118、「八郎」と「浜辺の歌」の旅(2023,11,15)

理事長ブログ

【まずは「八郎」です】

・前回“予告”したように、11月5日の秋田の八郎潟町での講演のため、前日の4日に秋田に向かいました。今回、やや宿泊予約が遅れたせいか、いつも泊る秋田駅近くのホテルが二つとも取れず(土曜日というせいもあったのでしょうが)、駅から歩いて7、8分ほどの民宿風の宿に泊まったのですが、部屋は畳にベッドで、これはこれで落ち着くなあ、という感じ。夕食は近くの居酒屋できりたんぽを食べました。

・翌日、11時ころ、秋田駅を発ち、八郎潟駅に向かいました。北に30分ほどです。その名の通り、八郎潟の東岸に面した町なのですが、八郎潟そのものは、僕が子どものころに大半が埋め立てられ、そこは大潟村となっています。秋田は平成の大合併で、ほとんど昔の町や村はなくなっているのですが、ここは八郎潟町のままで、秋田県で一番小さい自治体ということでした。駅前に、図書館を含むきれいな複合施設があり、そこが講演会場でした。秋田の放送大学と町の共催のような感じで、演題は「斎藤隆介が「八郎」に込めた想い」というものでした。

・何度か書いたと思いますが、僕と児童文学との出会いは、大学1年生の秋、学生寮の友人の部屋の本棚にあった『ベロ出しチョンマ』(38編から成る童話集です)を僕が借りて、その2番目に収録された「八郎」を読んだことです。それがなければ、まずまちがいなく、今の仕事はしていません。去年、読売新聞で、東北各県の児童文学の旅といった企画があり、秋田では「八郎」が紹介されました。その時、秋田支局から電話取材を受け、僕の名前が載ったので、八郎潟町からお呼びがかかったのでした。

・これも何度か書いたと思いますが、僕は1950(昭和25)年3月5日が誕生日で、朝の5時55分に生まれたというので、「(陽が)昇」と名付けられました。つまり、5がラッキーナンバーです。これは講演のつい2、3日前に気が付いたのですが、「八郎」との出会いは18歳の時ですから、それからちょうど55年が経っているのでした。それもあってか?とても気持ちよくしゃべることができ、「八郎」の地元の方たちに、なんだか少し恩返しができたような気分になりました。

【そして、「浜辺の歌」です】

・今回は、この講演にくっつけて、もう一つ目的がありました。『赤い鳥』を代表する作曲家の成田為三は、秋田の米内沢という所(今は北秋田市となっていますが)の出身で、そこに為三を記念した「浜辺の歌音楽館」があることは知っていました。秋田は大きく分けると、海側の秋田市を中心とするブロックは別として、県北と県南に分かれます。大雑把にいうと、僕の田舎の県南は農村地帯ですが、県北は鉱業や林業が盛んで(だから、秋田大学には全国で唯一の鉱山学部があったわけです)、文化的にも大分違うのですが、険しい山地に隔たれていて、例えば僕の所から県北を代表する大館市に行くとすれば、秋田市を通ってぐるっと回るような形になり、3時間以上かかるのでないでしょうか。それを解消するために、大分前に県の南北を結ぶ路線が作られたのですが、折からの国鉄の地方路線切り捨てということもあり、いわゆる第三セクターの形でなんとか残りました。これが「秋田内陸縦貫鉄道」です。南側の起点は角館で、僕の田舎の隣ですから、今まで何度も乗ろうしたことはあるのですが、とにかく時間がかかるのです。なので、今まで乗ったことがありませんでした。そして、浜辺の歌音楽館のある米内沢は、この秋田内陸線の沿線なのでした。

・ということで、今回、「浜辺の歌音楽館」に行くのと、秋田内陸線に載るという、二つの念願を一緒に果たそうと思ったわけです。最初は、講演の後米内沢に一泊して、翌日音楽館にと計画しましたが、月曜日で休館なのでした。そうなると、5日のうちに、音楽館に向かわなければなりません。講演が終わるのが3時なので、列車で行っては到底間に合いません。それで、大学の後輩たちがこの日聞きに来てくれることになっていたので、その一人に、車で送ってもらうことにしました。講演終了後あいさつもそこそこに車に乗りましたが、幸い4時過ぎに音楽館に着くことができました。

・浜辺の歌音楽館、そして成田為三というのは、僕にとっては母の思い出とつながります。大正生まれ(前にも書きましたが、新美南吉と同年です)の母は、秋田出身ということもあったでしょうが、成田為三のファンでした。女学校時代、「オルガン検定」というのに受かったというのが自慢だった母は、歌が好きで、家事をしながら、よく歌を歌っていました。それもいわゆる歌謡曲の類ではなく、「あわて床屋」とか「浜辺の歌」といった、まさに『赤い鳥』系の童謡をよく歌っていました(もちろん、子どもの頃は、そんなことは意識していませんでしたが)。そんなこともあってか、「浜辺の歌」は耳になじんでいて、僕が「半音」というのを意識したのは、この歌の「風のおーとーよー」の部分で、結構小さい時だったような気がします。

・とはいえ、特に成田為三について詳しいわけでもありませんでしたが、今回浜辺の歌音楽館を見学して、一番印象的だったのは、彼が戦後間もなく、疎開した秋田から東京に戻ってすぐ、昭和20年の10月に51歳で亡くなっていることでした。『赤い鳥』のイメージから、もっと前の時代の人という感じがしていました。ようやくまた自由な音楽活動ができるという時に、さぞ無念だったろうなと思いました。為三は、東京音楽学校に入る前に秋田師範に入学していますから、先輩でもあります。もう少し、成田為三のことを調べてみようと思いました。

【そして、秋田内陸線に】

・翌日、いよいよ秋田内陸線に。実は、これも前に書いたと思いますが、この路線の存続に大いに貢献しているのが、協会会員の大穂耕一郎さんです。大穂さんは東京出身ですが、父方が秋田ということもあり、秋田大学教育学部に入学(僕とはだぶっていませんが)、秋田大学に鉄道研究会を作ったという、根っからの“鉄男”です。大学卒業後、東京で教員をしていたのですが、鉄道への思い、特に秋田内陸線への思いが捨てがたく、教員を辞して秋田に移り、内陸線の存続、活性化のために活動を続けておられます。

今回、この機会に大穂さんに会えるかなとも思ったのですが、逆に彼がクラス会などの用事で東京に行く(帰る?)ということで、すれ違いになりました。11月ですから、普通なら秋田は紅葉は終わっていますが、今年は例年より大分遅いせいで、沿線の紅葉をゆっくり楽しむことができました。一両だけの列車ですが、大きなテーブルもついていて、実に快適でした。

秋田方面においでになる機会がありましたら、ぜひこの路線も計画に入れてください。但し、そのために一日かける必要はありますが。