広島より 平和へのメッセージ
こんにちは。
くぼひできです。広島市のどまんなか在住です。
このたび「子どもと平和の委員会」委員をおおせつかりました。
この5年ほど絶不調で、いろいろと不義理をしていたのですが、今年になってちょっと浮上してきました。
手はじめのおしごとが「子どもと平和」というのは、なんだかとてもすがすがしくていいですね。
ブログのお題で「75年めの広島の様子をレポート」というのをいただきました。
広島といえばヒロシマ。原爆を最初に落とされた街として有名です。ところが知らない人もちかごろ増えてきたそうです。
広島以外の都道府県では「慰霊祭」も放映しなくなって、ますます知らない人が増えていくのかなと危惧しています。
その慰霊祭。
大きなものは広島市主催のものですが、ちいさな慰霊祭があちこちでおこなわれます。
しかし今年はコロナウイルス禍の影響もあって、中止や規模縮小となりました。こんなことは初めてです。
8月6日はほとんど雨が降らないのですが(統計的に雨の降らないことが原爆投下の基礎条件だったそうです。被害の様子を上空から撮影するために)、そんなときでもずっと開かれていました。
この20年、慰霊祭で車椅子を見かけることがふえました。多くはあの75年前を生き抜いた方です。ずいぶん高齢化がすすんで、当時を知っている人は減ってきました。
記憶をどう遺していくかが、目下の課題となっております。
昨年と今年は、この75年にあわせていろいろな取りくみがおこなわれています。
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1)NHK広島で、若い人たちにひろく知ってもらうためにTwitterと連動した企画をやっています。 https://hiroshimaforpeace.com/hiroshima75/other75/nhk/ 「#ひろしまタイムライン 3つのツイッターアカウントで3人の日記を毎日配信中!」 "
「もし75年前にSNSがあったら?」と仮定して、若い世代に「戦争」「原爆」をより広く伝える試みを始めました。原爆が投下された1945(昭和20)年に実際に広島で書かれた3冊の日記をもとに、75年前の日々をNHKの3つのツイッターアカウントで毎日発信。日記の日付にあわせて春から投稿を始め、原爆が投下された8月6日を経て年末まで。"
詳細は中身をみていただくとして、タイムラインを追うことで当時の様子を知るという試みはこの企画だけではないようです。
3つのアカウントのうちのひとつ大佐古一郎さん(当時33歳)は広島の地元新聞・中国新聞社の記者で、その日記は中公新書にも収められています(『広島昭和二十年』)。
これらの様子が番組化されます。8月7日(金)午後7時半から。 https://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=400&date=2020-08-07&ch=21&eid=35742&f=etc 「1945ひろしまタイムライン夏 もし75年前にSNSがあったら」
※余談ですが、わたしが今住んでるところは、原爆投下地点から1kmもないところ。大家さんは住んでいる地域にまつわる歴史を研究なさっておいでです。
このNHKの企画への協力もされており、大佐古さんの日記の一部にある過誤も発見されておられました。大家さん恐るべし。月に一度お家賃を渡すときにお話をうかがっております。
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2)被爆建物の老朽化にともなって様々な動きが出ています。それらのなかから広島旧陸軍服支廠(ししょう)をめぐる動きをおつたえます。
この建物は思いいれがあります。わたしの母校、広島皆実高校のとなりにあって、通っていた当時は日通の倉庫として使われていました。
もともとはその名の通り、陸軍で使う服を作っていました。学徒動員でこの場に駆り出された多くの女学生が軍服や慰問袋などを縫製していた場所です。
レンガ造りの外観は当時の様子をとどめています。
爆心地から約3kmの位置であったにもかかわらず、爆風で鉄の窓が歪みました。その窓もまだ残っています。
この建物は建物としても丈夫だったので、原爆投下後も救護所として使われ、その後も広島大学の寮として使われたり、企業が倉庫として使ったりしていました。
その解体案が昨年末に、広島県から提出されました。管理する広島県から、3棟あるうちの1棟のみを保存とし残りは解体するという案が示されたのです。
これをきっかけに存続運動が起こり、現在も議論の最中にあります(案はいったん収められました)。
詳細は8月1日に放送のあった「テレメンタリー2020」で特集があったのですが、放映後なので記事へのリンクを貼っておきます。 https://news.yahoo.co.jp/articles/275afefe4fb3d81f4cbdec11e2e92d8a36873b22
手前の話で恐縮ですが、こういうものが当たり前にそこらにありふつうの生活に入りこんでいることを念頭において、『カンナ道のむこうへ』の重要なシーンが組まれています(宣伝?)。
まさしくこの被服支廠がでてきています。このレンガの建物に沿って町の人が植えていたカンナの花道がでてくるのですね。そこが主人公にとってかけがえのない場となっています(現在は植裁が禁止され不格好な黒布で覆われてて残念です)。
原爆ドームをはじめとし、広島は被爆建物をのこすようにしています。いわゆる負の遺産をのこすことで、惨状を後世に知らしめていこうという目的です。
被爆建物の周囲をあたりまえにゆく子どもたち。学校に通ったり、買い物に出かけたり、友だちと追いかけっこをしたり。
ほんとうに何気ないところに原爆遺構がのこっています。子どもたちはここを見ながら育ってきて、日常にすぎてふだんは意識しない場所でもあります。
戦争は特別にあった過去のできごとではない。いつまた起こるかわからない。自分が加害者になるかもしれない、被害者になるかもしれない、そのことを体感する場所として、できるかぎりの保存をめざしていきたいと思います。
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75年という月日は、世代交代というには長い時間が経過しているように思います。しかし、あのときと今をつなげる試みは今年も多くあり、ここで書ききれないほどです。
広島のことばかり語りましたが、その後8月9日の長崎があり、翌年7月にはビキニ環礁における実験クロスロード作戦の2度の実験が続きます。
祖父も祖母も被爆、父が入市被爆、母が胎内被爆の原爆2世としては、やはり他人事ではない。
核への野望は現在もとどまるところがありません。子どもをはじめとする人々の生活において、少なくとも原子力やそれに類する武力は本当に不要のものです。
その熱意と経済を、暮らしにまわしてほしい。とどこおりなく過ごしていける平和をこそ望みます。
長くなりました。
広島より平和へのメッセージです。