子どもと平和の委員会

2020年10月22日

平和について語るときに私の語ること 小手鞠るい

タイトルは、レイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)の真似です。

 

先ごろ、「平和とは何か?」というテーマの児童書の執筆を終えたばかりです。子どもたちに平和を教えるということは、戦争を教える、ということでもありますから、私は世界で起こったさまざまな戦争を取り上げて書こうと決めました。

 

(1)平和憲法とその改正について考えている現代の日本の子ども。

(2)イラク戦争に父親が参戦することになったアメリカの子ども。

(3)911テロ事件で母と弟を亡くした(当時アメリカ滞在中だった)日本の子ども。

(4)おじさんが湾岸戦争に行くことになったイラクの子ども。

(5)ヴェトナム戦争で父と兄を失ったヴェトナムの子ども(この少女は過去に兵士としてヴェトナム戦争で戦ったこともある)。

(6)ナチスドイツの迫害から逃れようとして懸命に生きるユダヤ系の子ども。

(7)太平洋戦争中、殺された動物園の動物たちに思いを馳せる日本の子ども。

(8)真珠湾攻撃によって、祖母の暮らす日本へ行けなくなったハワイの子ども。

(9)強制徴用されて日本へ来た朝鮮半島出身の曽祖父から、当時の話を聞く現代の日本の子ども。 合計9人の子どもたちを登場させました。

 

(1)から順に過去へさかのぼっていって、最後の(9)でふたたび現在にもどる、という構成。男女の割合は、女の子が男の子よりひとり多い。いろんな時代に、いろんな場所で、いろんな戦争があった。日本の子どもたちにとって、戦争は決して遠い外国で起こっているできごとではないし、他人事ではない、ということを、物語を通して感じとってもらえたらいいなと思って書きました。

 

原稿を書き上げて、イラストレーターから送られてきた表紙の下絵を見せてもらったとき、私は「ううん、どうなのかな、これは」と、首をかしげました。表紙には、日本の子ども4人、アメリカの子ども2人、イラクの子どもひとり、ヴェトナムの子どもひとり、ユダヤ系の子どもひとり、合計9人の姿が描かれています。日本人読者向けに日本語で書いた、日本で出版される本なのだから「これでいいのか」とも思うのですが、その一方で、アメリカ在住(今年で28年目)が長くなってきた私には「どこか不自然」に思えてならないのです。

 

不自然かなと思えた理由は、アフリカ系、ラテン系、ネイティブアメリカン、その他の少数民族の姿が描かれていないこと。しかし、これは当然です。私の書いた物語には、そういった人たちは出てこないのですから。だったらなぜ?

それは、カバーに描かれていた子どもたちがみんな同じような背格好をしていたからです。太った子もいなければ、背の低い子もいない。障害のある子もいない。目の見えない子もいない。みんなそろって、元気で素直で明るくて健康そうな、いい子。それのどこがいけないのか?

 

いけなくはありません。いけなくはないのですが、やはり「これではいけないのだ」と思えてならない。「みんなおんなじ」「みんな健康」「みんなきらきら明るい笑顔」というような、児童書にありがちなイメージというか、傾向というか、そこに潜んでいる危険な思想、あるいは無意識、あるいは無知に対して、アメリカという多種多様な人たちが暮らす国に長く住んでいる私は、敏感になっているのかもしれません。

 

現在のアメリカ(あくまでも私にとってのアメリカということです)では、人種差別、男女差別、年齢差別のみならず、太った人に対する差別、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)の人たちに対する差別、障害のある人たちに対する差別、それらを少しでも匂わせるような出版物、特に児童書における差別の匂いに対して、非常に神経質になっているように、私の目には映っています。いわゆる政治的正しさですね。偏見でゆがんでしまった大人の考えを正すのは至難のわざ。ならば、まだ世間の毒に汚されていない子どもたちに偏見を抱かせないようにしなくては、という努力を、アメリカの児童書業界はやろうとしているのでしょう。

 

これは素晴らしい努力だと私は思っています。大いに神経質になっていいのではないでしょうか。かつての女性解放運動のように、嫌煙運動のように、児童書業界における差別の撤廃運動が起こったらいいなと夢想するのは、私だけでしょうか。

以前、日本の出版社から絵本の原作を依頼されたとき「障害のある子を主人公にしたい」と話したら、編集者から「普通の子にして欲しい」と言われたことを思い出します。私は、目の見えない母(母の弟には知的障害があった)といっしょに暮らしてきたこともあって、障害のある人は特別な人ではなくて、ある意味では「ごく普通の人である」ということを、普通に理解しているつもりです。世の中には、健常者の物語が多過ぎる、とも感じています。子どもたちが平和を考えるとき、その子どもたちの中に障害のある子が含まれていて、どこがいけないのでしょうか。

 

また、これは別の児童書ですが、物語に「おばあさん」を登場させたところ、顔はしわだらけ、腰の曲がった、よぼよぼのおばあさんのイラストが上がってきたので「これは違います。ジーンズにTシャツにスニーカー姿の、若々しくて美人のおばあちゃんを描いて下さい」とお願いしたこともありました。だって私は64歳のおばあちゃんなんですから!

 

話が横道に逸れていきそうなので、このあたりで話をまとめます。結局、9人の子どもたちのうち、ひとりにめがねを掛けさせてもらい、ひとりはちょっとだけ背を低めに、あとひとりはちょっとぽっちゃり、というところで、妥協しました。松葉杖をついている子、もリクエストしたのですが、それは却下されました。

 

平和について考えること、イコール、世界の多様性と人間の多様性について考えることではないだろうか。このエッセイを書きながら、私はそんなことを考えました。最後は小学生の作文のようになってしまいましたが、お許し下さい。64歳ですが、気分は子ども!

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2020/10/22