっと早くに企画を検討すべきだったのですが、上記のように今年の公開研がこれからということも含めて、コロナに対する対処に追われたところもあり、かなりぎりぎりになっての立案になりました。

 というのは、公開研究会は毎回子ども夢基金からの助成を得て開催しているので、前年のうちにその申請をしなければなりません。以前は12月締め切りだったのですが、今はそれが11月24日だということを10月後半になってから聞き、いささかあわてました。11月理事会での討議(久しぶりのリアル理事会でしたが)をもとに常任理事間で内容を詰め、ようやく企画が固まりました。

◎テーマはまだ(仮)ですが、「子どもたちの未来へ~いのちをつなぐ・願いをつなぐ~」としました。会創立75年はもとより、この間のコロナ禍の中での子どもたち、そして2011年の東日本大震災から10年ということなど様々な思いを込めたテーマ設定です。

 講演会とシンポジウムで構成しますが、講演はフォトジャーナリストの安田菜津紀さんにお引き受けいただきました。安田さんは日曜午前の関口宏の「サンデーモーニング」のコメンテーターとしてもお馴染みですが、『故郷の味は海を越えて―「難民」として日本で生きる―』『それでも海へ―陸前高田に生きる―』などの児童書も出されています。一昨年刊行されたノンフィクション『しあわせの牛乳』(以上、いずれもポプラ社)をお読みになった方もいらっしゃると思いますが、あの本は著者は安田さんのご夫君でやはりフォトジャーナリストの佐藤慧さん、写真は安田さんが担当しておられます。安田さんは1987年生まれですから、これまでの公開研講師の中でもっとも若い講師をお迎えすることになります。

 第二部のシンポジウムについては、骨子は決まっていますが、ここまで書いたような経緯でパネラーは一部交渉中という段階です。少し先になりますが、来年の年頭にお送りする「Zb通信」号外では、詳しい内容をお送りできると思います。

2020/11/18

16、新美南吉記念館に行ってきました(20,11,5)

【南吉記念館に】

◎昨日(11月4日)、愛知県半田市の新美南吉記念館に行ってきました。例年のことではありますが、今回は午前・午後と二つの 用件があり、前日名古屋に泊まり(GO TOでホテルがとれたので、さすがに安いですね)、朝から半田 に(電車で30分余りです)向かいました。

 二つの用件というのは、午前中は同館の「事業推進委員会」、 午後からは新美南吉童話賞の選考委員会でした。童話賞の選考の方は毎年この時期ですが、事業推進委員会の会議は例年だと夏に行われるのですが、コロナの関係で延期になり、僕ともう一人二つの委員を兼ねている人がいるので、今回同じ日に設定されたわけです。

◎童話賞の選考結果は、もう少し先に同館のホームページで発表されると思いますが、この賞の特徴は、一般の部の他に、中学生、小学校高学年、小学校低学年の部が設けられていること、そして「自由創作」とは別に「オマージュ部門」があることです。このオマージュ部門は、もちろん新美南吉作品のオマー ジュということで、2013年の新美南吉生誕100年を記念して、新たに設けられました。こうした部門があるのは、僕の知る限り、この賞だけではないでしょうか。こちらは大人も子どもも関係なく一つの部門ですが、今回は、大人たちの作品をおさえて小学校5年生の作品がこの部門の大賞に選ばれました。

 この賞は、特に応募資格は限定されていませんので、自由創作部門も含めて、遠慮なく(?)応募してください。僕としては会員の皆さんにはぜひオマージュ部門(それもできれば「ごんぎつね」「手袋 を買いに」以外の作品で)に挑戦してほしいと思います。

【新美南吉と児文協】

◎ところで、新美南吉と児童文学者協会は、実は切っても切れぬというか、言わば親戚のような関係にあります。神楽坂の協会の事務所にいらしたことのある方は、事務所のドアのプレートの「社団法人 日 本児童文学者協会」という文字の下に、やや小さく「新美南吉著作権管理委員会」と書かれてあるのをご覧になったはずです。つまり、児文協の事務所は、新美南吉の著作権を管理する委員会の事務所でもあったわけです。「あった」と過去形にしたのは、南吉の著作権期限はすでに切れており、現在はこの 委員会は「新美南吉の会」という名称に変わっています。

◎協会事務局が、なぜ新美南吉という個人の作家の著作権管理をしていたかというと、南吉が1943 年に29歳の若さで、ほとんど無名のうちに亡くなったことが原因です。著作権継承者という言葉をご存知かと思いますが、作家が亡くなった場合、その著作権は遺族、多くの場合配偶者か子どもが引き継ぎます。著作権の保護期間は、2年前に法律が改正されて死後70年間に延ばされましたが、それまでは50年間でした。

 ところが、南吉は結婚もせず、子どももいなかったので、その著作権を継承するのは逆に父親という ことになりました。しかし、南吉の父親は文学とは無縁の人で、南吉も生前1、2冊本を出したとはい え、ほぼ無名の新人作家でした。しかし、まだ本にならないたくさんの作品が残っていたわけです。こ の辺は、宮沢賢治のケースに似ています。賢治の場合は、彼の原稿やノートを保管してその後関係者が 賢治の作品を世に出す手助けをしたのは、弟の宮沢清六さんでした。南吉の場合は、その才能を惜しん だ詩人の巽聖歌が、南吉の遺志を受けて、父親に代わって原稿の保管と著作権管理に当たることになっ たのです。巽聖歌は、協会の会長も務めた与田凖一と並んで、北原白秋の弟子の代表格で、白秋が熱心に関わった雑誌『赤い鳥』にも深く関わりました。この『赤い鳥』に童謡や童話を多数投稿し、才能を見いだされたのが南吉だったのです。ですから、巽聖歌は南吉の兄弟子といった存在でした。 実際に、戦後になって巽聖歌は、自分の童謡の仕事以上に、といってもいいほど、熱心に新美南吉の 作品を世に出すために努力しました。今わたしたちが「ごんぎつね」を始めとする南吉作品を読めるのは、巽聖歌のおかげといっても過言ではありません。

◎ところが、その巽聖歌も1973年に亡くなりました。南吉が亡くなってから40年後です。ということは、南吉の著作権保護期間はまだ10年ほど残っていたわけです。もちろん南吉の父親はとっくに亡く なっていますから、そのままだと宙に浮いてしまいます。そこで関係者が集まって「新美南吉著作権管理委員会」をつくり、そこで集団的に管理に当たることになったわけです。関係者というのは、まずは 南吉のほぼ唯一の親族に当たる南吉の弟さん(母親は別ですが)の息子さん、つまり南吉の甥にあたる方、そして上記の巽聖歌の夫人、この方は画家で野村千春さんというのですが、単に巽聖歌夫人だった というだけでなく、生前の南吉を夫と共に何かと面倒を見た方でもありました。次に地元半田市の関係者。この中には南吉の旧制中学時代の友人もいれば、地元で長く南吉の研究を続けていた大石源三さん といった方もいらっしゃいました。そしてもう一つのグループは、若い頃南吉と同様に雑誌『赤い鳥』 などに投稿して、それを文学的出発とした、言わば南吉の文学的同窓生ともいうような方たち、清水たみ子さん、小林純一さん、関英雄さんといった方たちでした。そういうさまざまな方たちが集まって、 新美南吉の著作権を管理することになったわけです。但し、窓口はどこか一本にしなければなりません。そこで、上記の最後のグループの方たちは、当時の児童文学者協会の、言わば要職を占めている方たちでもあったので、管理委員会の事務所は児文協に間借りするように形にしたわけです。(逆に言うと、もし新美南吉が存命だったら、多分児文協の会長になったと思います。)そして、実際の仕事は、協会の事務局員が当たっていました。

◎僕が協会事務局に入ったのは1979年ですから、南吉の著作権管理に当たったのは保護期間が切れる までの4、5年のことですが、まあなんというか、亡くなって50年近く経つというのに、現役作家顔負けに“稼いで”いました。そして、僕ら事務局員は、協会の給料とは別に、新美南吉著作権管理委員会から月々に“お手当”をいただいていましたから、なんというか、南吉は僕にとって遠い親戚のおじさんみたいな感じなのです。

 その後、新美南吉記念館ができ、その設立にも児文協や管理委員会はそれなりに関わっており、そんなご縁もあって、僕は記念館の事業推進委員(外部の有識者による諮問機関で、こうした組織がきちんとしているところも、同館の運営の堅実さを物語っていると思います)を、開館以来務めさせてもらってきました。記念館と協会との関りについてはまだ書くべきことがありますが、またの機会に譲りたいと思い ます。

 冒頭に書いたように、名古屋から名鉄でほんの30分余りで半田には着きますし、半田は他にも見るべきところもありますので、ぜひ一度半田と記念館を訪ねていただければと思います。

2020/11/05