きっかけを逃すな 渡辺啓明
かつて私は人形劇団で役者として舞台に立っていた。美術家が作り上げた人形の表情を読み取り、その人生を感じ取り、私は脚本からとらえたキャラクターをその人形に注入していく。人間であれ、動物ほか何であれ、相手との関係から作り上げていった。そう偉そうに言っても私は演出家からダメ出しが多かった。その都度、落ち込み、それでもめげてたまるかと立ち向かっていった。上っ面の表現では観客に伝わらないし、自分の思い込みで独りよがりの演技ほどつまらないものはない。
私の作品「片目の雪だるま」もそのような色合いが強かったようだ。講評した赤羽先生は、昭和っぽい世界で現代におかれている子どもの状況のとらえ方が薄いし、鼻血がドバーという表現が刺激的なので柔らかく描くようにということだった。先生は現代の子どもならどう読み、どう感じるかという視点に立って、私の作品を分析している。だけど、先生が述べた内容を反芻し自分に問いかけてみるが、まだ自分なりの方向性が見えてこない。先生の講評と自分の世界とせめぎ合いが続いている。自分の世界が遠ざかるような書き直しはしたくない。ただ先生の講評によって、自分の作品を俯瞰してみるきっかけになった。自分の思い込みで独りよがりになっていないかどうかを探り、読み手の子どもに伝わるように作品をもっと掘り下げていかなければならないことを学ばせていただいた。