北海道の澤出真紀子さんより、11・12月号のご感想をいただきました。
本誌でご紹介したいのですが、誌面の関係で難しいので、このブログに掲載させていただきます。(編集部)
今年から連載のはじまった細谷建治さんの評論「児童文学批評というたおやかな流れの中で」がとうとう最終回を迎えました。毎回楽しみに読んでいた読者のひとりとしてはさみしい限りです。「へいわかるた」が「げんきかるた」へと変わっていたときの衝撃について読んでいて、ある作品を思い出しました。
日本児童文学者協会から1998年に刊行された『北海道の童話 1』(リブリオ出版)所収の、井上二美さんの「朴さんの宝もの」という戦争児童文学です。本が出版されてすぐこの作品を読んで二十年近くが経ちました。わたしの記憶のなかでは、戦時中、日本にいて虐げられていた朝鮮人の家族を良心的な日本人の家族がたすける物話でした。ですが、作品を改めて読み返してみたところ、日本が敗戦した年の樺太が舞台となっており、苦しい生活を送る日本人家族を、同じ下宿の朝鮮人の朴さんが折に触れて助ける話でした。朴さんにお礼を述べつつも、日本人の家族がようやく祖国へと引き揚げることになった前日、父親は嬉々として「あしたの出発は、日本晴れだぁ!」と叫ぶのです。その瞬間、読み手のわたしにはその言葉が「日本万歳」と響いたのでした。日本にいたときには炭坑で日本人になぐられ、ひどいめにあい、家族とも離ればなれで今も朝鮮に帰ることのできない朴さん。その朴さんの前で不用意にも「日本晴れ」という無神経さ。あの作品が、朴さんに感謝しながらも、無意識のうちに朝鮮人を下にみている日本人のエゴをあぶりだしている作品ならわかるのです。しかしながら、作品は残念なことに善良な日本人という枠組みから抜け出ていないと言わざるを得ませんでした。感謝という善意の底に潜む欺瞞。善意の持つ危うさ。嘘に込められた真実。嘘よりも善意の方がより戦争に近いのだと思いました。そして、いつのまにか都合よくすりかわっていたわたしの記憶。わたしのなかにも確かに刷り込まれている、朝鮮のひとに対する優越感に気づかされ、はっとなりました。
<特集 子どもたちはどこへ>は、どの論も読み応えがありました。なかでも、とりわけ野澤朋子さんの評論「世界の片隅の人間」に深く共感いたしました。芹沢俊介氏の『「存在論的ひきこもり」論』を引き、「自分が自分であるために必要な『存在論的ひきこもり』」について言及している点、特にひきこもりの肯定的側面にふれているところはうん、うんと頷きながら読みました。「他者を受容することは、自己の受容となり」、そのことは同時に、自分が誰かのそばにいる他者となることを意味します。折出健二氏はその著書『他者ありて私は誰かの他者になる』のなかで、次のように述べています。
「みずから弱き人間である自分が、誰かに対して『いつもあなたのそばにいる』と言えるのは、自分の中に宿している類的な存在、自分が誰かの他者として生きる能力(他者性)をすなおに表現する生き方なのです。それは、あなたのそばにいることで、あなたも私のそばに居続けて欲しい、というメッセージを含んでいます」と。
ひとはひとのなかで、ひとになります。ひととの出会いで変わっていきます。ひとは生きづらさを抱えながら、抱えている現在だからこそ、均質的でない固有のつながりを他者と結んでいけるのだと、野澤さんの評論を読んで感じました。
民主教育研究所で発行している『季刊 人間と教育』95号(最新号)の特集は、「子どもの貧困ー子ども・若者支援とその課題」で、今号の『日本児童文学』と併せて読むと、現代の子どもたちが置かれている状況が、よりいっそうわかります。「季刊 人間と教育」95号から、赤木かん子さんの新連載「児童文学なんてありませんっ!」がはじまりました。今号の『日本児童文学』においての村中李衣さんの次の指摘と呼応しているかのようでした。
「生きづらい子どもたちの現在を映し出していると評価された日本の児童文学作品を集中して読んだ。そこで強く感じたのは、読み手である私の『リアルな身体性』を揺さぶるような作品が少ないということだ」。
「児童文学の終焉」ということも囁かれている今日ですが、村中さんが論の最後に「児童文学は、社会を変えたりはできない。でも、たった一冊の児童文学作品と出会った子どもが、新しい一歩を踏み出す可能性はある」と述べている言葉をしっかり胸に刻みつつ、これからの赤木かん子さんの評論の展開をみつめていきたいと思います。
『日本児童文学』を足掛かりにして、いろんなことについて考える機会をいただきました。次号も楽しみにしています。どうもありがとうございました。(北海道・澤出真紀子)